粗忽《そこつ》の釘
「おまえさん、どこをうろついてたんだよ。いいかげんにおしよ。ほんとうに。ほかの日じゃないんだよ、引っ越しだよ。車を頼もうてえのに『すぐ向こうの横町だから車なんざいらない、大きな荷をこしらえて二、三度ひっ背負《ちよ》って運んでしまやァことが済む』って、おまえさん、荷物を背負《しよ》って、朝暗いうちに出たんだよ。出たっきり帰ってきやしないじゃないか。お長屋の方が心配をして見にいってくださった。行きがたがわからない。うっちゃっときゃ日が暮れちまう。しかたがないんで家主《おおや》さんはじめお長屋の衆が大勢手伝ってくださって……ごらんよ。この荷物。みなさん運んでくだすって、いまお帰りになったとこだよ。こんな夕方暗くなるまで、大きな荷物を背負《しよ》ってさ、どこをほっつき歩いてたんだよ」
「うん、おっかあァ、おらァじつにおどろいた」
「また、はじまった。おまえさんぐらい、ものにおどろく人はないねえ。猫があくびしたっておどろいて、電車が動くって感心してさ……いったい、なんにおどろいたんだい?」
「うん、あれからな、すぐに大通りへ出て四つ角へ来ると、家主ンとこの赤犬と、どっかの大きな黒犬がケンカしてるんだ。ところが赤犬《あか》が旗色が悪くって、下になっちまった。おれも心やすい犬だから、見て見ぬふりもできねえから、そばへ行って『赤ッ、ウシウシ』と言ってやると、赤犬《あか》のやつ、急に元気づいてぴょいと跳び起きたんで、おらァおどろいてひっくり返《けえ》っちまった。ところが、葛籠《つづら》が重いもんで、どうにも起きることができねえ。足をばたばたやってると、往来の人が親切に起こしてくれて、やれうれしやとおもったとたん、こんどはおめえ、横町から出てきやがったんだ。あの、ほら、あん畜生だ」
「なんだい?」
「なんだいってえほどの代物《しろもの》じゃあねえや。あれだよ、うん……自転車。これがおめえ、なんと人が乗って出てきたんだ」
「ばかだね。人が乗らない自転車が出てくるかよ。それで?」
「ぶつかっちゃったい」
「あらあら……」
「ようやく起きあがったとたんだもの、かわす間がねえや。もろにぶつかっちゃった。向こうもひっくり返った、おれもひっくり返った。両方ともひっくり返っちゃったんだ。一所懸命に起きようとおもったけど、葛籠がもう地面《じべた》にひっついちゃってはなれねえ、動きがとれねえんだ」
「で、どうしたい?」
「しょうがねえから、どなってやったい」
「なんだって?」
「助けてくれェー」
「やだねェ……意気地がないねえ。それで、どうしたの?」
「自転車に乗ったその若い者が親切者だ。自分だって痛かったんだろうけど、そいつを我慢して起きあがって、おれを起こしてくれて、泥をすっかりとってくれてさ。『どうもとんだ粗相をいたしました、すいません、ご勘弁を願います』って、おれにあやまった。おれァ感心しちゃった。だからおれも言ってやった」
「なんてった?」
「そうでございますとも、おめでとうございますと」
「そんな挨拶があるかい」
「あるかいったって言っちまったものはしかたがねェ。そういや向こうも妙な顔をして、『じゃごめんなさい』てんで右と左に別れて、どんどんどんどん来るてえと、たいへんな人だかりだ。なんだろう? この人だかりはとおもったから、『はい、ごめんなさい。はい、ごめんなさい』って前へ出てみたんだ。すると、子供がねェ、大勢、相撲をとってるんだ。えへッへ……子供なんてえ罪はねえや、勝ったり負けたり負けたり勝ったり、いつまでもいつまでもやってやがる。だからこっちもな、いつまでもいつまでも見てたんだ、うん。どういうことになるだろうとおもってね……そうしたらなんとなく、あたりが暗くなってきやがった。……おどろいたねェ、気がついたんだよ。今日は引っ越しだってえことに。こいつはたいへんだ。びっくりして立ちあがって、どんどんどんどん歩いてたんだ。いくら歩いてもねえんだ、豆腐屋が。なんでもこんどの家は、左側に豆腐屋があって、その横を曲がった角から二軒目だてえことをおぼえてたから、なんでもかまわねえから豆腐屋を目当てに行ったんだ。ところが行けども行けども豆腐屋がねえ。ようようのことであったとおもったら、これが右っ側よ。しかたがねえからまたどんどんどんどん行くと、左っ側に豆腐屋があったんだが、その横に曲がり角がねえ。またどんどん行くと、曲がり角があるかとおもうと、豆腐屋がねえ、こんなことを繰り返しているうちに、まるっきり見当がつかなくなっちまって、そのうち右っ側に一軒、豆腐屋があったから、え? 左っ側の豆腐屋が右っ側にあるのは、なにかわけがあるにちがいないとはおもったが、おれはもうくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]ちまったから、わけをゆっくり考える暇はねえ、なんでもかまわねえから入ってやれってんで、その豆腐屋へ入っちゃった。するとそこの主人《あるじ》が出てきやがって『なんです?』ってんだ。『なんですじゃあねえ。引越してきたんだ』って言ってやった。そうしたら『冗談言うなこの野郎ッ』って追ン出された。……そりゃあもっともだってね」
「呆れたねェ、それからどうしたね?」
「うん、もうこうなりゃあ、いままで住んでた家へひっ返《けえ》して、はじめっから出直しだってんで戻ってみると、家ン中はがらんとして、荷物ひとつありゃしねえ。おらァくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]たから、背中の荷物を降ろして一服やってると、いいぐあいに家主がやってきた。きっと見まわりに来たんだな。ところが、おれがいたからおどろきゃァがったね、『おめえ、いってえ、どうしたんだ?』って言うから、『家主《おおや》さんの前だが、あっしァ自分の引っ越す先がわからねえ』『ばか野郎、おめえが捜してきた家じゃあねえか』『そりゃあ、あっしが捜してきた家にはちげえねえが、まるっきり見当がつかなくなっちゃった。家主さん、ご存じなら、どうか連れてっておくんなせえ』『まったく厄介《やつけえ》な野郎だァ』ってんでな、家主にそこまで送ってもらったんだ」
「まあ、ほんとうにやんなっちゃうねェ。どうしておまえさんってえ人はそうそそっかしいんだろうねえ……どうでもいいけどさ、話をするなら、そんな門口へ立ってないで、こっちへ上がって、背負ってる荷物を降ろしたらどうなのさ」
「え? あああああ、重い重いとおもったら……冗談じゃあねえぜ、おい。おれはくたぶれてる[#「くたぶれてる」に傍点]んだよ。こういうことは、さっさと教えろ。さんざっぱらしゃべらしときゃがって……ああ、どっこいしょッと、ふゥー、軽くなった」
「あたりまえだよ。それよりね、この道具、いまからがたがた動かしたらご近所に悪いから、今夜はこのままにしといて、寝るところだけあればいいんだからね、それは明日《あした》のことにしといて、困っちゃうのは、そこにあるその箒《ほうき》……箒なんてものは寝かしとくと始末に悪いもんだから、その箒をかける釘を打っておくれよ。……わかってるね、箒をかける釘だから、長い釘を打っとくれ」
「やいっ、おうっ」
「なんだい?」
「なにを言ってやんでえ。ふざけるな。おれをいってえなんだとおもってやがるんだ。餓鬼の時分から年季を入れて叩《たた》きあげた大工《でえく》だぞ、おれァ。『箒をかけるんだから釘を打ってください』と言やあ、どのくらいの釘を打ちゃあいいかっくらいのことは、言われねえでもわかっていらァ。それをなんでえ、長い釘を打てだ? ちぇッ、生意気を言うなってんだ、生意気を。長《なげ》えのを打ちゃいいのか? よし、気のすむように長えェのを打ってやるからそうおもえ。早く釘箱ォ持ってこい……金槌《かなづち》を出しなよ。金槌がねえ? 玄翁《げんのう》があるだろ? それでいいや。こっちィよこせ。……ぷっ、長え釘を打ちゃいいんだろ?……痛えッ、痛えや、こん畜生。つまらねえことをぎゃあぎゃあ言うから、指を打っちまったじゃねえか、ああ痛え(と指をくわえ)あ、この指じゃねえや、こっちだ」
「なにをしてんだい、自分で打った指をまちがえる人があるかよ。それもいいけど、ずいぶんまあ長い釘打ったね、おまえさん」
「どんなもんだ、釘はこのとおり打ったよ」
「おまえさん、おまえさん。このとおり打ったなんてすましてる場合じゃあないよ。たいへんなことをやっちゃったよ。そこはねえ、壁じゃあないか。長屋の壁なんてえものはねえ、大きな声じゃ言えないけど、もう薄いもんだよ。大きな玄翁で釘の頭をおもいきりぽかッと……ごらんよ。釘の頭が壁のなかへめりこんじまってるじゃあないか……どんな釘を打ったのさ?」
「どんな釘って……大は小を兼ねるてえことをいうから、いちばん長《なげ》え瓦《かわら》っ釘を打ったんだ」
「あら、いやだよ。たいへんだよ。そんな長いのを打ったのかい? もしも、その先がお隣りへ出て、大事な道具へ傷をつけたらどうするんだい? ほんとうにたいへんなことになるよ。困ったねえ、どうも……まァ、やっちまったことでしかたがないから、お隣りからなんとも言われないうちに、早くこっちから行ってあやまっておいでな。早く行っておいでよ」
「わかったよ、うるせえなあ……行きゃいいんだろ、行きゃあ」
「おまえさん、ただ行きゃいいってもんじゃないよ。よォくあやまるんだよ、落ち着いてね。落ち着かなきゃだめだよ。落ち着きゃおまえさんだって一人前なんだから」
「てやんでえ。落ち着きゃあ一人前とはなんだ? じゃあなにか、落ち着かなきゃあ半人前《はんにんまえ》か? 人をばかにすんねえ。ほんとにおれをなんだとおもってやがんだ。亭主だぞ、亭主関白の位てえことを知らねえか。なんてえことを言いやがるんだ……やいっ、なんてえことを言いやがるんだ……やいっ、なんてえことを言うんだッ」
「えッ? なんだい、おい、変な人が入って来たよ。……いいえ、知らないよ。見たことのないお方だ。……あのゥ、なにかご用で?」
「なにを言ってやがるんだ、笑わすない。……えへッ、ご用? あ、こんちは」
「変な人だね、なんです?」
「へえ、どうもただいまなんでございますが……」
「なにがなんでございます?」
「それが、その、へえ、なんでございまして、なんでしょう?」
「なんだかさっぱりわかりませんなあ」
「わかりません?……ああそう、あのゥ、あっしゃあねえ、引っ越しをしてきましたんでね」
「ああ、さいですか、それはどうも、ご丁寧に恐れ入りました。ご挨拶にお見えになったんで?」
「いいえ、挨拶なんぞわざわざ来やしません。じつはね、おまえさんに見てもらいたいことがありましてね」
「ははァ……なんでしょう?」
「なァに、ほかでもないんで……あっしのかかあなんですがね」
「おかみさんを、拝見しますので……?」
「いえいえ、あんなものはお見せするほどのものじゃあないんで……かかあの言うことが癪《しやく》にさわるんで、ええ。釘をかけるから箒を打てとこう言やがるんで」
「ほう、妙なことをおっしゃいますな。釘をかけるから箒を打て?」
「へえ? あべこべだよ、それじゃあ。おまえさん、落ち着いて……」
「あなたのほうで落ち着くんだ」
「へえ、その……箒をかけようとおもってね、釘を打ったんですが、壁と柱とまちがえちまって、そのゥ、瓦っ釘を壁へ打ちこんじまったんで……なにしろ長屋の壁は、大きな声じゃあ言えねえが、薄っぺらだ。ひょっとしたら、おまえさんとこの道具へ傷でもつけやあしねえかと、かかあが言うもんですからやってきたんですが、ちょいと見てもらいてえんで……」
「ああ、そうですか、それはどうもたいへんだ……でも、あなた、今日お向かいへ越してらっしゃったんでしょ」
「ええ、ええ、そうなんです。あすこに見えてるあの家です」
「うぷッ、あなたしっかりしてくださいよ。どんなに長い瓦っ釘だったか知りませんがねえ、お向かいの家で打った釘が、こっちまで届く気づかいはないとおもいますがなァ」
「いえ、それが、たいへんに長い……」
「どうも話がわからなくって困るなあ。いいですか? あたしの家はこっち側で、あなたの家は向こう側ですよ。往来を一つ隔てて、向こうからこっちまで届く釘はないから、ご安心なさいよ」
「なるほど、あなたの家はこっち側だ」
「そうですよ」
「こりゃあどうも失礼しました、ごめんください、さようなら……あははは、こりゃおどろいた。なるほどそそっかしいや。どうしておれはこうそそっかしいのかねえ。かかあの言うとおりだ。おまえさんは、落ち着けば一人前だって言やがったけれど、たしかに落ち着かなけりゃ半人前だ。よし、こんどはうんと落ち着いてやるぞ。落ち着きゃ、これでも一人前だ。じゅうぶんに落ち着いて……さて、落ち着いてみると、おれの家はどこだい? わかンなくなっちまったよ……いま出たばかりなんだからなくなるわけはねえんだが……ああ、これだ、これがおれの家だ。するてえと釘は?……こう向いて、こう打ったんだ。すると、釘の先は、この家だな? どうもばつ[#「ばつ」に傍点]が悪《わり》いなあ。ェェ、ごめんください」
「はい、いらっしゃいまし。なにかご用で?」
「ええ、ちょいと落ち着かせてもらいます」
「え? なんだか変な人が来たよ。……いえ、知らない方だよ。……あなた、どんなご用件で?」
「へえ、ちょいと上がらせてもらいます」
「おい、ちょいと……あの、座布団を持っておいで……あなたあの、どうぞお敷きなすって……」
「こりゃあどうも……せっかくですから頂戴します……まァ、とにかく一服……」
「おい、おまえ、この方が煙草をあがるようだから、煙草盆に火を入れて持ってきておあげ」
「どうもすみません。とんだお手数をおかけしまして……」
「で、なにかご用で、いらしたんですか?」
「いえ、ご用てえほどのことではないんですがね。とにかく落ち着かしていただいてからのことで……今日は、いい塩梅《あんばい》にお天気になりましたな」
「はァ?」
「この調子では、明日も天気はよさそうですな」
「はァ、たぶん晴れましょう……あなた、いったいなにをしにいらしたんで?」
「(煙管で煙草をゆったりと吸い)……つかぬことをうかがいますが……」
「へえ、へえ」
「あそこにいらっしゃるご婦人は、あなたのおかみさんですか?」
「ええ、あれはあたしの家内ですが、家内がどうかしましたか?」
「いいえ、別にどうしたってわけじゃないんですが、それであの、なんですか、仲人《なこうど》があっておもらいになったんですか? それともくっつきあいで?」
「おかしな人だねえ。あたしンとこじゃあ、立派に仲人があってもらったんだ。それがどうかしましたか?」
「いえ、なに、どうしたというわけじゃァありませんがね、なんでも仲人がなくっちゃいけませんな。あたしンとこじゃ仲人なしなんで、くっつきあいなんで……」
「へーえ」
「あなたご存じでしょ? あそこに伊勢屋という質屋がありましてね」
「いえ、知りません」
「そんなはずは……ねえ、白ばっくれちゃあいけねえ」
「いや、別に白ばっくれやあしません。その伊勢屋さんがどうしました?」
「あっしゃあねえ、大工《でえく》なんですがね。親方の平蔵に連れられて、あすこの家へ仕事に行ったときに、いまのかかあが女中で働いてましてねえ、あるとき、あっしが弁当をつかおうとしますとねえ、あいつが出てきて、『大工さん、これは、あんまりおいしくはないんだけどもね、よかったら食べておくれ』ってんで、塩の甘《あめ》え鮭なんぞ出してくれたんで……こいつァ、もう、ただごとじゃあねえとおもったからね、あくる日、前掛を買って持っていくと、『まあ、ありがとう』と、あっしの顔をじーっと見つめてにっこり笑いましたときには、あっしはぶるぶると震えました。すると、あれが、『大工さん、おひとりですか?』と聞きますから、『どういたしまして、あっしのような貧乏人のかかあに成《な》り手《て》はありませんや』と申しますと、『うまいことおっしゃって……雨が降ってお仕事がないときはどうなさいます?』『そんなときは家におります』と申しますと、『あなたのお宅はどちらで?』と聞きますから、『この先の荒物屋の二階を借りております』と申しますと、『こんど雨の降った日にお邪魔に上がってもよろしゅうございますか?』と申しますから、『ぜひいらっしゃい』と申しますと、あれがまっ赤な顔をして、でも、あたしなんかがお邪魔したら、叱《しか》る人がおいででしょう?』と申しますから、『なァに、そんなものがいるはずがねえじゃァありませんか』と言って、あっしゃあ、あいつの手をぎゅーっとにぎったんで……」
「こりゃあおどろいた。あなた、そんなことをおっしゃりにいらしったんで?」
「そんなことをおっしゃりに?……いけねえ、あんまり落ち着きすぎた……えへへへ、どうも失礼しました。さようなら……」
「あれあれっ、あなた、お帰りになるんですか? なにかご用がおありなんじゃァありませんか?」
「そうそう……肝心の用を忘れて帰るところだった。へえ、じつはね、あっしゃあ、お隣へ引っ越してきたんで……なにぶんよろしく願《ねげ》えます」
「ああ、さようで……それならそれと最初からおっしゃってくださればよかったんですが、どうもわざわざご挨拶に……なにぶんお心やすく願います」
「いえ、そんなことはいいんですがね、じつは、その、なんです……かかあがね、箒をかける釘を打ってくれと言うもんですからね、打ってやったんですが、打った場所がよくねえんで、壁に打ちこんじまったもんで……おまけにそれがいちばん長《なげ》え瓦っ釘だったもんでね、かかあのやつがびっくりしましてねえ、あんな長い釘を打って、もしも、その先がお隣へ出て、大事な道具へ傷をつけちゃあたいへんだ。行って、よく見てもらってあやまってこなくちゃあいけねえとこう言いますもんで、それでやってきたんですが、すみませんがちょいと見ていただきてえんで……」
「えっ、瓦っ釘を壁へ打ちこんだ。そりゃあたいへんだ。……ちょっと待ってくださいよ。ちょっと見てきます……あっ、こりゃあ、おどろいたなァどうも……あなた」
「え?」
「ちょいと、こっちィ来て、あの仏壇をごらんなさい」
「へえどこの?……おやおや、ご立派な仏壇ですな」
「仏壇をほめてくれって言ってるんじゃあないよ。なかを見ろってえの……阿弥陀《あみだ》さまの頭の上を見てごらんなさい」
「阿弥陀さまの頭の上?……へーえ、長い釘を打ちましたなァ。お宅じゃァあすこへ箒をかけますか?」
「冗談言っちゃあいけない。ありゃあ、あなたの打った釘ですよ」
「ははあ、こんな見当になりますか?」
「のんきなことを言ってちゃあ困るなァ。ほんとうに呆れちまう。あなたは、まあ、そんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますなあ。ご家内はお幾人《いくたり》で?」
「ええ、あっしにかかあに、七十八になる親父の三人で……」
「へーえ、そうですか? お見かけしたところ、お年寄りはどうも見えませんでしたが……」
「あっ、たいへんだ。じつは、親父が三年前から中気で寝ておりますが、二階へ寝かしたまま忘れてきちまった」
「こりゃあおどろいた。どんなにそそっかしいといって、自分の親を忘れてくる人がありますか?」
「なあに、親を忘れるぐれえはあたりめえでさあ。酒を飲むと、ときどきわれを忘れます」