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落語特選01

时间: 2019-09-22    进入日语论坛
核心提示:まえがき落語をその「素型」に近い形に再構成したシリーズ「落語百選」(全四巻 ちくま文庫)に収録できなかった演目をさらに選
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まえがき

落語をその「素型」に近い形に再構成したシリーズ「落語百選」(全四巻 ちくま文庫)に収録できなかった演目をさらに選《え》りすぐって「落語特選」(全二巻)として再び編むことになった。
この本を開けば、ひととき、寄席を再現し、好みの番組《プログラム》を組み、好みの噺家を出演させて、自由|気儘《きまま》に……暇つぶしに、酒の好きな方は飲みながら、夜《よる》寝しなのナイト・キャップ代わりに、寛《くつろ》いで読めるよう企てられた。
落語は、イメージの中だけに存在する。
長屋の住人はじめ、町家の職人、物売り、商家の若旦那、奉公人、武士、遊女、女房、子供……等々、だれ一人として特定の具体例はなく、それを演じ手もまた聴き手も、それぞれの心の中に、思い思いに想像し、描いて……イメージとして創り上げている。
そして、その人間像に、お人好しで、おっちょこちょいで、好色で……威張《いば》ったり、拗《す》ねたり、いじましかったり……およそ、われわれ自身そのものと言っていい性癖、生態が表わされ、溜め込まれているのが、落語の世界のような気がする。
落語の、同じ噺をいくど聴いても、同じクスグリを繰り返し聴いても、飽《あ》きずに、その度毎に、つい笑ってしまうのは、そこにいつも変らぬ真実——真理があり、人間に共通する紛《まぎ》れもない、体躯《からだ》ごと生きている、正直な姿が写されているからだろう。
そうした落語が、時代を超えて、つねに見直され、迎え入れられるのは、われわれが日々、失われていくものを、ふと思い起こさせて、鮮やかに蘇らせてくれるからである。
今日のような、生きにくい、ぎくしゃくした暮らしの中で、他人《ひと》と競ったり、片意地を張ったり、つい角《かど》が立つ|いざこざ《トラブル》にも、落語の人物なら、
「あんまり悔《くや》しいから、おらァ、そこで都々逸《どどいつ》を唄っちゃったいッ」
と、あくまでも笑いで切り返す。
偶《たま》には、拳固《げんこ》や小皿が飛んでくることもあるが、落語の人物たちは、あくまでも言葉(言語)で、それも生きる知恵や機智やときには洒落《しやれ》をまじえて、弾んだ言葉を駆使して、困難をかわし、対手《あいて》を丸め、溶かし込んでしまう。
そこに笑いが生まれる。
人間は笑うことによって、現実の生きにくさ、つまらなさをひととき忘れ、憂さを少しでも振り払い……人間ほんらいのあるべき姿——紛れもない、体躯《からだ》ごと生きている、正直な姿を、思い起こし、懐かしみ、癒《いや》し、安らぎをえることができる。
笑いは、人間の生きていく根底を支え、かつ逆転させる力《エネルギー》を持っている。
落語を創り出した江戸時代もまた、今日にもまして、噺のようにはとんとん拍子にはいかない、きびしい現実があったにちがいない……と、言っちゃァおしまいだが、それなればこそ、いっそう落語が洗練され、磨《みが》かれ、コクのあるものになっていったにちがいない。
それにしても、落語の主人公は、生き生きとした〈江戸っ子〉として、江戸時代を代表するような人間に思われているが、杉浦日向子さんによれば、
「百万都市の半分は武家と僧。残り五十万の町民のうち六割は地方出身者、三割が地元民とのハーフ、一割が地元民ですが、『江戸っ子』の条件『下町育ち』は半数の二万五千。正真正銘の『江戸っ子』は、江戸の人口のわずか二・五%ということになる」
いわゆる町人と呼ばれる人びとは、地主、家持階級に限られ、裏店《うらだな》の借家住人の八っつァん、熊さんは公式には——法律的には一人前の町人とは扱われていなかった。租税の対象外、員数外の人間たちであった。
そういう意味で、地位、財産のない人間の「素型」なのである。
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