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落語百選82

时间: 2019-09-15    进入日语论坛
核心提示:吉原へ回らぬ者は施主《せしゆ》ばかり「弱ったなあかかあのやつァ怒ってやんだろうなあ。そうおもうてえと、いくら自分の家《う
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吉原へ回らぬ者は施主《せしゆ》ばかり
「弱ったなあ……かかあのやつァ怒ってやんだろうなあ。そうおもうてえと、いくら自分の家《うち》でも入《へえ》りにくいし、素面《しらふ》じゃあいけねえとおもったから、途中できゅっと兜酒《かぶと》をひっかけてきたが、自分の家の前へ来るてえと、酒が無罪放免になりそうだ、弱ったねェ、敷居が高いったって、まさか梯子《はしご》を買ってくるわけにもいかねえし、かかあだってそうじゃあねえかなあ、亭主が帰《けえ》らねんだから、ふて[#「ふて」に傍点]寝かなんかしてやがるがいいじゃあねえか、なにしてやんでえかなんとか言って、怒鳴った勢いで入《へえ》っちまうんだけど、ああして神妙に仕事なんぞォしてるのを、いきなり入《へえ》って張り倒すわけにゃあいかねえし、どうも。どうしてうちのかかあってものァああ仕事をしたがるのかねえ……病気だね、困ったもんだ……困ったからって入《へえ》らねえわけにもいかねえんだから……ェェ、少々うかがいますが……ェェ、大工の熊五郎さんのお宅はこちらでござんしょうか?」
「はい、てまえどもでございますが、どちら?……なんだねェまァ、自分の家ィ帰《かい》って聞いてるやつがあるかね、まァ……おはいンなさい、こっちィ」
「どうもごぶさた……」
「よくまあ、家を忘れなかったねえ」
「ああ、角々《かどかど》の匂いをかぎながら、ようやく帰ってきた」
「それじゃあ、犬だよ……ばかばかしい。ちょいとおまえさん、今日で四日になるじゃないか。どこへ行ってたんだい?」
「どこへといったって、お店《たな》のご隠居の葬式《とむれえ》に行ったんじゃあねえか」
「冗談言っちゃいけないやねェ、ご近所の方はみんな暮《くれ》がた帰っておいでじゃあないの、おまえさんだけがどうしてそんなにかかるの?」
「それァしょうがねえやなァ、ま、ほかの連中とはつきあいがちがうんだ、仏とのさ。『おめえは小《ちい》せえときから面倒みたんだから、どうか焼場までいっしょに行って、おれの灰になるまで見とどけてくれ』と、死んだ仏の遺言だ。ところがどうも、八十六だってんだから、ああなると人間油っけが抜けちまってなかなか燃えつかねえんだねェ、うゥん。今朝がたンなってようやく焼け落ちた……」
「よくそんなばかげたことが言えたもんだね。なんだってえじゃあないか、お葬《ともら》いに行く前に棟梁のところへ寄って、おまえさん、お金を前借りをしてったそうだねェ。うちも困るんだから、その金は使ってきやあしまいねェ」
「あれっ、いけねえやこりゃどうも、お調べはつぶさに行き届いてらあどうも」
「なにもお葬いに行くのに、まとまったお金を持っていくことはないじゃないか」
「そりゃあ、おめえは女だから、そうおもうのも無理はねえが、男は敷居をまたぎゃあ七人の仇《かたき》があるてえじゃあねえか。いつどんな仇に会うかわかんねえから、そのときの用意のために金を借りていったんだあな」
「それで、仇にめぐり会ったかい?」
「ああ、会っちまったねえ」
「だれに会ったんだい?」
「そう、おめえ、こわい目つきをしなくってもいいじゃねえか……こうなったらしょうがねえから、まァ有様《ありよう》なことを白状しちまうけど……」
「言ってごらんよ」
「まァそう、おめえ怒ったってしょうがねやなァ、……なにしろ、お店のご隠居てえのは八十六だてんだから、めでてえよ。人間それまで生きりゃあ結構だなあ」
「そんなことは聞かなくったって知ってるよ」
「まあ、黙って聞きなよ。……お葬《とむれ》えは立派よ。花輪《はな》なんぞ、どのくれえあったか知れやしねえくれえだ。あれだけの大店となると、つきあいが広《ひれ》えからなあ。出入りの職人もたくさん台所を働いていたぜ。こっちァ葬いより早く寺へ行って、手伝いだ。台所で見ると土瓶の中へ酒が入《へえ》ってやンの、こいつァ飲んでもいいてんだから、好きなもんだし、こっちァ下司《げす》ばってるから、がぶがぶやって、葬《とむれ》えが来た時分にゃあおらァぐうぐう寝こんじまったんだ、坊主にたたき起こされて、おどろいて寝ぼけまなこで表へ飛び出す、出っくわしたのが近江屋の隠居だから、『どうだい、これから吉原《なか》ィでも繰りこんで遊《あす》ぼうじゃあねえか』ったら、『むだに使う金があったらかみさんにうまいものを食わして、子供に着せるもんの一枚も着せておやりよ』と、こう言うんだ。ふだんなら『ありがとうございます』と礼のひとつも言うところだが、気違《きちげ》え水が入ってるからたまらねえや、『なにを言やがんだこん畜生めッ、ふざけたことを言うない。かかあにゃあ食わせるものがなくって、屋根へ上げて、風ェ食わせとこうと、餓鬼に着せるものがなくって、あんぺら[#「あんぺら」に傍点]のちゃんちゃんこを着せとこうと、てめえの世話になるけえ』てんで、おれが啖呵をきって、土手へふらふらかかってくると、うしろから、『親方、どこへ行くの?』って声をかけるやつがあるんだ。ふりむいてみると、これが紙屑屋の長公さ。『親方、お葬式《とむらい》ですかい?』『うん、いま帰りなんだ』『どうです? おたがいにあの仏さまにはご厄介になったんですから、これからお通夜に行こうじゃありませんか』てえから、『よかろう、通夜に行こう』てんで、それから通夜に行ったんだ」
「ばかばかしいことをお言いでないよ。お通夜てえものは、お葬いを出す前にするもんじゃあないか。お葬いのあとでお通夜てえのがあるかい?」
「それがよ、葬《とむれ》え出しちまったけども、これから焼き場へ仏さまを持っていくんだ。仏さまは、あんな中へ入れられて、錠《じよう》をぴーんとおろされてよ、合鍵を持っていかれちまったんじゃあ、もう出ることもひくこともできねえ。さだめしさびしかろうから、それで、お通夜をしてやろうてんだ。『よかろう、じゃあ出かけよう』ってんで、焼き場へ行くと、『いらっしゃいまし。お上がんなさいよ』と、こうにぎやかな声をかけてくれやがった。上草履をつっかけて、幅の広い梯子をとんとんとんと上がっていくと、『さァ、どうぞこちらへ』てんで、そこへ座っていると、肴だの酒が出てくるから、長公を相手にちびりちびりやっていると、赤い着物を着た島田の姐《ねえ》さんがそこへ出てきたから、おやおや、こいつァ変だとおもってね……」
「な、なにを言ってるんだい、ばかばかしい。聞いて知ってるよ。紙屑屋の長さんを連れて、おまえさん、お女郎買いに行ったんだろう?」
「うん、じつはそうなんだ」
「まあ、お酒の上で行ったものはしかたがないが、なぜあくる朝帰ってこないんだい? 紙屑屋の長さんは、一人で先に帰ってきてるじゃあないかね」
「さあ、それがね、おれもその、なにしろ酔っぱらっていたし、朝ンなって目を醒まして、連れはどうしたと聞くと、『お連れさまは、先ほどお帰りになりました』って言やがらあ。長公もしみったれた野郎じゃねえか。ぐずぐずしていると、また一日商売を休まなけりゃならねえとおもって、先にずらかりゃあがったんだ。なにしろ前の日に、酒をうんと飲んでるもんだから、胸がじりじりしてしょうがねえ。あつい塩茶かなにか飲みてえような気がするんだ。敵娼《あいかた》から楊枝《ようじ》をもらって、こいつをくわえて、顔を洗おうとおもって、階段をとんとんとんと降りていこうとした。すると、下で、おれを見あげている女があるんだ。『熊さん、熊さんじゃあないか』『おめえみてえ乙《おつ》な女に熊さんなんて言われるこたあねえんだぜ、人|違《ちげ》えしちゃいけねえぜ』ったら、『なにを言ってるんだね、男てえものァほんとうにそれだから憎らしいよ。人ちがいかなにか、わちき[#「わちき」に傍点]の顔をよくごらんよッ』……おい、おッかァ、おい、おめえ仕事をしながらその横目でじろじろ見ていねえで、おれの話をこっちを向いて身にしみて聞いてくれやい。それがおめえびっくりするじゃあねえか、それ、品川にいたお松を……おうおっかァ、怒っちゃあいけねえよ。……そのお松の女《あま》っちょが、住み替えしてきやがったんだ。あれが品川にいた時分、おれが芝へ泊まりがけで仕事にいって、『友だちのつきあいだ、ひとつ行ってくれ』てんで、こっちもいやとも言えねえから、『よしきたッ』てんで、いっぺん上がったやつが病みつき、裏、馴染《なじ》みと通ってるうちに、その時分にゃあ赤い手絡《てがら》で、向こうもまだ子供ばなれがしてなかったが、豪儀とおれに馴染《なじ》んでやがって、『ちょいとあたしみたいなもんでもおまえさん、なんとかしてくれる』なんてやがってね、うん。『なんとでもしようじゃねえか』『年期《ねん》があけたらどうするの?』ってえから、『じゃあおれが引きとろうじゃあねえか』ったら、『ほんとうなの』ってから『ほんとうもうそもあるかい、親船へ乗った了見でいねえな』ったら、『どうもおまえさんは、ふわふわしていて危ないねえ』ってやんの。いつだったか遊びに行って、夜があけるとどうもひどい降りだ。『どうすんのこれから仕事に行くの?』ってえから、『冗談言っちゃあいけねえやな、こんな降りで仕事なんぞできるもんかい、直そうじゃあねえか』ったら、『まァうれしいよ、じゃあねェ、ちょいとあたしが奢《おご》るからお待ちよ』ってやがってねェ、おれの好きなたのしみ鍋[#「たのしみ鍋」に傍点]かなんか取ってくれて、差し向かいで……こう、飲んでいる……やつァおれの顔を孔《あな》のあくほどじィッと見てやがったが、下ァ向くと熱い涙ァぽろぽろッとこぼしゃあがって、『どうしたんだ? おう、酒ェ飲んでる前《めえ》で、めそめそ涙なんぞこぼしなさんな、お通夜で酒ェ飲んでるんじゃあねえ、しめっぽくなるじゃあねえか』ったら、『わちき[#「わちき」に傍点]は考えりゃあほんとうにつまらないわ』ってやがる、『なにがよ?』『おまえさんは口じゃあたいそう様子のいいことを言ってるが、お友だちから聞いたら、かわいい女房や子供があるてえ事《こつ》たから、わたしがどうのぼせたって末の遂げられるもんじゃあなし、考えりゃあほんとうにわちきゃ[#「わちきゃ」に傍点]もう世の中がいやになったわ』ってやがる、『なにを言ってやンだってんだ、ねェ、かかあや餓鬼があったってなんだってんだ、合わせものははなれもんじゃあねえか、かかあなんざァ叩き出……』(言いかけて、女房の顔を見て咳ばらい、下を向いて頸《くび》を撫ぜ)……なにを言ってやんでえってんだ、ねェ、かかあなんぞは、叩き出すわけにはいかねえってね、おらあ、そ言ったんだよ、うん。そのうちに仕事があってこっちィ帰ってくる、だんだん亀は大きくなってきやがる、『とっちゃん、お仕事《ちごと》かい、とんとんかい』なんて、まわらねえ舌でなんか言われりゃあかわいいや、女のことなんざあそれっきり忘れちまっていた、あいつは、おれの顔を見るなり、『熊さん、あれっきりってえのはひどいじゃないか。手紙をやっても返事もくれず、あたしァ、流れ流れて、この楼《うち》へ来たんだが、なにさ、さんざっぱらひとに気休めを言っときながら、いったいあのときの約束はどの口でお言いなんだよ』ってえから、『まァほかに持ちあわせもございませんし、たぶんこの口でござんしょうか』ってんでね、おれがよしゃあよかったんだよ、顔を出したら、『この口が悪いんだよォッ』って、おれの頬っぺたをきゅッと、つねって振りまわしゃァがる、そのときの痛さてえなあなかったねェ、ここが我慢のしどころだとおもうから、じィッとおらァ辛抱していた、今朝楊枝を使うときまだぴりぴりしていやがる、ここンとこ……どうかなってないかい?」
熊五郎の出た顔を、おかみさんは、ぴしッと平手打ち。
「……あ、痛え。おいでなすった、おれももうくるかなとはおもっていたがね、かねて覚悟とわしゃ知りながらてえやつだ、ねェ、おぶちおたたきどうでも……おや? なぐったやつが泣いてなぐられたほうが、しゃァしゃァして……なにが不足でお泣きゃ……」
「いいかげんにしやがれ、畜生めッ(袖で目頭を抑え)、三日も四日も女郎を買って帰《かい》ってきて、女房の前で女郎の惚気《のろけ》を言やあ、どこが働きになるんだいッ」
「なに、働きのなんのてえわけじゃあねえが、金を使った筋道がわからなきゃあ、おめえもいやだろうとおもうからこっちァ、親切に話をしてるんじゃあねえか、なんでえ、仮にも亭主を、ひっぱたきゃあがって、ひでえことをしやァがる」
「(涙声で)おまえさんにゃァあたしゃあもうつくづく愛想《あいそ》が尽きました。子供のある仲だとおもうから、いままでは辛抱してきたが、これじゃあとても末の見こみもないし、おたがいに年の一つでも若いうちに、身の振り方をつけなきゃあなりませんからねェ」
「ごもっともでござんす、じゃあどうするてんだ、え? なにを? 離縁《りえん》してくれ? ふゥん、これァ恐れ入ったねェ、かかあのほうから離縁をしてくれてえものを、お願《ねげ》え申しますてんでこっちからあやまって、鎖でつないどいたってしょうがねえや、気に入らねえもんなら出ていってもらおうじゃあねえか、なにを言ってやんでえ、こっちだって悪《わり》いとおもうから下手に出てあやまってるんでえ、のさばるない、気に入らなきゃあどんどん出ていけ、あとがつかえてらあ、裏の溝《どぶ》じゃあねえけども、かかあだのぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]なんてものァ、棒をつっこんで掻きまわしゃあいくらだって出てくらい、気に入らねえんなら出て行け」
「出ていく代わりに、仲人ンところィ行って、どういうわけで出てきたと言われたときに証拠がなくちゃあなりませんから、離縁状を、さ、一本書いてください、証拠になるように一本お書きなさい」
「なにを言ってやんでえ、変なこと言うねえ、一本書け一本書け、そば屋の出前持ちが釜|前《めえ》で鰹節《かつおぶし》をかくんじゃあねえや、見ている前で一本書けてえことがあるかい、それならばてんですぐに筆を取って書ける腕がありゃあ、親から譲られた棟梁株だ、なァ、指金《さしがね》ェ腰ィはさんで帳場ァひとまわりぐるっとまわりゃあ職人のはね[#「はね」に傍点]が取れるんだ、字が書けねえからこうやって貧乏してンだい自慢じゃあねえが」
「そんなこたあ自慢にゃあなりません、書いてください」
「書けねえや、二、三日待て、活版所へ誂えてやらあ、何百枚でもこせえてやらあ」
「そんなもんじゃ証拠にゃならない」
「いけねえッてンなら、台所《でえどころ》に五合徳利があるだろう? あいつを持ってけェ、仲人ンとこへ。これが離縁状の代わりです、どういうわけだったら、ごんご道断一しょうのわかれ[#「ごんご道断一しょうのわかれ」に傍点]でございます、このとおり逆《さか》さにしても夫《おつと》(音)もない」
「そんな口上茶番《こうじようちやばん》みたいなことは言っていかれない、きめるものをきめてください」
「じゃ、きめるものをきめてやらあ」
と、手をあげて乱暴に殴りつける、
「おいっおいっ、危《あぶ》ねえッ……おいおいッ待ちな」
と、仲人《ちゆうにん》が停《と》めに入ったが、
「なにをっこの、木魚頭《もくぎよあたま》っ」
と、これもぽかぽかと殴りつける。
「痛いね、どうも……丸髷《まるまげ》と禿げ頭の見分けもつかねえか、おお痛えッ」
「旦那、いま旦那ンところへ行こうとおもったんです」
「聞いた聞いた、聞いてたよ……おい、熊、冗談じゃないぜ、どんなおとなしいかみさんだって怒るのァ無理ないや、ええ? 三日も四日も女郎買いに行って、かみさんの前で女郎の惚気《のろけ》を言うてえなあどうも呆れたもんだ。まァそう言っちゃあ失礼だが、おまえさんには過ぎたもんだよ……こんなよくできたおかみさんてえなぁないよ、おまえが帰らなくったって、ひと晩でも寝ちゃあいないよ、夜っぴて仕事をして待っている、じつにまァあんなに身体《からだ》がつづくもんだとおもう。路地が閉まっちまう、とんとんと叩《たた》くものがあると、『熊さんかい』てんで、すぐにおかみさんが出て行く、とんとんまでは叩かせない、『とん』てえと『熊さんかい』『とん熊さんかい』てえくれえのもんだ。昨夜《ゆうべ》もあたしゃあ用足しに行って遅くなって帰ってきた、困ったなとおもって路地を、とんとんと叩くと、『熊さんかい』てえから、『いいえわたしです』てえと、『おや旦那ですか、いま開《あ》けますから』てんで、おかみさんが開けてくだすった。『ありがとう存じます』てんで、礼を言って家ィ帰った。今度はいくら叩いても、うちのばばあが起きねえ、しょうがねえから裏へまわって、戸をはずして中へ入って寝ちまったが、まだ知らねんだ、今朝ンなってからわたしの顔を見て、言い草が気に入らねえ、『おやおやいやなおじいさんだね、戸締まりは厳重にしておいたが、どっから入《へえ》ってきたんだい? おまえさん、節穴からかい?』と、こう言やァがる、亭主を油虫と間違《まちげ》えてやがる、ええ? それもいいが、『こねえだ、半纏《はんてん》がなくなったのは、おまえさんの仕業じゃないかい』だって言やがる。呆れ返《けえ》ってものが言えねえ。ま、そんなかかあを持ったところでしょうがない、まァおまえさんにはほんとにすぎたおかみさんだ、まァ今日のところァ熊さん、できが悪いや、ええ? 重々でき[#「でき」に傍点]が悪いよ」
「どうせでき[#「でき」に傍点]が悪いよ、なにを言ってやンでえ、お供餅《そねえ》じゃあねえから、でき[#「でき」に傍点]が悪いったってどうなるもんじゃあねえんだ、第一《でえいち》、なにかい、なにしに来たんだ? おめえ」
「なにしに来たって、夫婦喧嘩ァしているから、あたしァ仲裁に来たんだ」
「大きなお世話でえ、こっちゃこっちで勝手に蹴合ってるんでえ」
「軍鶏《しやも》だ、まるで……仮にも仲人《ちゆうにん》は時の氏神ていうぞ」
「氏神もねえもんだい、渋ッ紙でこしれえた蛇《じや》みてえな面《つら》ァしてやがって、まごまごしやァがると顎《あご》の先を引っ裂《つア》いて、洟《はな》ァかんじまうぜ」
「なんだい、こりゃおどろいたねェ」
「なにがおどろいたんでえ、仲人なんてえものァなァ、おゥ、かかあをむやみに持ちゃげて、亭主をへこましゃあそれでいいってのかい、なにを言ってやんでえべらぼうめェ、いやにかかあの肩ばかりもちゃあがって、どうもこねえだっから、かかあに変な目つきばかりしやがっておかしいとおもった」
「なんだい、こりゃどうも呆れたねェ」
「なにを呆れてやんでえ、こっちが呆れてらい、しみッたれ野郎」
「なにがしみったれだ」
「しみったれだから、しみったれだてんだ、てめえにゃあ今日このごろ癪にさわるんじゃァねんだ、おとどしの秋の彼岸から癪にさわってんだ」
「たいそう古いなァ」
「あたりめえでえ、おれンとこで精進揚げを二十一こしれえてやったら、小さな牡丹餅《ぼたもち》を七つ持ってきやがったろう。第一《でえいち》酒飲みのところへ牡丹餅なんぞ持ってきやがって、こん畜生め」
「こりゃ呆れてものが言えねえ、これじゃァまァ口がきけない。……いいえ心配しなくってもいいよ、あたしァ帰るから。……おゥ、亀坊か、いいとこへ帰《けえ》ってきた、親父ァまたあいかわらず酔っぱらって帰《けえ》ってきて、おふくろを困らしてらあ」
「しょうがねえなァ、酔っぱらって帰ってきちゃおっかァ困らしてんだから、ばか親父ッ」
「なんだこん畜生め、帰ってきて、なぜただいま帰《けえ》りましたと挨拶をしねえんだ、ふざけやがって、まごまごしやがると……踏み殺すぞッ」
「へへ……尻をまくるんなら、もう少し褌を堅く締めてくれ」
「いやな餓鬼だね、こん畜生どうも……てめえの育て方が悪いから餓鬼が高慢になってしょうがねえや」
「……すみません(袖で目を抑え、むせびながら)、男の子は男につくのが法だというが、あたしも置いていくと気になりますから、この子はあたしが連れていきたいとおもいますが、それともおまえさん……どうしても置いていけてンなら、しかたがないが……亀坊おまえ、ここへお座り、おまえおっかさんがいなくなってもおとっつぁんのそばにいるかい?」
「いやだい、だれがこんな親父のそばにいるもんか」
「なにを言ってやんでえこん畜生め、こんなものァ置いていかれちゃあ迷惑だ、悪魔っぱらいだ、どんどん連れてってくれ」
「なにを言ってやんでえ、ざまァねえやッ」
「そんな憎まれ口をきくじゃあない……じゃァおとっつぁんにご挨拶をおし、ながながご厄介になりましたと」
「おとっつぁん、あやまっちまいなよォ、おとっつぁんが悪いんだからあやまっちゃえってんじゃないかよォ、お酒飲んでおっかァをいじめるから怒っちゃうんだよ、おいらだのおっかァがいなくなると、お酒買いに行くもなあなくなっちゃうぜ、あやまンなよ、いまのうちにあやまれば、ともに口を添えらあ」
「生意気を言うな、とっとと出てけッ」
「さあ、ながながご厄介になりましたとお礼をお言い」
「しょうがねえなあ……いま言うよ、ながなが……ながなが亭主にわずらわれ」
「なにを言やンでえ、こン畜生め」
 おかみさんは、子供の手をひいて、小さな風呂敷包みを持って、仲人《なこうど》のところへ行く。
「なァに、酔っぱらって帰《けえ》ってきやがって、体裁が悪いからそんなことを言ってるんだ、まァまァいい、二、三|日《ち》泊まって、おどかしてやんな、向こうから迎えに来るから」
仲人は、たか[#「たか」に傍点]をくくっていたが、迎えが来ないで離縁状が届いた。しかたがないから、おかみさんは他人《ひと》の家を間借りをして、賃仕事をして子供を育てることになった。
 熊五郎のほうは、その晩から吉原へ通いづめで……年期《ねん》あけをやっとのことで家へひっぱってきたが、先のおかみさんとは大ちがい。
手にとるなやはり野に置け蓮華草《れんげそう》……
裲襠《しかけ》を着ていりゃあ乙《おつ》な女だが、連れこんで襷《たすき》をかけさせてみればさまにならない。亭主といっしょに大酒を飲む、長屋の鉄棒《かなぼう》をひく、朝寝をして昼寝をして宵寝をする……というわけで、手がつけられない。
「おい、起きてめしを炊いてくれなくっちゃあ困るじゃあねえか、おい、起きねえよ」
「いやだよゥ」
「いやだって、仕事に行くんだぜ」
「おまんまァあたしゃ炊けないんだもん……」
「弱ったなあ」
「おまんまが炊けるくらいなら、おまはんところは来やしないよ。吉っちゃんとこへ行きたかったんだけれども、おまえがおまんまなんぞいいから来い、てえから来たんじゃないの」
「そんなおまえ、言いがかりみてえなことを」
「言いがかりはそっちだよ、ねェ、炊けないものを無理に炊けだなんて……ねェ、おまんま炊くのはおまはんのほうがうまいんじゃないかね、上手だよ、炊いとくれよォ……上手だけれど、昨日は少しご飯が固かったよ、胃に障《さわ》るから今日もうちっと柔らかめに炊いとくれ」
「ふゥん……」
「いやだよゥ、溜息なんぞついて、貧乏くさい」
「あァあ……とんでもねえことをした、いやだいやだ」
「あら、なんだい、気に入らないっての? いやだってのかい? ふん、おまえがいやならわちき[#「わちき」に傍点]もいやだ、おたがいにいやじゃしょうがない……あァあやだやだ」
背中を向けて布団をかぶってしまう。これじゃあしょうがない、追い出そうとおもってるうちに、もとより踏台で来た女、向こうで出て行ってしまった。
熊五郎は、これでようやく目が醒め、酒を断って、真面目な人間に改心する……。
 そして、三年後……。
「あのお隣のおばあさん、すみませんがねェ、番頭《ばんつ》さんの供で、これから木場まで行かなくちゃあならねんですが、どうか留守を頼み申します。それから、あとで水屋が来たら、この水がめへ一荷《いつか》入れといてもらっておくんなさい。お銭《あし》は、かめの蓋の上に乗ってますから、へえ。いえ、たいして遅くァなりませんから、どうもすいませんで……番頭さん、お待ち遠さま、まいりましょう」
「たいへんだねェ、棟梁、出て行くのにいちいち隣へ頼まなくちゃあならないのァ」
「へえ、どうもねェ、ひとりじゃあしょうがござんせんで、ちょいと近所へ出かければって、向かいだとか、隣だとかへ留守を頼まなきゃあなりません。まァそんなことはどうでも、洗濯ものだ、なんだかんだとあって、男世帯てえやつは、どうもうまくいかねえもんで、女やもめに花が咲き、男やもめに蛆《うじ》が湧くってたとえがありますが、どうも意気地がござんせんよ」
「しかたがないよ、おまえさんもいいことをした酬《むく》いだ、まァそう言っちゃあなんだが、あの二度目のおかみさんてえなあ、よほどひどかったらしいなァ」
「へえ、どうしてあんなばかな女に迷ったかとおもうようですが、どうもしょうがありませんで、なにしろ朝寝をして昼寝をして宵寝をしやがんですから」
「じゃ一日寝てるんじゃないか」
「へへえ、百《ひやく》(安価)で馬ァ買ったようなもんで、酒ェくらっちゃあ鼻唄ばかり唄ってやン。こっちも忌々《いまいま》しいから、叩《たた》き出そうとおもったら、なァに、向こうがさっさとおン出てくれましたから、こいつァいけねえとおもったんで、好きな酒も断ちまして、一所懸命稼ぐようになりましたんで」
「結構なことだ。真面目にさえ仕事をしてくれりゃあ、腕はいいんだ、店《たな》の評判もよし、わたしもよろこんでいるんだが……先《せん》のおかみさんはどうしたんだね?」
「……へえ」
「いいおかみさんだったじゃあないか、器量も悪かあなし、仕事もできるんだろう」
「へえ、なんてんですかまァ、貧乏なれがしているとでもいいますか、世帯の繰《く》りまわしのうめえ女でした」
「棟梁、たまには、おかみさんのことをおもい出すこともあるかい?」
「そりゃあ、かかあのことなんぞおもい出しゃしませんが、おもい出すのは餓鬼のことでございます」
「そうだ、男の子があったねェ、エエッと、亀ちゃんてんじゃあないかい? うん、憶《おぼ》えてる、かわいい子だったねェ、いくつだ?」
「あれから三年ですから、十……一、でござんす」
「かわいいさかりだねェ、どこにいるんだい?」
「さァ……どこにいるものか、野郎の音沙汰ァまるっきり知りませんが、やっぱりどうも、表へ出て、おんなし年ごろの子供を見ると、うちのやっこ[#「やっこ」に傍点]じゃねえかとおもって……こねえだも、菓子屋の前を通りますとね、饅頭を蒸《ふ》かしてる、蒸籠《せいろ》の蓋を取るとぽォッと湯気《けぶ》が出てるんで、あァうまそうだなァ、野郎が饅頭が好きだったが、買って食わしてやったらどんな面《つら》ァするだろうと……おもわずあっしゃ饅頭を見て涙をこぼしましてねェ。菓子屋の小僧が不思議そうにあっしの顔を見ていたが、『あのおじさんは饅頭を見て泣いてるが、清正公さまの申し子じゃあねえか』なんて……へへへへ、親てえものァばかなもんでござんすよ」
「いや、そりゃばかなことじゃあない、ほんとうの情《じよう》というもんだ、向こうが亭主を持ってしまっていりゃあしかたがないが、もしそうでなかったら(と、言いかけて、遠くの一点に目を据えて、しばらく見つめて)……おい、棟梁」
「へ?」
「噂をすれば影というが、おかしなことがあるもんだね、ほら、向こうから子供が三人駆け出してきたろ? ほらほら……いま、しゃがんでなにかしている、絣《かすり》の着物を着ているあの子だよ、あれ……ねェ、亀坊じゃないかい?」
「え?……あっ、あァあ……」
「そうだろう?」
「ええ……そうそうそ、そうです、亀の野郎で、へへへへへ、動《いご》いてやがる」
「動くよ、そりゃあ、あたりまえだよ。へえェ、縁だねェ、噂をしていて、こんなにひょっこりここで逢うというのはさ、縁だよ」
「へえ……」
「棟梁、ひと言言葉をかけておやりよ。あたしはね、ひと足先へ行っているから……」
「へえ、さようでござんすか。じゃあ番頭《ばんつ》さん、すいませんが、ひと足お先へ願います……おうおう、亀、亀、きょろきょろしてやンな、どこを見てンだ、おう、こっちだよッ」
「……やァ、だれだとおもったら、おめえ、おとっつぁんだな」
「こっちィ来いよ、なにをはにかんでるんだい、久しく見ねえうちに大きくなったなァ」
「おとっつぁんもたいへん大きくなった」
「大きくなりゃあしねえやな、おゥ、色が黒くなって丈夫丈夫しやがったなァ、おっかさんは達者か? そうか……おとっつぁんはかわいがってくれるか?」
「おとっつぁんて?……おめえがおとっつぁんじゃあねえか」
「おれは先《せん》のおとっつぁんだ、こんだあとからできたおとっつぁんがあるだろう?」
「そんなわからねえやつがあるもんか、いくら世の中がひらけたって、子供が先ィできて親があとからできるなんて……子供が先ィできるのァ八頭《やつがしら》ばかりだ」
「生意気なことを言うな……じゃあおっかさんとふたァりか?」
「うん」
「そうじゃあねえだろう、おまえはまだ子供でわからねえが、寝ちまって遅くなって泊まりに来るおじさんがあるだろう?」
「そんなものァありゃしないよ、あたいンとこはねェ、畳がふたっつしかないんだよ、で、荷物があって、あたいとおっかさんと寝ればいっぱいなんだもの、あたいが寝相《ねぞう》が悪いから、ときどき流しィ転がり落っこちる」
「危ねえ家《うち》にいるんだなァ、なにをしてるんだ」
「おっかさんがねェ、着物を縫ったりなんかして……」
「そうか、おっかァは針が達者だった……学校はどうしてる?」
「行ってるよ」
「おっかさんが苦労して学校へ通わしてくれるんだ、怠けるんじゃねえぞ」
「大丈夫だよ、怠けやしないよ、あの、おっかさんがそう言ってるもの、『おとっつぁんはお仕事はお上手《じようず》だけど、あの人は惜しいかな明き盲で出世ができないんだから、おまえは一所懸命勉強しなよ』って、よくそう言ってるよ。……おとっつぁんは明き盲なんだってね。あたいがここにいたの、よくわかったね」
「なにを言ってやン……おとっつぁんみてえな明き盲じゃあいけねえ、なァ、これからはなんでもお勉強ができなくちゃあいけねえから、一所懸命やってくれ……で、なにか、おっかさんは……たまにゃァおとっつぁんの話を、するか?」
「よくそ言ってるよ」
「なんだって?」
「あのゥ、いまのうちに相談相手になるものを持ったらどうだって、ずいぶん勧めてくれる方はあるけれども、おまえがかわいそうだからおっかさんはもう生涯ひとりで暮らすんだって、亭主は先《せん》の飲んだくれ[#「飲んだくれ」に傍点]でこりごりしたって」
「ひでえことを言やあがる、無理ァねえやなァ、あの時分にゃ酒ばかり飲んじゃあおっかァに苦労かけたから、いまでも、恨んでるだろう」
「ううん、恨んでなんかいないよ」
「だって、おとっつぁんのこと、よくは言ってねえだろう?」
「そんなことないよ、あの、雨が降って遊《あす》びに行けないでねェ、お仕事のないときだと、家にいるとおっかさんがいろんなお話してくれるよ、おっかさんが昔はお屋敷ィご奉公していたんだってねェ、で、そこィおとっつぁんがお出入りの大工さんで、仕事に来たんだって、で、その時分に半襟だの前掛なんぞよく買ってくれたことがあるって、親切な人だとおもっていたら、番頭さんからお話があって、姑小姑《しゆうとこじゆうと》もないし、一緒になったらどうだって勧められたから、ご夫婦になったんだって、おとっつぁんはいい人なんだけど、お酒がいけないんだって……お酒を飲んで魔がさしたから、こんなことになったんだけれども、ほんとうはおとっつぁんはいい人だって……いつでもいい人だいい人だってそ言っているよ、へへ、おっかさんだいぶおとっつぁんに未練があらあ」
「生意気なことを言うな、おとっつぁんもいまじゃあ酒は断《た》っちまったし、変な女なんざあ、とっくの昔に追い出して、ひとりでいま稼いでるんだ」
「じゃ、おとっつぁんひとりでいるの?」
「うん」
「じゃ寂しいだろ?」
「……寂しいったって……ふふふふ、寂しくたってしょうがねえやな」
「あたいン家《ち》ねェ、すぐそこなんだから寄っといでよ……荒物屋とねェ、豆腐屋の路地入ったとこなんだから、すぐそこだよ、寄っといでよ」
「ばかなことを言うな、おっかァに逢えねえいろいろわけがあるんだ、おめえは子供でわからねえ、そのうち逢える時機がきたら逢うから、まァま、それまでなにしてな、無理なことを言うな、さァさ、じゃ、おめえに小遣《こづけ》えをやるから手を出しな……さ、おい、手を出せよ」
「やァ……こんなに? あたいお釣銭《つり》ないよ」
「お釣銭《つり》なんざあいらねえやな、おめえにお小遣いにやるんだからみんな取っとけってんだよ」
「みんなくれンの? ほんとうに? えらいなァ、先《せん》にはお銭《あし》おくれってえと、この野郎なんてすぐ怒ったんだけども、へへ……年齢《とし》はとりてえもんだ」
「生意気なことを言うな、落っことすなよ、え? しっかりしまっとけ、むだなものを買うんじゃねえ」
「むだなものなんぞ買わないよ、鉛筆が欲しいから買ってくれったって、おっかさんなかなか、いいって買ってくれねえんだもの、買ってもいいかい?」
「ああいいとも、学校のもんならおとっつぁんまたいつでも買ってやるから……おい、どうしたんだ額《ひたい》のところ、さっきから、おらあ墨がついてンだとおもったら、傷があンじゃねえか……男の子の向こう傷なんてよくねえ、え? どうしたんだ、転んだのか」
「これかい?……これ、転んだんじゃあないんだよ、斎藤さんとこの坊っちゃんと独楽《こま》ァまわして遊《あす》んでたんだ、あたいの独楽ァ利いたんだけど、坊っちゃんがそのとき利かねえってから、いまの利きましたって、そ言ったら、利かねんだいって、そ言って、独楽でここンとこをぶったんだよ。痛いから家ィ泣いて帰ったら、おっかさんそンときァずいぶん怒ったよ、いくら男親のない子だって、こんな傷までつけられて黙っていたら、しまいにはなにをするかわかったもんじゃない、この後《ご》もある事《こつ》たし、おっかさんがよくかけあってやるから、どの子がしたんだか言えってえからねェ、斎藤さんの坊っちゃんにぶたれたんだって、そ言ったんだ、そうしたら痛いだろうが我慢しろって……あすこの奥さんには、しじゅう仕事をいただくし、坊っちゃんの古いものを頂戴をしておまえに着せたりなんかァしてンのに、子供の喧嘩ぐらいなことで気まずくなって、おまえもあたしも路頭に迷うようなことがあるといけないから、痛いだろうが我慢しろって……(目をこすり)そンときおっかさんがそ言ったよ、こんなときにあんな飲んだくれ[#「飲んだくれ」に傍点]でもいたら、少しは案山子《かかし》になるって、そ言ってた」
「そうか……すまねえ、おとっつぁんがばかァしたために、おめえにまで苦労をかけて申しわけがねえ、そのうちにきっと人をもって、おめえやおっかァを迎えにやって、楽をさせるから、え? (目をこすり)少しのあいだ我慢をしろ、え? へへへへ……泣くな泣くな、みっともねえ、え? 男がめそめそ泣くやつがあるけえ、泣くねえ……」
「……おとっつぁんだって泣いてるじゃあねえか」
「おとっつぁん泣きゃあしねえやな、目から汗が出るんだ、ははははは……おめえ、鰻が好きだったなァ、鰻ァ食うことァあるか?」
「ううゥん、鰻なんて、そんなものァ食えるもんか、肝《きも》だってめったに食えねえや」
「そんなことを大きな声で言うんじゃあねえ、じゃ、これから連れてってやりてえが、今日はいけねえんだ、番頭さんの供で木場へ行かなくちゃあならねえから、明日《あした》いまごろここに待ってるから、その角《かど》の鰻屋ィ連れてってやるから、来るか、いいか? そうか、じゃ、おとっつぁんな、待ってるから忘れねえで来なよ」
「うん」
「どうしたんだ……うんうん、じゃ、おっかァが心配《しんぺえ》してるから早く帰《けえ》ンな帰《けえ》ンな……あァあァ、おいおい……明日鰻を食いに行くことだの、小遣いをもらったことをおっかさんに言うんじゃねえ、いいか」
「どうしていけないの?」
「どうして……ってこたあねえが、おとっつぁんと言わねえで、よその知らねえおじさんにもらったと言うんだ、おとっつぁんと言っちゃあならねえ、いいか、言うなよ、わかったな、じゃ、早く帰ンな帰ンな……おいおいおい……用じゃあねえ、駆け出すなてんだよ、ちゃんと歩いてけよ、危ねえじゃねえか。なにを……ああ、いいよいいよ……わかったわかった、そこを曲がって、よしよし、わかった(遠く見送って)……へッへッへッへ、大きくなりゃあがったなァ……」
「おっかさん、ただいま」
「ただいまじゃないよ、早く帰ってくれなきゃしょうがないじゃあないか、仕事はつかえているし、お手伝いをしておくれよと頼んであるじゃあないか、ほんとうに困った子だ。さァさ、こっちィ来るんですよ、さ、糸をかけるの(と、子供の両手の手首に糸をかける)、ちゃんとしてなくちゃ糸がかからないよ(と、手をぐるぐるまわして糸を巻きとる……)ほゥら、また洟《はな》を垂らしてンねこの子は……、どうして、洟をおかみなさいよ」
「おかみなさいよったって、両方の手がふさがっちゃってるんだもの、おかみなさいよったってかめやしねえや」
「先ィかめばいいじゃない」
「先ィかんだってだめなんだよ、あとからすぐ出てきちゃうんだもの……あたいの鼻ァ掘り抜きなんだ」
「なに言ってるんだね、掘り抜きの鼻てえのがあるかね」
「そんなこと言ったってしょうがねえやな、あとから出てきちゃうんだもの、へへへへ……(上唇をなめる)」
「なぜなめるんですよ、洟を、汚い……ちょいとお待ち、(巻きとる手をやめて、子供の手ににぎっているものを取り)どうしたの、このお金は?」
「それ、……いいんだよ」
「いいんだって、どうしたの?」
「もらったんだよ」
「だれに?」
「だれにだって……うゥん、もらったんだい」
「嘘をおつき……こんなにくださるわけないじゃないか、五十銭も。え? どこでだれにいただいたの?」
「そんな……名前は言うなって、そ言ったんだもの、えへへへ、言えないんだよゥ、あたいがもらったんだから返しとくれよ」
「どうしても言えないのかい? そうかい、ああいい、言わなくともいい。おっかさん、けっして怒りゃしない、じゃ、表をちょいと閉めといで、いいからお閉め……おっかさんのそばへおいで、ここへおいでなさい……なにをしてるんだ……人さまからお使いを頼まれれば、一銭や二銭はくださるだろう。だけど、おまえに五十銭銀貨をくださる人が、いったいどこの国にいる? まさか、(と涙声になって)さもしい了見を出したんじゃァあるまいね、おっかさんは三度のものを一度しか食べなくたって、おまえに不自由をさせたことがあるか、(すすりあげ)取ったものはしかたがない、おっかさんがお詫びをして、お返しをしてくるから、どこの家から持ってきた? どっから盗んだ、まだ言わないか、よし、強情張ってろ……ここに金槌がある、おとっつぁんと別れたときにおまえが風呂敷ン中へこれを包んできたんだ、これでぶつのはおとっつぁんが仕置をするのもおんなしだ、言わないとこの金槌で(と、振りあげ)、頭を叩き割るから」
「うわーッ……あ…ァん、……盗んだんじゃあねえ、もらったんだ、盗んだんじゃあねえ、もらったんだァ(と、泣き出す)」
「どこでもらったの?」
「……わァーん……もらったんだァ……おとっつぁんにもらったんだァ」
「おとっつぁんに? 逢ったのかい?」
「なんだい、おとっつぁんたら前へはい出してきやがった」
「なにを言うんだい……ばかな子だよ、それならそうと言えばいいじゃないか。で、おとっつぁん、お酒に酔って、また汚い身装《なり》でもしていたかい?」
「ううん……きれいな半纏《はんてん》着て、あたいにお小遣いくれたろう、見ちゃったんだ、お金たくさん持ってたよ。お酒も断って、変な女なんぞはもう追い出しちゃって、一所懸命稼いでるんだって、おまえにも苦労かけてすまないって、おとっつぁん、泣いてたよ」
「おとっつぁんがお酒を断って、(しみじみと)ほんとうにねェ、あの人がお酒さいよしてくれりゃあ申しぶんがないんだけども……で、なにかい? あたしの……おっかさんのこと、おとっつぁんなにか聞いてたかい?」
「なんだい(と、鼻をこすり)両方でおんなしようなことを言ってやがる、へへ……いやンなっちまうなァ」
「なにを言うの、いやな子だよ」
「明日ね、鰻を食べに連れてってやるって、ねえ、行ってもいいかい?」
「ああいいとも、行っておいで」
 翌日、女親は子供に小ざっぱりした身装《なり》をさして出す。自分も気になるから、鏡の前で鼻の頭をちょいと、ふたッつみッつぽんぽんとたたいて、半纏《はんてん》を上に着《か》け……きまりが悪いから鰻屋の前を四、五|度《たび》行ったり来たり……。
「ちょっとうかがいますが、わたしどものわるさ[#「わるさ」に傍点]がこちらィご厄介になっておりますか?」
「え? へえへえ、坊っちゃん、どちらかの親方とお見えになってますよ。お呼びしますか?」
「いいえ、呼ばなくてもよろしいんですが(と、階段の上をのぞきこむように)あのゥ、亀や、亀や」
「……やァ……おとっつぁん、おっかさんが来たよ、……おっかさん、いいから上がっといでよこっちィ」
「しょうがないねェ、おまえ、まァ、見ず知らずの方とごいっしょに」
「あんなこと言って、知ってるくせに……上がっといでよ、おっかさん、いいから……おとっつぁん、きまり悪がってるからよゥ、おっかさん呼んでやんなよ。……おっかさん、上がっといでってばよゥ。……おとっつぁん、呼んでやんなってばよゥ。……おっかさん、……おとっつぁん、……しょうがねえなァどうも、こう仲人に世話ァ焼かされちゃあやりきれねえ」
「なにを言ってやがる」
「まァ……きのうお小遣いをいただいて今日鰻をごちそうになるというから、どこの方と言って聞いても、ただ知らないよそのおじさんだと言うので、お礼のひと言も申し上げなきゃあならないとおもってうかがったんですが、おまえさんでしたの」
「え? えへん……ェェ、きのうじつァ、亀に逢ってね、で、鰻を食いてえってえから、じゃァまァ鰻でも食おうじゃあねえかってんで、へへへへへ、黙っていろって、そ言ってあるのになァどうも、しゃべっちまやがって、へへへ、子供はどうも無邪気だからしょうがねえや……きのう亀にひょっくり逢って……鰻が食いてえってえから、じゃ、まァ、久しぶりで鰻を食おうじゃねえかって、どうも…うッふふふ、子供は正直だからしょうがねえやどうも、へへへへ……じつはきのう亀に逢って……」
「おとっつぁん、おんなしことばかり言ってンだなァ」
「こいつをこれまで大きくしてくれたてえのァ、おれから改めておめえに礼を言わなくちゃならねえ、女手一つで育てていこうてえにゃあなかなか容易なこっちゃあねえ、ま、いまさらそんなことをおれの口から言えた義理じゃあねえが、なにごともこいつのためだとおもって水に流して、より[#「より」に傍点]を戻してもらうわけにゃあいかねえか」
「(袖を目にあて、すすりあげ)うれしいじゃあないかね、そうしてもらえばあたしはともかくも、この子が行く先どんなにしあわせになるかもしれない、三年ぶりにおまえさんに逢って、もとのようになれるのも、畢竟《ひつきよう》この子があればこそ、子供は夫婦の鎹《かすがい》ですねェ」
「やァ、あたいが鎹だって? あァ、道理できのう金槌で頭をぶつと言った」
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