火事息子
……神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷《あわせ》でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太《ふでぶと》にかいた行燈《あんどん》の灯がぼんやりと点《とも》されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどきに鳴った。
と、岡本綺堂の『半七捕物帳』(「半鐘の怪」)に書かれている。
ジャンジャンジャンジャン——。
神田三河町の伊勢屋という質屋、町内に出火があって、たいしたことはないが、火の粉がどんどんかぶってくる。
「番頭さん、おまえさん片づけものはあとでいいから、ちょいと目塗《めぬ》りをしておくれ……ほかの商売ならいいが、うちは質屋で、他人《ひと》さまの大事な品物をお預かりしているのに、目塗りもしないようじゃ、あんな店へ品物は預けられないという評判が立っちまう……うちの暖簾《のれん》にかかわるから……こういうときに、すぐ左官が来てくれねえのァ困るなあ。左官が間に合わなきゃあしかたがない。さあさあ、番頭さん、おまえ梯子《はしご》をかけて、あたしと小僧と二人で、ここでもって土をこねて放《ほう》るから……ちょっと、おまえ表蔵《おもてぐら》へ上がっとくれ」
「へえ……ではございますが……あたくしは、どうも高いところへ上がりますことが、まことに不得手……」
「まあ、そんなこと言わないでさ……戸前のところへ泥さえついていれば、それで申しわけが立つんだから……あたしも手伝うし……おい、定吉ッ」
「へい」
「おまえもこっちへきて、手伝いなさい」
「へえ、なにをいたしましょう」
「おまえは、この用心土《ようじんづち》をこねなさい。堅くなっているから、水を汲んでこなくちゃあいけねえ」
「井戸まで汲みに行くのはたいへんです」
「なんかなくちゃあ、柔らかくならない」
「じゃあ、しょうがありませんから小便します」
「そんな汚いことをしちゃあいけねえ。水ゥ汲んでこい……ああ、番頭さん、もっと上まで上がんなよ、臆病な男だな」
「へえへえ、どうも……おどろきました……」
「いまさらおどろいたってしょうがねえ。いいか? 片っぽの手をはなして、折れっ釘《くぎ》へつかまんな……ああ、あやしい腰つきだな」
「へえ、折れっ釘はどこでしょう?」
「どこでしょうったって、おまえさんが上がってんだ」
「ええ、上がってますがね、目がくらんじゃって、なんにもわからなくなって……ちょっと待ってくださーい」
「しょうがねえな……定吉、さあ早くまるめな」
「旦那、このくらいでよろしゅうございますか?」
「もっと大きくしな」
「へえ……これくらいなら火保《ひも》ちもよろしゅうございますが、へえ、お値段が少し張ります」
「余計なことを言うな。炭団《たどん》を売ってるんじゃあないよ。さあこしらえたら、こっちィ早く渡しな……じゃあ、番頭さん、この土を受け取るんだよ。柔らかい土だからそのつもりでな。いいか、放るよ。ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
番頭は上で、折れた釘につかまり、片ほうの手で土を上からつまむように受けるが、取りそこなう。
「なにをしてんだ、おまえ。柔らかい土をつまもうたってだめだよ。左官がやってるのを見ないかな……上がってくるところを掬《すく》うように、ひょいとこう受けるんだ、じれったいねえ。……もっとおまえ、身体《からだ》を前へのり出しな、いいか? こんどはうまく受けなよ……ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
受けそこねて、泥が番頭の顔にもろ[#「もろ」に傍点]にぶつかった。
「へえ、ぷッ……ゥゥこりゃあ、ぷッ……こりゃ、顔ィ目塗《めぬ》りは恐れ入りました」
上も下も、まごまごしているところへ、屋根から屋根を伝わって、火消し屋敷の人足、年齢《とし》のころは二十五、六、ぐっしょり濡れた屋敷の法被《はつぴ》を腰に纏《まと》って、肉体《からだ》じゅう、倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》……刺青《ほりもの》だらけ、ざんばら髪《がみ》のうしろ鉢巻のいでたちで、とんとんとんとんッ……とはずみをつけてきて、九尺の廂間《ひやわい》をぽォーんと飛び越して、
「おい、番頭……おれだよ」
「……あァッ、あなたッご勘当ンなった若旦那……」
「……大きな声をするんじゃあねえ。下にいるのは親父か? わずかのうちにてえそう年齢《とし》をとっちゃったなあ……ところでな、おゥ、この火事はもうなぐれる[#「なぐれる」に傍点]よ。おしめえだ。消えちまうよ。目塗りなんざあどうだっていいが、ま、家業柄、目塗りァしておくほうがいいだろう。おれが手伝ってやりゃあぞうさもねえんだが、それじゃおめえの忠義ンならねえ。おゥ、真田のこの前掛けの紐《ひも》を解いて、輪にしてな、この折れっ釘へ掛けたら、おめえは両手が使えるんだ。そっちの手ェはなせよ」
「いいえ、もうどうぞ、おかまいなく」
「はなしてみなよ」
「へえ、いずれそのうち」
「なに言ってやがんだ。はなしてみろッ」
「あッ……ああ、おどろいた……あー、なるほど、うしろィ紐がくっついて……蔵の折れ釘へぶるさがっている。こんなら、大丈夫、さあ、これで両手が使えるから、なんでも持ってらっしゃい、持ってらっしゃい……」
「なんだ踊ってやがら……どうもありがとう存じます。なにしろどうも素人でございますから……さすがにご商売柄だ。そうしていただいたなら……こんどは大丈夫」
ようようのことで目塗りがすんだ。
「ああ、骨が折れた。見ているだけだったが、ちょいとしたことでも、じつにどうもくたびれる。年齢《とし》をとっちゃあいけないな……静かになったようだがどうした? 定吉、もう消えたか?」
「へえ、ただいまやっとしめった[#「しめった」に傍点]そうで……」
「ああそうかい、そりゃまあよかった……はいはい、どうもお早々と、どうもありがとう存じます……お見舞いに来てくださる方があるから、おまえな、清兵衛、よく帳面を落ちのないようにつけて……」
「どうもお騒々しいこってございます。へい、こんばんは、吉田屋でございます」
「へえ、菊屋でございます」
「へえ、和泉屋でございます」
「へえ、亀屋でございます」
「おや、これはこれは、遠いところをありがとうございました。……いいえ、ひとしきりは風もこちらへかぶっておりましたから、どうなることかと思いましたが、おかげさまでよい塩梅《あんばい》でございます。……ええー、どうぞよろしくな」
「こんばんは、お騒々しいこってございます」
「おお、こりゃ岡本屋さん、お宅さまも、風下でねえ、おどろいたでしょう。一時はどうなるかとおもいましたよ。いい塩梅になにごともありませんで、ご同慶の至りというやつ……あっはっはは……おとっつぁんは?」
「へえ、おやじが風邪の気味で、伏せっておりますので、あたしが名代でございますが、くれぐれもよろしくと申しました」
「ああ、そうですかい。風邪は万病のもと、どうぞお大事になさいますようにね、よろしくお伝えください……ああ、いい倅さんだねえ、岡本屋さんの若いのァしっかりしているし、おかみさんを持って……子供ができたって? ええ、ええ、親孝行なこったァ。いくつになんなさる? え? うちのあのばか野郎と、お宮詣りがいっしょだった? おない年かい? おない年でもたいしたちがいだねえ。片方《かたかた》はああやって、おとっつぁんの家業を継いでいなさる孝行息子、それにひきかえてうちのあのばか野郎は、どこにどうして暮らしてるのか、生きているのか死んでいるのか、皆目《かいもく》姿ァ見せねえ……まあまあ、勘当したやつのことをおもってもしかたがないが……あ、姿見せねえっていやあ番頭さんが見えないね」
「まだ、蔵の折れ釘にぶらさがっております」
「えっ、いつまでぶらさがってるんだな。だれか手伝っておろしてやんなさい。だれか梯子《はしご》を押さえててやんな、一人じゃおりられないんだから……」
「へえ、どうも慣れませんことは、しょうのないもんで」
「いやあいや、番頭さんや、ご苦労さまだったね。顔を洗ったらこっちィ来て一服やっとくれ」
「旦那どうも、左官の手間取りはいけませんな。帳場格子で算盤《そろばん》はじいてりゃあどうやらまあ一人前ですが、左官の手間取りは、小僧と旦那さまとあたくしと三人がかりで半人前……いやおどろきました。それにひきかえあの、屋根から屋根を伝わっておいでになりました方……」
「そうそう、ありゃご商売人だね? 素人じゃあないね。おまえの前掛けの紐を取って、輪をこしらえて折れ釘ィ掛けなすった、あのどうも、頓智《とんち》にゃあおどろいたねえ。早速《さつそく》の働きてえな、あれだ。おいおい、あの方にお礼を言うのを忘れちゃったよ」
「へえ、たぶん、お礼がおっしゃりたいだろうとおもいましてな、あたくしァ、あの方をお引き留めしておきました」
「えらいえらい、あいかわらず、佐兵衛さんはよく気をきかしてくれたねえ。失礼だがあの身装《なり》だからねえ、小遣《こづか》いの、一、二両もつけて、お礼をしようかねえ」
「いえ、ええーあの向こうさまは……そのう……大旦那さまには、お目にかかることは、まことに面目ないと、おっしゃるんでございますが……」
「……なんだ、あたしに会うのが面目ない? 会いたくねえってのかい? ううん、すると、うちのお客さまだね? よくあるこったが、無理なことを言って質草ァ置きなすって、それを流してしまったから、主人《あるじ》に会えねえってんだろ、そうだろ?」
「いえ、そうじゃあございません……ご勘当になりました若旦那でございます」
「ええっ、あれが倅かい!? 身体《からだ》じゅう刺青《ほりもの》で……」
「さようでございます」
「屋根から屋根を飛んできた……あの男が? 徳ッ?」
「へえ……」
「まあ、あぶないじゃあないか。もし、おまえ……屋根から落っこちて怪我でもし……いやいや、怪我しようとどうしようとわたしのかまったことじゃあない。ありゃあ勘当した者《もん》だ……向こうで会いたがってもあたしのほうで会えない。勘当した倅に会っちゃあ、世間さまへ申しわけがない」
「へえ。でございますが、あか[#「あか」に傍点]の他人が、火事見舞いに来てくれましても、ま、ひと言お礼をおっしゃるのが、道ではないかとおもうんでございますが……あたくしァ、ご勘当なすった若旦那でなしに、ただの見舞い客として、旦那さまにお礼を言っていただきたいのでございますが、いかがでございましょう」
「はあ、わかりました……ありがとう、よく言っておくれだ……そういうことなら会いましょう。どこにいる?」
神田三河町の伊勢屋という質屋、町内に出火があって、たいしたことはないが、火の粉がどんどんかぶってくる。
「番頭さん、おまえさん片づけものはあとでいいから、ちょいと目塗《めぬ》りをしておくれ……ほかの商売ならいいが、うちは質屋で、他人《ひと》さまの大事な品物をお預かりしているのに、目塗りもしないようじゃ、あんな店へ品物は預けられないという評判が立っちまう……うちの暖簾《のれん》にかかわるから……こういうときに、すぐ左官が来てくれねえのァ困るなあ。左官が間に合わなきゃあしかたがない。さあさあ、番頭さん、おまえ梯子《はしご》をかけて、あたしと小僧と二人で、ここでもって土をこねて放《ほう》るから……ちょっと、おまえ表蔵《おもてぐら》へ上がっとくれ」
「へえ……ではございますが……あたくしは、どうも高いところへ上がりますことが、まことに不得手……」
「まあ、そんなこと言わないでさ……戸前のところへ泥さえついていれば、それで申しわけが立つんだから……あたしも手伝うし……おい、定吉ッ」
「へい」
「おまえもこっちへきて、手伝いなさい」
「へえ、なにをいたしましょう」
「おまえは、この用心土《ようじんづち》をこねなさい。堅くなっているから、水を汲んでこなくちゃあいけねえ」
「井戸まで汲みに行くのはたいへんです」
「なんかなくちゃあ、柔らかくならない」
「じゃあ、しょうがありませんから小便します」
「そんな汚いことをしちゃあいけねえ。水ゥ汲んでこい……ああ、番頭さん、もっと上まで上がんなよ、臆病な男だな」
「へえへえ、どうも……おどろきました……」
「いまさらおどろいたってしょうがねえ。いいか? 片っぽの手をはなして、折れっ釘《くぎ》へつかまんな……ああ、あやしい腰つきだな」
「へえ、折れっ釘はどこでしょう?」
「どこでしょうったって、おまえさんが上がってんだ」
「ええ、上がってますがね、目がくらんじゃって、なんにもわからなくなって……ちょっと待ってくださーい」
「しょうがねえな……定吉、さあ早くまるめな」
「旦那、このくらいでよろしゅうございますか?」
「もっと大きくしな」
「へえ……これくらいなら火保《ひも》ちもよろしゅうございますが、へえ、お値段が少し張ります」
「余計なことを言うな。炭団《たどん》を売ってるんじゃあないよ。さあこしらえたら、こっちィ早く渡しな……じゃあ、番頭さん、この土を受け取るんだよ。柔らかい土だからそのつもりでな。いいか、放るよ。ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
番頭は上で、折れた釘につかまり、片ほうの手で土を上からつまむように受けるが、取りそこなう。
「なにをしてんだ、おまえ。柔らかい土をつまもうたってだめだよ。左官がやってるのを見ないかな……上がってくるところを掬《すく》うように、ひょいとこう受けるんだ、じれったいねえ。……もっとおまえ、身体《からだ》を前へのり出しな、いいか? こんどはうまく受けなよ……ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
受けそこねて、泥が番頭の顔にもろ[#「もろ」に傍点]にぶつかった。
「へえ、ぷッ……ゥゥこりゃあ、ぷッ……こりゃ、顔ィ目塗《めぬ》りは恐れ入りました」
上も下も、まごまごしているところへ、屋根から屋根を伝わって、火消し屋敷の人足、年齢《とし》のころは二十五、六、ぐっしょり濡れた屋敷の法被《はつぴ》を腰に纏《まと》って、肉体《からだ》じゅう、倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》……刺青《ほりもの》だらけ、ざんばら髪《がみ》のうしろ鉢巻のいでたちで、とんとんとんとんッ……とはずみをつけてきて、九尺の廂間《ひやわい》をぽォーんと飛び越して、
「おい、番頭……おれだよ」
「……あァッ、あなたッご勘当ンなった若旦那……」
「……大きな声をするんじゃあねえ。下にいるのは親父か? わずかのうちにてえそう年齢《とし》をとっちゃったなあ……ところでな、おゥ、この火事はもうなぐれる[#「なぐれる」に傍点]よ。おしめえだ。消えちまうよ。目塗りなんざあどうだっていいが、ま、家業柄、目塗りァしておくほうがいいだろう。おれが手伝ってやりゃあぞうさもねえんだが、それじゃおめえの忠義ンならねえ。おゥ、真田のこの前掛けの紐《ひも》を解いて、輪にしてな、この折れっ釘へ掛けたら、おめえは両手が使えるんだ。そっちの手ェはなせよ」
「いいえ、もうどうぞ、おかまいなく」
「はなしてみなよ」
「へえ、いずれそのうち」
「なに言ってやがんだ。はなしてみろッ」
「あッ……ああ、おどろいた……あー、なるほど、うしろィ紐がくっついて……蔵の折れ釘へぶるさがっている。こんなら、大丈夫、さあ、これで両手が使えるから、なんでも持ってらっしゃい、持ってらっしゃい……」
「なんだ踊ってやがら……どうもありがとう存じます。なにしろどうも素人でございますから……さすがにご商売柄だ。そうしていただいたなら……こんどは大丈夫」
ようようのことで目塗りがすんだ。
「ああ、骨が折れた。見ているだけだったが、ちょいとしたことでも、じつにどうもくたびれる。年齢《とし》をとっちゃあいけないな……静かになったようだがどうした? 定吉、もう消えたか?」
「へえ、ただいまやっとしめった[#「しめった」に傍点]そうで……」
「ああそうかい、そりゃまあよかった……はいはい、どうもお早々と、どうもありがとう存じます……お見舞いに来てくださる方があるから、おまえな、清兵衛、よく帳面を落ちのないようにつけて……」
「どうもお騒々しいこってございます。へい、こんばんは、吉田屋でございます」
「へえ、菊屋でございます」
「へえ、和泉屋でございます」
「へえ、亀屋でございます」
「おや、これはこれは、遠いところをありがとうございました。……いいえ、ひとしきりは風もこちらへかぶっておりましたから、どうなることかと思いましたが、おかげさまでよい塩梅《あんばい》でございます。……ええー、どうぞよろしくな」
「こんばんは、お騒々しいこってございます」
「おお、こりゃ岡本屋さん、お宅さまも、風下でねえ、おどろいたでしょう。一時はどうなるかとおもいましたよ。いい塩梅になにごともありませんで、ご同慶の至りというやつ……あっはっはは……おとっつぁんは?」
「へえ、おやじが風邪の気味で、伏せっておりますので、あたしが名代でございますが、くれぐれもよろしくと申しました」
「ああ、そうですかい。風邪は万病のもと、どうぞお大事になさいますようにね、よろしくお伝えください……ああ、いい倅さんだねえ、岡本屋さんの若いのァしっかりしているし、おかみさんを持って……子供ができたって? ええ、ええ、親孝行なこったァ。いくつになんなさる? え? うちのあのばか野郎と、お宮詣りがいっしょだった? おない年かい? おない年でもたいしたちがいだねえ。片方《かたかた》はああやって、おとっつぁんの家業を継いでいなさる孝行息子、それにひきかえてうちのあのばか野郎は、どこにどうして暮らしてるのか、生きているのか死んでいるのか、皆目《かいもく》姿ァ見せねえ……まあまあ、勘当したやつのことをおもってもしかたがないが……あ、姿見せねえっていやあ番頭さんが見えないね」
「まだ、蔵の折れ釘にぶらさがっております」
「えっ、いつまでぶらさがってるんだな。だれか手伝っておろしてやんなさい。だれか梯子《はしご》を押さえててやんな、一人じゃおりられないんだから……」
「へえ、どうも慣れませんことは、しょうのないもんで」
「いやあいや、番頭さんや、ご苦労さまだったね。顔を洗ったらこっちィ来て一服やっとくれ」
「旦那どうも、左官の手間取りはいけませんな。帳場格子で算盤《そろばん》はじいてりゃあどうやらまあ一人前ですが、左官の手間取りは、小僧と旦那さまとあたくしと三人がかりで半人前……いやおどろきました。それにひきかえあの、屋根から屋根を伝わっておいでになりました方……」
「そうそう、ありゃご商売人だね? 素人じゃあないね。おまえの前掛けの紐を取って、輪をこしらえて折れ釘ィ掛けなすった、あのどうも、頓智《とんち》にゃあおどろいたねえ。早速《さつそく》の働きてえな、あれだ。おいおい、あの方にお礼を言うのを忘れちゃったよ」
「へえ、たぶん、お礼がおっしゃりたいだろうとおもいましてな、あたくしァ、あの方をお引き留めしておきました」
「えらいえらい、あいかわらず、佐兵衛さんはよく気をきかしてくれたねえ。失礼だがあの身装《なり》だからねえ、小遣《こづか》いの、一、二両もつけて、お礼をしようかねえ」
「いえ、ええーあの向こうさまは……そのう……大旦那さまには、お目にかかることは、まことに面目ないと、おっしゃるんでございますが……」
「……なんだ、あたしに会うのが面目ない? 会いたくねえってのかい? ううん、すると、うちのお客さまだね? よくあるこったが、無理なことを言って質草ァ置きなすって、それを流してしまったから、主人《あるじ》に会えねえってんだろ、そうだろ?」
「いえ、そうじゃあございません……ご勘当になりました若旦那でございます」
「ええっ、あれが倅かい!? 身体《からだ》じゅう刺青《ほりもの》で……」
「さようでございます」
「屋根から屋根を飛んできた……あの男が? 徳ッ?」
「へえ……」
「まあ、あぶないじゃあないか。もし、おまえ……屋根から落っこちて怪我でもし……いやいや、怪我しようとどうしようとわたしのかまったことじゃあない。ありゃあ勘当した者《もん》だ……向こうで会いたがってもあたしのほうで会えない。勘当した倅に会っちゃあ、世間さまへ申しわけがない」
「へえ。でございますが、あか[#「あか」に傍点]の他人が、火事見舞いに来てくれましても、ま、ひと言お礼をおっしゃるのが、道ではないかとおもうんでございますが……あたくしァ、ご勘当なすった若旦那でなしに、ただの見舞い客として、旦那さまにお礼を言っていただきたいのでございますが、いかがでございましょう」
「はあ、わかりました……ありがとう、よく言っておくれだ……そういうことなら会いましょう。どこにいる?」
台所の竈《へつつい》の隅に、若旦那の徳三郎は、濡《ぬ》れた法被《はつぴ》一枚で、太股のところまでしている入れ墨を隠そうと、下帯のさがりを前掛けのように伸ばして、膝がしらをくるむように、ちぢこまっている。
「先ほどはありがとうございました。おかげさまで、どうやら目塗りも無事にすみました。番頭から委細を聞き、ひと言お礼を申し上げにまいりました。どうぞこちらへお出ましを願いたいもんで、そんな隅にいらしったんじゃあ、暗くてよくわかりません」
「へえ……どうも、ごぶさたをいたしました。うかがえた義理じゃあございませんが、あまり急なことで、われを忘れて飛んでまいりまして……いつもお変わりもなく……おめでとう存じます。かような姿になりまして、お目にかかりますのも、まことに面目ないことで……」
「ありがとうございます。わたしも年齢《とし》はとりましたが患いもせず、どうやら丈夫に暮らしております。あなたもお変わりなく、と申し上げたいが……たいそう立派な絵が描《か》けましたね。わたしどもにおいでのころは、そんな絵なんぞ描いてあげなかったが……いまさら言ったってしょうがねえが、小せえうちから、火事が好きで、おもちゃを買ったって、纏《まとい》だの鳶口《とびぐち》だの梯子だの……十八の年に、鳶頭《かしら》ンところィ行って鳶《とび》の者になりてえッて言った。あたしが鳶頭に断わったので、四十八組の頭取手合のところへは廻状をまわしてくれた。どこィ行ったって、てめえを子分にするなんてひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]な頭取はいなかったろう。ないが意見の総仕舞、堅くなるかとおもったら家を飛び出しゃあがった……火消屋敷の人足ンなったってことは聞いたがね、目《ま》のあたりにおまえの姿を見るまでは、親てえものはばかなもんで、よもやよもやとおもっていたよ、ええ? ばかめっ、ここはおまえの家だよ。身性《みじよう》さえよけりゃあここの若旦那だ。竈《へつつい》の隅で、小さくなってなくたっていいんだよ、なあ。そんなざまでこの近辺を跳んで歩いて、あれが伊勢屋の倅さんかと、他人《ひと》さまから後指《うしろゆび》を指される……親の顔へ泥を塗るというのは、おまえのことだ」
「へへへ、旦那なんか、さっき番頭さんの顔へ泥を塗りました」
「余計なことを言うな、定吉、あっちへ行け。……お礼を申し上げまして、もうご用もございますまい。お引き取りを願います」
「まことに面目しだいもございません。またお詫《わ》びする時節もございましょう。それじゃこれでお暇《いとま》を……」
「あーっ、ちょっと待ちな……ついでにおっかさんにも会っといで……おい、定吉や、おかみさんを呼んで来なよ……え? どっかにいるだろう……おうおうおうおう、婆さん、ちょっと用があるからこっちィ来な。なにをしてんだい、え? 猫が見えなくなっちゃった? いやだね、猫なんざあどうだっていいんだよ。早くこっちィおいでよ、おまえさんに会わせてえ人があるから……」
「なんです? だれで……だれが来たんですよ」
「倅の徳三郎が来たから会いなさい」
「えッ、徳が来ましたか。まあ、ありがたいことですね。なるほど猫どころじゃあありませんよ……そうですか、どこにいますえ?」
「あすこに座ってるよ」
「あらまあ……よくおいでだねえ。まあ、苦労したと見えて、わずかのあいだにずいぶん年齢《とし》をとっちまって、髪ン中へ白髪《しらが》がまじって……」
「そりゃ、番頭の佐兵衛だよ」
「あら、ほんとうだ。いやだよ、佐兵衛さん、なぜおまえ、そこへ顔を出すんだ。まちがえるじゃあないか。こっちへどいててくださいよ。ああ、おまえ、徳三郎っ……おまえもっと前へお出。ああ、よかったねえ無事で、え? またどうも、見事な刺青《ほりもの》だこと、目がさめるよ」
「なに言ってるんだ、刺青なんぞ、ほめなくてもいいよ」
「……上がられた義理じゃあございませんが、庇《ひさし》を通りかかりますってえと、番頭が困っておりましたんで、取るものも取りあえず、お手伝いをいたしましたが、おとっつぁんも、おっかさんも、お変わりがなくって、おめでとうございます……」
「……はい、ありがと。よく言っておくれだ……変わりはありませんよ。このとおり、おとっつぁんも丈夫なら、あたしも丈夫、家業は繁昌するばかり、なにひとつ不足はないわけだが、ただね、おまえが家にいないのが心がかり……いまごろはどうしているだろう? 烏《からす》の鳴かない日があったって、あたしがおまえをおもい出さない日は、ただの一日だってありゃあしない……お産をするときも、年齢《とし》をとってからのお産だからずいぶん苦労して、ようやく産み落とした、ひと粒種だもの……まあまあ、そうやって、無事にいてくれりゃあなにより、あたしゃこんな、うれしいことァありませんよ。ねえ、どうかして会いたいとおもってね、おまえの居所は知れず、あんな火事の好きな子だったから、どうか近所に大火事がございますように……って、あたしゃあ朝晩ご仏前に向かうたんびに……ご先祖さまへ手を合わして……」
「おうおう、おいおい、お婆さん、あまりばかなことを言ってちゃいけません。他人《ひと》さまがお聞きンなるとおまえ、他人《ひと》さまは、腹を立てる……」
「他人《たにん》さまは他人さまでさあね。おとっつぁんだって、あんなことを口じゃ言ってるが、男親というものは、やせ我慢をして、お腹《なか》ン中では泣いていることは、あたしはよく知っていますよ」
「なにをばかな……」
「まあ、見てごらんなさい。この寒空に、法被《はつぴ》一枚、かわいそうに……風邪でもひかないようにどうかまあ、あの着物をやってください」
「これに着物をやる? とんでもない話だ。勘当した倅におまえ着物がやれますかい」
「だってね、あなたはお慈悲深い方ですよ。出入りの者がしくじった[#「しくじった」に傍点]って、おかみさんがお産をしたとか、おっかさんが患ってると聞くと、わざわざお見舞いを持って、行きなすって、もとどおり出入りを許す。他人《ひと》さまだってそれなんですもの、血肉を分けたこれァ倅ですから」
「やれないねえェ……」
「やれないったってあたしゃもう、蔵の虫干しのたンびにこれのものを見ると……胸がいっぱいになりますよ」
「なにもこんなやつのものを蔵へなんぞしまっておくことはないじゃないか。そんなに目ざわりだったら、往来へ捨てちまいな」
「それがあなたは頑固ですよ。捨てるくらいならやってくださいな」
「わからないなあ、小遣いでもなんでもつけて捨てれば、拾って行くから捨てなさいてんだ」
「……ああ、ああそうですか。よおく言ってくださいました。さっそく、捨てますよ……みんな、ちょっと手を貸しとくれ、箪笥《たんす》ごと捨てるから」
「おうおう、そんなに捨てなくったっていいよ」
「小遣いはどのくらい捨てましょうね? 千両も捨てますか?」
「そんなに一ぺんに捨てずに、ちょくちょく捨ててやんなよ」
「じゃ、まあ五十両も捨ててやりましょう。着物と帯は、まあ結城《ゆうき》というところへ落ち着きますかねえ。それに古渡《こわた》りの唐桟《とうざん》。それから、ふだん着に西川のものを揃えてやりましょうか。帯は、紺献上に……色が白いから、黒っぽいものも似合いますから、薩摩もついでに捨ててやりましょう」
「まあいいように捨てなよ」
「なにしろ、あの子は色が白いからほんとうに、品のいい服装《なり》がよく似合います。ほら、いつでしたか、あなたの代わりに、年始廻りをしたことがありましたねえ。……黒|羽二重《はぶたえ》の紋付に、仙台平の袴《はかま》をはかせて、雪駄《せつた》ばきで、脇差を差して……すれちがった人が、どこの役者衆だろうなんて、噂をしたくらい。あのときは、あたしァ、もううれしくてうれしくて、あの子は、あなたより男っぷりがようございますからね」
「つまらないことを言いなさんな」
「だって、ほんとうですもの……わたしは、これに、あのときの身装《なり》をさせて、小僧を一人供に連れてやりとうございます」
「おい、勘当した倅に、そんな改まった身装《なり》をさせて、どうするんだ?」
「だってあなた、火事のおかげで会えましたから、火元へ礼にやりましょう」
「先ほどはありがとうございました。おかげさまで、どうやら目塗りも無事にすみました。番頭から委細を聞き、ひと言お礼を申し上げにまいりました。どうぞこちらへお出ましを願いたいもんで、そんな隅にいらしったんじゃあ、暗くてよくわかりません」
「へえ……どうも、ごぶさたをいたしました。うかがえた義理じゃあございませんが、あまり急なことで、われを忘れて飛んでまいりまして……いつもお変わりもなく……おめでとう存じます。かような姿になりまして、お目にかかりますのも、まことに面目ないことで……」
「ありがとうございます。わたしも年齢《とし》はとりましたが患いもせず、どうやら丈夫に暮らしております。あなたもお変わりなく、と申し上げたいが……たいそう立派な絵が描《か》けましたね。わたしどもにおいでのころは、そんな絵なんぞ描いてあげなかったが……いまさら言ったってしょうがねえが、小せえうちから、火事が好きで、おもちゃを買ったって、纏《まとい》だの鳶口《とびぐち》だの梯子だの……十八の年に、鳶頭《かしら》ンところィ行って鳶《とび》の者になりてえッて言った。あたしが鳶頭に断わったので、四十八組の頭取手合のところへは廻状をまわしてくれた。どこィ行ったって、てめえを子分にするなんてひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]な頭取はいなかったろう。ないが意見の総仕舞、堅くなるかとおもったら家を飛び出しゃあがった……火消屋敷の人足ンなったってことは聞いたがね、目《ま》のあたりにおまえの姿を見るまでは、親てえものはばかなもんで、よもやよもやとおもっていたよ、ええ? ばかめっ、ここはおまえの家だよ。身性《みじよう》さえよけりゃあここの若旦那だ。竈《へつつい》の隅で、小さくなってなくたっていいんだよ、なあ。そんなざまでこの近辺を跳んで歩いて、あれが伊勢屋の倅さんかと、他人《ひと》さまから後指《うしろゆび》を指される……親の顔へ泥を塗るというのは、おまえのことだ」
「へへへ、旦那なんか、さっき番頭さんの顔へ泥を塗りました」
「余計なことを言うな、定吉、あっちへ行け。……お礼を申し上げまして、もうご用もございますまい。お引き取りを願います」
「まことに面目しだいもございません。またお詫《わ》びする時節もございましょう。それじゃこれでお暇《いとま》を……」
「あーっ、ちょっと待ちな……ついでにおっかさんにも会っといで……おい、定吉や、おかみさんを呼んで来なよ……え? どっかにいるだろう……おうおうおうおう、婆さん、ちょっと用があるからこっちィ来な。なにをしてんだい、え? 猫が見えなくなっちゃった? いやだね、猫なんざあどうだっていいんだよ。早くこっちィおいでよ、おまえさんに会わせてえ人があるから……」
「なんです? だれで……だれが来たんですよ」
「倅の徳三郎が来たから会いなさい」
「えッ、徳が来ましたか。まあ、ありがたいことですね。なるほど猫どころじゃあありませんよ……そうですか、どこにいますえ?」
「あすこに座ってるよ」
「あらまあ……よくおいでだねえ。まあ、苦労したと見えて、わずかのあいだにずいぶん年齢《とし》をとっちまって、髪ン中へ白髪《しらが》がまじって……」
「そりゃ、番頭の佐兵衛だよ」
「あら、ほんとうだ。いやだよ、佐兵衛さん、なぜおまえ、そこへ顔を出すんだ。まちがえるじゃあないか。こっちへどいててくださいよ。ああ、おまえ、徳三郎っ……おまえもっと前へお出。ああ、よかったねえ無事で、え? またどうも、見事な刺青《ほりもの》だこと、目がさめるよ」
「なに言ってるんだ、刺青なんぞ、ほめなくてもいいよ」
「……上がられた義理じゃあございませんが、庇《ひさし》を通りかかりますってえと、番頭が困っておりましたんで、取るものも取りあえず、お手伝いをいたしましたが、おとっつぁんも、おっかさんも、お変わりがなくって、おめでとうございます……」
「……はい、ありがと。よく言っておくれだ……変わりはありませんよ。このとおり、おとっつぁんも丈夫なら、あたしも丈夫、家業は繁昌するばかり、なにひとつ不足はないわけだが、ただね、おまえが家にいないのが心がかり……いまごろはどうしているだろう? 烏《からす》の鳴かない日があったって、あたしがおまえをおもい出さない日は、ただの一日だってありゃあしない……お産をするときも、年齢《とし》をとってからのお産だからずいぶん苦労して、ようやく産み落とした、ひと粒種だもの……まあまあ、そうやって、無事にいてくれりゃあなにより、あたしゃこんな、うれしいことァありませんよ。ねえ、どうかして会いたいとおもってね、おまえの居所は知れず、あんな火事の好きな子だったから、どうか近所に大火事がございますように……って、あたしゃあ朝晩ご仏前に向かうたんびに……ご先祖さまへ手を合わして……」
「おうおう、おいおい、お婆さん、あまりばかなことを言ってちゃいけません。他人《ひと》さまがお聞きンなるとおまえ、他人《ひと》さまは、腹を立てる……」
「他人《たにん》さまは他人さまでさあね。おとっつぁんだって、あんなことを口じゃ言ってるが、男親というものは、やせ我慢をして、お腹《なか》ン中では泣いていることは、あたしはよく知っていますよ」
「なにをばかな……」
「まあ、見てごらんなさい。この寒空に、法被《はつぴ》一枚、かわいそうに……風邪でもひかないようにどうかまあ、あの着物をやってください」
「これに着物をやる? とんでもない話だ。勘当した倅におまえ着物がやれますかい」
「だってね、あなたはお慈悲深い方ですよ。出入りの者がしくじった[#「しくじった」に傍点]って、おかみさんがお産をしたとか、おっかさんが患ってると聞くと、わざわざお見舞いを持って、行きなすって、もとどおり出入りを許す。他人《ひと》さまだってそれなんですもの、血肉を分けたこれァ倅ですから」
「やれないねえェ……」
「やれないったってあたしゃもう、蔵の虫干しのたンびにこれのものを見ると……胸がいっぱいになりますよ」
「なにもこんなやつのものを蔵へなんぞしまっておくことはないじゃないか。そんなに目ざわりだったら、往来へ捨てちまいな」
「それがあなたは頑固ですよ。捨てるくらいならやってくださいな」
「わからないなあ、小遣いでもなんでもつけて捨てれば、拾って行くから捨てなさいてんだ」
「……ああ、ああそうですか。よおく言ってくださいました。さっそく、捨てますよ……みんな、ちょっと手を貸しとくれ、箪笥《たんす》ごと捨てるから」
「おうおう、そんなに捨てなくったっていいよ」
「小遣いはどのくらい捨てましょうね? 千両も捨てますか?」
「そんなに一ぺんに捨てずに、ちょくちょく捨ててやんなよ」
「じゃ、まあ五十両も捨ててやりましょう。着物と帯は、まあ結城《ゆうき》というところへ落ち着きますかねえ。それに古渡《こわた》りの唐桟《とうざん》。それから、ふだん着に西川のものを揃えてやりましょうか。帯は、紺献上に……色が白いから、黒っぽいものも似合いますから、薩摩もついでに捨ててやりましょう」
「まあいいように捨てなよ」
「なにしろ、あの子は色が白いからほんとうに、品のいい服装《なり》がよく似合います。ほら、いつでしたか、あなたの代わりに、年始廻りをしたことがありましたねえ。……黒|羽二重《はぶたえ》の紋付に、仙台平の袴《はかま》をはかせて、雪駄《せつた》ばきで、脇差を差して……すれちがった人が、どこの役者衆だろうなんて、噂をしたくらい。あのときは、あたしァ、もううれしくてうれしくて、あの子は、あなたより男っぷりがようございますからね」
「つまらないことを言いなさんな」
「だって、ほんとうですもの……わたしは、これに、あのときの身装《なり》をさせて、小僧を一人供に連れてやりとうございます」
「おい、勘当した倅に、そんな改まった身装《なり》をさせて、どうするんだ?」
「だってあなた、火事のおかげで会えましたから、火元へ礼にやりましょう」