……絢爛《けんらん》眼を奪われる太夫道中の仲之町、格子戸の中に妍《けん》を競って客を待つ妓楼の賑わい、その裏通りで柄《がら》ゆきの変った下級女郎や住民が息づいている。ここでは按摩《あんま》が哀れ虎落《もがり》笛のような笛を吹き、蝋燭《ろうそく》の流れ買いが集めた屑蝋《くずろう》を黙々と蝋燭型に溶かしこんでいる。
人生すべてそういえるのだが、この二万七百余坪の四角い天地では、特にその禍福の懸隔が甚だしかった。
仲之町は吉原の背骨ともいわれ、寛保元年(一七四一年)以来、中央の道すじに桜を植え、ぞめき[#「ぞめき」に傍点]客はその両側を歩くようになった。おなじころ両側の引手茶屋の二階に軒提灯を吊し、花と提灯の間を歩くのだから、客の頭上はこの世で最高の華麗さに輝いた。唐では遊女町に花と柳を植え、花街または花柳苑と称したのにならったのだ。軒提灯の明るさは、これまた「不夜城」の名にふさわしかった。
[#地付き](稲垣史生『考証・江戸の再発見』より)
「若旦那、若旦那……若旦那ァ」
「なんだよゥ、番頭」
「若旦那、あたしの身にもなってくださいよ。あなた、毎晩毎晩遅く帰って来ちゃァ、表の戸をどんどんどん叩いて起すでしょ。大旦那がもう怒っちゃって……『伜がああじゃ、勘当しなくちゃァならない。世間に対してきまりが悪い、堅気の家《うち》の息子が夜遊びばかりしてちゃァ』って、それをあたしが番頭として黙って聞いてるわけにはいかないでしょ。え? だから……行くなじゃァないですよ。少しは家にいらして、偶《たま》に行くってことにしてくださいよ。偶に……」
「偶に? 嫌だね、おれはもう夜ンなると足がむずむずして、毎晩行かなきゃいられないんだよ」
「毎晩はいけません、若旦那。大旦那が言ってますよ。『伜のやつは、ああいうところへ行くようになってから、口の利きかたが乱暴になった。商人《あきんど》の家《うち》は口を丁寧にしなくてはいけない』って、若旦那、なんとかしてくださいよ」
「どうすりゃァいい?」
「では、若旦那、その妓《おんな》がそんなによけりゃァ身請けをして、どこかへ囲《かこ》っておくとかしたらいいじゃァありませんか?……それで大旦那に知れないように、昼間、ちょっと逢うとかなんとかすれば……?」
「おれは、妓《おんな》はどうでもいいんだよ。おれァ吉原ってえのが好きなんだよ」
「じゃァ、若旦那、吉原へ行ってぞめく[#「ぞめく」に傍点]のが好きなんですね」
「そうだよ。ひやかして歩くのが好きなんだよ。吉原を家にもってくりゃ出かけねえよ」
「そうですか。……じゃァ、お店の二階が広いんでございますから、二階を棟梁《とうりよう》に頼んで、吉原にすっかり拵《こしら》えてもらえばいいじゃないですか?……二階でぞめけばいいじゃァないですか」
「大丈夫かい? おれだって、毎晩毎晩あんな遠くまで行きたくねえや」
「そりゃァ、棟梁は腕がいいんだもの。頼めばきっといいのを拵《こしら》えますよ」
「そりゃァ面白いねェ」
「なんだよゥ、番頭」
「若旦那、あたしの身にもなってくださいよ。あなた、毎晩毎晩遅く帰って来ちゃァ、表の戸をどんどんどん叩いて起すでしょ。大旦那がもう怒っちゃって……『伜がああじゃ、勘当しなくちゃァならない。世間に対してきまりが悪い、堅気の家《うち》の息子が夜遊びばかりしてちゃァ』って、それをあたしが番頭として黙って聞いてるわけにはいかないでしょ。え? だから……行くなじゃァないですよ。少しは家にいらして、偶《たま》に行くってことにしてくださいよ。偶に……」
「偶に? 嫌だね、おれはもう夜ンなると足がむずむずして、毎晩行かなきゃいられないんだよ」
「毎晩はいけません、若旦那。大旦那が言ってますよ。『伜のやつは、ああいうところへ行くようになってから、口の利きかたが乱暴になった。商人《あきんど》の家《うち》は口を丁寧にしなくてはいけない』って、若旦那、なんとかしてくださいよ」
「どうすりゃァいい?」
「では、若旦那、その妓《おんな》がそんなによけりゃァ身請けをして、どこかへ囲《かこ》っておくとかしたらいいじゃァありませんか?……それで大旦那に知れないように、昼間、ちょっと逢うとかなんとかすれば……?」
「おれは、妓《おんな》はどうでもいいんだよ。おれァ吉原ってえのが好きなんだよ」
「じゃァ、若旦那、吉原へ行ってぞめく[#「ぞめく」に傍点]のが好きなんですね」
「そうだよ。ひやかして歩くのが好きなんだよ。吉原を家にもってくりゃ出かけねえよ」
「そうですか。……じゃァ、お店の二階が広いんでございますから、二階を棟梁《とうりよう》に頼んで、吉原にすっかり拵《こしら》えてもらえばいいじゃないですか?……二階でぞめけばいいじゃァないですか」
「大丈夫かい? おれだって、毎晩毎晩あんな遠くまで行きたくねえや」
「そりゃァ、棟梁は腕がいいんだもの。頼めばきっといいのを拵《こしら》えますよ」
「そりゃァ面白いねェ」
番頭が出入りの棟梁に、若旦那の身が修《おさ》まるようにと頼み込んで、店の二階を吉原に改築した。棟梁も吉原の建築、様子を写しとって、遊女屋のように惣籬《そうまがき》で囲い、暖簾《のれん》を掛け、妓夫台《ぎゆうだい》を置き、くぐり戸を構え、行燈看板、提灯を飾り付け、毛氈を敷き、煙草盆など小道具まで整えて、……張見世をそっくり造った。
「若旦那、出来上りましたよ。見てください」
「そうかい、うまく出来たじゃねえか」
「それじゃァ、早速、ひやかしにひと廻り行ってらっしゃい」
「それじゃァ、その箪笥《たんす》に着物があるから出してくれ。着換えるから……」
「そのままでいいじゃァありませんか」
「そうはいかねえよ。着物を着換えて行かなくちゃァ面白くないんだよ」
「そういうもんですか? じゃァこれ、どうです?」
「おゥ、これはなァ古渡《こわた》り唐桟《とうざん》てな、こういうのを着なくちゃァひやかせねえんだよ。身幅も狭いだろう? 七五三、五分廻しってえンだ。こいつァなァ懐手《ふところで》してさッと歩いているてえと、内腿《うちもも》が見《め》えなくちゃァいけねえんだ。ひやかすにゃあ……ものは鉄火《てつか》に行かなくちゃァいけねえんだ。算盤玉《そろばんだま》の三尺を、ここできゅッと結んでおいてな」
「この着物の袂《たもと》は変わってますね」
「これァ平袖《ひらそで》ってんだよ」
「どうして袂がないんです?」
「そりゃァなあ、おめえ、吉原を歩いていて、ひやかし同士で突き当たったら、喧嘩が始まるよ。妓《おんな》が格子に掴まってみんな見てらァ、謝《あや》まるやつはいないよ、なあァ。だから、どーんと突き当たるとたんに、ばァばァーんと殴るんだ。……殴るか殴られるかだァ。そンとき袂があると、拳固《げんこ》がつかえちゃう。この野郎って殴ろうと思っても拳固がすぐ出ねえと、向うに先に殴られちまわァ。だからよゥ、いつでもかかっていけるように、懐《ふところ》ン中へ拳固を固めてもってるんだよ」
「えェー、おっそろしいもんですねェ」
「この手拭い、よく見てごらん。こいつァ�瓶《かめ》覗き�ってえんだ。え? これをこう……吉原被《よしわらかむ》りしてなあ」
「どうして?」
「夜露が毒だってやつよ」
「ここは二階だから、心配ないでしょ?」
「なに言ってんだ。ここは二階じゃァない……向うへ行ってひやかすつもりになんなきゃァいけねえんだからな……だれか来ても二階へ上げちゃァいけねえよ」
「へえ、畏まりました。じゃァ、お好きなように、どうぞ行ってらっしゃいませ」
「じゃァ、行ってくるから……」
「遅くなったって構わないんですから、どうぞ、ごゆっくり……あたくしはこれで階下《した》へご免蒙ります」
「若旦那、出来上りましたよ。見てください」
「そうかい、うまく出来たじゃねえか」
「それじゃァ、早速、ひやかしにひと廻り行ってらっしゃい」
「それじゃァ、その箪笥《たんす》に着物があるから出してくれ。着換えるから……」
「そのままでいいじゃァありませんか」
「そうはいかねえよ。着物を着換えて行かなくちゃァ面白くないんだよ」
「そういうもんですか? じゃァこれ、どうです?」
「おゥ、これはなァ古渡《こわた》り唐桟《とうざん》てな、こういうのを着なくちゃァひやかせねえんだよ。身幅も狭いだろう? 七五三、五分廻しってえンだ。こいつァなァ懐手《ふところで》してさッと歩いているてえと、内腿《うちもも》が見《め》えなくちゃァいけねえんだ。ひやかすにゃあ……ものは鉄火《てつか》に行かなくちゃァいけねえんだ。算盤玉《そろばんだま》の三尺を、ここできゅッと結んでおいてな」
「この着物の袂《たもと》は変わってますね」
「これァ平袖《ひらそで》ってんだよ」
「どうして袂がないんです?」
「そりゃァなあ、おめえ、吉原を歩いていて、ひやかし同士で突き当たったら、喧嘩が始まるよ。妓《おんな》が格子に掴まってみんな見てらァ、謝《あや》まるやつはいないよ、なあァ。だから、どーんと突き当たるとたんに、ばァばァーんと殴るんだ。……殴るか殴られるかだァ。そンとき袂があると、拳固《げんこ》がつかえちゃう。この野郎って殴ろうと思っても拳固がすぐ出ねえと、向うに先に殴られちまわァ。だからよゥ、いつでもかかっていけるように、懐《ふところ》ン中へ拳固を固めてもってるんだよ」
「えェー、おっそろしいもんですねェ」
「この手拭い、よく見てごらん。こいつァ�瓶《かめ》覗き�ってえんだ。え? これをこう……吉原被《よしわらかむ》りしてなあ」
「どうして?」
「夜露が毒だってやつよ」
「ここは二階だから、心配ないでしょ?」
「なに言ってんだ。ここは二階じゃァない……向うへ行ってひやかすつもりになんなきゃァいけねえんだからな……だれか来ても二階へ上げちゃァいけねえよ」
「へえ、畏まりました。じゃァ、お好きなように、どうぞ行ってらっしゃいませ」
「じゃァ、行ってくるから……」
「遅くなったって構わないんですから、どうぞ、ごゆっくり……あたくしはこれで階下《した》へご免蒙ります」
「……ェェどんな具合いかねェ。へェー、きれいだねェ。よく出来たねえェ。二階に吉原が出来りゃァこっちのものだ。……ええッ、どうだい、茶屋の行燈にちゃんと灯りが入ってらァ、いいじゃァねえかァ……え? 見世《みせ》張ってんな、妓《おんな》が……有難てえなァ、え? 妓夫台があって、若い衆《し》がいやァがる……え? ひとつひやかしてやるかなァ……。
※[#歌記号、unicode303d]ェェーェェーいッ、
え? だれも、いねえェこりゃ、ね、こりゃ寂しいねェ、こりゃ……でも、こんな晩がねえ……とも限らねえンだね、うん。吉原てェところはよくあるんだよ。行ってるうちに……物日(紋日)になると、客はみんなどんどんどんどん登楼《あが》っちゃう。ひやかしももうくたびれちまって……帰《けえ》ってしまう、大引《おおび》け過ぎってえ時分だねェ、新内流しが遠くから聞こえてくる。按摩《あんま》の笛が横丁から聞こえてくる。あたりがしィーんとしているところを、ひやかして歩いてるってえのも、またいいな。……今夜はそういう晩だ。
※[#歌記号、unicode303d]ふたァーつゥーゥうう、うゥ枕がァァァー、
『どうだい? 忙しいかい? え? なにォ、暇《ひま》ですゥ? なにォ言ってやンでえ。暇なことねえじゃァねえか。え? お客が放っとくだけのことじゃァねえか。なにォ言ってやンでえ。え? うゥん、え? 登楼《あが》ってくれ? 駄目、駄目だい。これからおめえ、ひやかすンだ。冗談言っちゃァいけねえや。また来るよ。ね、帰りに登楼《あが》るよ。うゥん。』
※[#歌記号、unicode303d]おしゃァーべェリィ、ならばァーァァ……
『ちッと、ちッ、ちッ、おゥ、と、ちッ、ちッ……』
『なァーんだよォ』
『ちッ、ちッ、いらっしゃいッ、いらっしゃいッ、話があるンだからさァ……』
『……いやァだァーよッ』
『まァ、そんなことォ言わねえで……いいじゃァねえ。……ねッ、ねッ、ちッ、ちッ、ちょいと、ちょいと……』
※[#歌記号、unicode303d]なんのォー因果でェー、あの人ォーにぃー
『なんてえ妓《おんな》だい? なに、うん。たよりさん? ふゥん、顔を見せろよ、顔を……なんだい、たよりって顔じゃないよ。ご無沙汰して申しわけないって顔だ』
※[#歌記号、unicode303d]晴れてェ雲間にィ……
『おい、なにをするんだよォ、おッ、おいッ、いやァだってンだよ。……冗談言うねェ、おめえ、おれァひやかしィだってんだよ』
『でもさァー、お願いしますよォ、ねッ? あたしィ助けてくださいッ』
『やだよッ』
『登楼《あが》ンないとねッ、番頭ォが……』
『やだッてンだよッ』
『それがッ……』
こりゃァ忙しいなァ……こりゃ、忙しい、なにからなにまで自分で演《や》ンなくちゃァなんねェ。
※[#歌記号、unicode303d]日ィびーィに、喧ン嘩ァァァー
『こんばんはァ』
※[#歌記号、unicode303d]絶えェーェーやーァせぬゥーゥゥかァ……
『ちょいと……ちょいとォ……』
『うゥ?』
『さ、一服おあがンなさいな、兄さん』
『おれ、かい? 済まねえなァ……』
『いいや、済まなかないよォ……あたしゃァ、おまえさんが好きだからさァ』
『うゥ?』
『もう今夜、遅いンだよ、ねェ、おまえさん、ねェ、ちょいと、兄ィさん。今夜ァ、登楼《あが》ってもらえない? え? いえ、無理に泊めちゃァ悪いンだけどもね。昨晩《ゆうべ》も一昨日《おととい》の晩もお茶ァ引いちゃって……ンだもの、ご内所にねェ、きまりが悪いンだよォ。だからこんな遅くまでここでお客ゥ呼んでンの。ね、兄さん、助けると思って、登楼《あが》ってくンな、ね』
『駄目なんだい。まだ吉原《なか》ァ廻るンだ』
『廻るったってもう、おまえさん、みんな寝ちゃってるよォ。ねェ、そんなことォ言わないで、登楼《あが》ってよ』
『やだよ』
『いいじゃないかねェ、……え? ちょいと、ちょいとォ、兄さん、ねェ、後生だから……え? 登楼《あが》ンないの? よすの? ひやかして行っちゃうの?……ふン、どこィ行ったって寝るとこなんぞ、ありゃァしないよッ。なんだいッ、ほんとうに、登楼《あが》れねえんだろ? 度胸ォねンだろッ』
『なに言ってやんでえッ、登楼《あが》れねえことねえやいッ。気に入らねえから、登楼《あが》らねえンだッ。こっちで気に入りゃァ身請けしてやらァ』
『なんだァッ? 気に入らないッ、大きな口をきくんじゃァないよ。なに言ってンだ、畜生ッ……どこが気に入らねえンだい。うゥッ、登楼《あが》りたくとも銭がねえんだろ? 銭なしッ』
『銭なしとォはなんでェッ。あるかねえかわかるけえッ?』
『わかるよッ、見りゃァわかるよッ、ほんとうに……。後生だから助けると思って登楼《あが》ってよッて妓《おんな》に言われりゃァ、男ってえものは登楼《あが》るもんだよ。え? なにしに来てるんだ。銭がねえんだろ? あったら銭を見せやがれッ、そうしちゃァ煙草のんで逃げちまいやがら、泥棒ッ』
『泥棒ッとはなんでェッ、畜生ッ。客を泥棒たァなんだァッ』
『なんだァッ、客だッ? ふざけたことォ言やがンなッ。客ッてえのは登楼《あが》るから客だッ、なに言ってやンでえ、ほんとうにッ、え? 野宿でもしゃがれッ、まごまごするな、畜生めッ』
『おゥ、おゥ、おゥッ、なんだァ、なんだァッ』
『なんだじゃァねえよ。こん畜生ッ』
『おゥ、よせやいッ。いけねえなァ、おめえ、なんでえ、妓《おんな》なんぞ対手《あいて》にして喧嘩なんぞ、するねいッ』
『だって、しゃくに触るじゃねえか、おめえ』
『しゃくに触るからッたって、そんなことぐずぐず言うなよゥ。え? そんなにおめえ、喧嘩ァしてえのかよゥ。喧嘩してえなら、おれが対手《あいて》ンなってやろうじゃァねえか』
『なァにをッ、対手ンなる? おゥ、売るのかい? 喧嘩ァ。買おうじゃねえか……あたりめえだァな、ほんとうにッ、もって来いッ』
『なにをッ?』
『もって来いってんだよゥ』
『さァッ……この野郎ッ』(と殴る)
『痛ェッ……こん畜生ッ。殴りやがったな、こん畜生ッ。この野郎ォッ!(と殴る)おれをだれだと思ってェやんだァッ。さァ、何人でもかかって来いッ、ほんとうにッ、え? おゥ、こっちァ命ィいらねえんだッ。さァッ、殺せッ、畜生ッ、殺せッ』
『なにを生意気なことォ言ってんだッ……』(と、殴りつづける)
『痛ェッ! こん畜生ッ』(と殴り返し)
『さァッ、殺せェーッ! 吉原《なか》で殺されりゃあ、本望だッ……殺しやがれッ! 殺せェーッ!』
※[#歌記号、unicode303d]ェェーェェーいッ、
え? だれも、いねえェこりゃ、ね、こりゃ寂しいねェ、こりゃ……でも、こんな晩がねえ……とも限らねえンだね、うん。吉原てェところはよくあるんだよ。行ってるうちに……物日(紋日)になると、客はみんなどんどんどんどん登楼《あが》っちゃう。ひやかしももうくたびれちまって……帰《けえ》ってしまう、大引《おおび》け過ぎってえ時分だねェ、新内流しが遠くから聞こえてくる。按摩《あんま》の笛が横丁から聞こえてくる。あたりがしィーんとしているところを、ひやかして歩いてるってえのも、またいいな。……今夜はそういう晩だ。
※[#歌記号、unicode303d]ふたァーつゥーゥうう、うゥ枕がァァァー、
『どうだい? 忙しいかい? え? なにォ、暇《ひま》ですゥ? なにォ言ってやンでえ。暇なことねえじゃァねえか。え? お客が放っとくだけのことじゃァねえか。なにォ言ってやンでえ。え? うゥん、え? 登楼《あが》ってくれ? 駄目、駄目だい。これからおめえ、ひやかすンだ。冗談言っちゃァいけねえや。また来るよ。ね、帰りに登楼《あが》るよ。うゥん。』
※[#歌記号、unicode303d]おしゃァーべェリィ、ならばァーァァ……
『ちッと、ちッ、ちッ、おゥ、と、ちッ、ちッ……』
『なァーんだよォ』
『ちッ、ちッ、いらっしゃいッ、いらっしゃいッ、話があるンだからさァ……』
『……いやァだァーよッ』
『まァ、そんなことォ言わねえで……いいじゃァねえ。……ねッ、ねッ、ちッ、ちッ、ちょいと、ちょいと……』
※[#歌記号、unicode303d]なんのォー因果でェー、あの人ォーにぃー
『なんてえ妓《おんな》だい? なに、うん。たよりさん? ふゥん、顔を見せろよ、顔を……なんだい、たよりって顔じゃないよ。ご無沙汰して申しわけないって顔だ』
※[#歌記号、unicode303d]晴れてェ雲間にィ……
『おい、なにをするんだよォ、おッ、おいッ、いやァだってンだよ。……冗談言うねェ、おめえ、おれァひやかしィだってんだよ』
『でもさァー、お願いしますよォ、ねッ? あたしィ助けてくださいッ』
『やだよッ』
『登楼《あが》ンないとねッ、番頭ォが……』
『やだッてンだよッ』
『それがッ……』
こりゃァ忙しいなァ……こりゃ、忙しい、なにからなにまで自分で演《や》ンなくちゃァなんねェ。
※[#歌記号、unicode303d]日ィびーィに、喧ン嘩ァァァー
『こんばんはァ』
※[#歌記号、unicode303d]絶えェーェーやーァせぬゥーゥゥかァ……
『ちょいと……ちょいとォ……』
『うゥ?』
『さ、一服おあがンなさいな、兄さん』
『おれ、かい? 済まねえなァ……』
『いいや、済まなかないよォ……あたしゃァ、おまえさんが好きだからさァ』
『うゥ?』
『もう今夜、遅いンだよ、ねェ、おまえさん、ねェ、ちょいと、兄ィさん。今夜ァ、登楼《あが》ってもらえない? え? いえ、無理に泊めちゃァ悪いンだけどもね。昨晩《ゆうべ》も一昨日《おととい》の晩もお茶ァ引いちゃって……ンだもの、ご内所にねェ、きまりが悪いンだよォ。だからこんな遅くまでここでお客ゥ呼んでンの。ね、兄さん、助けると思って、登楼《あが》ってくンな、ね』
『駄目なんだい。まだ吉原《なか》ァ廻るンだ』
『廻るったってもう、おまえさん、みんな寝ちゃってるよォ。ねェ、そんなことォ言わないで、登楼《あが》ってよ』
『やだよ』
『いいじゃないかねェ、……え? ちょいと、ちょいとォ、兄さん、ねェ、後生だから……え? 登楼《あが》ンないの? よすの? ひやかして行っちゃうの?……ふン、どこィ行ったって寝るとこなんぞ、ありゃァしないよッ。なんだいッ、ほんとうに、登楼《あが》れねえんだろ? 度胸ォねンだろッ』
『なに言ってやんでえッ、登楼《あが》れねえことねえやいッ。気に入らねえから、登楼《あが》らねえンだッ。こっちで気に入りゃァ身請けしてやらァ』
『なんだァッ? 気に入らないッ、大きな口をきくんじゃァないよ。なに言ってンだ、畜生ッ……どこが気に入らねえンだい。うゥッ、登楼《あが》りたくとも銭がねえんだろ? 銭なしッ』
『銭なしとォはなんでェッ。あるかねえかわかるけえッ?』
『わかるよッ、見りゃァわかるよッ、ほんとうに……。後生だから助けると思って登楼《あが》ってよッて妓《おんな》に言われりゃァ、男ってえものは登楼《あが》るもんだよ。え? なにしに来てるんだ。銭がねえんだろ? あったら銭を見せやがれッ、そうしちゃァ煙草のんで逃げちまいやがら、泥棒ッ』
『泥棒ッとはなんでェッ、畜生ッ。客を泥棒たァなんだァッ』
『なんだァッ、客だッ? ふざけたことォ言やがンなッ。客ッてえのは登楼《あが》るから客だッ、なに言ってやンでえ、ほんとうにッ、え? 野宿でもしゃがれッ、まごまごするな、畜生めッ』
『おゥ、おゥ、おゥッ、なんだァ、なんだァッ』
『なんだじゃァねえよ。こん畜生ッ』
『おゥ、よせやいッ。いけねえなァ、おめえ、なんでえ、妓《おんな》なんぞ対手《あいて》にして喧嘩なんぞ、するねいッ』
『だって、しゃくに触るじゃねえか、おめえ』
『しゃくに触るからッたって、そんなことぐずぐず言うなよゥ。え? そんなにおめえ、喧嘩ァしてえのかよゥ。喧嘩してえなら、おれが対手《あいて》ンなってやろうじゃァねえか』
『なァにをッ、対手ンなる? おゥ、売るのかい? 喧嘩ァ。買おうじゃねえか……あたりめえだァな、ほんとうにッ、もって来いッ』
『なにをッ?』
『もって来いってんだよゥ』
『さァッ……この野郎ッ』(と殴る)
『痛ェッ……こん畜生ッ。殴りやがったな、こん畜生ッ。この野郎ォッ!(と殴る)おれをだれだと思ってェやんだァッ。さァ、何人でもかかって来いッ、ほんとうにッ、え? おゥ、こっちァ命ィいらねえんだッ。さァッ、殺せッ、畜生ッ、殺せッ』
『なにを生意気なことォ言ってんだッ……』(と、殴りつづける)
『痛ェッ! こん畜生ッ』(と殴り返し)
『さァッ、殺せェーッ! 吉原《なか》で殺されりゃあ、本望だッ……殺しやがれッ! 殺せェーッ!』
「(二階のほうを見上げながら)伜のやつァ、偶《たま》に家《うち》にいると思うと、大きな声を出しやァがって、喧嘩ァしてやがる。……こりゃァ一人じゃァねえぞ? こりゃ、しようがねえな……おい、定吉《さだきち》ッ、定ァ」
「へえィ」
「二階でなんか大きな声ェ出して喧嘩してるな?」
「へえ?」
「おまえ、二階へ行って、やかましいッ、大きな声ェ出しちゃァいけねえって、言ってきな」
「ヘえィ」
「行ってきな」
「……あーッ、きれいだなァー、灯りがついて……、あッ、だれか?……頬被りして、……泥棒? 泥棒だッ。……おやッ? 若旦那だァ、なァーんだ、若旦那かァ、……一人で自分の胸倉ァ締めてやがン……。若旦那ッ、……若旦那ッ」
「さァッ、殺せッ! 何人でもかかって来いッてんだッ!」
「若旦那ッ、若旦那ッ」
「なにを生意気なことォ言いやがってッ……てめえなんざァ、おれがァ……」
「若旦那ッ、若旦那ッ……」
「なんだァ、肩なんぞ叩きやがって……おゥ、畜生ッ、なにをしやがんだッ……おや、定吉かァ?」
「へェいィ」
「悪いところで会ったなァ、……おゥ、定吉、おれにここで会ったってことォ、家に帰《けえ》ったら、親父《おやじ》に内緒にしてくれ」
「へえィ」
「二階でなんか大きな声ェ出して喧嘩してるな?」
「へえ?」
「おまえ、二階へ行って、やかましいッ、大きな声ェ出しちゃァいけねえって、言ってきな」
「ヘえィ」
「行ってきな」
「……あーッ、きれいだなァー、灯りがついて……、あッ、だれか?……頬被りして、……泥棒? 泥棒だッ。……おやッ? 若旦那だァ、なァーんだ、若旦那かァ、……一人で自分の胸倉ァ締めてやがン……。若旦那ッ、……若旦那ッ」
「さァッ、殺せッ! 何人でもかかって来いッてんだッ!」
「若旦那ッ、若旦那ッ」
「なにを生意気なことォ言いやがってッ……てめえなんざァ、おれがァ……」
「若旦那ッ、若旦那ッ……」
「なんだァ、肩なんぞ叩きやがって……おゥ、畜生ッ、なにをしやがんだッ……おや、定吉かァ?」
「へェいィ」
「悪いところで会ったなァ、……おゥ、定吉、おれにここで会ったってことォ、家に帰《けえ》ったら、親父《おやじ》に内緒にしてくれ」