やかん
「ェェこんちは、先生、いらっしゃいますか?」
「ほほう、現われたな、愚者《ぐしや》」
「え? なんか踏み潰《つぶ》しましたか?」
「なんだ?」
「いえ、ぐしゃ[#「ぐしゃ」に傍点]ッて、そう言ったでしょ?」
「なにを申しておる。ぐしゃ[#「ぐしゃ」に傍点]というのはな、愚かなる者と書いて、これを愚者と読む。つまり愚者といえば、おまえのことだ。わかったか、愚者」
「へーえ、その愚者てえのは、あっしのことですか? へーえ、そりゃァまァ、当人が気がつかねえうちに、愚者なんぞにしてもらって、どうもありがとうござんす」
「いや、礼を言うほどのことはない。まあ、そこへお座り。ふーん、今日は身なりが整っておるなァ、どっかへ出かけたのか?」
「ええ、今日は、浅草の観音《かんのん》さまへお詣《めえ》りをしやしてね」
「どこへ行ったんだ?」
「へえ、だから、浅草の観音さまへ行ったんで」
「ほほう、浅草の観音へ? そういうものが近ごろできたのか?」
「近ごろできたわけじゃァねえ。昔っからあるじゃありませんか」
「そうか。いっこうに知らんが、どのへんだ?」
「あれッ、知らねえのかい? どのへんだって……先生、浅草橋を知ってっでしょ?」
「浅草橋は知っている」
「あれをさァ、蔵前《くらめえ》通りを真っ直《つ》ぐに行って、突き当たりにあるじゃァねえか、赤《あけ》え大《で》ッけえお堂が、観音さまだ」
「なんだ、じつに呆れたもんだ。『もの書かざるは理《り》に疎《うと》し』とは言い条、蔵前《くらめえ》通りてえのは、あれは蔵前《くらまえ》通りと言うべきだ。ええ? 赤《あけ》え大《で》っけえお堂とはなんたることだ、あれは観音ではない」
「そうかい? だってあっしァあれは、観音だとおもってたんで。金毘羅《こんぴら》さまかい?」
「なにを言っておる。あれはな、金竜山浅草寺《きんりゆうざんせんそうじ》に安置奉る、聖観世音菩薩《しようかんぜおんぼさつ》というもんだ」
「ぷッ。いやだよおい、犬が風邪ェひいたときみてえに、ふヮん、ふゥん、なんて、それじゃァなんか威勢が悪《わり》いじゃァねえか」
「なんだ、威勢が悪いとは」
「もっと安直《あんちよく》に言えねえのかい?」
「俗で観音と言ってもよろしい」
「じゃまァ、そのほうで負けといとくんねえ。観音さまへ行ったんだ」
「で、人は出ていたか?」
「ええェ、もう出るの出ねえのッたって、たいへんだよ」
「どっちなんだ? 出たのか、出ないのか?」
「だから、出たの出ねえのって……」
「出たかとおもえば出ないと言うが、出たならば出た、出ないならば出ないと言いな」
「あ、そうか……じゃァ人が……出ェたァッ」
「それじゃあ化け物だ。出ましたと言えばいい」
「じゃ出ました」
「雑踏をしていたか」
「ええ、なんだか知らねえが、猫も杓子《しやくし》も出ていやがってねェ、もうてえへん[#「てえへん」に傍点]だよ」
「猫も杓子も?……猫は生き物だから出ないとは限らないが、杓子が出るのか?」
「なんだァ、他人《ひと》の揚げ足ばかり取っちゃァいけねえやな。よく言うじゃァねえか、大勢出たことを、猫も杓子も出たって……」
「だから、おまえは愚者だ。それを言うならば、女子《めこ》も赤子《せきし》もと言う」
「なんの事《こツ》てす?」
「女子《めこ》とは女子《おなご》、赤子《せきし》は赤ん坊だ。つまり、女子《おなご》も幼な子も、老若男女《ろうにやくなんによ》、とりまぜて、たいそう雑踏しておりました、というふうに言うべきだ」
「へへッ、じゃ、まァそのとおりでござい」
「大神楽《だいかぐら》の後見だな、おまえは……他人《ひと》に言わしといて、そのとおりでございてえのがあるか」
「しかし、まァ観音さまなんてえのァ、豪儀なもんですねェ」
「なにが?」
「十八間四面だなんてあんな大《で》けえお堂に住んでねェ、家賃は安くねえでしょうねェ?」
「観音さまが家賃を出すか」
「お身の丈《たけ》が一寸八分だってえじゃァねえか。あんな大《で》けえとこにいやがって、うまくやってやがら」
「なんだそれは……やってやがるてえのは」
「あの、門番に仁王ってえのが立ってますねェ。あれァむだなもんだねェ、あんなとこへ邪魔っけだァね、大きなやつがつっ立ってて。でえいち[#「でえいち」に傍点]観音さまがあんまり給金やりませんね、えてもの[#「えてもの」に傍点]に……」
「えてもの[#「えてもの」に傍点]とはなんだ……そんなことがわかるか?」
「だって自分の給金だけじゃァ食えねえから、大きな草鞋《わらじ》をこせえ[#「こせえ」に傍点]て売ってるじゃァねえか」
「だから愚者というんだ、おまえは。草鞋を売るんじゃァない、あれは、信心する者が納めたんだ」
「あ、そうですか。あんまり買ってる人ァねえとおもったんだ。いってえなんです、ありゃあ」
「魔神だ」
「はァ……まじん[#「まじん」に傍点]てえと?」
「魔の王さまが立っている。つまり、あれから内《うち》ィ入れば、清浄《しようじよう》なる仏の庭だ。ほかの魔が入ってくるといかんから、魔王が立って、全部の魔を睨《にら》み返すというわけだ」
「あ、なるほど、ふゥーん? それで、あすこにいるわけなんですね? あれ、二体《りやんこ》いるが、一組《つげい》かい、ありゃァ?」
「なんだ一組《つがい》てえのァ?」
「雌雄《めすおす》かい?」
「仁王さまを鳥とまちがいてやがる。なんだ、一組《つがい》とは。いかにも男体《なんたい》に、女体《によたい》だ」
「なんです、なんたい[#「なんたい」に傍点]ににょたい[#「にょたい」に傍点]てえのァ?」
「男と女だ」
「あァあァ、どっちが女?」
「どっちッて、……えへん……つまり、右が女ならば左が男だ」
「へえ」
「左が女なら右が男」
「……だからどっちなんですよ」
「男でないほうが女、女でないほうが男だ、わかったか」
「なんだかちっともわからねえじゃァねえか。へへッ……おまえさんだってよく知らねえんだろう。じゃァ観音さまで、調べようじゃァねえか」
「どこで訊《き》くんだ?」
「仁王の尻《けつ》ゥまくればわからあ」
「なぜそういうばかげたことを言うんだ」
「あァ、話をしてて咽喉《のど》が乾いた、茶でもごちそうおしよ」
「なんだい、茶でもとは。でも[#「でも」に傍点]なんてえ茶はない」
「そんなけちをつけねえでよゥ、出しとくれよゥ」
「おまえにいま淹《い》れてやろうとおもった。さ、うまい茶を飲ませる」
「へえへえ、ありがとうござんす……うーん、こりゃうめえや。結構なお煮花《にばな》でござんすねえ」
「なんだい、おにばな[#「おにばな」に傍点]とは。いつあたしが鬼の鼻を飲ましたい?」
「だって、ていねいに言うと、これ、お煮花ってんでしょ?」
「葉を入れて、出端《でばな》……つまり出たてをやったんだから、それは出花《でばな》と言うべきだ」
「へーえ、出花かい。あァ、出花お出花、天狗の鼻」
「なに?」
「いえェ、こっちの事《こつ》たよ……うっかりなんか言うとすぐ叱言《こごと》を食うんだから……あァ、うめえ、これァなんだねェ、お出花だけでつまらねえが、なんかお茶おけ[#「おけ」に傍点]ありませんかね」
「おまえさんは丈夫な歯だ、桶をかじるのか?」
「鼠じゃァないよゥ。……甘《あめ》え物《もん》だよ」
「なんだ、甘《あめ》え物《もん》とは。甘味なら甘味と言いなさい。茶の受けに食《しよく》するものだから、それは茶うけ[#「うけ」に傍点]と言うべきだ」
「どうだっていいじゃァねえかなァ。なんか食わしとくれ」
「いま、もらい物だが、おまえにごちそうする」
「そうですかい。どうせ買いやァしねえや」
「なにを言ってるんだ。……まァこれをおあがり」
「うまそうな餡《あん》ころですねェ、こりゃあ……」
「おいおい、まァ少し待ちな、餡ころてえのはどういうわけだ?」
「どういうわけッて……こりゃあ、餡ころでしょ?」
「餡の上をころ[#「ころ」に傍点]ッと転がしただけで、そんなに万遍なく餡がつくか?」
「さァねェ、つかねえでしょうねェ」
「つかないとおもうものをなぜ餡ころ[#「ころ」に傍点]と言う」
「そんな理屈ゥ言ったってだめだよ。餅屋へ行けば、どこだって餡ころで売るじゃねえか」
「では、餅屋が餡ころと言えば、おまえがどうしても餡ころと言わなければならぬ義理でもあるか?」
「義理も恩もねえが、餡ころじゃァねえのかい?」
「これは、餡に包《くる》んである餅だから、餡包み餅[#「餡包み餅」に傍点]と言うべきだ。あるいは、衣《ころも》に被《き》せてあるから、餡衣餅[#「餡衣餅」に傍点]と言ってもよい。強《た》って餡ころ[#「ころ」に傍点]と言いたいならば、なんべんとなく、ころころころがすから、餡ころころころころころころ餅[#「餡ころころころころころころ餅」に傍点]と言わなければならん」
「へーえ、むずかしいんだねえ。じゃあ、餡ころころころころころころ餅[#「餡ころころころころころころ餅」に傍点]をいただきます。……しかし、なんですねえ、先生なんか、世の中に知らねえって事《こた》ァねえんでしょう?」
「まあ、わしなぞは、天地間にあらゆるもので、わからんことはない」
「大げさだねェ、言うことが。じゃ、なんでも知ってるのかい?」
「知っているのかいてえことがあるか。おまえのような愚者に訊かれてわからんようなことはない」
「へえ。じゃあ教えてもれえてんですが……魚《さかな》にねェ、いろんな名前がありますねえ。あれは、だれが付けたんでしょう?」
「おまえはどうしてそのように愚《ぐ》なることを訊くんだ。どうでもいいだろう、そんなことは」
「どうでもいいったって、気になるんだよ」
「つまらんことを気にするんじゃあない」
「だれが名を付けたんで?」
「うるさいな……名を付けた者は……鰯《いわし》だ」
「いわし[#「いわし」に傍点]って、魚の鰯ですかい? へーえどうしてあの小《ち》っぽけな魚が名を付けたんで?」
「鰯は、下魚《げうお》といわれているが、しかし、数の多いものでな、それがために、魚《さかな》の中ではあれはなかなか勢力がある」
「じゃ鰯がみんな名を付けたんですか。へーえ、じゃ、鰯ってえ名はだれが付けたんで」
「うーん、その……あれは、ひとりでにできた名前だ」
「どうして?」
「いろいろな魚が、『わたくしどもは、名前を付けていただいたが、さて、あなたはどういう名前がよろしゅうございましょう?』と訊いたんだ。そのときに、『わしのことは、なんとでもいわっし[#「いわっし」に傍点]』と答えた。そこで、鰯となった」
「へーえ、いわっし[#「いわっし」に傍点]? それが名になったんで?」
「そうだ」
「鮪《まぐろ》ってのァどういうわけなんで?」
「あれは真っ黒だから、はじめはまっくろ[#「まっくろ」に傍点]といってたが、それがつまってまぐろ[#「まぐろ」に傍点]となった」
「だってェ、鮪の切り身は赤《あけ》えじゃァねえか」
「だからおまえは愚者だ……切り身で泳ぐわけじゃァないよ」
「ああ、なるほど、|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》ってえのは?」
「|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》?……あれは落ち着きのない魚で、ほうぼう泳ぎまわって場所が定まらないから、ほうぼう[#「ほうぼう」に傍点](方々)だ」
「変だねェこりゃあ。鯒《こち》ってのは?」
「……こっちへ泳いでくるから、こち[#「こち」に傍点]だ」
「だって、向こへ泳ぎゃァむこう[#「むこう」に傍点]になっちゃう」
「そういうときは、おまえが向こうへまわればこち[#「こち」に傍点]になる」
「くたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]ますねェ」
「あれはくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]る魚だ」
「じゃあ、鮃《ひらめ》ってのはどういうわけなんで?」
「平《ひら》ったいとこに目があるから、ひらめ[#「ひらめ」に傍点]」
「あ、そうか。……じゃ、鰈《かれい》もやっぱり平ったいとこに目があるねェ」
「あれは……平ったいとこに目があって……」
「どういうわけで、かれい[#「かれい」に傍点]ってんです?」
「うゥん、あれはなァ……」
「あれはなァ……どうしたんで?」
「うーん……そのゥ、そうそう、鮃の家来だ」
「魚に家来なんてのがあるんですか?」
「あァあ、あるとも。昔っから鯛《たい》、鮃といって、身分のいい魚だ、人間にたとえると、あれは大名、のちの華族《かぞく》だな」
「ふゥん? その家来なんですか?」
「ああ、家令《かれい》をしているんだな」
「家令?……なんだかおかしいねェ」
「おかしかァないよ、殿様のことを御前《ごぜん》というだろう?」
「ええ」
「御前(ご膳)のことを、英語でライスという」
「ライス?」
「そばに家令(カレー)がついて……ライスカレー」
「なんだ、洋食ですね。鰻《うなぎ》てえのァどういうわけです?」
「おまえは、いきなりいろんなことを聞くなあ。鰻あれは……もと、のろ[#「のろ」に傍点]といったんだ」
「のろ[#「のろ」に傍点]?」
「のろのろ[#「のろのろ」に傍点]しているから、のろ[#「のろ」に傍点]といったんだ。あるとき鵜《う》という鳥がのろ[#「のろ」に傍点]を呑んだ。あんまり大きいのろ[#「のろ」に傍点]で、半分は呑んだが、あと呑くだすわけにもゆかず。鵜が目を白黒して、苦しんでいた。これを見た人が、『あァ、あんな大きなのろ[#「のろ」に傍点]を呑みかけて難儀をしている。あれは、鵜が難儀だ。鵜難儀だァ』と言ったな」
「なんだかおかしいなァ」
「おかしいことァない。それが、自然にうなぎ[#「うなぎ」に傍点]になった」
「じゃァ、鰻の焼いたのを蒲焼きッてえますがねェ」
「あれはほんとうはばか[#「ばか」に傍点]焼きという。のろのろ[#「のろのろ」に傍点]してばかな魚だ。だからばか[#「ばか」に傍点]焼といったんだが、いかにも名前が悪い、食べ者《て》がないから、そこで、これをひっくり返してかば[#「かば」に傍点]焼きというようになったな」
「名前をひっくり返すのはおかしいね」
「ひっくり返さないと焦《こ》げる」
「なんだァ……落とし噺だよ。……この、湯飲てえのはどういうわけで?」
「湯を呑む道具だから湯飲だ」
「茶碗てえのは?」
「茶碗……というのは、ここへ置けば動《いご》かない。ちゃわん[#「ちゃわん」に傍点]としている」
「なァんだ。動《いご》かねえったって、そいじゃァ箪笥《たんす》だって火鉢だって、ちゃわん[#「ちゃわん」に傍点]じゃァねえか」
「これがいちばん先へできて茶碗、……でいいんだ」
「いいんですかねェ。土瓶《どびん》てえのは?」
「泥土《どろ》でこしらいた瓶だから土瓶だ」
「ほうゥ、瓶《びん》ですかねェ」
「こういうものは、昔は瓶《かめ》をかたちどった。瓶という文字は、へい[#「へい」に傍点]と読む。瓶《へい》は、すなわちびん[#「びん」に傍点]と読む」
「なるほど、……鉄瓶は?」
「どうしておまえはそう頭が働かない。泥土《どろ》でこしらいたものだから土瓶、鉄でこしらいれば鉄瓶ぐらいなことはわかるだろう」
「あ、そうか。じゃ、やかんは?」
「やかん……?」
「ええ、や[#「や」に傍点]でできてるわけじゃァねえや。真鍮《しんちゆう》でできたり、銀でできたり、ブリッキ[#「ブリッキ」に傍点]でできたり、アルマイトなんてえのがある。みんなやかん[#「やかん」に傍点]てえじゃァねえか、え? おウッ」
「なんだ、おウとは?」
「どういうわけでッ?」
「大きな声をしなさんな。それは……なんですよつまり、ェェ……いまは、やかんという」
「ふふッ……昔はのろ[#「のろ」に傍点]っていったか……?」
「真似をするな。水わかし[#「水わかし」に傍点]といった」
「水わかし? それをいうなら湯わかしでしょう」
「だから、おまえは愚者だ。湯をわかしてどうなる? 水をわかして、はじめて湯になるんじゃあないか」
「ああ、そうか。じゃあ、どういうわけで、その水わかし[#「水わかし」に傍点]がやかん[#「やかん」に傍点]になったんです?」
「水わかし[#「水わかし」に傍点]がやかん[#「やかん」に傍点]になったについては、ここに一条の物語がある」
「へーえ、どんな物語があるんで?」
「ころは元亀《げんき》、天正《てんしよう》のころというから戦国時代だ。このとき、信州の川中島をはさんで、対陣したのが上杉謙信と武田信玄の軍だ」
「ああ、川中島の戦《いくさ》ってえやつは、あっしも聞いたことがあります」
「ある日、大雨のときがあった。こういう晩には、よもや敵も攻めてくることもあるまい、久方ぶりに、英気を養おうと、上戸《じようご》は酒、下戸《げこ》はふんだんにものを食べてぐっすり寝たが、油断大敵だ。真夜中にどうっという、鬨《とき》の声、敵から夜討というものをかけられたんだ。すわと、はね起きたが、さァ、寝ぼけているから、周章狼狽《しゆうしようろうばい》、他人《ひと》の兜《かぶと》をかぶって行く者もあり、一つ鎧《よろい》を二、三人で、引っぱりっこするというえらい騒ぎ。一人の若武者が、がばとはね起きたが、若いに似合わず、落ち着いて身支度をすませ、で、最後に兜をかぶろうとしたら、枕元に置いてあったはずの兜がない」
「どうしたんで?」
「だれかまちがえてかぶってったやつがある。さァ兜がない、困ったなと、かたわらを見ると大きな水わかし[#「水わかし」に傍点]が自在鉤《じざい》に掛かって、ぐらぐらぐら、湯がたぎっていたから、これ究竟《くつきよう》の兜なりと、ざんぶとこの湯をあけて、かぶった」
「はァ……なるほど、で、どうしました?」
「これから、馬へ乗って乗り出したが、この若武者が強いんだ。群《むら》がる敵勢の中へ飛びこむと、縦横無尽に荒れまわるその勢いのすさまじさ……」
「そりゃあ勇ましいや」
「この若武者のために、敵方は、斬りたてられて、どうゥッとうしろィ退《さ》がって行く。敵方の大将が、床几《しようぎ》から立ちあがって、小手をかざして眺めると、緋《ひ》おどしの鎧を着た、夜目《よめ》にもこの水わかし[#「水わかし」に傍点]がぎらぎら光った化け物が、馬上において、抜群のはたらきをしている。『あれへ、奇怪なる水わかし[#「水わかし」に傍点]の化け物が出《い》でた。射《い》ッてとれッ』という下知《げじ》がくだったから、三十人ばかり、弓を持ってばらばらッと駆け出した。矢《や》距離《ごろ》を測って、満月のごとくに引きしぼり、きって放したる矢があやまたず、水わかし[#「水わかし」に傍点]に命中をすると、カーンと音がした。また矢を放つと、ひゅーと飛んできて、水わかし[#「水わかし」に傍点]に当たって、カーン、矢が飛んできてはカーン、矢カーン、矢カーン、やかん[#「やかん」に傍点]となった」
「とうとう、やかん[#「やかん」に傍点]にしちゃったねェ」
「これから一時休戦になって陣へ引きあげる。ほっとひと息ついて水わかしを脱ぐと、いままで真ッ黒にはえていた毛がすっかり抜けた」
「あれッ、どうしたんです?」
「たぎりたった湯をあけて、気が張っていたから、熱いのを我慢してかぶっていた。それがためにすっかり毛が抜けたんだ。禿《は》げた頭のことをやかん[#「やかん」に傍点]頭とはこれからはじまった」
「また、おかしくなった……ですが、あんなものをかぶったら、戦《いくさ》をするのに邪魔ンなりませんか?」
「いや、そんなことはなかった」
「そうですかねえ……蓋《ふた》なんぞどうしました」
「あれは、ぼっち[#「ぼっち」に傍点]をくわえて面の代わりにした」
「じゃあ、つる[#「つる」に傍点]のとこは?」
「つる[#「つる」に傍点]は顎《あご》ィ掛けるから忍び緒の代わりになって、水わかしの兜が落ちない」
「そりゃ、気がつかなかった。でも注口《くち》が邪魔でしょう?」
「いいや、昔の戦は、みんな名乗りをあげる。そのときに聞こえないといかんから、聞く耳の役をした」
「おっと、そりゃおかしいや。耳なら真っ直ぐとか上へ向いてなきゃァ。あれ、かぶると下ァ向くね」
「下を向いてていい」
「どうして?」
「どうして……だから、おまえは愚者だ。その日は、朝から大雨だ。注口《くち》が上を向いていたら、雨が流れこんできて耳垂《みみだ》れになるぞ」
「強情だね、先生も……耳なら両方にありそうなもんじゃァありませんか。片っぽうねえのはどういうわけです?」
「いやァ、ないほうは、枕をつけて寝るほうだ」