「おゥ、冗談言うねえ。こちとらァ、赤《あけ》え血の流れている人間なんだァ」
この世の中に日々生きている以上、だれしも大なり小なり、社会の〈柵《しがらみ》〉に翻弄《ほんろう》される。だが、それに耐え、従っていては人は息がつまり、萎《しぼ》んでしまう。それに妥協し、媚びていては時代に流され、自分自身を失なってしまう。
それを押し止め、ぎりぎりのところで撥ね返えそうとする——抵抗精神《レジスタンス》を背骨《バツクボーン》にしているのが、落語である。
その抵抗心は、社会の表面《うわべ》の胡麻かし、体裁《ていせい》——本質を見抜く知恵を磨き、錬《きた》え、きびしい現実に対応する逞ましさを育《はぐく》んだ。
落語が今日まで多くの人びとに愛好され、普遍性をもっているのは、この抵抗精神と人間の〈個《パーソナリテイ》〉を大切に守り抜き、つねに人間を対手《あいて》に、人間を描き、語り続けてきたからだ。
人は、社会の〈柵《しがらみ》〉の中で、所詮、堅いことばかり言っては、生きて行けない。そこで、生き延びて行く縁《よすが》——知恵として、人生をおもしろ、おかしく生きて行くことを選んだ。それが〈遊び〉の世界だった。
そして、噺家が江戸時代に、世の中の悲喜こもごもの人間模様を巧みな話芸で、長屋の八っつぁん、熊さん、家主、店の若旦那、奉公人、遊女、遊客等の切実な生活感情、思考を織り込んで、かくありたい、という願望と真情を落語という〈世界〉の中に映し出した。それを聴く人びとは、ひととき現実を忘れ、心をくすぐられ、生きている歓びを感じ、ときには涙を流した。
言うまでもなく、江戸時代は士農工商と身分によってはじめから住み分けられ、生き方がかちっと規制されていた。とはいえ、落語の中に登場する長屋の住人たちは、その埒外《らちがい》におかれ、規制は末端まで行きわたっていなくて、その分だけ人びとは自由に、自力で生きるしかなく、貧しかったが、それを弾みにして精一杯……思いどおりに行かず、ハメをはずし、しくじるのが落ちだったが、そうした営みが許され、笑い、たのしむ社会もけして悪いものではない。
オーソン・ウェルズが映画「第三の男」の中で、自ら創作した名セリフがある。
「イタリアでは、ボルジア家の治下の三〇年間、戦争や恐怖や殺人や流血があったが、一方ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチや文芸復興を生んだ。……スイスは同胞愛だ。五〇〇年間の民主主義と平和を保ったが、何を生んだ? それは鳩時計だ」
それに編者《わたし》はこう付け加えたい。
「日本では、江戸時代、徳川幕府の二六〇年の封建身分制度があったが、その埒外にあって抵抗しながら、八っつぁん、熊さんのような、おもしろおかしいこの上ない生き方が生まれた。そして、江戸の人びとはまた落語という、すばらしい話芸を創り出した」
本書のために、表紙カバーに三谷一馬画伯が珠玉の〈絵〉を書き下してくださり、また永い間、小生を�傘下�で育《はぐく》み、見守ってくださった小澤昭一さんが〈解説〉で飾ってくださったことは、身に余る光栄で、体躯《からだ》が火照《ほて》るような想いに包まれている、感激である。有難うございました。
また十代から古今亭志ん生、桂文楽を生《ライブ》で聴いた世代として、このような〈活字落語〉というかたちで全六巻のシリーズに纏《まと》められたことは、望外の幸甚である。
今後、ここに収録された演目が噺家によっていつまでも高座で演じられ、また読者によって読み継がれて行くことを心から祈っている。
また十代から古今亭志ん生、桂文楽を生《ライブ》で聴いた世代として、このような〈活字落語〉というかたちで全六巻のシリーズに纏《まと》められたことは、望外の幸甚である。
今後、ここに収録された演目が噺家によっていつまでも高座で演じられ、また読者によって読み継がれて行くことを心から祈っている。