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落語百選55

时间: 2019-09-15    进入日语论坛
核心提示:まえがき「落語」とは何か?という問いに、私は、それは「目黒のさんま」のようなものだ。と答える。昔から〈秋刀魚の味〉といえ
(单词翻译:双击或拖选)
 
まえがき

——「落語」とは何か?
という問いに、私は、
——それは「目黒のさんま」のようなものだ。
と答える。
昔から〈秋刀魚の味〉といえば、庶民の〈味〉の代名詞のように言われているくらい、旬《しゆん》の、もうもうと黒煙が上がり、プチップチッと脂肪《あぶら》のたぎるまる[#「まる」に傍点]焼きほど美味しいものはない。滋味のことはさておき、このばあい、食する側が、なんでもたらふく、むさぼりつく喜びを知っている……健康なものでなくては、この味覚を味わうことはできない。——ふだん、白身《しろみ》の魚や海鼠腸《このわた》を少量箸にしている……贅沢な、満ち足りた、いわゆる通人[#「通人」に傍点]たちは、論外だ。
殿様が、遠乗りの折り、口にした「秋刀魚」の〈味〉が、なににもまして旨かったのは、そのとき飢えと寒さを肌身に感じていたからで、つまり、人間が生きていくということは、こういうことなのではないか。
このような「秋刀魚」が、他方〈下司魚《げすうお》〉と蔑《さげす》まれているのも、「落語」に対するある種[#「ある種」に傍点]の評価とよく類似している。……しかし、人間が生身《なまみ》である以上、日常、いくら高尚ぶってみても、いくら格好よく振舞おうとしても、しょせん、目論見《もくろみ》どおりに運ばず、見当ちがいになったり、破綻をきたす。その基本的な諸行を、底辺のところで捉え、支えているのが、「落語」であり、「秋刀魚」であり、——庶民の〈味〉なのではないか。
その拠点《よりどころ》に立ってはじめて、そこから人生や身辺への感慨や想念がひろがって行き、そこに〈笑い〉も生まれてくる。それは、対等の位置《レベル》で、正面《まとも》に向かい合ってこそ味わえるものなのだ。……だから、「秋刀魚」に嬉々としてむさぼりついた殿様に共鳴し、ともに笑えることが、人類史上で輝かしい[#「輝かしい」に傍点]ことであることを、私は信じたい。
ついでに言えば、「落語」は庶民の娯楽であり、ほんらい〈高尚〉とか〈官学的《アカデミツク》〉な意味付けをしようとする——いわゆる「文化財」の対象とは、無縁なものである。こうしたものにあて嵌《は》めようとして無理に、「落語」を分析したり、嗜好をおしつけたりするのは、ちょうど「秋刀魚」が蒸器《むし》へかけられて脂肪《あぶら》を抜かれ、骨を抜かれ、お吸物にされるようなものではないか。殿様の〈感動〉に予備知識もなにもない、最初の、純粋な〈感動〉があったように——「落語」も、受け手はなにも考えることなく、強く感じることが大切なのだ。
考えてみれば、「落語」と「秋刀魚」はよく似ている。——型のすっきりしたところもあれば、脹《ふく》らんで脂肪《あぶら》っこいところもあり、長いのや短いのもあれば、細いのもあればまるいのもあり、愛らしいところもあれば、尖《とが》ったところもある、光ったのもあれば、とぼけたのもあり、こわいのもあれば、やわらかいのもある……というぐわいだ。——それを十人が聴けば、十人十色の聴き方、感じ方があり、老若男女のへだてなく、社会や時代の変移を超えて、つねに活々《いきいき》と、脂肪《あぶら》がのり、尽きせぬ生命を湛えている。
また、今日、他の「芸能」が舞台装置や照明を施《ほどこ》し、豪華で華やかになっている時代にあって、なお「落語」は、相も変わらず、噺家が座布団に一人坐り、扇子と手拭一本で、聴衆を対手《あいて》にしている。それは、大根おろし[#「大根おろし」に傍点]と醤油ひと垂らしで食する「秋刀魚」の安直さにも通ずる。
してみれば、「落語」と「秋刀魚」は、日本人の、庶民に滲みついた〈味〉かも知れない。殿様を気取るわけじゃないが、つい、
「落語と秋刀魚は、目黒にかぎる!」
ェェ、おあとがよろしいようで……。
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