一人酒盛
酒好きというものは、なににつけても、うれしいといえば……、
「あァ、めでたいよ、ェェ祝いに一杯やろうじゃァねえか」
悲しいときは、悲しいときで……、
「もうしょうがないよ、できちゃったことさ、こんなんなっちゃっちゃ、しょうがねえや、ええ? 自棄《やけ》だッ、一杯のめッ」
暑いときは、
「どうも暑くてしょうがねえ、暑気払いに一杯やろう」
寒いときは、
「おゥ、寒《さぶ》くってしょうがねえ、湯豆腐かなんか温《あつた》けェもんで、ちょいと……」
というぐわい。……なかなか止められるものではない。
ひとつ酒を断《た》とうと、神様へ願《がん》をかけると、そこへのみ友だちが誘いに来る、
「ええ? なにを、断《た》った? 酒をか? ばかだなあおめえは。好きなものを急に断ってごらんよ、なおよくねえぜそれァ。断ったって、どう断ったんだい。向こう一年? ばかな真似をするじゃあねえか、ほんとうになァ、しょうがねえ、断っちまったんだから、じゃこうしなよ、もう一年延ばして二年にしといてなァ、晩酌《ばんしやく》だけやらしてもらったらどうだ?」
「おゥ、そういう手もあるなァ、いっそのこと三年にして朝晩のもうか」
酒は呑《の》むべし呑むべからず
ほどほどに召しあがっとくと、まァたいへん身体《からだ》のためになるが、どうしても好きな人は度をすごす。そういうところから身体《からだ》をこわしたり、まちがいを起こすなんてえことになる。また、のみたいとなると、好きな方はどんなことをしてものもう、あらゆる艱難苦労をしてこの酒にありつこうという……。
「おゥおゥおゥ、ま、こっちィ入《へえ》ってくれ」
「う、いまなんだかちょいと来てくれってえからやってきたけども、なんか用があンのかい? おれもこれから仕事に行かなくちゃならねんで暇《ひま》がねんだけども」
「まアまアいいやな、こっちィ上がれよ、ちょいとよゥ」
「なんだい?」
「じつはね、いま他所《わき》から酒をもらったんだ、こいつは昔おれが世話ァした野郎で、上方《かみがた》の方を久しく行っていたんだ、『こっちィ帰《けえ》っつくるで、急でございますから土産《みやげ》といったが、どうも手がまわりませんので、造酒屋《つくりざかや》にこころやすいところがある、酒の素《もと》のようなものを、そこで一升だけ持って来ました。で、残らず置いていかなくちゃあならねんですが、もう一軒お世話になったところがあるんで、そこへ半分持っていきたいとおもうが、まことにしみったれたことを言うようですが、五合だけで勘弁していただきてえ』とこう言うんだ、え? 言うことが可愛いじゃあねえかなァ。なにも余計ものをもらったからいいってえわけじゃあねえから、『よゥし、おめえが一軒世話ンなったところがあンなら、そこへ持ってってやっつくれ……じゃ、おれが半分もらおうじゃねえか』ってんでね、……ちょいとやったところが、これがまたうめえんだ……うゥんかかあは出ていっちまやがったし、夜まで我慢しようとおもったけども、とても辛抱しきれねえ……で、一人で呑んだところでおもしろくねえし、呑み友だちは大勢いるが、留さん、おめえがおれァいちばん好きなんだよ。ふたァりでやろうとおもって迎《むけ》えにやったんだけども……つきあってもらえねえかい?」
「そうかい? ありがてえなァ、へッへッへッへ、酒を呑むんで友だちァ大勢あるがおれだけ呼んでくれたてえなァ、うれしいじゃねえか」
「忙しくっちゃしょうがねえ」
「いいよ、忙しいけれども、まァ……ちょいとやるぐれえな何《なに》なら、どうでもできらァな。いますぐ呑むのかい」
「呑むんだけれどもよゥ……なにしろおめえこれじゃあしょうがねえ、火がねんだ。お燗《かん》をつけてなァ……やりてえし、徳利を放ォりこんでなかなか燗ができねえなんてなァじれってえや。ちょいと火を熾《おこ》してもらいてんだが、表に炭俵が出てえるが、そン中からちょいと二つ三つつまんでなァ、その焜炉《こんろ》へ入れて……おゥおゥ……それからここに種火《たねび》があるから……こいつを持ってってちょいちょいっとこう、お尻《けつ》をあおってくれ、ええ? 炭は柔《やら》けえからすぐぽッとするからなァ……その薬罐《やかん》を載っけつくんねえ、温湯《ぬるまゆ》ンなってくるから、うん……で、肴《さかな》はなんにもいらねんだけども、やっぱりなんかなくっちゃあ形がつかねえから、魚金へ行ってなんでもいいから見てくンねえか、ええ? おまえに任しとくから……」
ほどほどに召しあがっとくと、まァたいへん身体《からだ》のためになるが、どうしても好きな人は度をすごす。そういうところから身体《からだ》をこわしたり、まちがいを起こすなんてえことになる。また、のみたいとなると、好きな方はどんなことをしてものもう、あらゆる艱難苦労をしてこの酒にありつこうという……。
「おゥおゥおゥ、ま、こっちィ入《へえ》ってくれ」
「う、いまなんだかちょいと来てくれってえからやってきたけども、なんか用があンのかい? おれもこれから仕事に行かなくちゃならねんで暇《ひま》がねんだけども」
「まアまアいいやな、こっちィ上がれよ、ちょいとよゥ」
「なんだい?」
「じつはね、いま他所《わき》から酒をもらったんだ、こいつは昔おれが世話ァした野郎で、上方《かみがた》の方を久しく行っていたんだ、『こっちィ帰《けえ》っつくるで、急でございますから土産《みやげ》といったが、どうも手がまわりませんので、造酒屋《つくりざかや》にこころやすいところがある、酒の素《もと》のようなものを、そこで一升だけ持って来ました。で、残らず置いていかなくちゃあならねんですが、もう一軒お世話になったところがあるんで、そこへ半分持っていきたいとおもうが、まことにしみったれたことを言うようですが、五合だけで勘弁していただきてえ』とこう言うんだ、え? 言うことが可愛いじゃあねえかなァ。なにも余計ものをもらったからいいってえわけじゃあねえから、『よゥし、おめえが一軒世話ンなったところがあンなら、そこへ持ってってやっつくれ……じゃ、おれが半分もらおうじゃねえか』ってんでね、……ちょいとやったところが、これがまたうめえんだ……うゥんかかあは出ていっちまやがったし、夜まで我慢しようとおもったけども、とても辛抱しきれねえ……で、一人で呑んだところでおもしろくねえし、呑み友だちは大勢いるが、留さん、おめえがおれァいちばん好きなんだよ。ふたァりでやろうとおもって迎《むけ》えにやったんだけども……つきあってもらえねえかい?」
「そうかい? ありがてえなァ、へッへッへッへ、酒を呑むんで友だちァ大勢あるがおれだけ呼んでくれたてえなァ、うれしいじゃねえか」
「忙しくっちゃしょうがねえ」
「いいよ、忙しいけれども、まァ……ちょいとやるぐれえな何《なに》なら、どうでもできらァな。いますぐ呑むのかい」
「呑むんだけれどもよゥ……なにしろおめえこれじゃあしょうがねえ、火がねんだ。お燗《かん》をつけてなァ……やりてえし、徳利を放ォりこんでなかなか燗ができねえなんてなァじれってえや。ちょいと火を熾《おこ》してもらいてんだが、表に炭俵が出てえるが、そン中からちょいと二つ三つつまんでなァ、その焜炉《こんろ》へ入れて……おゥおゥ……それからここに種火《たねび》があるから……こいつを持ってってちょいちょいっとこう、お尻《けつ》をあおってくれ、ええ? 炭は柔《やら》けえからすぐぽッとするからなァ……その薬罐《やかん》を載っけつくんねえ、温湯《ぬるまゆ》ンなってくるから、うん……で、肴《さかな》はなんにもいらねんだけども、やっぱりなんかなくっちゃあ形がつかねえから、魚金へ行ってなんでもいいから見てくンねえか、ええ? おまえに任しとくから……」
「おッ、行ってきた」
「なんかあったかい?」
「うん……どうせ余計|買《と》ったってしょうがねえから、一人|前《めえ》だけもらってきたが、いい刺身だ」
「おッ、これァいいや……中とろ[#「とろ」に傍点]だ、留さん、おめえ、銭を出したのかい? ええ? そうかい、ありがてえありがてえ……ェェそれじゃァなァ、そこに徳利があるんだがなァ、抽出しン中に、うん、一合ずつ入るやつが……よしよしそいつを二本出して、酒はそれだそれだ、たしねえ酒[#「たしねえ酒」に傍点]だからこぼさねえようになァ、大事に入れつくンなよ……おゥ済まねえ……で、二本いっしょに……こう突っこんどいつくンねえ……ェェ刺身がありゃあいいけども、箸休めに香物《こうこ》があるといいんだが……あのゥ、台所のなァ、こっちから三枚目の板をあげると糠《ぬか》味噌だ、うん。なんか上に入ってるだろ? ちょいと出しつくれよ、済まねえが……よォよォよ、えらいえらい、ええ? 留さんは器用だなァ、おめえはすることが小器用だ、おれときたひにゃあなにしろ口が八丁で手が一丁てえやつでねェ、文句は言うがなんにもできねんだよ……済まねえ……湯呑《ゆのみ》みだ。よしよし、おれはねェいつもこれでやらなくちゃねェ……ちょいと徳利をこっちィ出してくンねえか……なに、早え? 早くったっていいよ、もうこうなりゃあ子供がおもちゃをもらったようなものでねェ、(徳利を受け取って、自分で注《つ》ぎ)とても我慢ができねんだ……おいおい留さん、見ねえこの酒をよ……どうだい、ええ? 色といい、上へこうぐうっ[#「ぐうっ」に傍点]と盛りあがる、こういかなくちゃあいけねえ、酒は平《てえ》らになっちまっちゃいけねえやな。注《つ》いでこう上へこんもり盛りあがるような酒でなくちゃあねェ、うん。なにしろいい酒だって自慢をしてやがった、ええ? (徳利を置いて)どんなもんか……(と、湯呑を口へ三口ばかりのむ)」
「おい、酒はうめえかい? おい」
「うゥ(一気にのみ干し)……あァ、うめえ!……おい、酒ェ呑んでるときなんか言っちゃあいけないよ……あァ、気が遠くなるようだ……すゥッと入《へえ》っていくとこなんざァねえなァどうも、あァいい酒だども……七十五日《しちじゆうごんち》どころじゃあねえや、こりゃどうも、三年ぐらいおれァ生きのびちゃったァ……おゥ、徳利をこっちィ出してくンねえ、こんだいい燗だろ。(徳利を受け取り)あとを入れといつくンねえ……あァこれァいいよどうも(湯呑に注ぎながら)……自慢をしてやがったよ、うん。これァねえ酒の素なんだそうだ、こいつィ水をいくらか入れてね、こう薄めて売物《うりもん》になるんだそうだ。『これァねェ、ほかにゃあないもんですから、どうか味わっていただきてえ』なんてそ言ってやがったがねェ……(湯呑を手にふた口ばかり呑み)いい酒てえもなァ、ありがてえもんだなァ、うん。呑むときがうまくって、酔い心《ごころ》がよくって、醒《さ》めぎわがいい……そこへいくと悪い酒はいやだねェ、呑むときはまずいし、酔い心《ごころ》が悪くって醒めぎわがいやな心持ちだ、ねえ。しかし酒呑みてもなァ意地の汚《きたね》えもんだよ、ああ、それしきゃねえとなりゃあ、悪い酒でも文句を言いながらやっぱり呑んじまうからねェ……へッへッへ、どうもしょうのねえもんだ……(ふた口ほど呑み)うめえ酒だなァ……おれの親父ァねえ、花見酒ってやつでね、猪口《ちよこ》ィ注いだやつを三口か四口にこうなめるように呑んでる、ああ。おれがねえ大きい器《もん》できゅゥッ[#「きゅゥッ」に傍点]とやると、『この野郎なんざァ雲助酒だ』なんてねェ、あァあ、叱言《こごと》を言やァがったけどもねえ、こいつァやっぱり好き好きだからなァ、うん。大きい器《もん》できゅッ[#「きゅッ」に傍点]とやって好きな人もありゃあ、また、ちびちびその、なめるようなのがいいッてのもあるし、どうしょうがねえもんだよ……(ひと口呑み)いい酒だ。だけどもねえ、おれァこの酒をもらったとたんにそうおもったよ……呑み友だちは大勢あるけれども、留さん……おめえだけはどうしても呼びてえとおもってなァ」
「ありがてえなァ、そ言ってもらえるのァ……ほんとうにおれァうれしいよ、おれもねえ、酒は好きだがかかあがやかましくってねえ、『どうしておまえさんはそうなんだろう、酒を見りゃあすぐに仕事もなんにも忘れちまうんだから……どうして済んでからゆっくり呑めないんだろう』なんてね……」
「あッはッはッは、そうだよゥ、どこのかかあだっておんなしだよ……用が済んで、それから呑みゃあいいって言うが、そうはいかないよ、ねえ。好きなものを、だいいち我慢するのァ毒ですよ……(またふた口ほど呑み)ほんとうにいい酒だ……(湯呑を置き)おっ、徳利を出しつくれ、あとをつけといてくんなよ……(徳利を受け取って)あァどうも済いません……(湯呑に注ぎ)ありがてえありがてえ、こりゃあほんとに……こういういい酒はまた呑もうったって呑めねえからなァ。おれァねえ、大勢知ってるやつァあるけれどもさ、やっぱり留さんでなくちゃいけないよ、ねえ……気の合った同士で呑むてえやつァ……これァまたなんとも言えねえから。いやな野郎と、鼻ァ突きあわして呑むてえなァおもしろくねえもんだからねえ……(徳利を置いて、ひと口呑み)ああ、上燗《じようかん》ですよ。あァかかあが帰《けえ》ってきやがってまたね……ぐずぐず言うだろうとおもうんだよ、こねえだもおれァ癪《しやく》にさわってねえ、他所《よそ》でちょいと一杯やってね、帰《けえ》ってきたんだよ、するとうちのかかあのやつがおれの顔を見やがって、『おや、おまえさんまた酒ェ呑んだねえ』とこう言やがる、ええ。おれァもう無体《むてえ》癪にさわっちゃった……『お帰《かい》ンなさい』とか、ねェ、やれなんとかそこに文句があって、『おまえさん、お酒を呑んだんじゃあないの』とこうやさしく言やァいいや、ええ? 顎《あご》を、こう突き出しゃァがってね、『またおまえさん、呑んできたねえ』……おれァむッ[#「むッ」に傍点]としてねえ(ふた口ほど呑み)……『おれァ酒なんぞ呑んじゃあいねえや』ったらね、『なに言ってるんだね、呑んでるか呑んでないか、鏡を見たらわかるだろう』とこう言やァがる……それから『鏡はどこにあるんだ?』ったら『そこに出ているよ』ってやがる……机の上に鏡を、ほら……こうやって手に持って見るやつがあるだろう? 手鏡ってのが……あれが載っかってやがる。それからおれァ無体《むてえ》癪にさわったからねえ、『おれの顔がどうなってんだ?』ってんで鏡を見たときは……おれァとびあがっておどろいたよ、おれの顔へまっ黒に毛が生えてやがる、おかしいんだよゥ、その朝おれァ床屋へ行ったんだからね……そういっぺんに毛が生えるわけがねえんだが……それから『どォしたんだ、おっかァ、たいへんな毛だなァ』ったら、『なにがさ?』『だっておめえ、鏡に写ってるおれの顔がまっ黒に毛が生えてらあ』ったら、『ばかだねこの人ァ、そりゃ刷毛《はけ》じゃないか』って……はははは、刷毛じゃァおめえ、毛が生えてらあね、あたりまえだァな、はははは……(ぐいぐいと三口ほど呑み)自分じゃあ酔ってねえつもりだが、やっぱり酔っているんだねェそのときにゃあ。あァ……しかし酒呑みてえなァおかしなもんだよ。(ぐッと呑み干し)酒呑みてェ……おゥ、留さん、ちょいと徳利を出しつくれ、お燗いいだろ、あァ、ありがてえ(湯呑に注ぐ)……ほんとにいい酒だなァ……おれァねえ、この酒をもらったときァそうおもったよ……呑み友だちは大勢いるが、いやな野郎とァ呑みたくねえし、留さんと呑みてえなとおもってね、うん……あァほんとにありがてえ……おゥそうだ、しゃべって、刺身をせっかく持ってきてもらったのを忘れちゃった。こいつゥいただこうじゃねえか、ええ……おッ、いい山葵《わさび》を使ってやンなァ……とろッ[#「とろッ」に傍点]として、こういかなくちゃいけねえ(箸で皿の醤油の中へ入れ)、刺身てえものァ半分は山葵で食うもんだからねえ、うん。山葵は高《たけ》えから粉山葵でもいいてえやつがあるが、冗談言っちゃあいけねえやな、粉山葵じゃあやっぱり、ねえ、おもしろくねえやな……あァ粉山葵でいいぐれえなら、切身ィ醤油ゥぶっかけてかじったっておんなしだ、刺身てえものは半分はこの、山葵で食わせるてえぐれえ、ええ? いいなァ、この中とろンとこで……(刺身を箸ではさみあげ皿の醤油につけ、ぺろッと食べ)こりゃあ…う…むゥッ(山葵が利いて顔をしかめ)、はァッ、おォゥ辛《かれ》え、つゥん[#「つゥん」に傍点]ときやがったよ……山葵利いたか目に涙……てえやつだ、あッはは、うめえなァどうも(また食べて箸を置き、湯呑を取る)やっぱりこの、山葵はつゥん[#「つゥん」に傍点]とこなくッちゃあうまくないねえ、うゥん、魚《さかな》が舌の先ィぴりッ[#「ぴりッ」に傍点]ときてねえ、山葵が甘くなっちゃったひにゃあもう、どうにもしょうがないからねえ……(ぐいぐい呑み)……あァ、ありがてえありがてえ、ほんとにいい酒だ……こうなってくるとなんだなァ、ちょいとぺんぺん[#「ぺんぺん」に傍点]でも弾《し》いてもらうといいなァ……おゥ留さん、おめえ、乙《おつ》な咽喉じゃあねえか、ひとつ聞かしつくれやい、ええ? おい、留さん、なんか唄いねえな……」
「……ふッ、唄えったっておめえ、素面《しらふ》でばかばかしくて唄えねえやな」
「なにおめえ、一人で、もそもそ[#「もそもそ」に傍点]言ってるんだよゥ。お酒を呑んだら、呑んだような心持ちにならなくちゃいけないよ、ね?……達磨《だるま》さんこちら向かんせ世の中は、月雪花に酒と三味線……なんてねえ、ねへへ、いいねえ、ああ(と、呑み)……近ごろ小唄なんてえものが流行《はや》るが、乙《おつ》なのがあるねえ、古い唄だが『今朝《けさ》の別れ』なんてなあ、いいねえ……『今朝の別れに貴方《ぬし》の羽織がかくれんぼ……』なんてなァ、えへへ……おい留公、しっかりしろい冗談じゃあねえ……※[#歌記号、unicode303d]今朝ァのォ…オゥォ、別れェ…にィ……てなァ、ええ? 留ちゃんや、はは……(と呑み)※[#歌記号、unicode303d]ぬしの羽織がァかくれんぼ……チテチン、チンチンチン、とくらあ、どうだ留の字……※[#歌記号、unicode303d]雨ェがァあ…ァに、チリチリ、チン、チチチン、チンチン、降るゥわァいィいんな、チテンテン……おいおいおい留さん、おい徳利、徳利……ごとごとごとごといってるじゃあねえか、間抜けな野郎だなァこいつァまた、早く出せてんだよゥ。おめえ、お燗番だろう?……おい、薄ぼんやりしているやつもねえもんじゃあねえか、どじ[#「どじ」に傍点]助。おめえはねえ人間はいいが、どういうもんだか、その間が抜けたところがあって、おれァいやなんだよ……どうしたんだ、え? 熱くなっちゃった? あたりめえじゃあねえか、徳利をほうりこんでから薄ぼんやりしているからよ。………こっちィ出せ、徳利を、ええ? どんなんだ?……あちッ……(あわてて手を徳利からはなし耳たぶへ持っていく)おォう熱《あつ》い、こんなに煮えくり返《けえ》しちゃって、持てねえじゃねえか手で……(袖の中に手を入れて徳利を持ち、注ぐ)おやおや、情けねえな……おァあァ……いやだなァ、おい見ねえな、ぼわッ[#「ぼわッ」に傍点]と湯気《けぶ》が出てるじゃあねえか。おまえだって酒を呑むんだろう? こんなに煮えくり返《けえ》しちゃっちゃあしょうがねえじゃねえかなァ……人肌というんだよ、ね? 酒の燗をするんならよく覚えとけ……こんなに熱くしちゃって、どうも……(湯呑を持ち、ふゥッと吹く)こりゃ熱いや、(また、ふゥッふゥッと吹き)酒てえものはねえ、こやって吹きながら呑むもんじゃないよ、ええ? 甘酒とァわけがちがうんだから……(ひと口呑み)吹きながら呑むのァねえ、実母散《じつぼさん》ばかりだ……熱いねえどうも、むゥうゥ、あとをつけとけあとを……酒ェ……なにをぼんやりしてるんだ、おい、早くつけろよ、なに?……もうない?……『もうない』ってどうしたんだ? あァ、呑んじゃったのか、なんだィ、それじゃァおつもり[#「おつもり」に傍点]だろうこの酒ァ……せっかくの酒《もの》をこんなにしちまやがって、だらしのねえ野郎じゃあねえか……(呑み)しかしうまいね、あァいい酒はやっぱりいいけども、ただもったいないてんだ、こう熱くしちまっちゃあ……なァ、おつもりかいこれで、ええ? おォ留さん、どうだい、無官《むかん》の大夫おつもり(敦盛)てえなあ……あッはははッ、あァ、どうだい留……なんて顔ォしてンだい、洒落を言われてぼうッ[#「ぼうッ」に傍点]としてやがら、洒落を聞いたら『よゥよゥ』とかなんとか言いねえな、なんだなどうも、煮えきらねえ男だなァ、(ひと口呑み)無官の大夫のおつもりッて、いけないかい、ええ? 玄関つきの洒落は……い、いけなきゃいンだよ、うん。しかしいい酒だよ、おれァねえ、この酒をもらったときそうおもったんだ、これァ、ひとりで呑んじゃあもってえねえから、留公呼んで……呑ましてやろうとおもったんだよゥ、ほんとうだよ、ありがたくおもえ、冗談じゃねえ……(呑む)あァいい酒だ、いい酒(飯坂《いいざか》)の温泉てえところがあるねえ……あッはッはッは……あァうめえやどうも(ぐっと残りをあおり、とォんと湯呑を下へ置いて)あァあうめえ、じつにいい酒だ、なァおい留公、どうでえうめえだろう」
「なッによォ言ってやンでえ、べらぼうめ……うめえもまずいもあるかい。なんでえひとりでがぶがぶ、くらやァがって、ええ? 忙しいってのに呼びに来やがって、あっちィ行けの、へッ(鼻をこすりあげ)……やれなんのッてやがって、そんな酒なんぞァ呑みたかねえやおれァ……酒なんぞ呑みたかァねえけども、ええ? たとえ一杯でも『どう?』って……へッ、なんでえ畜生め、なんだてめえ一人でくらってやがって、『こんなうめえ酒は……』うめえかまずいか見てるだけでわかるかい。うん、てめえのようなやつとァもう生涯《しようげえ》つきあわねえや、畜生め、……面《つら》ァ見やがれ、この、ばか野郎ッ!」
「(女の声で表から)……ちょいと熊さん、どうしたんだよゥ、留さん、たいへん怒って帰《けえ》ったが、喧嘩でもしたんじゃないのかい?」
「なんだい、留公かい? あッはッはッは、いいんだいいんだ、うっちゃっときなよ、あの野郎ァ酒癖が悪《わり》いんだから」
「なんかあったかい?」
「うん……どうせ余計|買《と》ったってしょうがねえから、一人|前《めえ》だけもらってきたが、いい刺身だ」
「おッ、これァいいや……中とろ[#「とろ」に傍点]だ、留さん、おめえ、銭を出したのかい? ええ? そうかい、ありがてえありがてえ……ェェそれじゃァなァ、そこに徳利があるんだがなァ、抽出しン中に、うん、一合ずつ入るやつが……よしよしそいつを二本出して、酒はそれだそれだ、たしねえ酒[#「たしねえ酒」に傍点]だからこぼさねえようになァ、大事に入れつくンなよ……おゥ済まねえ……で、二本いっしょに……こう突っこんどいつくンねえ……ェェ刺身がありゃあいいけども、箸休めに香物《こうこ》があるといいんだが……あのゥ、台所のなァ、こっちから三枚目の板をあげると糠《ぬか》味噌だ、うん。なんか上に入ってるだろ? ちょいと出しつくれよ、済まねえが……よォよォよ、えらいえらい、ええ? 留さんは器用だなァ、おめえはすることが小器用だ、おれときたひにゃあなにしろ口が八丁で手が一丁てえやつでねェ、文句は言うがなんにもできねんだよ……済まねえ……湯呑《ゆのみ》みだ。よしよし、おれはねェいつもこれでやらなくちゃねェ……ちょいと徳利をこっちィ出してくンねえか……なに、早え? 早くったっていいよ、もうこうなりゃあ子供がおもちゃをもらったようなものでねェ、(徳利を受け取って、自分で注《つ》ぎ)とても我慢ができねんだ……おいおい留さん、見ねえこの酒をよ……どうだい、ええ? 色といい、上へこうぐうっ[#「ぐうっ」に傍点]と盛りあがる、こういかなくちゃあいけねえ、酒は平《てえ》らになっちまっちゃいけねえやな。注《つ》いでこう上へこんもり盛りあがるような酒でなくちゃあねェ、うん。なにしろいい酒だって自慢をしてやがった、ええ? (徳利を置いて)どんなもんか……(と、湯呑を口へ三口ばかりのむ)」
「おい、酒はうめえかい? おい」
「うゥ(一気にのみ干し)……あァ、うめえ!……おい、酒ェ呑んでるときなんか言っちゃあいけないよ……あァ、気が遠くなるようだ……すゥッと入《へえ》っていくとこなんざァねえなァどうも、あァいい酒だども……七十五日《しちじゆうごんち》どころじゃあねえや、こりゃどうも、三年ぐらいおれァ生きのびちゃったァ……おゥ、徳利をこっちィ出してくンねえ、こんだいい燗だろ。(徳利を受け取り)あとを入れといつくンねえ……あァこれァいいよどうも(湯呑に注ぎながら)……自慢をしてやがったよ、うん。これァねえ酒の素なんだそうだ、こいつィ水をいくらか入れてね、こう薄めて売物《うりもん》になるんだそうだ。『これァねェ、ほかにゃあないもんですから、どうか味わっていただきてえ』なんてそ言ってやがったがねェ……(湯呑を手にふた口ばかり呑み)いい酒てえもなァ、ありがてえもんだなァ、うん。呑むときがうまくって、酔い心《ごころ》がよくって、醒《さ》めぎわがいい……そこへいくと悪い酒はいやだねェ、呑むときはまずいし、酔い心《ごころ》が悪くって醒めぎわがいやな心持ちだ、ねえ。しかし酒呑みてもなァ意地の汚《きたね》えもんだよ、ああ、それしきゃねえとなりゃあ、悪い酒でも文句を言いながらやっぱり呑んじまうからねェ……へッへッへ、どうもしょうのねえもんだ……(ふた口ほど呑み)うめえ酒だなァ……おれの親父ァねえ、花見酒ってやつでね、猪口《ちよこ》ィ注いだやつを三口か四口にこうなめるように呑んでる、ああ。おれがねえ大きい器《もん》できゅゥッ[#「きゅゥッ」に傍点]とやると、『この野郎なんざァ雲助酒だ』なんてねェ、あァあ、叱言《こごと》を言やァがったけどもねえ、こいつァやっぱり好き好きだからなァ、うん。大きい器《もん》できゅッ[#「きゅッ」に傍点]とやって好きな人もありゃあ、また、ちびちびその、なめるようなのがいいッてのもあるし、どうしょうがねえもんだよ……(ひと口呑み)いい酒だ。だけどもねえ、おれァこの酒をもらったとたんにそうおもったよ……呑み友だちは大勢あるけれども、留さん……おめえだけはどうしても呼びてえとおもってなァ」
「ありがてえなァ、そ言ってもらえるのァ……ほんとうにおれァうれしいよ、おれもねえ、酒は好きだがかかあがやかましくってねえ、『どうしておまえさんはそうなんだろう、酒を見りゃあすぐに仕事もなんにも忘れちまうんだから……どうして済んでからゆっくり呑めないんだろう』なんてね……」
「あッはッはッは、そうだよゥ、どこのかかあだっておんなしだよ……用が済んで、それから呑みゃあいいって言うが、そうはいかないよ、ねえ。好きなものを、だいいち我慢するのァ毒ですよ……(またふた口ほど呑み)ほんとうにいい酒だ……(湯呑を置き)おっ、徳利を出しつくれ、あとをつけといてくんなよ……(徳利を受け取って)あァどうも済いません……(湯呑に注ぎ)ありがてえありがてえ、こりゃあほんとに……こういういい酒はまた呑もうったって呑めねえからなァ。おれァねえ、大勢知ってるやつァあるけれどもさ、やっぱり留さんでなくちゃいけないよ、ねえ……気の合った同士で呑むてえやつァ……これァまたなんとも言えねえから。いやな野郎と、鼻ァ突きあわして呑むてえなァおもしろくねえもんだからねえ……(徳利を置いて、ひと口呑み)ああ、上燗《じようかん》ですよ。あァかかあが帰《けえ》ってきやがってまたね……ぐずぐず言うだろうとおもうんだよ、こねえだもおれァ癪《しやく》にさわってねえ、他所《よそ》でちょいと一杯やってね、帰《けえ》ってきたんだよ、するとうちのかかあのやつがおれの顔を見やがって、『おや、おまえさんまた酒ェ呑んだねえ』とこう言やがる、ええ。おれァもう無体《むてえ》癪にさわっちゃった……『お帰《かい》ンなさい』とか、ねェ、やれなんとかそこに文句があって、『おまえさん、お酒を呑んだんじゃあないの』とこうやさしく言やァいいや、ええ? 顎《あご》を、こう突き出しゃァがってね、『またおまえさん、呑んできたねえ』……おれァむッ[#「むッ」に傍点]としてねえ(ふた口ほど呑み)……『おれァ酒なんぞ呑んじゃあいねえや』ったらね、『なに言ってるんだね、呑んでるか呑んでないか、鏡を見たらわかるだろう』とこう言やァがる……それから『鏡はどこにあるんだ?』ったら『そこに出ているよ』ってやがる……机の上に鏡を、ほら……こうやって手に持って見るやつがあるだろう? 手鏡ってのが……あれが載っかってやがる。それからおれァ無体《むてえ》癪にさわったからねえ、『おれの顔がどうなってんだ?』ってんで鏡を見たときは……おれァとびあがっておどろいたよ、おれの顔へまっ黒に毛が生えてやがる、おかしいんだよゥ、その朝おれァ床屋へ行ったんだからね……そういっぺんに毛が生えるわけがねえんだが……それから『どォしたんだ、おっかァ、たいへんな毛だなァ』ったら、『なにがさ?』『だっておめえ、鏡に写ってるおれの顔がまっ黒に毛が生えてらあ』ったら、『ばかだねこの人ァ、そりゃ刷毛《はけ》じゃないか』って……はははは、刷毛じゃァおめえ、毛が生えてらあね、あたりまえだァな、はははは……(ぐいぐいと三口ほど呑み)自分じゃあ酔ってねえつもりだが、やっぱり酔っているんだねェそのときにゃあ。あァ……しかし酒呑みてえなァおかしなもんだよ。(ぐッと呑み干し)酒呑みてェ……おゥ、留さん、ちょいと徳利を出しつくれ、お燗いいだろ、あァ、ありがてえ(湯呑に注ぐ)……ほんとにいい酒だなァ……おれァねえ、この酒をもらったときァそうおもったよ……呑み友だちは大勢いるが、いやな野郎とァ呑みたくねえし、留さんと呑みてえなとおもってね、うん……あァほんとにありがてえ……おゥそうだ、しゃべって、刺身をせっかく持ってきてもらったのを忘れちゃった。こいつゥいただこうじゃねえか、ええ……おッ、いい山葵《わさび》を使ってやンなァ……とろッ[#「とろッ」に傍点]として、こういかなくちゃいけねえ(箸で皿の醤油の中へ入れ)、刺身てえものァ半分は山葵で食うもんだからねえ、うん。山葵は高《たけ》えから粉山葵でもいいてえやつがあるが、冗談言っちゃあいけねえやな、粉山葵じゃあやっぱり、ねえ、おもしろくねえやな……あァ粉山葵でいいぐれえなら、切身ィ醤油ゥぶっかけてかじったっておんなしだ、刺身てえものは半分はこの、山葵で食わせるてえぐれえ、ええ? いいなァ、この中とろンとこで……(刺身を箸ではさみあげ皿の醤油につけ、ぺろッと食べ)こりゃあ…う…むゥッ(山葵が利いて顔をしかめ)、はァッ、おォゥ辛《かれ》え、つゥん[#「つゥん」に傍点]ときやがったよ……山葵利いたか目に涙……てえやつだ、あッはは、うめえなァどうも(また食べて箸を置き、湯呑を取る)やっぱりこの、山葵はつゥん[#「つゥん」に傍点]とこなくッちゃあうまくないねえ、うゥん、魚《さかな》が舌の先ィぴりッ[#「ぴりッ」に傍点]ときてねえ、山葵が甘くなっちゃったひにゃあもう、どうにもしょうがないからねえ……(ぐいぐい呑み)……あァ、ありがてえありがてえ、ほんとにいい酒だ……こうなってくるとなんだなァ、ちょいとぺんぺん[#「ぺんぺん」に傍点]でも弾《し》いてもらうといいなァ……おゥ留さん、おめえ、乙《おつ》な咽喉じゃあねえか、ひとつ聞かしつくれやい、ええ? おい、留さん、なんか唄いねえな……」
「……ふッ、唄えったっておめえ、素面《しらふ》でばかばかしくて唄えねえやな」
「なにおめえ、一人で、もそもそ[#「もそもそ」に傍点]言ってるんだよゥ。お酒を呑んだら、呑んだような心持ちにならなくちゃいけないよ、ね?……達磨《だるま》さんこちら向かんせ世の中は、月雪花に酒と三味線……なんてねえ、ねへへ、いいねえ、ああ(と、呑み)……近ごろ小唄なんてえものが流行《はや》るが、乙《おつ》なのがあるねえ、古い唄だが『今朝《けさ》の別れ』なんてなあ、いいねえ……『今朝の別れに貴方《ぬし》の羽織がかくれんぼ……』なんてなァ、えへへ……おい留公、しっかりしろい冗談じゃあねえ……※[#歌記号、unicode303d]今朝ァのォ…オゥォ、別れェ…にィ……てなァ、ええ? 留ちゃんや、はは……(と呑み)※[#歌記号、unicode303d]ぬしの羽織がァかくれんぼ……チテチン、チンチンチン、とくらあ、どうだ留の字……※[#歌記号、unicode303d]雨ェがァあ…ァに、チリチリ、チン、チチチン、チンチン、降るゥわァいィいんな、チテンテン……おいおいおい留さん、おい徳利、徳利……ごとごとごとごといってるじゃあねえか、間抜けな野郎だなァこいつァまた、早く出せてんだよゥ。おめえ、お燗番だろう?……おい、薄ぼんやりしているやつもねえもんじゃあねえか、どじ[#「どじ」に傍点]助。おめえはねえ人間はいいが、どういうもんだか、その間が抜けたところがあって、おれァいやなんだよ……どうしたんだ、え? 熱くなっちゃった? あたりめえじゃあねえか、徳利をほうりこんでから薄ぼんやりしているからよ。………こっちィ出せ、徳利を、ええ? どんなんだ?……あちッ……(あわてて手を徳利からはなし耳たぶへ持っていく)おォう熱《あつ》い、こんなに煮えくり返《けえ》しちゃって、持てねえじゃねえか手で……(袖の中に手を入れて徳利を持ち、注ぐ)おやおや、情けねえな……おァあァ……いやだなァ、おい見ねえな、ぼわッ[#「ぼわッ」に傍点]と湯気《けぶ》が出てるじゃあねえか。おまえだって酒を呑むんだろう? こんなに煮えくり返《けえ》しちゃっちゃあしょうがねえじゃねえかなァ……人肌というんだよ、ね? 酒の燗をするんならよく覚えとけ……こんなに熱くしちゃって、どうも……(湯呑を持ち、ふゥッと吹く)こりゃ熱いや、(また、ふゥッふゥッと吹き)酒てえものはねえ、こやって吹きながら呑むもんじゃないよ、ええ? 甘酒とァわけがちがうんだから……(ひと口呑み)吹きながら呑むのァねえ、実母散《じつぼさん》ばかりだ……熱いねえどうも、むゥうゥ、あとをつけとけあとを……酒ェ……なにをぼんやりしてるんだ、おい、早くつけろよ、なに?……もうない?……『もうない』ってどうしたんだ? あァ、呑んじゃったのか、なんだィ、それじゃァおつもり[#「おつもり」に傍点]だろうこの酒ァ……せっかくの酒《もの》をこんなにしちまやがって、だらしのねえ野郎じゃあねえか……(呑み)しかしうまいね、あァいい酒はやっぱりいいけども、ただもったいないてんだ、こう熱くしちまっちゃあ……なァ、おつもりかいこれで、ええ? おォ留さん、どうだい、無官《むかん》の大夫おつもり(敦盛)てえなあ……あッはははッ、あァ、どうだい留……なんて顔ォしてンだい、洒落を言われてぼうッ[#「ぼうッ」に傍点]としてやがら、洒落を聞いたら『よゥよゥ』とかなんとか言いねえな、なんだなどうも、煮えきらねえ男だなァ、(ひと口呑み)無官の大夫のおつもりッて、いけないかい、ええ? 玄関つきの洒落は……い、いけなきゃいンだよ、うん。しかしいい酒だよ、おれァねえ、この酒をもらったときそうおもったんだ、これァ、ひとりで呑んじゃあもってえねえから、留公呼んで……呑ましてやろうとおもったんだよゥ、ほんとうだよ、ありがたくおもえ、冗談じゃねえ……(呑む)あァいい酒だ、いい酒(飯坂《いいざか》)の温泉てえところがあるねえ……あッはッはッは……あァうめえやどうも(ぐっと残りをあおり、とォんと湯呑を下へ置いて)あァあうめえ、じつにいい酒だ、なァおい留公、どうでえうめえだろう」
「なッによォ言ってやンでえ、べらぼうめ……うめえもまずいもあるかい。なんでえひとりでがぶがぶ、くらやァがって、ええ? 忙しいってのに呼びに来やがって、あっちィ行けの、へッ(鼻をこすりあげ)……やれなんのッてやがって、そんな酒なんぞァ呑みたかねえやおれァ……酒なんぞ呑みたかァねえけども、ええ? たとえ一杯でも『どう?』って……へッ、なんでえ畜生め、なんだてめえ一人でくらってやがって、『こんなうめえ酒は……』うめえかまずいか見てるだけでわかるかい。うん、てめえのようなやつとァもう生涯《しようげえ》つきあわねえや、畜生め、……面《つら》ァ見やがれ、この、ばか野郎ッ!」
「(女の声で表から)……ちょいと熊さん、どうしたんだよゥ、留さん、たいへん怒って帰《けえ》ったが、喧嘩でもしたんじゃないのかい?」
「なんだい、留公かい? あッはッはッは、いいんだいいんだ、うっちゃっときなよ、あの野郎ァ酒癖が悪《わり》いんだから」