二番煎《にばんせん》じ
江戸の町内には、町境の木戸脇に番小屋(自身番小屋)という小屋があって、腰|障子《しようじ》に大きく「火の番」と書いてある。火事は江戸の華《はな》……の譬《たとえ》どおり、とくに冬から春先へかけての出火は
夥《はなはだ》しかった。そのため、各町ともこの番小屋に火の廻り……番太郎を雇い入れて、一刻《いつとき》(約二時間)ごとに町内を見廻って歩いた。
ところが、この番太郎というのが、たいていだらしがなくって、見廻りの途中、縄暖簾《なわのれん》へ入って一杯飲んで、ひと廻り廻ったり、番小屋で酔いつぶれて、そのまま寝てしまったり、ときどき廻らないことがある。これでは困るので、ひところ町内の旦那衆が、軒別に順番に出て、火の廻りを勤めることになった。それを廻っているかいないかを調べて歩く役人が、また見廻りにくる……。
「どうもご苦労さまでございます。近江屋さん」
「これはこれは、こんばんは、みなさん、お寒いところをどうもお早うございますな……これは伊勢屋さん、……おやおや相模屋さん、ご苦労さま」
「へえ、まあ、お互いにご苦労さまで……おや、黒川の旦那……ご苦労さま」
「いやいやどうも……おそくなりましてあいすみません。じつはな、いま、出ようとするところへ、弟子が二、三人まいりまして、ついおそくなりました」
「いや、そんなことはどうでもようございます……あッ、宗助さん、ご苦労さま……」
「どうも旦那|方《がた》がお早いのに、わたくしがおそくなっちゃあ申しわけがござんせん。一所懸命|用達《ようたし》に駆け歩いたんでございますがね、あいすみません」
「おや、辰っつぁん、ご苦労さん」
「へい……どうも、おそくなりまして」
「いやいや、よろしい……いやいや、尾張屋さんに相模屋さん、ご苦労さま……これで人数が揃いましたな」
「じゃあ、ひと焙《あた》り焙《あた》ったら、そろそろ出かけましょうか」
「出かけようだが、わたしが差しでがましゅうございますが、月番なので……どうでしょう、これだけの人数で廻るというのは? 二手に分かれて、半分が廻っているあいだ片方の半分はここで暖まっていて、それが帰ってきたら、こんど暖まっていたほうが出て行くと、こういうふうにしたら、お互いに楽じゃあないか、とおもうんですが、どうですな」
「なるほど、それは結構なお考えでございますなあ。……ええー、そういうことに願えば、こんなありがたいことはございません」
「じゃ、そういうことにして、わたくしが先へ廻って来ますから……じゃ宗助さん、おまえさんすまないが提灯《ちようちん》を持って先へ立っておくれ、それから近江屋さんは、恐れ入りますが、ひとつ鳴子のほうへおまわりなすって。黒川の旦那は、拍子木《ひようしぎ》をお願いします。辰っつぁんは、そこに鉄棒《かなぼう》があるから、その鉄棒を一つ持っとくれ。……それじゃひとつ、わたしどもが廻ってきますから、あとをお頼み申します」
「へえ、どうぞ……ごゆっくり……」
「ごゆっくりはないでしょう……じゃ、そろそろ出かけましょう」
「どうも、ご苦労さま……」
「やあ、お寒いこってすなあ……表へ出ると身の切られるようですなあ」
「いや……どうも。今晩はねえ……なんという冷え方をするんですかねえ……考えてみりゃあ、ばかな話ですなあ、ええ? お互いさまに小僧の時分から皸《ひび》あかぎれ切らして、ようよう一軒の主人《あるじ》になったとおもやァ……また、この火の廻り……奉公人は布団の中で暖まって寝ているてんだが、こんなばかな話はありませんなあ」
「そうそう愚痴《ぐち》をこぼさないで、これも町内安全のため、つまりお互いのためなんだから……宗助さん、提灯はどうした? 暗くって歩けねえじゃねえか、もっと足もとを照らしてくんなきゃあ困るよ」
「いやあ、あんまり寒いんで、上《うわ》っ張りのなかに抱えて歩いてるんで……」
「そんな危ないことをしちゃあいけない。やっぱり手に持って先頭を歩いてくださいよ。……それから、そろそろ黒川の旦那ァ、拍子木をお願いしますよ」
コツリ、コツリ……。
「いやな音ですね。もっと威勢よく叩《たた》けませんか」
「それが、拍子木を持って外へ手を出したんじゃ、寒うございますから、拍子木を両方の袂《たもと》へ入れて、着物の上から……コツリ、コツリ……」
「そんな不精なことしちゃあ……しょうがないなあ……ええー、それからねえ、近江屋の旦那、鳴子がちっとも鳴りませんな、どうしました?」
「はいはい、ただいま鳴らしますよ」
バタリ、バサリ、バタリ、バサバサ……。
「……カラカラ鳴りませんな」
「へえ、……なにしろ寒ゥがすからな、鳴子を前掛けの紐《ひも》へひっかけて、歩くたびに膝《ひざ》で蹴りますと、バタリ、バサバサ……これでご勘弁を……」
「なんだな、どうも、しょうがないな……おーい、辰っつぁん、鉄棒《かなぼう》はどうした?」
「突《や》ってます……突《や》りますよ」
ズルズル、カッチャン、ピシャン……。
「おいおい、なんという鉄棒《かなぼう》の引きようだ」
「そんな叱言《こごと》を言わなくってもいいじゃないか。文句ばかり並べて……鉄棒が凍っていて、手に持つと冷《つめ》てえから、紐を腕に通して、ひきずって歩くんで……ズルズル、というのはひきずる音。カッチャン、というのは石に当たった音。ピシャン、というのは水|溜《たま》りへ入った音……」
「なんだな、チャンチャンと力を入れて突かなくちゃあいけねえ、なんだそれは。だいいち、黙って歩いてないで『火の用心』とか『火の廻り』とか言って歩かなくちゃあいけねえ。……宗助さん、おまえさん、ひと声お願いしますよ」
「ようがす。ええー、火の……用心ッ、火の……廻りッ」
「なんだな、威勢がよくないね。声を切らしちゃあいけない。じゃあ、黒川の旦那、すいませんが、ひとつ、あァた、お願いします」
「かしこまりました、えッへーん」
「たいそう気取りましたね」
「(謡の調子で)※[#歌記号、unicode303d]火のォォォ用ゥゥじィ…ン、ナァサーリィーマァセェーイ……」
「ああ、いやだなあ……冗談じゃないよ、あァた、いくら謡の先生だって、困りますよ。じゃあね、近江屋さん、あなた、ひとつ代わって願います」
「どうもこの寒さじゃあいい声は出ませんよ」
「なんでもかまわない、威勢よくやっておくんなさい」
「へい、よろしゅうございます。※[#歌記号、unicode303d]ちちちィちん…(口三味線)……よォォッ……ちちちんちん(新内節で)※[#歌記号、unicode303d]火のォよゥゥ…じィィん……火のォ…まわァァ…りィ……火のゥ元にィィ気ィ…つけェ…てェえェェくだァさいィィ…よゥ…ちちんち…もしィ火事ィィ…にでェ……もォォなったァなァ…ァらァ…自分ン…ひとりィのォォ…難儀じャァ…ァなァァいィ…町ゥ内ァい…一同…おォォゥォ…ェェ…難儀じゃァえ、…ちちんち……」
「あれッ、弱ったなあ。これは、恐れ入りましたねえ、どうもしようがねえね。……じゃあ、辰っつぁん、ひとつ頼むよ」
「へいッ。よろしゅうござんす。……旦那|方《がた》は、素人ですからね……どうも……うまくいかないのがあたりまえで……この火の廻りなんてえものは他目《よそめ》で見ると楽なようだが、さてやってみるとなかなかむずかしいもんで、まあ……あたしなんざあ、これで若い時分にずいぶん道楽をしましてね、勘当されて、吉原へ行って、少しのあいだ火の廻りをしたことがありますが……どうも、火の廻りの身装《なり》のこしらいがいいねえ、え? 刺子《さしつこ》の長半纏《ながばんてん》でねえ、豆絞りの手拭《てぬぐい》を首に巻いて、こう右の手に鉄棒《かなぼう》を持って左の手に提灯を持ってひと廻り……廻ってごらんなさい……ねえ、助六じゃあねえが、あっちからもこっちからも煙管《きせる》の雨が降るようで……」
「まあ、いいよ。そんなこたあ。能書きァどうでもいいんだ、やってくれ」
「へい、よろしゅうがす……火のォォようゥゥじィん…さァッしゃ…りャ…しょォゥいッ!」
「なるほど……能書き言うだけあって、うまいねえ……やってくれ」
「火のォォようゥゥじィん、さァッしゃ…ァりゃ……しょォゥいッ!……二階を…ゥ…廻らっさァァりやしょゥい……『おい、火の廻りかい?……ねえ寒いから……こっちィ入って、一服|吸《や》っといでよ』『え?……うん、おめえかァ……おい冗談じゃあねえ。住《す》み替《か》えしたのか?……ふざけちゃいけねえなあ……住み替えしたらしたで、いいからよゥ、手紙の一本もよこすがいいじゃあねえか……ふん、薄情なことをするなよッ』……(投げ節の調子で)※[#歌記号、unicode303d]今朝《けさ》の寒さァにィィいィィい……ェェ…帰ェさりょォかァ…ィ……番廻ろう、廻ろう」
こんな具合いにひと廻り……廻って、番小屋へ帰ってきた。
「ただいま」
「や、どうもご苦労さまでございました。さぞお寒かったでございましょう」
「寒いの寒くないのって、鼻もひしげてしまいそうで」
「さようでございましょう。こんどはわたしどもがひと廻り廻って来ますから、ごゆっくりお休みください。あとをお頼み申します」
「では、どうぞ、ご苦労さまでございます。……さあさあさあさあ、みんなこっちへ寄って、どうも寒かったねえ……宗助さん、気の毒だが、そこに炭があるから、どんどん入れてくださいよ……なにしろねえ、この火が、なによりのごちそうですからねえ……まあまあ、もっとこっちへ、いらっしゃい、みなさん、ここへ」
「ええ」
「さあさあ、炭をいくら継《つ》いだってかまうことはない。みんな町内から出るんだ。手前|入費《にゆうひ》じゃあねえんだから、どんどん投《ほう》りこんで、どんどん熾《おこ》して、暖まろう。さあさ、こっちへ手を出してくださいよ」
「ときに、あのう……月番さん」
「なんです?」
「ええー、じつは、家《うち》を出るときに、娘が言うには『おとっつぁん、寒いから……年齢《とし》ィとってるんだし、火の廻りに出て風邪でもひくといけないから……』てんで、この瓢箪《ひようたん》の中へ、お酒を入れて持って来ましたんで、どうです、みなさん、一杯ずつ召しあがりませんか」
「お酒……? 近江屋さん、あんた、ここをなんと心得ているんです、え? ここは番小屋ですよ、ねえ、番小屋で酒ェ飲んだってえことが、役人に知れたら、たいへんですよ。……そうでしょう。あなたはこの中で年長《としかさ》じゃあありませんか、ほかの者がそんなことしたら、あァたが叱言《こごと》を言ってくれなくちゃあいけない。それを真っ先に立ってそういうことをなさるのは、困るじゃあありませんか、年甲斐《としがい》もなく」
「いやどうも、まことに気がつきませんで……じゃあ、こちらへ……」
「いや、なに……ひっこめることはありませんよ。ま、いいから出しなさい」
「どうします?」
「あァた、気がつきませんじゃあ、困りますよ。だいいち、酒を瓢箪に入れてくるというのが心得ちがい。……それをこっちへ出して……この土瓶のお茶をすっかり空《あ》けて、土瓶の中へこの瓢箪の中のものを入れれば……上燗《じようかん》がつきます」
「それを燗《かん》してどうします?」
「冷《ひ》やは毒だから……燗してから飲《や》りましょう」
「だって、あなたいま、番小屋で酒ェ飲んじゃいけないとおっしゃったじゃありませんか」
「へへ、酒だからいけないんで、瓢《ふくべ》から出る煎じ薬なら、さしつかえはない……じつはわたしもこうやって忍ばせてきた」
「なんだ、おどかしちゃあいけない。肝をつぶしましたよ。なるほど、煎じ薬は恐れ入りましたなあ」
「宗助さん、すまないがこの土瓶を濯《ゆす》いで持ってきておくれ……それから、茶碗があったら持ってきて、え? 一つしかない……いいよ、みんなで廻しっこすればいい…さあさ、土瓶をこれへ掛けて……こうやってね、いまじきにお燗がつきますよ……ええと、困ったな、酒ばかりあっても、どうも……なんかこう……食べる物がないと困るがなあ……」
「へへッ……ええー月番さん……そんなこったろうとおもって、じつはあたくしはね、猪《しし》の肉を持ってきました」
「猪の肉? こりゃどうもいいところに気がついたなあ……ウン……肉があったって、鍋がなきゃあ、困るな」
「ええ……鍋、背中に背負《しよ》ってきました」
「こりゃ、手廻しがいいな……それじゃ、さっそく煮てもらいましょう」
「かしこまりました」
「ああ、お燗もいいようですね……じゃ、どうです。……年長《としかさ》の近江屋さんからお先へ、ひとつ……いきやしょう」
「へえ? あたくしから? 頂戴いたしやしょう。おッとッと……あー、うまい。寒いところを帰ってきて飲む酒はまた格別ですな。火に暖まって一杯飲めば、内外《うちそと》から温《あたた》まるからたまりませんや。えっへへへ……どうも空《す》きっ腹《ぱら》に、じゅッとしみこみますな。……じゃあ月番さん、お酌ゥしましょう」
「どうも、ありがとう存じます……あー、うまい。……どうです、黒川の旦那、ひとつ、差しあげましょう」
「いやあどうも……恐れ入りまして、へえ……あッ、とッとッとッと……もったいない、もったいない……あー、うまいッ……それじゃあ、そちらへ廻しましょう」
「だんだん肉が煮えてきました。みなさんどうぞ箸《はし》をつけてくださいよ……こりゃ、うまいッ……この猪の肉てえやつは、いくら熱いものを食べても舌を火傷《やけど》しないところが不思議ですな……宗助さん、猪《しし》をひとつ食べてごらん、うまいよ」
「え?」
「食べたらどうです?」
「へえ、それがねえ?……どういうものだか、あたくしァ、この……猪の肉てえやつが……子供の時分から嫌《きら》いなんで……」
「ほう?……嫌いなら葱《ねぎ》が煮えてますから、葱のほうをおあがんなさい……」
「へ…へえ、さいですか……葱のほうならいけるんですが……わたしゃあどういうわけか……このう、猪《しし》てえやつが……こらァ…ウン……はァは……ふゥゥ、ふゥゥ……ゥゥゥーン……」
「あァた、嫌いだ嫌いだって、葱|除《の》けて、みんな猪のほう食ってますよ」
「いや、どうも……見つかりましたか」
「見つかったじゃあないよ、宗助さん。こすくっていけないな。……辰っつぁんや、こっちへ来て、どうだい、一杯飲んだら……」
「へい……もう、いただき……やしたァ……」
「おう、早いな……なんだあ? みんな飲んじゃったあァ、おおゥ、冗談じゃねえや、あきれけえったねえ……」
「ええー…どうも……いい心持ちンなっちゃった……どうです、都々逸《どどいつ》でもやりますか?」
「おいよせよ。こんなところで都々逸なんぞ唄われてたまるかい」
「いいじゃないか、ねえ……(口三味線)つつん…つん…つつ…とん……うェ…い…」
表で、
「ばん、ばんッ」
「……え?」
「なんだ畜生め、かまぼこ屋の犬だな。猪を煮ているもんだから、匂いを嗅《か》ぎつけてきやがった……」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「これッ、ここを開《あ》けろッ……番《ばん》の者はおらんか……見廻りの者である」
「えっ、たいへんだっ……おいその土瓶を片づけちゃって、鍋もうしろへ……あ、熱ッ…あつ…あつ…ああ、火傷《やけど》しちゃった……いけねえ、いけねえッ」
「これ、番の者、開けろっ」
「へえ、ただいま開けます……へえ、どうも、どうもお役目ご苦労さまでございます」
「廻っとるか?」
「へえ、ただいま……ひと廻りいたしまして、帰ってまいりました」
「それは大儀であるな……ああ、いま拙者が『番々《ばんばん》』と申したら、『しッしッ』と申したが、あれはなんだ?」
「それは……その、なんでございます……この宗助さんが……」
「おいおい、人を引きあいに出しちゃあいけねえ」
「ええー、あれは、その、ひと廻り廻りましたところ、あんまり寒っくって、まあ『火を熾《おこ》そじゃないか、火ィ火ィッ』と申しましたので、へい」
「さようか……いま拙者が入るとき、なにか土瓶のようなものを隠したが、あれはなんだ?」
「……あれは、その……なんでございます……宗助さんが……」
「また宗助さんがだって……いけないよ、他人《ひと》の名前を出しちゃあ……」
「いいんだよ、黙ってな。ええー、少し風邪をひいておりまして、この寒いのに廻って歩きまして、重くなるといけないから、煎じ薬を飲んだらよかろうというので、いま煎じ薬を飲ましておりましたところで、へい」
「ほう、さようか……煎じ薬か。や、拙者も両三日前から風邪をひいておる。役目であるから病を押してこうして廻っておるが、煎じ薬があるならさいわいだ。その煎じ薬を、拙者ももらうから、一杯飲ませろ」
「へえ」
「およしなさいよ。相手は武士《さむらい》だ。出して口ィつけてみて、え? 『これは酒じゃあないか、無礼なやつッ』とバッサリやられねえもんでもねえ。そんなことになりゃあたまったもんじゃあねェ。断わっちまいなよ」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに……ただいま宗助さんが……」
「……いけないよ。あたしゃ命が惜しいっ……」
「なに言ってんだ、大丈夫だよ……へえへえ……ただいま、差し上げますから……へえ、どうぞ」
「注《つ》げ……おッお、よしよし……これはとんだ煎じ薬だな。……寒いときはこの煎じ薬に限る」
「えッへへへ……どうも、これはどうも……これァ大丈夫、大丈夫」
「あ、これこれ、先刻何か膝《ひざ》の下へ鍋のようなものを隠したが、あれは何だ?」
「へえ、あれは……なんでございまして、この宗助さんが……」
「……あたしの名を出してはいけないってんだよ」
「あれは、その……煎じ薬の口直しで」
「その口直しを……これへ出せ」
「へえ、へェへェへ、少し食べ荒らしてございますが、召しあがれますか」
「いや、とんとさしつかえない」
「へえ、これでございます」
「おお、なるほど、これはこれはよい口直しだな。煎じ薬の口直しはこれに限るな。ああ、よい心持ちだ……これ、煎じ薬を、もう一杯注げ」
「へえ?」
「おいおい、もうございませんと断わっちまいなよ。きり[#「きり」に傍点]がねえや、もう一杯もう一杯とみんな飲まれてしまっちゃあしょうがねえ。またひと廻り廻ってきたときに、あたしたちの飲む分がなくなっちゃう。え? お、お断わんなさい」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに、この宗助さんが……」
「また宗助さんだ」
「まことにお気の毒さまでございますが、もう煎じ薬はございません」
「なに?……ないと申すか」
「もう一滴もございません」
「ないとあらばいたしかたがない……しからば拙者もうひと廻りしてくるから……二番を煎じておけ」
「これはこれは、こんばんは、みなさん、お寒いところをどうもお早うございますな……これは伊勢屋さん、……おやおや相模屋さん、ご苦労さま」
「へえ、まあ、お互いにご苦労さまで……おや、黒川の旦那……ご苦労さま」
「いやいやどうも……おそくなりましてあいすみません。じつはな、いま、出ようとするところへ、弟子が二、三人まいりまして、ついおそくなりました」
「いや、そんなことはどうでもようございます……あッ、宗助さん、ご苦労さま……」
「どうも旦那|方《がた》がお早いのに、わたくしがおそくなっちゃあ申しわけがござんせん。一所懸命|用達《ようたし》に駆け歩いたんでございますがね、あいすみません」
「おや、辰っつぁん、ご苦労さん」
「へい……どうも、おそくなりまして」
「いやいや、よろしい……いやいや、尾張屋さんに相模屋さん、ご苦労さま……これで人数が揃いましたな」
「じゃあ、ひと焙《あた》り焙《あた》ったら、そろそろ出かけましょうか」
「出かけようだが、わたしが差しでがましゅうございますが、月番なので……どうでしょう、これだけの人数で廻るというのは? 二手に分かれて、半分が廻っているあいだ片方の半分はここで暖まっていて、それが帰ってきたら、こんど暖まっていたほうが出て行くと、こういうふうにしたら、お互いに楽じゃあないか、とおもうんですが、どうですな」
「なるほど、それは結構なお考えでございますなあ。……ええー、そういうことに願えば、こんなありがたいことはございません」
「じゃ、そういうことにして、わたくしが先へ廻って来ますから……じゃ宗助さん、おまえさんすまないが提灯《ちようちん》を持って先へ立っておくれ、それから近江屋さんは、恐れ入りますが、ひとつ鳴子のほうへおまわりなすって。黒川の旦那は、拍子木《ひようしぎ》をお願いします。辰っつぁんは、そこに鉄棒《かなぼう》があるから、その鉄棒を一つ持っとくれ。……それじゃひとつ、わたしどもが廻ってきますから、あとをお頼み申します」
「へえ、どうぞ……ごゆっくり……」
「ごゆっくりはないでしょう……じゃ、そろそろ出かけましょう」
「どうも、ご苦労さま……」
「やあ、お寒いこってすなあ……表へ出ると身の切られるようですなあ」
「いや……どうも。今晩はねえ……なんという冷え方をするんですかねえ……考えてみりゃあ、ばかな話ですなあ、ええ? お互いさまに小僧の時分から皸《ひび》あかぎれ切らして、ようよう一軒の主人《あるじ》になったとおもやァ……また、この火の廻り……奉公人は布団の中で暖まって寝ているてんだが、こんなばかな話はありませんなあ」
「そうそう愚痴《ぐち》をこぼさないで、これも町内安全のため、つまりお互いのためなんだから……宗助さん、提灯はどうした? 暗くって歩けねえじゃねえか、もっと足もとを照らしてくんなきゃあ困るよ」
「いやあ、あんまり寒いんで、上《うわ》っ張りのなかに抱えて歩いてるんで……」
「そんな危ないことをしちゃあいけない。やっぱり手に持って先頭を歩いてくださいよ。……それから、そろそろ黒川の旦那ァ、拍子木をお願いしますよ」
コツリ、コツリ……。
「いやな音ですね。もっと威勢よく叩《たた》けませんか」
「それが、拍子木を持って外へ手を出したんじゃ、寒うございますから、拍子木を両方の袂《たもと》へ入れて、着物の上から……コツリ、コツリ……」
「そんな不精なことしちゃあ……しょうがないなあ……ええー、それからねえ、近江屋の旦那、鳴子がちっとも鳴りませんな、どうしました?」
「はいはい、ただいま鳴らしますよ」
バタリ、バサリ、バタリ、バサバサ……。
「……カラカラ鳴りませんな」
「へえ、……なにしろ寒ゥがすからな、鳴子を前掛けの紐《ひも》へひっかけて、歩くたびに膝《ひざ》で蹴りますと、バタリ、バサバサ……これでご勘弁を……」
「なんだな、どうも、しょうがないな……おーい、辰っつぁん、鉄棒《かなぼう》はどうした?」
「突《や》ってます……突《や》りますよ」
ズルズル、カッチャン、ピシャン……。
「おいおい、なんという鉄棒《かなぼう》の引きようだ」
「そんな叱言《こごと》を言わなくってもいいじゃないか。文句ばかり並べて……鉄棒が凍っていて、手に持つと冷《つめ》てえから、紐を腕に通して、ひきずって歩くんで……ズルズル、というのはひきずる音。カッチャン、というのは石に当たった音。ピシャン、というのは水|溜《たま》りへ入った音……」
「なんだな、チャンチャンと力を入れて突かなくちゃあいけねえ、なんだそれは。だいいち、黙って歩いてないで『火の用心』とか『火の廻り』とか言って歩かなくちゃあいけねえ。……宗助さん、おまえさん、ひと声お願いしますよ」
「ようがす。ええー、火の……用心ッ、火の……廻りッ」
「なんだな、威勢がよくないね。声を切らしちゃあいけない。じゃあ、黒川の旦那、すいませんが、ひとつ、あァた、お願いします」
「かしこまりました、えッへーん」
「たいそう気取りましたね」
「(謡の調子で)※[#歌記号、unicode303d]火のォォォ用ゥゥじィ…ン、ナァサーリィーマァセェーイ……」
「ああ、いやだなあ……冗談じゃないよ、あァた、いくら謡の先生だって、困りますよ。じゃあね、近江屋さん、あなた、ひとつ代わって願います」
「どうもこの寒さじゃあいい声は出ませんよ」
「なんでもかまわない、威勢よくやっておくんなさい」
「へい、よろしゅうございます。※[#歌記号、unicode303d]ちちちィちん…(口三味線)……よォォッ……ちちちんちん(新内節で)※[#歌記号、unicode303d]火のォよゥゥ…じィィん……火のォ…まわァァ…りィ……火のゥ元にィィ気ィ…つけェ…てェえェェくだァさいィィ…よゥ…ちちんち…もしィ火事ィィ…にでェ……もォォなったァなァ…ァらァ…自分ン…ひとりィのォォ…難儀じャァ…ァなァァいィ…町ゥ内ァい…一同…おォォゥォ…ェェ…難儀じゃァえ、…ちちんち……」
「あれッ、弱ったなあ。これは、恐れ入りましたねえ、どうもしようがねえね。……じゃあ、辰っつぁん、ひとつ頼むよ」
「へいッ。よろしゅうござんす。……旦那|方《がた》は、素人ですからね……どうも……うまくいかないのがあたりまえで……この火の廻りなんてえものは他目《よそめ》で見ると楽なようだが、さてやってみるとなかなかむずかしいもんで、まあ……あたしなんざあ、これで若い時分にずいぶん道楽をしましてね、勘当されて、吉原へ行って、少しのあいだ火の廻りをしたことがありますが……どうも、火の廻りの身装《なり》のこしらいがいいねえ、え? 刺子《さしつこ》の長半纏《ながばんてん》でねえ、豆絞りの手拭《てぬぐい》を首に巻いて、こう右の手に鉄棒《かなぼう》を持って左の手に提灯を持ってひと廻り……廻ってごらんなさい……ねえ、助六じゃあねえが、あっちからもこっちからも煙管《きせる》の雨が降るようで……」
「まあ、いいよ。そんなこたあ。能書きァどうでもいいんだ、やってくれ」
「へい、よろしゅうがす……火のォォようゥゥじィん…さァッしゃ…りャ…しょォゥいッ!」
「なるほど……能書き言うだけあって、うまいねえ……やってくれ」
「火のォォようゥゥじィん、さァッしゃ…ァりゃ……しょォゥいッ!……二階を…ゥ…廻らっさァァりやしょゥい……『おい、火の廻りかい?……ねえ寒いから……こっちィ入って、一服|吸《や》っといでよ』『え?……うん、おめえかァ……おい冗談じゃあねえ。住《す》み替《か》えしたのか?……ふざけちゃいけねえなあ……住み替えしたらしたで、いいからよゥ、手紙の一本もよこすがいいじゃあねえか……ふん、薄情なことをするなよッ』……(投げ節の調子で)※[#歌記号、unicode303d]今朝《けさ》の寒さァにィィいィィい……ェェ…帰ェさりょォかァ…ィ……番廻ろう、廻ろう」
こんな具合いにひと廻り……廻って、番小屋へ帰ってきた。
「ただいま」
「や、どうもご苦労さまでございました。さぞお寒かったでございましょう」
「寒いの寒くないのって、鼻もひしげてしまいそうで」
「さようでございましょう。こんどはわたしどもがひと廻り廻って来ますから、ごゆっくりお休みください。あとをお頼み申します」
「では、どうぞ、ご苦労さまでございます。……さあさあさあさあ、みんなこっちへ寄って、どうも寒かったねえ……宗助さん、気の毒だが、そこに炭があるから、どんどん入れてくださいよ……なにしろねえ、この火が、なによりのごちそうですからねえ……まあまあ、もっとこっちへ、いらっしゃい、みなさん、ここへ」
「ええ」
「さあさあ、炭をいくら継《つ》いだってかまうことはない。みんな町内から出るんだ。手前|入費《にゆうひ》じゃあねえんだから、どんどん投《ほう》りこんで、どんどん熾《おこ》して、暖まろう。さあさ、こっちへ手を出してくださいよ」
「ときに、あのう……月番さん」
「なんです?」
「ええー、じつは、家《うち》を出るときに、娘が言うには『おとっつぁん、寒いから……年齢《とし》ィとってるんだし、火の廻りに出て風邪でもひくといけないから……』てんで、この瓢箪《ひようたん》の中へ、お酒を入れて持って来ましたんで、どうです、みなさん、一杯ずつ召しあがりませんか」
「お酒……? 近江屋さん、あんた、ここをなんと心得ているんです、え? ここは番小屋ですよ、ねえ、番小屋で酒ェ飲んだってえことが、役人に知れたら、たいへんですよ。……そうでしょう。あなたはこの中で年長《としかさ》じゃあありませんか、ほかの者がそんなことしたら、あァたが叱言《こごと》を言ってくれなくちゃあいけない。それを真っ先に立ってそういうことをなさるのは、困るじゃあありませんか、年甲斐《としがい》もなく」
「いやどうも、まことに気がつきませんで……じゃあ、こちらへ……」
「いや、なに……ひっこめることはありませんよ。ま、いいから出しなさい」
「どうします?」
「あァた、気がつきませんじゃあ、困りますよ。だいいち、酒を瓢箪に入れてくるというのが心得ちがい。……それをこっちへ出して……この土瓶のお茶をすっかり空《あ》けて、土瓶の中へこの瓢箪の中のものを入れれば……上燗《じようかん》がつきます」
「それを燗《かん》してどうします?」
「冷《ひ》やは毒だから……燗してから飲《や》りましょう」
「だって、あなたいま、番小屋で酒ェ飲んじゃいけないとおっしゃったじゃありませんか」
「へへ、酒だからいけないんで、瓢《ふくべ》から出る煎じ薬なら、さしつかえはない……じつはわたしもこうやって忍ばせてきた」
「なんだ、おどかしちゃあいけない。肝をつぶしましたよ。なるほど、煎じ薬は恐れ入りましたなあ」
「宗助さん、すまないがこの土瓶を濯《ゆす》いで持ってきておくれ……それから、茶碗があったら持ってきて、え? 一つしかない……いいよ、みんなで廻しっこすればいい…さあさ、土瓶をこれへ掛けて……こうやってね、いまじきにお燗がつきますよ……ええと、困ったな、酒ばかりあっても、どうも……なんかこう……食べる物がないと困るがなあ……」
「へへッ……ええー月番さん……そんなこったろうとおもって、じつはあたくしはね、猪《しし》の肉を持ってきました」
「猪の肉? こりゃどうもいいところに気がついたなあ……ウン……肉があったって、鍋がなきゃあ、困るな」
「ええ……鍋、背中に背負《しよ》ってきました」
「こりゃ、手廻しがいいな……それじゃ、さっそく煮てもらいましょう」
「かしこまりました」
「ああ、お燗もいいようですね……じゃ、どうです。……年長《としかさ》の近江屋さんからお先へ、ひとつ……いきやしょう」
「へえ? あたくしから? 頂戴いたしやしょう。おッとッと……あー、うまい。寒いところを帰ってきて飲む酒はまた格別ですな。火に暖まって一杯飲めば、内外《うちそと》から温《あたた》まるからたまりませんや。えっへへへ……どうも空《す》きっ腹《ぱら》に、じゅッとしみこみますな。……じゃあ月番さん、お酌ゥしましょう」
「どうも、ありがとう存じます……あー、うまい。……どうです、黒川の旦那、ひとつ、差しあげましょう」
「いやあどうも……恐れ入りまして、へえ……あッ、とッとッとッと……もったいない、もったいない……あー、うまいッ……それじゃあ、そちらへ廻しましょう」
「だんだん肉が煮えてきました。みなさんどうぞ箸《はし》をつけてくださいよ……こりゃ、うまいッ……この猪の肉てえやつは、いくら熱いものを食べても舌を火傷《やけど》しないところが不思議ですな……宗助さん、猪《しし》をひとつ食べてごらん、うまいよ」
「え?」
「食べたらどうです?」
「へえ、それがねえ?……どういうものだか、あたくしァ、この……猪の肉てえやつが……子供の時分から嫌《きら》いなんで……」
「ほう?……嫌いなら葱《ねぎ》が煮えてますから、葱のほうをおあがんなさい……」
「へ…へえ、さいですか……葱のほうならいけるんですが……わたしゃあどういうわけか……このう、猪《しし》てえやつが……こらァ…ウン……はァは……ふゥゥ、ふゥゥ……ゥゥゥーン……」
「あァた、嫌いだ嫌いだって、葱|除《の》けて、みんな猪のほう食ってますよ」
「いや、どうも……見つかりましたか」
「見つかったじゃあないよ、宗助さん。こすくっていけないな。……辰っつぁんや、こっちへ来て、どうだい、一杯飲んだら……」
「へい……もう、いただき……やしたァ……」
「おう、早いな……なんだあ? みんな飲んじゃったあァ、おおゥ、冗談じゃねえや、あきれけえったねえ……」
「ええー…どうも……いい心持ちンなっちゃった……どうです、都々逸《どどいつ》でもやりますか?」
「おいよせよ。こんなところで都々逸なんぞ唄われてたまるかい」
「いいじゃないか、ねえ……(口三味線)つつん…つん…つつ…とん……うェ…い…」
表で、
「ばん、ばんッ」
「……え?」
「なんだ畜生め、かまぼこ屋の犬だな。猪を煮ているもんだから、匂いを嗅《か》ぎつけてきやがった……」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「これッ、ここを開《あ》けろッ……番《ばん》の者はおらんか……見廻りの者である」
「えっ、たいへんだっ……おいその土瓶を片づけちゃって、鍋もうしろへ……あ、熱ッ…あつ…あつ…ああ、火傷《やけど》しちゃった……いけねえ、いけねえッ」
「これ、番の者、開けろっ」
「へえ、ただいま開けます……へえ、どうも、どうもお役目ご苦労さまでございます」
「廻っとるか?」
「へえ、ただいま……ひと廻りいたしまして、帰ってまいりました」
「それは大儀であるな……ああ、いま拙者が『番々《ばんばん》』と申したら、『しッしッ』と申したが、あれはなんだ?」
「それは……その、なんでございます……この宗助さんが……」
「おいおい、人を引きあいに出しちゃあいけねえ」
「ええー、あれは、その、ひと廻り廻りましたところ、あんまり寒っくって、まあ『火を熾《おこ》そじゃないか、火ィ火ィッ』と申しましたので、へい」
「さようか……いま拙者が入るとき、なにか土瓶のようなものを隠したが、あれはなんだ?」
「……あれは、その……なんでございます……宗助さんが……」
「また宗助さんがだって……いけないよ、他人《ひと》の名前を出しちゃあ……」
「いいんだよ、黙ってな。ええー、少し風邪をひいておりまして、この寒いのに廻って歩きまして、重くなるといけないから、煎じ薬を飲んだらよかろうというので、いま煎じ薬を飲ましておりましたところで、へい」
「ほう、さようか……煎じ薬か。や、拙者も両三日前から風邪をひいておる。役目であるから病を押してこうして廻っておるが、煎じ薬があるならさいわいだ。その煎じ薬を、拙者ももらうから、一杯飲ませろ」
「へえ」
「およしなさいよ。相手は武士《さむらい》だ。出して口ィつけてみて、え? 『これは酒じゃあないか、無礼なやつッ』とバッサリやられねえもんでもねえ。そんなことになりゃあたまったもんじゃあねェ。断わっちまいなよ」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに……ただいま宗助さんが……」
「……いけないよ。あたしゃ命が惜しいっ……」
「なに言ってんだ、大丈夫だよ……へえへえ……ただいま、差し上げますから……へえ、どうぞ」
「注《つ》げ……おッお、よしよし……これはとんだ煎じ薬だな。……寒いときはこの煎じ薬に限る」
「えッへへへ……どうも、これはどうも……これァ大丈夫、大丈夫」
「あ、これこれ、先刻何か膝《ひざ》の下へ鍋のようなものを隠したが、あれは何だ?」
「へえ、あれは……なんでございまして、この宗助さんが……」
「……あたしの名を出してはいけないってんだよ」
「あれは、その……煎じ薬の口直しで」
「その口直しを……これへ出せ」
「へえ、へェへェへ、少し食べ荒らしてございますが、召しあがれますか」
「いや、とんとさしつかえない」
「へえ、これでございます」
「おお、なるほど、これはこれはよい口直しだな。煎じ薬の口直しはこれに限るな。ああ、よい心持ちだ……これ、煎じ薬を、もう一杯注げ」
「へえ?」
「おいおい、もうございませんと断わっちまいなよ。きり[#「きり」に傍点]がねえや、もう一杯もう一杯とみんな飲まれてしまっちゃあしょうがねえ。またひと廻り廻ってきたときに、あたしたちの飲む分がなくなっちゃう。え? お、お断わんなさい」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに、この宗助さんが……」
「また宗助さんだ」
「まことにお気の毒さまでございますが、もう煎じ薬はございません」
「なに?……ないと申すか」
「もう一滴もございません」
「ないとあらばいたしかたがない……しからば拙者もうひと廻りしてくるから……二番を煎じておけ」