浅草の駒形《こまかた》に、乾物|問屋《どんや》で星野屋。ここの主人の金兵衛さんは、粋な人で、外で遊んでばかりいるので、おかみさんは悋気の角を生やしている。そこへおせっかいな下女がたきつける……。
「ご新造《しんぞ》さん、大変でございます」
「なんだね、この下女《こ》はまあ。たいそう真っ赤な顔をしてるじゃないか」
「だって、お湯ゥへ行って、お湯ゥの中へ入ったっきりで、出ることができないんですよ」
「どうしたの?」
「どうしたって、きまりが悪くって上がれないんですよ。わたしがお湯ゥの中へ入ってますとね、流しに留桶《とめおけ》を控えて、番頭《ばんつ》さんに背中を流させている女は、銀杏返しに結《い》った、ちょいと若く見えてまァ二十三、四ぐらいかと見えますが、ほんとうの年齢《とし》は二十七、八ぐらいかと思う、薄手な、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、目元に愛嬌のある、透きとおって見えるような肌の、髪の毛のつやつやした、どうもたいへんいい女なんですよ」
「その女がどうかしたの?」
「だから、ちょうどあの太ったおきんという魚屋の女房が入って来たから、訊いてみると、『おまえあの女を知らないのかい、知ってると思ってたけど。あれはおまえンとこの旦那が五年越し囲っている女じゃァないか』『ちっとも知りませんよ、どこにいるの?』『あの弁天山の後ろの、五重の塔の下に茶店を出している、鈴篠のお花って言うんだ』とこう言うんですよ。つい鼻の先の弁天山の後ろへ置いて、それでどうもしゃあしゃあ、まじまじと旦那が知らぬ顔をしていらっしゃるんですから、ほんとうにくやしいったらありゃしません。ご新造さんは、ほんとにお人《ひと》がいいんだから……」
「そんなこと、表へ、べらべら喋るんじゃありませんよ。みっともないからあっちへおいで……え? 旦那がお帰りだよ。あっちへ行って……」
「いま、帰りました」
「お帰りなさいまし」
「あの、留守にだれも来なかった……?」
「どなたもお見えじゃございません」
「あ、そうか……あのね、どうでも構わんがね、女中をこの部屋ィ入れちゃァいけないよ。あいつ、どうもお喋りでいけない……どうも」
「別にいいじゃありませんか。女中《あれ》はばかにわたしのことを心配してくれるんですから」
「どうしたんだ、おかしな顔をして、え? おい、お茶ァ入れてくれ」
「わたしのような婆ァの傍でお茶を召し上がったっておいしくないでしょうから、弁天山の茶店へ行って召し上がったらいいでしょ」
「なにをつまらぬこと言って。……なんだ、覗いてげらげら笑うな、む……おまえなにか下女《あいつ》につまらぬことをたきつけられたんだな。きよや、なにかと目くばせをして。そんないやな仕打ちぶりをされるとおれが困るよ」
「困るたってなにもあたしにお隠しなさることはないじゃァありませんか。じつはこれこれだとおっしゃってくだされば、わたしだってもののわからない女でもございませんし……」
「なにを?」
「なにをたって……弁天山の茶店の、名前も知ってますよ、鈴篠のお花」
「なんだそれは」
「ああとぼけていらっしゃるんですから、ほんとうにどうも憎らしいこと。あなた五年も囲っておきながら、なぜわたしに打ち明けてくださらないんです。どうせ近所にいるんだからいいじゃァありませんか。あなただっていろいろ御用もあり、お気くたびれも大変でしょうから、たまにはお気保養をなさるのもいいですが、お隠しなさるのはよくありませんよ」
「なにを……あたしはおまえさんにものを隠すなんて……隠す……隠す必要がないン……隠してることァないんだ……」
「じゃあ、弁天山の茶店を出している、鈴篠のお花という女《ひと》はどういう女《ひと》なんです?」
「そう改まっちゃァ困るね。あれはね、幸い話が出たから言うがね。あれは、あたしが世話してる女じゃない。あれはね、番町の……ま、お聞きなさいってんだ。番町の川田さんが世話ァしていた女なんだ、で、こんだね、お国詰めになってね、川田さんが国ィ帰《かい》るンだ。……ついては、『星野屋、あの……わしは帰国《た》ってしまうけども、あとへ残ったお花と母親《おふくろ》、どうか女世帯だから、雨降り風間のときは、どうか見舞いに行ってやってくれ』『え、承りました』……旦那はいなくなってしまった。まあ、あたしも頼まれたことだから、まあ、ちょいちょい見舞いには行った。……大風の吹く日があったんだよ。えェ?……行くってえと雨になって、嵐だ。ほォら、ね、帰ることが出来なくって、泊ったのが、ま、変なことになって、こうなったんだがね。ま、これはね、あたしの言訳のようになるけれど……こうしよう、おまえに知れたのが幸いだよ。……ええ? じゃね、ちょうどいい機会《きつかけ》だ、あたしがね、行ってね、金でもやって、別れてくるから……きっぱりと」
「それじゃァ、あたしが行って……」
「おい、おい、おい。いけないよ。おまえが金を持ってって、『手を切っておくんなさい』なんて、そんなばかげたことが言えるもんか。向うは茶店の女だよ。立派な家《うち》の女房が出かけて行けば、『いえ、わたしはお金は要りませんから旦那をおくんなさい』などと言うよ。そう向うから意地に掛かって出られると、百両で手の切れるところが五百両になられちゃァ困らあ。だからなに、おれが行って手を切って来ればわけはないよ」
旦那は、絹紬《けんちゆう》の羽織を着て、懐中にいくらか金を持って、駒下駄がけで、弁天山のお花の宅へ……。
「お花、在宅《うち》かい?」
「あらまァ、旦那、さあ、どうぞお上がりください」
「母親《おふくろ》はどうした?」
「おッ母《か》さん、いまお湯から帰って来て、あの、疲れたとみえて、二階へ上がって寝てるんですよ」
「あ、そうか。いえ、なにも起こさなくてもいいんだよ。……きょうはね、おまえに少し話があって来たんだけども……」
「なんですね、旦那?」
「なんだってどうも、おれンとこの女房くらい世の中にわけのわからねえ女はねえ。もっとも世間知らずだからね、午《うま》の日にはちゃんとお茶を飲まないという願掛《がんか》けをするやつだ、あんまり頭が回らねえんでしょうがねえ。だけど、どうしたことか、おまえとの仲を知って、たぶん下女かなにかがたきつけたんだろうが、手を切ってくださらなければ、わたしは身を投げますてえんだ。おれは星野屋の養子なんだよ。あいつは家付きの娘だ。これを楯にしてうるせえんだ。まさかそんなら死ねとこっちは言えねえから、じゃァおれが手を切ってくると言い切って家《うち》を出たんだ。というのも、あいつも商売先の旦那がたにも会っているから、もしおれの品行のことでも喋られると、面目を失うことになる。そこでおれもフツフツ生きてるのが嫌になった。で、いっそ首をくくるか身を投げるか、腹を切ろうかと覚悟したんだ。ついちゃあ、今日おれは沢山《たんと》の金は持って来ない。ここに五十両ばかりしきゃない。ふッと家を出たんだから、とてもこれじゃァ足りまいが、これでまァおめえもとの茶店を出すとも、または人力車でも拵《こせ》えて、それを貸して歯代を取って、おっかあと二人でどうやらこうやら暮らしていて、思い出す日には線香の一本も手向《たむ》けてくんなよ」
「なんだってあなた、死ぬの?」
「そうよ、いま言うとおりのわけだから」
「……あたしはね、あなたが死んじまったあとで、また旦那取りもできなければ、茶店へ出るのも外聞が悪いから、おまいさんが死ぬのなら、あたしも一緒に死にますよ」
「え、死ぬ? おまえもかい。そうかい、そりゃありがたい。これはどうもおれの口から二十も年下のおまえンとこへ来て、心中をしてくれとも言いにくいから、いまのように言ったんだが、おまえがそう言ってくれれば、こんなにうれしいことはない。一緒に死のうじゃないか。それじゃ今夜、八つ(午前二時)を合図におれが来るからな、いいか? 吾妻橋から身を投げよう、そうして向島へ流れて、雁木《がんぎ》のところへ死骸が二つ繋がれて流れ着くなんてえのは、ちょいと粋《いき》だぜ」
「そううまく行くかしら……」
「おい、おっかあにこの手紙に金を添えてやっておいてくんな」
「旦那、どこへ行くの……」
「ちょいと鳶頭《とび》の重吉のとこへ寄って暇《いとま》乞いをして、更《ふ》けてから来るから、開けといてくんなよ。抜かりのねえように、いいか、頼んだぜ」
八つの鐘がボォーンと鳴った……。
「トントントントン……」
「はい、開いてますよ……おっかさんに知れるといけないから……さ、お入ンなさい」
「支度はできてんだろうな」
「ええ、お金はね、あの……仏壇の引出しに入れておきました。旦那、ご酒《しゆ》でも上がって……」
「そんなことはしてられねえ、更《ふ》けるといけねえ」
旦那はお花の手を取って家を抜け出し……吾妻橋まで来ると、ぽつゥり、ぽつゥり、と大粒の雨が降ってきた。あたりはしーんとして、隅田川は上潮南《あげしおみなみ》で、橋杭へどぶゥん、どぶゥんと打ちつける水音だけが聞えてくる。
「さ、いいかえ、覚悟は」
「いいかえったって、むやみに飛び込んじゃァいけませんから、まァお待ちよ」
「早く飛び込もう」
「飛び込むたって、もし下に船でもいて、怪我でもするといけませんよ」
「怪我ったって死ぬんだよ」
「死ぬにもまァあなた、なるたけ端《はじ》のほうからそろそろ入って行こうじゃァありませんか」
「そんな悠長なことを言っちゃァいられねえ……あァ、人が来た、先ィ飛込《いく》ぞっ……」
……ドブーゥン……
「あ、あ、あ、旦那、旦那っ……まあ、気が早いじゃないかね、もう、飛び込んで……旦那!……しょうがないね、まあ……」
上手のほうを見ると、屋根船が一艘、すーゥー……
「……一中節の『紙治』だねェ……※[#歌記号、unicode303d]さりとは狭いご了見……死んで花が咲くかいな。楽しむも恋、苦しむも恋。恋という字に二つはない……まったくだね、死んで花が咲くものか。ああァ……(橋の下を見ながら)旦那ァ、あたし、おっかさんがいますからね。あの……死ぬの止しますから、あの、失礼します」
「トントントントン……」
「はい、開いてますよ……おっかさんに知れるといけないから……さ、お入ンなさい」
「支度はできてんだろうな」
「ええ、お金はね、あの……仏壇の引出しに入れておきました。旦那、ご酒《しゆ》でも上がって……」
「そんなことはしてられねえ、更《ふ》けるといけねえ」
旦那はお花の手を取って家を抜け出し……吾妻橋まで来ると、ぽつゥり、ぽつゥり、と大粒の雨が降ってきた。あたりはしーんとして、隅田川は上潮南《あげしおみなみ》で、橋杭へどぶゥん、どぶゥんと打ちつける水音だけが聞えてくる。
「さ、いいかえ、覚悟は」
「いいかえったって、むやみに飛び込んじゃァいけませんから、まァお待ちよ」
「早く飛び込もう」
「飛び込むたって、もし下に船でもいて、怪我でもするといけませんよ」
「怪我ったって死ぬんだよ」
「死ぬにもまァあなた、なるたけ端《はじ》のほうからそろそろ入って行こうじゃァありませんか」
「そんな悠長なことを言っちゃァいられねえ……あァ、人が来た、先ィ飛込《いく》ぞっ……」
……ドブーゥン……
「あ、あ、あ、旦那、旦那っ……まあ、気が早いじゃないかね、もう、飛び込んで……旦那!……しょうがないね、まあ……」
上手のほうを見ると、屋根船が一艘、すーゥー……
「……一中節の『紙治』だねェ……※[#歌記号、unicode303d]さりとは狭いご了見……死んで花が咲くかいな。楽しむも恋、苦しむも恋。恋という字に二つはない……まったくだね、死んで花が咲くものか。ああァ……(橋の下を見ながら)旦那ァ、あたし、おっかさんがいますからね。あの……死ぬの止しますから、あの、失礼します」
お花は家へ帰って、煙草を一服|喫《の》むか喫《の》まないうちに、表の戸を叩く者がある。
「はい、だれだい?」
「重吉だよっ」
「まァなんだね、胆《きも》を潰《つぶ》したよ。重さんかい……開いてるよ」
「おゥ、お花さん……いまここィね、星野屋の旦那が来なかったか?」
「あァ……い、ァ、いいえ……」
「そうか、うーん……妙な話だなァ。雨はぽつぽつ降ってきたし、今夜っくらいもの寂しい晩はねえじゃねえか。おれァ喰らい酔ってたんだが、なんだか知らねえが、寝苦しくって寝つけねえんだよ。……あっちィごろごろ、こっちィごろごろしてるうちにね……でも、まあ、とろとろ[#「とろとろ」に傍点]っとしたんだね。……ドブーゥンという水音。『はてな、裏の井戸ィいたずらしたんじゃァねえかな』と思ってね、ひょいっと上を見ると……台所の引窓がね……ヒョッ、ヒョッヒョッと開くじゃねえか。と……水がぽたりッ、ぽたりッと、ひょいっと上を見るとね、星野屋の旦那だよ。びっしょり濡れてる。こいつがね、竹ィつかまって『重吉……重吉』……」
「えっ、もうかい?」
「なんだ、その、もうかいってえのは?」
「いいえ、まあ、どうも驚いたわね」
「うん、おれも驚いた。『旦那じゃァありませんか』と言うと、『重吉や、おめえが世話してくれた、あのお花。じつは、あの女と、今夜、一緒に死のうと吾妻橋まで行って、おれが飛び込んで、あとから、あいつが飛び込むだろうと思うと、あいつは助かって家へ帰りやがった。あんな不実な女と知らずに、おれはいままで世話ァしてたのは、おれァ悔しい。あいつを生かしておかない、日毎夜毎、化けて出て、取り殺す』ってんだ。そりゃァまァおまえは取り殺されたってしかたがねえが、ああいうもの堅い旦那だから、そのたんびにおれンところへ寄られちゃァ困るよ」
「あらまあ、びっくりしたねえ……それからどうしたの?」
「おらあ、おっかねえから、頭から蒲団をかぶって、しばらく経ってから、夢じゃあねえかと、そっと、また、枕元を見ると、旦那の姿はねえが、びっしょり畳が濡れている。それから、まあ、怖さを忍んで、おまえのところへ知らせに来たんだが、おれが世話した女といやあ、おめえよりほかはねえ。おまえ、なにも隠しちゃァいけねえぜ。旦那とおまえ、心中に行ったんだろう?……いいえ、いけねえってえことよ。おれが、いま、話をしたら、おまえの顔の色が変って、いま、なんと言った? なにが、もうかい[#「もうかい」に傍点]だ……とんでもねえことをしてくれたな。さあ、隠さねえで言ってくんねえ」
「困ったね。重吉さん、じつはね、少しばかり行ったの」
「冗談言っちゃァいけねえ。心中に、少しばかり行くやつもねえもんだ」
「こっちだって、いきなり旦那が死ぬって言い出したから、年じゅう世話になってるし、いやだって断われないじゃァないか……つい、つき合いにさァ」
「心中に、つき合いってのがあるけえ」
「まあ、重吉さん、たいへんなことになっちまったね。まったくわたしが悪いんだよ。悪いんだけれども、わたしだって、おっかさんはあるし、いろいろ思いすごしをして、死ぬのは大変だと思って、よして帰ってきたの。ねえ、ちょいと……あの旦那がそういうぐわいじゃ、困るわねえ……なんとか、幽霊《だんな》の出て来ない工夫はないかねえ」
「そうさな。そりゃァまァ、おまえが改心して、旦那に詫びごとをしたらいいかも知れねえ。それも、ただじゃあいけねえ。おめえのその緑の黒髪を根からぶっつり切ってしまいねえ。その毛をおれが握って幽霊《だんな》の出て来るのを待って、『さ、旦那、お花はこの通り、この世を思い切髪になりました、もう一生ほかの男の側《そば》へも寄りません。雄猫一匹でも膝の上へは載せません。生涯|尼《あま》になって旦那の菩提《ぼだい》を弔《ともら》い、母親《おふくろ》を見送るまで仕えます。どうか堪忍してください』って、幽霊を成仏|得脱《とくだつ》させるってえのはどうだ?」
「それじゃァ、あたしが髪の毛を切ったら、きっと幽霊が出なくなる?」
「そうよ。おまえの髪自慢は旦那もよく知っておいでだからな」
「じゃァ少し待っておくれ」
お花はひと間へ入って、髪の毛を根からぷっつり……手拭で、あとを姉さん被りにして、戻って来た。
「重吉さん、さ、この通り切ったから、これを持って、おまえさんから、幽霊の出ないように仕切っておくれ」
「どォれ……へへへ、よく切ったね。見事なもんだ。これで旦那ァ浮ぶよ、うん。……すぐ、浮ぶよ……旦那、もう、浮んでもようござんすよ」
表戸をがらりと開けて、旦那がぬっと入って来た。
「えへへへ……重吉、おれは、いままで表で聞いていたが、おめえの怪談噺はよっぽど怖かったぜ」
「あらッ!……まあ、重さん……なに言ってんの……旦那いらっしゃるじゃァないか。……まァ! 旦那ァ、ご機嫌よろしゅう……」
「旦那……こういうことを言う……こういうやつだ……ま、黙って黙って、あっしが話をします。やいっ、てめえくらいどじ[#「どじ」に傍点]なやつはねえぞ。はははは……いいか、旦那がおいでなすって、『おれはお花に惚れてる』と、ええ? 『どうかお花を時期をみて、家ィ入れてやりてえ』と、こう言う……『あいつの元の商売《しようべえ》が商売だから、気心がわからねえ。どうしたらよかろう』ってえから、『旦那、こうなすったらようございましょう』と、おれと旦那が書いた狂言で、さっき旦那のあとからつづいて飛び込めば、下には、ちゃんと蒲団を敷いた船をつないであって、まちがって川へ入《へえ》っても、てめえを殺す気遣いはねえ。ほかに三艘の船が橋間に舫《もや》っていて、腕っこきの船頭が待機しているんだ。旦那は、もとより木場の生まれで、泳ぎの名人だ。てめえが飛び込めばすぐ小脇にかかえ旦那が泳いでいるうちに、船頭が船ン中へ引き揚げて、水なんざ飲ませるンじゃねえ。一緒に飛び込めば、心底《しんてい》見えたって、いまのおかみさんを追い出して、てめえが星野屋の二度添いになれたんだ。このご新造になり損ないめ!」
「そうだったの。知らないからさァ。じゃァ旦那、こうしましょう、もういっぺん吾妻橋へ行きましょう」
「重吉、みなよ、この調子だ」
「あきれたやつでござんすねえ。どうぞまあ、旦那、その代りこれで勘弁しておくんなさい。こいつは、髪惜しみで、鬢《びん》の毛の一本も髪結いが抜こうもんなら、『元のとおり植えてお返し』なんていう女でございます。……やい、お花、てめえは、旦那と縁が切れた上に、その頭髪《あたま》じゃあ、母親《おふくろ》を抱えて、明日からどうやって暮らしていくんだ? 髪の毛がなきゃあ、女で候《そうろう》と、世の中に通用しねえぞ。茶店へも出ることはできねえ。くりくり坊主になるよりしかたがねえんだ。さっぱりと坊主になったら、いままでのよしみ[#「よしみ」に傍点]に、木魚の一つぐれえ買ってやらあ。ぽくぽく木魚のあたまを叩いて、念仏でも唱えて暮らしていろい。ざまァみやがれっ」
「へん、そんな毛が欲しかったら、毎日取りにおいで……相手が旦那に重吉さんだから、おおかたそのくらいのことだと思ったよ。ひとおもしろくもない」
「おや、生意気なことを抜かしやがる。切った毛が毎日ピョコピョコ生えてたまるかい」
「ふんっ……それをほんとうの毛だと思ってんのかい……(被っていた手拭を取り)この通りさ、おまえの持ってんのは髢《かもじ》だよ」
「えッ? こん畜生めっ。旦那……あ、あっしとこいつと馴れ合って?……冗談じゃない……こん畜生、お花っ、こんなもの(髢)いらねえやいッ」
「重吉、もうやめろ。野中の一軒家じゃない。気をつけて口をきいておくれ」
「まあ、旦那、もう少ししゃべらしておくんなさい……やい、このあまっ、よくもひとを騙しゃあがったな。てめえは、きっとそんな了見のやつだと思ったから、旦那がさっき、おめえにやった金はな……」
「金は貰ったよ。その金がどうした?」
「あれァ、贋金《にせがね》だ」
「まあ、あきれた。なにからなにまで手を回してやりゃあがったんだね」
「ありゃ、旦那がな、芸者や幇間を集めて遊ぼうってんで……両替屋の真似をしようって……『おれが金を撒くからてめえたちゃァ拾え』ってんで、あいつを撒くんだ。みんな欲ばってるから拾うだろ……と、よくよく見ると、これが玩具《おもちや》だろ。……『旦那、これは玩具でござんす……』『さ、本物と取り替えてやろう』と、洒落に拵《こしら》いた玩具の小判なんだ。てめえが遣うだろう、へへ、てめえはふン縛られる、贋金遣い……磔《はりつけ》ンなるんだ」
「どこまで企《たく》んで来やがって……おっかさん、さっき貰った金は、あれは贋金だってさあ。贋金なんぞ持っててもしようがないから出しておくれよ」
「なんだね、騒ぐにゃあ及ばないよ。さ、早くお返し申しな、手から離れりゃあかかわり合いにはならないんだから……」
「さあ、持ってけっ」
「出しゃァがった、うふふふ……旦那、こいつらァほんとうに赤児の腕を捻《ねじ》るようなもんです。贋金だってったら、えへへ、出しゃァがった……おい、これが贋金か……おい。いいか……ピィィンと、この音をきけよ。ははははっは、贋金ならてめえが遣うより旦那のほうが先に縛られちまわァ、はははァ」
「あらまァ、畜生め、おっかさん、いまのは本物だってさあ」
「あたしもね、そうだろうと思うから、ここに三枚くすねておいた」
「はい、だれだい?」
「重吉だよっ」
「まァなんだね、胆《きも》を潰《つぶ》したよ。重さんかい……開いてるよ」
「おゥ、お花さん……いまここィね、星野屋の旦那が来なかったか?」
「あァ……い、ァ、いいえ……」
「そうか、うーん……妙な話だなァ。雨はぽつぽつ降ってきたし、今夜っくらいもの寂しい晩はねえじゃねえか。おれァ喰らい酔ってたんだが、なんだか知らねえが、寝苦しくって寝つけねえんだよ。……あっちィごろごろ、こっちィごろごろしてるうちにね……でも、まあ、とろとろ[#「とろとろ」に傍点]っとしたんだね。……ドブーゥンという水音。『はてな、裏の井戸ィいたずらしたんじゃァねえかな』と思ってね、ひょいっと上を見ると……台所の引窓がね……ヒョッ、ヒョッヒョッと開くじゃねえか。と……水がぽたりッ、ぽたりッと、ひょいっと上を見るとね、星野屋の旦那だよ。びっしょり濡れてる。こいつがね、竹ィつかまって『重吉……重吉』……」
「えっ、もうかい?」
「なんだ、その、もうかいってえのは?」
「いいえ、まあ、どうも驚いたわね」
「うん、おれも驚いた。『旦那じゃァありませんか』と言うと、『重吉や、おめえが世話してくれた、あのお花。じつは、あの女と、今夜、一緒に死のうと吾妻橋まで行って、おれが飛び込んで、あとから、あいつが飛び込むだろうと思うと、あいつは助かって家へ帰りやがった。あんな不実な女と知らずに、おれはいままで世話ァしてたのは、おれァ悔しい。あいつを生かしておかない、日毎夜毎、化けて出て、取り殺す』ってんだ。そりゃァまァおまえは取り殺されたってしかたがねえが、ああいうもの堅い旦那だから、そのたんびにおれンところへ寄られちゃァ困るよ」
「あらまあ、びっくりしたねえ……それからどうしたの?」
「おらあ、おっかねえから、頭から蒲団をかぶって、しばらく経ってから、夢じゃあねえかと、そっと、また、枕元を見ると、旦那の姿はねえが、びっしょり畳が濡れている。それから、まあ、怖さを忍んで、おまえのところへ知らせに来たんだが、おれが世話した女といやあ、おめえよりほかはねえ。おまえ、なにも隠しちゃァいけねえぜ。旦那とおまえ、心中に行ったんだろう?……いいえ、いけねえってえことよ。おれが、いま、話をしたら、おまえの顔の色が変って、いま、なんと言った? なにが、もうかい[#「もうかい」に傍点]だ……とんでもねえことをしてくれたな。さあ、隠さねえで言ってくんねえ」
「困ったね。重吉さん、じつはね、少しばかり行ったの」
「冗談言っちゃァいけねえ。心中に、少しばかり行くやつもねえもんだ」
「こっちだって、いきなり旦那が死ぬって言い出したから、年じゅう世話になってるし、いやだって断われないじゃァないか……つい、つき合いにさァ」
「心中に、つき合いってのがあるけえ」
「まあ、重吉さん、たいへんなことになっちまったね。まったくわたしが悪いんだよ。悪いんだけれども、わたしだって、おっかさんはあるし、いろいろ思いすごしをして、死ぬのは大変だと思って、よして帰ってきたの。ねえ、ちょいと……あの旦那がそういうぐわいじゃ、困るわねえ……なんとか、幽霊《だんな》の出て来ない工夫はないかねえ」
「そうさな。そりゃァまァ、おまえが改心して、旦那に詫びごとをしたらいいかも知れねえ。それも、ただじゃあいけねえ。おめえのその緑の黒髪を根からぶっつり切ってしまいねえ。その毛をおれが握って幽霊《だんな》の出て来るのを待って、『さ、旦那、お花はこの通り、この世を思い切髪になりました、もう一生ほかの男の側《そば》へも寄りません。雄猫一匹でも膝の上へは載せません。生涯|尼《あま》になって旦那の菩提《ぼだい》を弔《ともら》い、母親《おふくろ》を見送るまで仕えます。どうか堪忍してください』って、幽霊を成仏|得脱《とくだつ》させるってえのはどうだ?」
「それじゃァ、あたしが髪の毛を切ったら、きっと幽霊が出なくなる?」
「そうよ。おまえの髪自慢は旦那もよく知っておいでだからな」
「じゃァ少し待っておくれ」
お花はひと間へ入って、髪の毛を根からぷっつり……手拭で、あとを姉さん被りにして、戻って来た。
「重吉さん、さ、この通り切ったから、これを持って、おまえさんから、幽霊の出ないように仕切っておくれ」
「どォれ……へへへ、よく切ったね。見事なもんだ。これで旦那ァ浮ぶよ、うん。……すぐ、浮ぶよ……旦那、もう、浮んでもようござんすよ」
表戸をがらりと開けて、旦那がぬっと入って来た。
「えへへへ……重吉、おれは、いままで表で聞いていたが、おめえの怪談噺はよっぽど怖かったぜ」
「あらッ!……まあ、重さん……なに言ってんの……旦那いらっしゃるじゃァないか。……まァ! 旦那ァ、ご機嫌よろしゅう……」
「旦那……こういうことを言う……こういうやつだ……ま、黙って黙って、あっしが話をします。やいっ、てめえくらいどじ[#「どじ」に傍点]なやつはねえぞ。はははは……いいか、旦那がおいでなすって、『おれはお花に惚れてる』と、ええ? 『どうかお花を時期をみて、家ィ入れてやりてえ』と、こう言う……『あいつの元の商売《しようべえ》が商売だから、気心がわからねえ。どうしたらよかろう』ってえから、『旦那、こうなすったらようございましょう』と、おれと旦那が書いた狂言で、さっき旦那のあとからつづいて飛び込めば、下には、ちゃんと蒲団を敷いた船をつないであって、まちがって川へ入《へえ》っても、てめえを殺す気遣いはねえ。ほかに三艘の船が橋間に舫《もや》っていて、腕っこきの船頭が待機しているんだ。旦那は、もとより木場の生まれで、泳ぎの名人だ。てめえが飛び込めばすぐ小脇にかかえ旦那が泳いでいるうちに、船頭が船ン中へ引き揚げて、水なんざ飲ませるンじゃねえ。一緒に飛び込めば、心底《しんてい》見えたって、いまのおかみさんを追い出して、てめえが星野屋の二度添いになれたんだ。このご新造になり損ないめ!」
「そうだったの。知らないからさァ。じゃァ旦那、こうしましょう、もういっぺん吾妻橋へ行きましょう」
「重吉、みなよ、この調子だ」
「あきれたやつでござんすねえ。どうぞまあ、旦那、その代りこれで勘弁しておくんなさい。こいつは、髪惜しみで、鬢《びん》の毛の一本も髪結いが抜こうもんなら、『元のとおり植えてお返し』なんていう女でございます。……やい、お花、てめえは、旦那と縁が切れた上に、その頭髪《あたま》じゃあ、母親《おふくろ》を抱えて、明日からどうやって暮らしていくんだ? 髪の毛がなきゃあ、女で候《そうろう》と、世の中に通用しねえぞ。茶店へも出ることはできねえ。くりくり坊主になるよりしかたがねえんだ。さっぱりと坊主になったら、いままでのよしみ[#「よしみ」に傍点]に、木魚の一つぐれえ買ってやらあ。ぽくぽく木魚のあたまを叩いて、念仏でも唱えて暮らしていろい。ざまァみやがれっ」
「へん、そんな毛が欲しかったら、毎日取りにおいで……相手が旦那に重吉さんだから、おおかたそのくらいのことだと思ったよ。ひとおもしろくもない」
「おや、生意気なことを抜かしやがる。切った毛が毎日ピョコピョコ生えてたまるかい」
「ふんっ……それをほんとうの毛だと思ってんのかい……(被っていた手拭を取り)この通りさ、おまえの持ってんのは髢《かもじ》だよ」
「えッ? こん畜生めっ。旦那……あ、あっしとこいつと馴れ合って?……冗談じゃない……こん畜生、お花っ、こんなもの(髢)いらねえやいッ」
「重吉、もうやめろ。野中の一軒家じゃない。気をつけて口をきいておくれ」
「まあ、旦那、もう少ししゃべらしておくんなさい……やい、このあまっ、よくもひとを騙しゃあがったな。てめえは、きっとそんな了見のやつだと思ったから、旦那がさっき、おめえにやった金はな……」
「金は貰ったよ。その金がどうした?」
「あれァ、贋金《にせがね》だ」
「まあ、あきれた。なにからなにまで手を回してやりゃあがったんだね」
「ありゃ、旦那がな、芸者や幇間を集めて遊ぼうってんで……両替屋の真似をしようって……『おれが金を撒くからてめえたちゃァ拾え』ってんで、あいつを撒くんだ。みんな欲ばってるから拾うだろ……と、よくよく見ると、これが玩具《おもちや》だろ。……『旦那、これは玩具でござんす……』『さ、本物と取り替えてやろう』と、洒落に拵《こしら》いた玩具の小判なんだ。てめえが遣うだろう、へへ、てめえはふン縛られる、贋金遣い……磔《はりつけ》ンなるんだ」
「どこまで企《たく》んで来やがって……おっかさん、さっき貰った金は、あれは贋金だってさあ。贋金なんぞ持っててもしようがないから出しておくれよ」
「なんだね、騒ぐにゃあ及ばないよ。さ、早くお返し申しな、手から離れりゃあかかわり合いにはならないんだから……」
「さあ、持ってけっ」
「出しゃァがった、うふふふ……旦那、こいつらァほんとうに赤児の腕を捻《ねじ》るようなもんです。贋金だってったら、えへへ、出しゃァがった……おい、これが贋金か……おい。いいか……ピィィンと、この音をきけよ。ははははっは、贋金ならてめえが遣うより旦那のほうが先に縛られちまわァ、はははァ」
「あらまァ、畜生め、おっかさん、いまのは本物だってさあ」
「あたしもね、そうだろうと思うから、ここに三枚くすねておいた」