厩火事《うまやかじ》
短日や夫婦のでるのひくのかな 久保田万太郎
「どうしたいお崎《さき》さん、また夫婦|喧嘩《げんか》なんだろう?」
「そうなんでございますよゥ」
「そうなんでございますよゥじゃないよ、三日にあげずの喧嘩だよ、始終《のべつ》だよ。たしかにあたしは、仲人《なこうど》はしたよ、仲人はしたけど、おまえの家っくらい喧嘩する家ってえなァ……始終《のべつ》だよ。仲のいいときにゃちっとも出てこない。喧嘩したってそのたんびに引き合いに出されちゃ、なんぼ仲人だって迷惑だねえ。どうしたってんだい?」
「こういうわけなの、今朝《けさ》家を出るときにね、『夜業《よなべ》がふたァつあるからかならず五時までには帰ってくるから、すぐ家《うち》ィ帰って来たらご飯を食べられるように』って、うちの亭主《ひと》に言いつけて、あたしゃ表へ出たんですよゥ」
「おいどうでもいいけど聞き苦しいねェ、亭主にものを言いつけるておまえさんねェ、そいつがいけないてんだ、少しばかり稼ぐのを鼻にかけて……女は女らしくてえことをあたしが毎度言うだろ? そんなこと改めて叱言《こごと》を言ったってしょうがないが、それがどうしたってんだ?」
「表ェ出たんですよッ。たら、あたしの姉弟子《あねでし》のね、お光ッつァんて人に会っちまって、この人が指を怪我《けが》して当分髪を結《ゆ》うことができないッて。『おまえさんすまないけども、あたしのお顧客《とくい》で、どうしても今日は結い日で行かなくちゃならないんだけども、あたしがこんな身体《からだ》ンなって……すまないが代わりに行ってくれないか』って、お互いの事《こ》ってすからねェ、あたしがまた病気ンなって、お願いするばやい[#「ばやい」に傍点]もありますから『よろしゅうございます』ッて、伊勢屋さんっていう家ィ行ったんですよッ。おかみさんの頭ァ結っちまった。この髷《まげ》がちいちゃいからわけェないんで……『娘が明日《あした》、芝居へ行きたいてえますから、ぜし[#「ぜし」に傍点]もひとつ結ってもらいたい』商売ですからねェ、その家のまた娘の毛が悪《わり》い毛の癖っ毛で、『ここが出てるの、ここが引っこんでんの』って頭の毛の悪い人ほど、髪形《あたま》ァやかましいんで、ごまかして結っちまったんですけどもねェ、もっとも少しは遅くなったんですけども、七時ころンなったんですよッ。なにが気にいらないんだかしれないけど、家ィ帰《かい》ったら真ッ蒼な顔ォして、怒ってるんですよ。『どこォ遊んで歩ってやァんだ』と、こういきなり言うでしょ、……旦那のまえですが、あたしが遊んで歩ってるわけァないじゃありませんかッ」
「なンなンなン……おまえにあたしゃ叱言を言われてるようだなァまるで……」
「あんまりくやしいから、そいってやったんですよ。『なに言ってやんだい』ッてそいってやったン……『だれのおかげでそやって昼間っから家で遊《あす》んでいられるんだ』ッてそいってやったんです。向こうも男ですから負けてやしませんからねェ、『なにを生意気なことを言やがんだ、このおかめ[#「おかめ」に傍点]めッ』ってんですよ。そいからあたくしもくやしいから『ひょっとこめェ[#「ひょっとこめェ」に傍点]』ってそいってやったんですよ。そしたら向こうが『般若《はんにや》』ッてんでしょ、そいからあたくしが『外道《げどう》』ッて……」
「おいなんだよおい……おい、面づくしで喧嘩ァしてやがる……まァどうでもかまわないがねェ、で、おまえさんはねェ……どういう心持ちで今日はあたしンとこィ出てきたんだよ」
「もう仲人までしていただいたんですけどもね、今日ってえ今日はもう、愛想もこそも尽き果てましたからね、旦那にお願いして、あたしゃァ別れさしていただこうとおもってね、そいで上がったんですけども……」
「ああそう……あッはッはッはッは、いいでしょういいでしょう、お別れお別れ、ああ別れるほうがいい、あたしも肩抜けだよ……おまえさん考えちがいしてちゃいけませんよ、え? おまえさんの亭主てえものはあたしのほうから出た人間だよ、ほんらいならば、おまえの亭主をあたしゃ庇《かば》わなきゃァならない……庇えないあたしゃ……おまえさんがそう言うから話をするんだよ、おまえさんの亭主のことについて、あたしゃ気に入らないことがあるよ。二、三日前の事《こ》った、おまえの家の前まで行ったんだよ、格子がこのくらい開《あ》いてるだろう……そうでもない、不用心だから、『おいいるかい』って表から声をかけると、『旦那でございますか? まァお入りくださいまし』と、布団を出してくれました、お茶も出してくれた。『まァお入ンなさいまし』と言いながら傍《そば》にあったお膳《ぜん》をこう片づけた。お膳の上を見てあたしが気に入らないてもんだ。刺身を一人前とったと見《め》えるんだ。こらァまァいいや、酒が一本載ってるだろ、これであたしが気に入らない。そうだろ、よく考えてごらん、女房が昼間、油だらけンなって稼いでる留守に、亭主《ていし》だからって留守に遊《あす》んでて昼間っから、家で酒ェ飲んでちゃ困るだろ? 人間っていうものはあたしゃそういうもんじゃあなかろうとおもう。男の働き[#「男の働き」に傍点]てえのは世間さまの言う事《こ》った。男が働いて女房ってえのは家にいるが、おまえンとこはあべこべだ。おまえが稼いで亭主《ていし》が家にのらくらしてるんだ、え? だから飲むなじゃあないよ、飲むなじゃないが、おまえが帰《かい》って来てから飲んだらどんなもんだ。真ン中へ一人前の刺身を置いて、ふたァりが差し向かいで飲んでてごらん。聞けばおまえも飲む口なんだろ? ひとっ猪口《ちよこ》やふたっ猪口は飲めるんだろ? え?『あすこの夫婦は仲がいい』てなもんだ。こんなこと言うなァ、大きなお世話かもしれないよ、あたしのほうがちがってるかもしれませんよ、けれども、話が出たから、あたしゃそう言うんだよ。遠慮することないよ、縁がないんでしょ、お別れお別れ、別れるほうがいい、うるさくなくっていいんだ、お別れ……別れなさいッ」
「……そらァまァそうですけどもねェ、なにもお刺身を百人前|誂《あつら》いて長屋へ配ったってわけじゃあないんですし、二升も三升もお酒飲んで泡《あわ》ァ吹いてひっくる[#「ひっくる」に傍点]返《かい》って寝てたってわけじゃあないんですから、暇な身体《からだ》なんですからねェ、お金に不自由があるわけじゃあないんですから、一合のお酒や一人前のお刺身ィとったってなにも旦那、そんなにおっしゃらなくたっていいでしょ」
「おいどうなってるんだいおい……それだからあたしゃ『夫婦仲の口はやたらきけない』ってな、このことなんだよ。おまえがねェ、『今日てえ今日は愛想もこそも尽き果てた、別れたい』てえから話をするんだよ、じゃあいったいどうしようってえんだよ」
「どうしようったって旦那、じれったい」
「こっちがじれったいよ。だからどう……」
「そら旦那の前ですけどもあたしだっておいそれといますぐって、別れたかァありませんけどもあの人よりこっちが年齢《とし》でも若けりゃあよございますよ、七つもこっちが年齢《とし》が上なんじゃありませんか……だから心配なんじゃありませんか。女なんてものァ年齢《とし》をとっちまえば嫌《きら》われるにきまってますからねェ、皺《しわ》だらけの婆さんになっちまってどうにもこうにもしょうがなくなっちまって病気にでもなって、寝てえてごらんなさいな、若い女でも引きずりこんで、変な真似ェされりゃあ、いい心持ちァしないでしょ? そんなときに食いついてやろうとおもってもそンときァもう歯もなんにも抜けちまって土手ばかり……」
「……そのおまえさんはそのおしゃべりでいけないねェどうも。あたしがひと言しゃべると、おまえ二十言も三十言もしゃべらァ……それじゃァおまえ、喧嘩の絶え間がないよ」
「また旦那の前ですけどもね、鉦《かね》と太鼓で捜しても、あんなやさしい亭主を持つことは、もうこれっきりできないとおもうほど、やさしくしてくれることもあるんですよッ」
「なんだいおい……」
「だけど、あん畜生死んじまえばいいとおもうことがあるんですよ。だから、あの人てえものがほんとうに人情があるんだか不人情なんだか、共白髪《ともしらが》まで添いとげられる人なんだか、死に水を取ってくれる人間なんだか、なんだかあの人の了見ってものがふわふわふわふわしてて、ちっともあたしにわからないんですもの」
「……おいどうもねェ、お崎さん、おまえさん困るよ。おまえさん八年も添ってるんだ、いいかい? 八年も添ってるおまえさんにわからなくって、あたしにわかりようがないでしょ? まァしかし聞いてみりゃ気の毒だ。人間の心の試しようてえものはあるよ、おまえがそういうから話をするんだが、おまえ唐土《もろこし》を知ってるかい?」
「知ってますとも、お団子でしょ?」
「お団子じゃァないよ、支那、中国だよ」
「はァ?」
「ここに孔子という学者があった」
「あァ幸四郎の弟子かなんかですね?」
「役者じゃないよ、学者」
「あァ、がくしゃ[#「がくしゃ」に傍点]ッてえと、どんなもんなんですゥ?」
「まるでわからない……いまでいう文学博士とでもいう、学問のある偉い方なんだ。そういう方だから、町なかへお住まいンならない、いつでも郡部《ぐんぶ》というような静かなところへお住まいンなってた。昔のことだ、お役所へお勤めンなんのに馬でお通いンなる。二頭の馬があった。一頭のこの白馬《しろうま》のほうを、たいへんに孔子さまが、お愛しンなったんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですね、うちの亭主《ひと》もたいへんあれが好きなんで、『夏はいけないけど、冬はあれにかぎる、温《あ》ったまっていい』って」
「おい濁酒《どぶろく》の話をしてるんじゃあないんだよ、白馬ったって乗る馬だよ」
「ああ乗るお馬なんですか? それがどうしたの?」
「その日に限って孔子さまが、乗り換《が》いの黒馬《あお》の方ン乗ってらした。その留守にお厩《うまや》から火事が出た。弟子たちは心配をして、ご愛馬の白馬に、怪我でもあってはたいへんと厩へ飛んでって、どうかしてこの白馬を出そうとおもった。どうして動《いご》くことか、名馬ほど火を怖《おそ》れる……の譬《たとえ》、だんだんだんだん弟子のほうで、あとへ引きずらいた[#「ずらいた」に傍点]。命にァ代えらんないから羽目を蹴破って弟子はのがれた。馬は焼け死んでしまった。孔子さまがお帰りてえことンなった。『お帰《かい》り遊ばせ。あやまって厩から火を発しましてございます。ご愛馬の白馬《はくば》が』と言わないうちに孔子さまが、『弟子の者ォ一同怪我はなかったか?』とおっしゃった。『弟子の者ォ一同無事にございます』『そうか、それは重畳《ちようじよう》であった』って、にこにこ笑ってらして、ほかのことこれっぱかりもおっしゃらない。どうだい、偉い方だろ? そのお弟子はなんとおもう『ああァありがたいご主人だ、この君ゆえには一命を投げうっても尽くさなきゃあならない』とおもうだろ? これがお崎さんの前だけど、一事が万事てえやつだ。これにその反対をした話がある。麹町《こうじまち》にねェ、さるお邸《やしき》の旦那さまがあったんだよ」
「ああらそうですかねェ、三本毛が足らないなんてうかがいましたが、猿が、お邸の旦那さまンなったんですか」
「おまえはそういう了見だから喧嘩をするんだよおい……猿がお邸の旦那さまンなるわけがないでしょ、さる旦那てえなァ、名前が言えないからさる[#「さる」に傍点]旦那てえんだ」
「ああその旦那が……」
「この旦那《だあ》さまがたいへんに、瀬戸物に凝ってらっしゃるんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですねェ、うちの亭主《ひと》もたいへん瀬戸物に凝ってるン。こないだねェ、一円六十銭で罅《ひび》だらけの瀬戸物ォ、買ってきたんですよゥ。そいってやったの、『もったいないじゃないか、一円六十銭も出して、そんな罅のいってる瀬戸物ォ買うやつがあるかい』ってそいってやったんですよ。『罅がいってるから、われわれの手ェ入るんだ、罅でもいってなかったひにゃァわれわれの手へ入る品物じゃァない』なんて自分でねェ、箱をこさえて、黄色い布巾《きれ》で撫《な》ぜ……」
「うるさいなァおい……おまえの亭主《てえし》が買うその一円六十銭、二円、そんな物じゃあないんだよ。何千円何万円っていう品物なんだ」
「そおーですかねェ、そんな大きな瀬戸物があるんですかねェ」
「おい、大福やなんかとちがって大きいから高いってわけのもんじゃァないんだよ。こんな小さいもんでも何千円何万円っていう品物なんだ」
「ああそれがどうしたんですゥ?」
「折しも珍客がいらしった」
「うふッ、猿が旦那だてえんで狆《ちん》かなんかお客に来たン」
「珍しい客を珍客てんだ」
「じゃ始終来るお客さまをわん[#「わん」に傍点]客とか……」
「おい、あたしの話を黙って聞きな。お好きな道だから瀬戸物を出して、よもやま[#「よもやま」に傍点]のお話をなすって、お客さまがお帰りてえことンなった。あと片づけを奉公人にさせない、粗相があってはいかんから、安い品物じゃないから、いつも奥さんがお片づけンなる役だ。いま奥さんが瀬戸物を持って、二階から降りようとすると、女は血の道、血の加減、目がぐらぐらッと眩《くら》んできた。前へのめりそう、前へのめっちゃあたいへんだからうしろへ少し反《そ》るようになすった。……足がうわずった。足袋が新しいから、つるッとすべると、どッどッどッどッどッどッどッどとォー、落っこってしまった。それでもふだん瀬戸物が大事だなッとおもってらっしゃるから、瀬戸物を差しあげたなり尻餅《しりもち》をついてらした。この物音に旦那が出てきた。『おいッ、鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか』と、息もつかずに三十六|遍《ぺん》おっしゃった。『瀬戸物は大丈夫でございます』『気をつけんければいかんよ。え? 安い品物じゃァないよ、瀬戸物大丈夫だったか? そうか、あッはッはッ、そらァよかった……』てえんで、これだけのお言葉だ。これがお崎さんの前だけど一事が万事てえやつだ。奥さんの姿が見《め》えなくなった。方々捜したところがわからない。そのうちに、お仲人が来て『ご離縁をいただきたい』ッて『どういうわけで?』『瀬戸物のことを聞いて身体《からだ》のことを少しも、おたずねくださらないところを見るとお宅では、娘より瀬戸物のほうが大事なんでございましょう。そういう不人情なところへ、かわいい娘をやっとかれません。末が案じられるから離縁状をくれ』ッと、こりゃ理屈だよ。その旦那だって、瀬戸物《せともん》と人間といっしょンなるわけがないよ。けれどもだ、凝ってるときというものはしかたがないもんだ、瀬戸物よッか[#「よッか」に傍点]ほかに頭がない。出したくもないご離縁を、出したてえ話があるン……いまだにその旦那《だあ》さまはご独身だ。『あの方ァ不人情な方だ』ッて売りものンなっちまって、嫁の世話のしてがないてな気の毒な方だろ? おまえの亭主が瀬戸物を大事にしてる……ちょうど幸いだい、これから家ィ帰って亭主がそのいちばん大事にしている、箱に入ってる瀬戸物ッてやつねェ、どっかぶつけてこわしてごらん。おまえの亭主がだよ、その瀬戸物のことごてごて言ってるようじゃァおまえの亭主はゼロだよ。瀬戸物ァ金で買えるんですよ、おまえの指一本でもたずねてごらん、そらたいしたもんだ。ふだんねェ、男ってえものはべらべらおしゃべりするもんじゃないんだよ、なんでも男ァ腹だよ、わかったかい?」
「……ああらまァそうですかねェ、へえェおもしろい話があるもんですね。そりゃ旦那の前ですけども、あたしの身体と瀬戸物《せともん》なんぞといっしょンなるわけありませんから、そりゃあたしの身体のことを、聞いてくれるとおもいますねェ」
「おもいますねェッたって、おまえそこを疑《うたぐ》って、……そこを試すんじゃないか」
「あ、なるほどそうですねェ、瀬戸物《せともん》ずいぶん大事にしてますからねェ……これがうまく唐土《もろこし》のほうであってくれればよございますけど、これが麹町の猿ンなったひにゃァしょうがありませんからねェ、旦那あたしゃァ心配で……旦那すいませんがねェ、あァたひと足先ィ家ィ行ってくれませんか?」
「ふうん? あたしがおまえの家でどうするんだ?」
「あいつが瀬戸物をこわすから、かならず身体のほうを聞いてやってくれ……」
「そんなこと言ったひにゃあだめだよ。おまえさんはねェ、充分にその未練てえもんがあって……こうおし、こうおし、教《おせ》ェてあげますから……これから家ィ帰ったら台所のほうから入んなさい。亭主にあやまんなさい。え? たとい[#「たとい」に傍点]どんな亭主でも男だよ、男は立てなくちゃいけませんよ。あやまって……竈《へつつい》のそばのなァ、糠《ぬか》味噌の桶の入ってる縁の下があるだろ? あの縁の下の上の板をずっとき[#「ずっとき」に傍点]、板をずるんだよ、いいかい? 瀬戸物を持って、その上へ乗るんだよ、片足縁の下ィ突っこむン、とたんに持ってる瀬戸物を、竈の角かなんかにぶッつけてねェ、めちゃめちゃにこわしてごらん、どっちを聞くか、おまえの一生だぜェ、おもいっきってやってごらん」
「そうですかねェ、もうあたくしも、もう長年の苦労ですからねェ、畜生めェほんとうに……(と、鼻をすする)」
「おもいきってやってごらん。また困ることがあったら家ィおいで、え? どんなにでも相談ンのるから」
「ありがとう存じます。じゃおもいきってやってみますから……おあとまたうかがいますから、はァ……お世話さまでございました。さよなら、ごめんくださいまし」
「そうなんでございますよゥ」
「そうなんでございますよゥじゃないよ、三日にあげずの喧嘩だよ、始終《のべつ》だよ。たしかにあたしは、仲人《なこうど》はしたよ、仲人はしたけど、おまえの家っくらい喧嘩する家ってえなァ……始終《のべつ》だよ。仲のいいときにゃちっとも出てこない。喧嘩したってそのたんびに引き合いに出されちゃ、なんぼ仲人だって迷惑だねえ。どうしたってんだい?」
「こういうわけなの、今朝《けさ》家を出るときにね、『夜業《よなべ》がふたァつあるからかならず五時までには帰ってくるから、すぐ家《うち》ィ帰って来たらご飯を食べられるように』って、うちの亭主《ひと》に言いつけて、あたしゃ表へ出たんですよゥ」
「おいどうでもいいけど聞き苦しいねェ、亭主にものを言いつけるておまえさんねェ、そいつがいけないてんだ、少しばかり稼ぐのを鼻にかけて……女は女らしくてえことをあたしが毎度言うだろ? そんなこと改めて叱言《こごと》を言ったってしょうがないが、それがどうしたってんだ?」
「表ェ出たんですよッ。たら、あたしの姉弟子《あねでし》のね、お光ッつァんて人に会っちまって、この人が指を怪我《けが》して当分髪を結《ゆ》うことができないッて。『おまえさんすまないけども、あたしのお顧客《とくい》で、どうしても今日は結い日で行かなくちゃならないんだけども、あたしがこんな身体《からだ》ンなって……すまないが代わりに行ってくれないか』って、お互いの事《こ》ってすからねェ、あたしがまた病気ンなって、お願いするばやい[#「ばやい」に傍点]もありますから『よろしゅうございます』ッて、伊勢屋さんっていう家ィ行ったんですよッ。おかみさんの頭ァ結っちまった。この髷《まげ》がちいちゃいからわけェないんで……『娘が明日《あした》、芝居へ行きたいてえますから、ぜし[#「ぜし」に傍点]もひとつ結ってもらいたい』商売ですからねェ、その家のまた娘の毛が悪《わり》い毛の癖っ毛で、『ここが出てるの、ここが引っこんでんの』って頭の毛の悪い人ほど、髪形《あたま》ァやかましいんで、ごまかして結っちまったんですけどもねェ、もっとも少しは遅くなったんですけども、七時ころンなったんですよッ。なにが気にいらないんだかしれないけど、家ィ帰《かい》ったら真ッ蒼な顔ォして、怒ってるんですよ。『どこォ遊んで歩ってやァんだ』と、こういきなり言うでしょ、……旦那のまえですが、あたしが遊んで歩ってるわけァないじゃありませんかッ」
「なンなンなン……おまえにあたしゃ叱言を言われてるようだなァまるで……」
「あんまりくやしいから、そいってやったんですよ。『なに言ってやんだい』ッてそいってやったン……『だれのおかげでそやって昼間っから家で遊《あす》んでいられるんだ』ッてそいってやったんです。向こうも男ですから負けてやしませんからねェ、『なにを生意気なことを言やがんだ、このおかめ[#「おかめ」に傍点]めッ』ってんですよ。そいからあたくしもくやしいから『ひょっとこめェ[#「ひょっとこめェ」に傍点]』ってそいってやったんですよ。そしたら向こうが『般若《はんにや》』ッてんでしょ、そいからあたくしが『外道《げどう》』ッて……」
「おいなんだよおい……おい、面づくしで喧嘩ァしてやがる……まァどうでもかまわないがねェ、で、おまえさんはねェ……どういう心持ちで今日はあたしンとこィ出てきたんだよ」
「もう仲人までしていただいたんですけどもね、今日ってえ今日はもう、愛想もこそも尽き果てましたからね、旦那にお願いして、あたしゃァ別れさしていただこうとおもってね、そいで上がったんですけども……」
「ああそう……あッはッはッはッは、いいでしょういいでしょう、お別れお別れ、ああ別れるほうがいい、あたしも肩抜けだよ……おまえさん考えちがいしてちゃいけませんよ、え? おまえさんの亭主てえものはあたしのほうから出た人間だよ、ほんらいならば、おまえの亭主をあたしゃ庇《かば》わなきゃァならない……庇えないあたしゃ……おまえさんがそう言うから話をするんだよ、おまえさんの亭主のことについて、あたしゃ気に入らないことがあるよ。二、三日前の事《こ》った、おまえの家の前まで行ったんだよ、格子がこのくらい開《あ》いてるだろう……そうでもない、不用心だから、『おいいるかい』って表から声をかけると、『旦那でございますか? まァお入りくださいまし』と、布団を出してくれました、お茶も出してくれた。『まァお入ンなさいまし』と言いながら傍《そば》にあったお膳《ぜん》をこう片づけた。お膳の上を見てあたしが気に入らないてもんだ。刺身を一人前とったと見《め》えるんだ。こらァまァいいや、酒が一本載ってるだろ、これであたしが気に入らない。そうだろ、よく考えてごらん、女房が昼間、油だらけンなって稼いでる留守に、亭主《ていし》だからって留守に遊《あす》んでて昼間っから、家で酒ェ飲んでちゃ困るだろ? 人間っていうものはあたしゃそういうもんじゃあなかろうとおもう。男の働き[#「男の働き」に傍点]てえのは世間さまの言う事《こ》った。男が働いて女房ってえのは家にいるが、おまえンとこはあべこべだ。おまえが稼いで亭主《ていし》が家にのらくらしてるんだ、え? だから飲むなじゃあないよ、飲むなじゃないが、おまえが帰《かい》って来てから飲んだらどんなもんだ。真ン中へ一人前の刺身を置いて、ふたァりが差し向かいで飲んでてごらん。聞けばおまえも飲む口なんだろ? ひとっ猪口《ちよこ》やふたっ猪口は飲めるんだろ? え?『あすこの夫婦は仲がいい』てなもんだ。こんなこと言うなァ、大きなお世話かもしれないよ、あたしのほうがちがってるかもしれませんよ、けれども、話が出たから、あたしゃそう言うんだよ。遠慮することないよ、縁がないんでしょ、お別れお別れ、別れるほうがいい、うるさくなくっていいんだ、お別れ……別れなさいッ」
「……そらァまァそうですけどもねェ、なにもお刺身を百人前|誂《あつら》いて長屋へ配ったってわけじゃあないんですし、二升も三升もお酒飲んで泡《あわ》ァ吹いてひっくる[#「ひっくる」に傍点]返《かい》って寝てたってわけじゃあないんですから、暇な身体《からだ》なんですからねェ、お金に不自由があるわけじゃあないんですから、一合のお酒や一人前のお刺身ィとったってなにも旦那、そんなにおっしゃらなくたっていいでしょ」
「おいどうなってるんだいおい……それだからあたしゃ『夫婦仲の口はやたらきけない』ってな、このことなんだよ。おまえがねェ、『今日てえ今日は愛想もこそも尽き果てた、別れたい』てえから話をするんだよ、じゃあいったいどうしようってえんだよ」
「どうしようったって旦那、じれったい」
「こっちがじれったいよ。だからどう……」
「そら旦那の前ですけどもあたしだっておいそれといますぐって、別れたかァありませんけどもあの人よりこっちが年齢《とし》でも若けりゃあよございますよ、七つもこっちが年齢《とし》が上なんじゃありませんか……だから心配なんじゃありませんか。女なんてものァ年齢《とし》をとっちまえば嫌《きら》われるにきまってますからねェ、皺《しわ》だらけの婆さんになっちまってどうにもこうにもしょうがなくなっちまって病気にでもなって、寝てえてごらんなさいな、若い女でも引きずりこんで、変な真似ェされりゃあ、いい心持ちァしないでしょ? そんなときに食いついてやろうとおもってもそンときァもう歯もなんにも抜けちまって土手ばかり……」
「……そのおまえさんはそのおしゃべりでいけないねェどうも。あたしがひと言しゃべると、おまえ二十言も三十言もしゃべらァ……それじゃァおまえ、喧嘩の絶え間がないよ」
「また旦那の前ですけどもね、鉦《かね》と太鼓で捜しても、あんなやさしい亭主を持つことは、もうこれっきりできないとおもうほど、やさしくしてくれることもあるんですよッ」
「なんだいおい……」
「だけど、あん畜生死んじまえばいいとおもうことがあるんですよ。だから、あの人てえものがほんとうに人情があるんだか不人情なんだか、共白髪《ともしらが》まで添いとげられる人なんだか、死に水を取ってくれる人間なんだか、なんだかあの人の了見ってものがふわふわふわふわしてて、ちっともあたしにわからないんですもの」
「……おいどうもねェ、お崎さん、おまえさん困るよ。おまえさん八年も添ってるんだ、いいかい? 八年も添ってるおまえさんにわからなくって、あたしにわかりようがないでしょ? まァしかし聞いてみりゃ気の毒だ。人間の心の試しようてえものはあるよ、おまえがそういうから話をするんだが、おまえ唐土《もろこし》を知ってるかい?」
「知ってますとも、お団子でしょ?」
「お団子じゃァないよ、支那、中国だよ」
「はァ?」
「ここに孔子という学者があった」
「あァ幸四郎の弟子かなんかですね?」
「役者じゃないよ、学者」
「あァ、がくしゃ[#「がくしゃ」に傍点]ッてえと、どんなもんなんですゥ?」
「まるでわからない……いまでいう文学博士とでもいう、学問のある偉い方なんだ。そういう方だから、町なかへお住まいンならない、いつでも郡部《ぐんぶ》というような静かなところへお住まいンなってた。昔のことだ、お役所へお勤めンなんのに馬でお通いンなる。二頭の馬があった。一頭のこの白馬《しろうま》のほうを、たいへんに孔子さまが、お愛しンなったんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですね、うちの亭主《ひと》もたいへんあれが好きなんで、『夏はいけないけど、冬はあれにかぎる、温《あ》ったまっていい』って」
「おい濁酒《どぶろく》の話をしてるんじゃあないんだよ、白馬ったって乗る馬だよ」
「ああ乗るお馬なんですか? それがどうしたの?」
「その日に限って孔子さまが、乗り換《が》いの黒馬《あお》の方ン乗ってらした。その留守にお厩《うまや》から火事が出た。弟子たちは心配をして、ご愛馬の白馬に、怪我でもあってはたいへんと厩へ飛んでって、どうかしてこの白馬を出そうとおもった。どうして動《いご》くことか、名馬ほど火を怖《おそ》れる……の譬《たとえ》、だんだんだんだん弟子のほうで、あとへ引きずらいた[#「ずらいた」に傍点]。命にァ代えらんないから羽目を蹴破って弟子はのがれた。馬は焼け死んでしまった。孔子さまがお帰りてえことンなった。『お帰《かい》り遊ばせ。あやまって厩から火を発しましてございます。ご愛馬の白馬《はくば》が』と言わないうちに孔子さまが、『弟子の者ォ一同怪我はなかったか?』とおっしゃった。『弟子の者ォ一同無事にございます』『そうか、それは重畳《ちようじよう》であった』って、にこにこ笑ってらして、ほかのことこれっぱかりもおっしゃらない。どうだい、偉い方だろ? そのお弟子はなんとおもう『ああァありがたいご主人だ、この君ゆえには一命を投げうっても尽くさなきゃあならない』とおもうだろ? これがお崎さんの前だけど、一事が万事てえやつだ。これにその反対をした話がある。麹町《こうじまち》にねェ、さるお邸《やしき》の旦那さまがあったんだよ」
「ああらそうですかねェ、三本毛が足らないなんてうかがいましたが、猿が、お邸の旦那さまンなったんですか」
「おまえはそういう了見だから喧嘩をするんだよおい……猿がお邸の旦那さまンなるわけがないでしょ、さる旦那てえなァ、名前が言えないからさる[#「さる」に傍点]旦那てえんだ」
「ああその旦那が……」
「この旦那《だあ》さまがたいへんに、瀬戸物に凝ってらっしゃるんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですねェ、うちの亭主《ひと》もたいへん瀬戸物に凝ってるン。こないだねェ、一円六十銭で罅《ひび》だらけの瀬戸物ォ、買ってきたんですよゥ。そいってやったの、『もったいないじゃないか、一円六十銭も出して、そんな罅のいってる瀬戸物ォ買うやつがあるかい』ってそいってやったんですよ。『罅がいってるから、われわれの手ェ入るんだ、罅でもいってなかったひにゃァわれわれの手へ入る品物じゃァない』なんて自分でねェ、箱をこさえて、黄色い布巾《きれ》で撫《な》ぜ……」
「うるさいなァおい……おまえの亭主《てえし》が買うその一円六十銭、二円、そんな物じゃあないんだよ。何千円何万円っていう品物なんだ」
「そおーですかねェ、そんな大きな瀬戸物があるんですかねェ」
「おい、大福やなんかとちがって大きいから高いってわけのもんじゃァないんだよ。こんな小さいもんでも何千円何万円っていう品物なんだ」
「ああそれがどうしたんですゥ?」
「折しも珍客がいらしった」
「うふッ、猿が旦那だてえんで狆《ちん》かなんかお客に来たン」
「珍しい客を珍客てんだ」
「じゃ始終来るお客さまをわん[#「わん」に傍点]客とか……」
「おい、あたしの話を黙って聞きな。お好きな道だから瀬戸物を出して、よもやま[#「よもやま」に傍点]のお話をなすって、お客さまがお帰りてえことンなった。あと片づけを奉公人にさせない、粗相があってはいかんから、安い品物じゃないから、いつも奥さんがお片づけンなる役だ。いま奥さんが瀬戸物を持って、二階から降りようとすると、女は血の道、血の加減、目がぐらぐらッと眩《くら》んできた。前へのめりそう、前へのめっちゃあたいへんだからうしろへ少し反《そ》るようになすった。……足がうわずった。足袋が新しいから、つるッとすべると、どッどッどッどッどッどッどッどとォー、落っこってしまった。それでもふだん瀬戸物が大事だなッとおもってらっしゃるから、瀬戸物を差しあげたなり尻餅《しりもち》をついてらした。この物音に旦那が出てきた。『おいッ、鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか』と、息もつかずに三十六|遍《ぺん》おっしゃった。『瀬戸物は大丈夫でございます』『気をつけんければいかんよ。え? 安い品物じゃァないよ、瀬戸物大丈夫だったか? そうか、あッはッはッ、そらァよかった……』てえんで、これだけのお言葉だ。これがお崎さんの前だけど一事が万事てえやつだ。奥さんの姿が見《め》えなくなった。方々捜したところがわからない。そのうちに、お仲人が来て『ご離縁をいただきたい』ッて『どういうわけで?』『瀬戸物のことを聞いて身体《からだ》のことを少しも、おたずねくださらないところを見るとお宅では、娘より瀬戸物のほうが大事なんでございましょう。そういう不人情なところへ、かわいい娘をやっとかれません。末が案じられるから離縁状をくれ』ッと、こりゃ理屈だよ。その旦那だって、瀬戸物《せともん》と人間といっしょンなるわけがないよ。けれどもだ、凝ってるときというものはしかたがないもんだ、瀬戸物よッか[#「よッか」に傍点]ほかに頭がない。出したくもないご離縁を、出したてえ話があるン……いまだにその旦那《だあ》さまはご独身だ。『あの方ァ不人情な方だ』ッて売りものンなっちまって、嫁の世話のしてがないてな気の毒な方だろ? おまえの亭主が瀬戸物を大事にしてる……ちょうど幸いだい、これから家ィ帰って亭主がそのいちばん大事にしている、箱に入ってる瀬戸物ッてやつねェ、どっかぶつけてこわしてごらん。おまえの亭主がだよ、その瀬戸物のことごてごて言ってるようじゃァおまえの亭主はゼロだよ。瀬戸物ァ金で買えるんですよ、おまえの指一本でもたずねてごらん、そらたいしたもんだ。ふだんねェ、男ってえものはべらべらおしゃべりするもんじゃないんだよ、なんでも男ァ腹だよ、わかったかい?」
「……ああらまァそうですかねェ、へえェおもしろい話があるもんですね。そりゃ旦那の前ですけども、あたしの身体と瀬戸物《せともん》なんぞといっしょンなるわけありませんから、そりゃあたしの身体のことを、聞いてくれるとおもいますねェ」
「おもいますねェッたって、おまえそこを疑《うたぐ》って、……そこを試すんじゃないか」
「あ、なるほどそうですねェ、瀬戸物《せともん》ずいぶん大事にしてますからねェ……これがうまく唐土《もろこし》のほうであってくれればよございますけど、これが麹町の猿ンなったひにゃァしょうがありませんからねェ、旦那あたしゃァ心配で……旦那すいませんがねェ、あァたひと足先ィ家ィ行ってくれませんか?」
「ふうん? あたしがおまえの家でどうするんだ?」
「あいつが瀬戸物をこわすから、かならず身体のほうを聞いてやってくれ……」
「そんなこと言ったひにゃあだめだよ。おまえさんはねェ、充分にその未練てえもんがあって……こうおし、こうおし、教《おせ》ェてあげますから……これから家ィ帰ったら台所のほうから入んなさい。亭主にあやまんなさい。え? たとい[#「たとい」に傍点]どんな亭主でも男だよ、男は立てなくちゃいけませんよ。あやまって……竈《へつつい》のそばのなァ、糠《ぬか》味噌の桶の入ってる縁の下があるだろ? あの縁の下の上の板をずっとき[#「ずっとき」に傍点]、板をずるんだよ、いいかい? 瀬戸物を持って、その上へ乗るんだよ、片足縁の下ィ突っこむン、とたんに持ってる瀬戸物を、竈の角かなんかにぶッつけてねェ、めちゃめちゃにこわしてごらん、どっちを聞くか、おまえの一生だぜェ、おもいっきってやってごらん」
「そうですかねェ、もうあたくしも、もう長年の苦労ですからねェ、畜生めェほんとうに……(と、鼻をすする)」
「おもいきってやってごらん。また困ることがあったら家ィおいで、え? どんなにでも相談ンのるから」
「ありがとう存じます。じゃおもいきってやってみますから……おあとまたうかがいますから、はァ……お世話さまでございました。さよなら、ごめんくださいまし」
「ちョいとォ、ただいまッ……うふッ、うふふ怒ってんだよ怖《こわ》い顔ォしてェ……おまえさん怒ってるんだろ?」
「怒ってやしないけど、おまえみたいじゃしょうがないよ。長い月日だよ、夫婦なんてもなァそんなもんじゃァないよ。たまにァおまえにだっていやなこともあるだろ、おまえに対して気に入らないこともあるだろう、あるだろうけどもおまえが気に入らないって飛び出して、三時間も四時間も帰《かい》って来なきゃしょうがないんだよゥ。少しばかり稼ぐの鼻にかけやがって、髪結《かみいい》がどこが偉いんだ、おまえは人間いいけどもわがままでいけませんよ。こっちァいいか、飯《めし》を食おうてんだ、おまえが帰《かい》ってくんの、こっちゃァ待ってるぐらいにしてンじゃねえか」
「あら、ご飯食べるッておまえさん、あたしの帰《かい》ンのを待ってたの?」
「そうよ」
「おまえさんあたしといっしょにご飯食べたいかい?」
「こん畜生、変わってやんなァこいつァ、ばかだなァこいつァ……食べたいかいって、夫婦じゃァねえか。朝みねえな、『いまこっちに温《あ》ったかい飯《めし》ができるんだから、おまえ同し事《こ》ったから、温ったかいほう食べといで』って、『そうはいかない顧客《とくい》のほうが肝心だから』って出てっちまうだろ。昼間ァ店《たな》で飯《めし》を食っちまうんだろ? 晩だけじゃねえか夫婦が差し向かいで、飯が食いてえじゃねえか夫婦じゃねえか」
「あァらちょいと、おまえさん、もろこし[#「もろこし」に傍点]だよ」
「なんでえ、もろこし[#「もろこし」に傍点]ッてなァ?」
「まァわからないもんだねェまァ、旦那は偉いね、まァどうも……あたしゃね、瀬戸物のほうへとりかかるから」
「おい、なんだいその瀬戸物《せともん》のほうへとりかかるってなあ?……おおいッ、なァに? そんなとこを開けちゃァ、おおいッ、洗ってあるんだよォッ、醤油ゥひと垂《た》らしこぼれてんじゃァないよッ、洗って……」
「洗ってあったっていいじゃァないか、おまえさんのものァ、あたしの……」
「だからいいさァ。いい……おい、よせよ、……いまそんなものを出したってしょうがねえじゃねえか、おいッ! こわしでもしたらしょうがない、それ安いもんじゃないんだよッ、買えやァしないよッ!」
「……(茶碗を手に)だから心配ンなっちまうねェ、いまもろこし[#「もろこし」に傍点]だとおもったら、もう麹町ンなっちゃった」
「変だなおい、危い、変な格好ォして……あッ! そォッ……そォれ見やがれこわしちめえやがった……ばかだなァ言わねえ事《こ》っちゃァねえや、ンなところへ入《へえ》ってたってしょうがないじゃァないかいおい……どっか身体ァ怪我ァなかったかァ? おい、どっか身体……なにをぼォッとしてるんだ、瀬戸物ァ銭で買えるんだよッ、身体ァ怪我ねえかッて聞いてるんじゃあねえか」
「まあァッ……(袖で涙をぬぐい)ありがたいじゃァないかね、あたしゃァもう心配することもなんにもない。おまえさんそんなにあたしの身体が、大事かい?」
「あたりめえじゃねえか。怪我でもしてみねえ、明日ッから遊《あす》んでて酒飲むことができねえ」
「怒ってやしないけど、おまえみたいじゃしょうがないよ。長い月日だよ、夫婦なんてもなァそんなもんじゃァないよ。たまにァおまえにだっていやなこともあるだろ、おまえに対して気に入らないこともあるだろう、あるだろうけどもおまえが気に入らないって飛び出して、三時間も四時間も帰《かい》って来なきゃしょうがないんだよゥ。少しばかり稼ぐの鼻にかけやがって、髪結《かみいい》がどこが偉いんだ、おまえは人間いいけどもわがままでいけませんよ。こっちァいいか、飯《めし》を食おうてんだ、おまえが帰《かい》ってくんの、こっちゃァ待ってるぐらいにしてンじゃねえか」
「あら、ご飯食べるッておまえさん、あたしの帰《かい》ンのを待ってたの?」
「そうよ」
「おまえさんあたしといっしょにご飯食べたいかい?」
「こん畜生、変わってやんなァこいつァ、ばかだなァこいつァ……食べたいかいって、夫婦じゃァねえか。朝みねえな、『いまこっちに温《あ》ったかい飯《めし》ができるんだから、おまえ同し事《こ》ったから、温ったかいほう食べといで』って、『そうはいかない顧客《とくい》のほうが肝心だから』って出てっちまうだろ。昼間ァ店《たな》で飯《めし》を食っちまうんだろ? 晩だけじゃねえか夫婦が差し向かいで、飯が食いてえじゃねえか夫婦じゃねえか」
「あァらちょいと、おまえさん、もろこし[#「もろこし」に傍点]だよ」
「なんでえ、もろこし[#「もろこし」に傍点]ッてなァ?」
「まァわからないもんだねェまァ、旦那は偉いね、まァどうも……あたしゃね、瀬戸物のほうへとりかかるから」
「おい、なんだいその瀬戸物《せともん》のほうへとりかかるってなあ?……おおいッ、なァに? そんなとこを開けちゃァ、おおいッ、洗ってあるんだよォッ、醤油ゥひと垂《た》らしこぼれてんじゃァないよッ、洗って……」
「洗ってあったっていいじゃァないか、おまえさんのものァ、あたしの……」
「だからいいさァ。いい……おい、よせよ、……いまそんなものを出したってしょうがねえじゃねえか、おいッ! こわしでもしたらしょうがない、それ安いもんじゃないんだよッ、買えやァしないよッ!」
「……(茶碗を手に)だから心配ンなっちまうねェ、いまもろこし[#「もろこし」に傍点]だとおもったら、もう麹町ンなっちゃった」
「変だなおい、危い、変な格好ォして……あッ! そォッ……そォれ見やがれこわしちめえやがった……ばかだなァ言わねえ事《こ》っちゃァねえや、ンなところへ入《へえ》ってたってしょうがないじゃァないかいおい……どっか身体ァ怪我ァなかったかァ? おい、どっか身体……なにをぼォッとしてるんだ、瀬戸物ァ銭で買えるんだよッ、身体ァ怪我ねえかッて聞いてるんじゃあねえか」
「まあァッ……(袖で涙をぬぐい)ありがたいじゃァないかね、あたしゃァもう心配することもなんにもない。おまえさんそんなにあたしの身体が、大事かい?」
「あたりめえじゃねえか。怪我でもしてみねえ、明日ッから遊《あす》んでて酒飲むことができねえ」