木乃伊取《みいらと》り
「旦那様、若旦那のおいでになっているところがやっとわかりました」
「そうかえ、佐兵衛さん、どこにいたんだえ」
「吉原の、角《かど》海老《えび》……とか申す楼《うち》に、お遊びになっているということを、やっと突きとめたんでございますが……」
「呆《あき》れたもんだ。え? 今日で四日になるじゃないか」
「だれかお迎えにやりたいと存じますが、ああいうご気性のかたでいらっしゃいますから、また変にこじれたりして、かえってその依怙地《いこじ》になられてお帰りがないと困りますから、てまえがお迎えに参ろうかと存じますが」
「そうしてくれれば有難いが、じゃァすぐに行ってくれるか」
「へェ、吉原などというところはよく存じませんが、とにかくこれから参ってみることにいたします」
「それじゃご苦労だが、なにぶんよろしく頼むよ」
「へい。承知いたしました」
と、番頭の佐兵衛が若旦那を迎えに行ったが、その晩は帰って来ない。ことによるとなにか話が縺《もつ》れて、明日の朝は帰って来るだろうと待っていたが……昼になり夜になり、二日|経《た》ち三日過ぎ、五日待ったが帰って来ない。
「どうも呆れたもんだ。番頭のやつは、きっとあたくしがお連れ申しますなんて出て行ったが、伜と一緒になって遊んでいやァがるに違いない。じつにどうも、呆れてものが言えない。こんどはね、おまえがなんと言っても伜は勘当する」
「そんな、短気なことを……一人しかない伜を勘当できませんよ、あなた」
「できるもできないもないやね、帰って来ないものは……」
「番頭を迎えにやって帰らないから、それで勘当するというのは少し無茶じゃァありませんか。だいたい佐兵衛は、あたくしはふだんから気に入りません。口では堅そうなことを言っておりますが、芯《しん》はどういうものか疑っておりましたら、やはりこんなことに……どうもあの番頭は親身《しんみ》なところがございませんから。鳶頭《かしら》に頼んだらどうでしょう?」
「うゥん、そうだな。あの男なら大丈夫だろう」
「鳶頭《かしら》ならたしかでございますし、派手な付合いもいたしておりますし、ああいう場所《ところ》の振り合いもよくわかっておりましょうから」
「いいところへ気がついた。うんうん、早速、鳶頭を呼びにやろう」
「ああ、来たか? こっちへ通してくれ……よゥ鳶頭ァ、忙しいところを呼び出して済まないね」
「どうも旦那、元旦の朝にちょっとご挨拶に上がったっきりで、つい新春《はる》のことで、飲んでばかりいるんで、どうもごぶさたをして済みません」
「いやァ……じつはな、鳶頭《かしら》を呼びにやったのは、ほかじゃァないが……」
「へえへえ、よろしゅうがす、わかっております。あのゥ蔵のほうでござんしょ? 気にしてえたんでござんすよ。やっぱりねェ、仕上げるところは仕上げておかなくちゃァいけねえもんでがすから、ええ、よろしゅうござんす。これからすぐ左官屋のほうへ話をして、早速職人を差向《まわ》します。足場ァ組まして、すぐ仕事にかからせやすから……」
「おい、いや、その……蔵のことじゃァないんだ」
「蔵のことじゃァない……ああ、貸家のほうでござんすか。あれァやっぱり根継《ねつ》ぎをしなくちゃァいけませんで、へえ。もう少しはよかろうてえ間《うち》に、家をいためちまっちゃァ、なんにもなりませんからねェ。いまの間《うち》に根継ぎをしたほうが、とあっしも思ってたんで、へえ。わけァねえンでござんす。あいつァこのきりん[#「きりん」に傍点]てえやつで捲きまして……。ようがす、大工《でえく》のほうへなにして……すぐに……」
「まァまァ、おまえだけ一人でしゃべってちゃァ、なにがなんだかわからなくなる。仕事のことで呼びにやったんじゃァない。じつは、困ったことが出来たんだ」
「……? なんで……」
「じつは、家《うち》の伜が……」
「そうですか……亡くなったんで?」
「おい、正月早々、縁起の悪いことを言いなさんな。伜のやつが三日に年始に出たっきり帰って来ない。まァ八方捜したところ、吉原の角海老というところで遊んでいるという。どうしようてえと、番頭の佐兵衛が『あたしがお迎えに参ってお連れいたしましょう』と出かけて行ったが、今日で五日も帰って来ない。一緒に遊んでいるに違いない。もう腹が立ってたまらないから、伜を勘当しちまおうと言ったところが、婆さんの言うには、まァ、そんな気短なことを言わないで、鳶頭《かしら》に頼んでみたらどうだ。派手な付合いをして、鳶頭ならああいう場所《ところ》の振り合いがよくわかっているから、そのほうがよかろうと言うわけで、ま、まことに迷惑な使いだが、おまえにひとつ迎えに行ってもらいたいが、どうだろう?」
「へッへへへ、そうでがすか、若旦那がねェ。なるほど無理はありませんやねェ。若旦那なんぞお年は若《わけ》えし、男っぷりはいいし、旦那と違って金遣《かねづけ》えなんぞも……えへッ、なんでがす、まァねェ……へえ、そりゃもう……女の子がとォんと来るのァあたりまえでがす。向うがいい心持に遊んでるところィ行って……『さ、いますぐ帰っとくんねえ』なんてんで帝釈様《たいしやくさま》の掛物みてえに目を三角にして、引っ立てて来るなんてなァ、あんまりいい役廻りじゃァありませんけども……。いえいえ。そりゃァふだんお世話になりまして、祖父《じじい》の代《でえ》から出入りをさしてもらいまして……腐った絆纏《はんてん》の一枚も戴いて……」
「おまえも言いたいことを言う男だなァ、なんだい? その腐った絆纏……」
「いえいえ。へへ、そういうわけじゃァねえんで。絆纏なんぞを腐るほど戴いておりますし……」
「どうでも構わないが、おまえさんが行ってくれりゃァ……」
「えェえ、あッしが行きゃァ、四の五の[#「四の五の」に傍点]言わせやァしやせん、へえ。まごまごしやがったら、腕ェ叩き折って……」
「そんな乱暴なことをしちゃァいけない。喧嘩じゃァないから、じゃァひとつ穏やかに連れて帰ってくれりゃァ……」
「まァ任せておくんなさい。どんなことをしたってきっと若旦那を連れて参ります。大丈夫ですからまァ旦那、ご安心なさいまし」
これから鳶頭は刺子拵《さしつここしら》えをして、家を出て日本堤へかかると、向うから幇間《たいこもち》の一八が現われて、
「おォや、鳶頭《かしら》どちらへいらっしゃいます?」
「なんだ、一八か」
「へッへへへ、なんだ一八か、はないでしょう。どちらへ? え? お急ぎで……」
「ちょいと、野暮用《やぼよう》だよ」
「野暮用? へッへへへ……おっしゃったね、あなた。堤《どて》を通って、どこへ行くくらいのことはちゃんと寸法がわかっていますよ。ねえ、久しくここはお供をしませんがぜひ……ひとつゥ、お供を願おうじゃありませんか。ねえ、親方ァ」
「うるせえな。駄目だよ」
「そんなこと言わないで、連れてってくださいよ」
「今日はいけねえんだ」
「なんですよ。親方ァ、そんな怖い顔をして。あたしゃ……もうねえ、あなたを放さないよ。どこへでも付いて行きますから……」
「付いて来ちゃァいけねえ。そんなどころじゃねえんだ。今日はちょいとこみ入った話がある」
「こみ入るも入らないもないよ、あなた。もう決して離れないから」
「こん畜生、よせ」
振り切ると、向うへ突き飛ばして、鳶頭の足は速い、どんどん駈け出して角海老へ入った。
……二階へ上がって、
「さァ若旦那、あたしがお迎えに参りましたンですから、どうか顔を立ててどうしても帰っておくんなせえ」
鳶頭は居丈高に、意見をしているところへ、さっきの幇間が……、
「どうも鳶頭ァ、いまほどは[#「いまほどは」に傍点]……」
って繰り込んで来た。
「まァまァ鳶頭……とにかく一杯戴きましょうよ」
これからわッ[#「わッ」に傍点]と遊興《さわぎ》になって、あとはどがちゃが[#「どがちゃが」に傍点]になって……、鳶頭は五日経っても帰って来ない。
「どうも旦那、元旦の朝にちょっとご挨拶に上がったっきりで、つい新春《はる》のことで、飲んでばかりいるんで、どうもごぶさたをして済みません」
「いやァ……じつはな、鳶頭《かしら》を呼びにやったのは、ほかじゃァないが……」
「へえへえ、よろしゅうがす、わかっております。あのゥ蔵のほうでござんしょ? 気にしてえたんでござんすよ。やっぱりねェ、仕上げるところは仕上げておかなくちゃァいけねえもんでがすから、ええ、よろしゅうござんす。これからすぐ左官屋のほうへ話をして、早速職人を差向《まわ》します。足場ァ組まして、すぐ仕事にかからせやすから……」
「おい、いや、その……蔵のことじゃァないんだ」
「蔵のことじゃァない……ああ、貸家のほうでござんすか。あれァやっぱり根継《ねつ》ぎをしなくちゃァいけませんで、へえ。もう少しはよかろうてえ間《うち》に、家をいためちまっちゃァ、なんにもなりませんからねェ。いまの間《うち》に根継ぎをしたほうが、とあっしも思ってたんで、へえ。わけァねえンでござんす。あいつァこのきりん[#「きりん」に傍点]てえやつで捲きまして……。ようがす、大工《でえく》のほうへなにして……すぐに……」
「まァまァ、おまえだけ一人でしゃべってちゃァ、なにがなんだかわからなくなる。仕事のことで呼びにやったんじゃァない。じつは、困ったことが出来たんだ」
「……? なんで……」
「じつは、家《うち》の伜が……」
「そうですか……亡くなったんで?」
「おい、正月早々、縁起の悪いことを言いなさんな。伜のやつが三日に年始に出たっきり帰って来ない。まァ八方捜したところ、吉原の角海老というところで遊んでいるという。どうしようてえと、番頭の佐兵衛が『あたしがお迎えに参ってお連れいたしましょう』と出かけて行ったが、今日で五日も帰って来ない。一緒に遊んでいるに違いない。もう腹が立ってたまらないから、伜を勘当しちまおうと言ったところが、婆さんの言うには、まァ、そんな気短なことを言わないで、鳶頭《かしら》に頼んでみたらどうだ。派手な付合いをして、鳶頭ならああいう場所《ところ》の振り合いがよくわかっているから、そのほうがよかろうと言うわけで、ま、まことに迷惑な使いだが、おまえにひとつ迎えに行ってもらいたいが、どうだろう?」
「へッへへへ、そうでがすか、若旦那がねェ。なるほど無理はありませんやねェ。若旦那なんぞお年は若《わけ》えし、男っぷりはいいし、旦那と違って金遣《かねづけ》えなんぞも……えへッ、なんでがす、まァねェ……へえ、そりゃもう……女の子がとォんと来るのァあたりまえでがす。向うがいい心持に遊んでるところィ行って……『さ、いますぐ帰っとくんねえ』なんてんで帝釈様《たいしやくさま》の掛物みてえに目を三角にして、引っ立てて来るなんてなァ、あんまりいい役廻りじゃァありませんけども……。いえいえ。そりゃァふだんお世話になりまして、祖父《じじい》の代《でえ》から出入りをさしてもらいまして……腐った絆纏《はんてん》の一枚も戴いて……」
「おまえも言いたいことを言う男だなァ、なんだい? その腐った絆纏……」
「いえいえ。へへ、そういうわけじゃァねえんで。絆纏なんぞを腐るほど戴いておりますし……」
「どうでも構わないが、おまえさんが行ってくれりゃァ……」
「えェえ、あッしが行きゃァ、四の五の[#「四の五の」に傍点]言わせやァしやせん、へえ。まごまごしやがったら、腕ェ叩き折って……」
「そんな乱暴なことをしちゃァいけない。喧嘩じゃァないから、じゃァひとつ穏やかに連れて帰ってくれりゃァ……」
「まァ任せておくんなさい。どんなことをしたってきっと若旦那を連れて参ります。大丈夫ですからまァ旦那、ご安心なさいまし」
これから鳶頭は刺子拵《さしつここしら》えをして、家を出て日本堤へかかると、向うから幇間《たいこもち》の一八が現われて、
「おォや、鳶頭《かしら》どちらへいらっしゃいます?」
「なんだ、一八か」
「へッへへへ、なんだ一八か、はないでしょう。どちらへ? え? お急ぎで……」
「ちょいと、野暮用《やぼよう》だよ」
「野暮用? へッへへへ……おっしゃったね、あなた。堤《どて》を通って、どこへ行くくらいのことはちゃんと寸法がわかっていますよ。ねえ、久しくここはお供をしませんがぜひ……ひとつゥ、お供を願おうじゃありませんか。ねえ、親方ァ」
「うるせえな。駄目だよ」
「そんなこと言わないで、連れてってくださいよ」
「今日はいけねえんだ」
「なんですよ。親方ァ、そんな怖い顔をして。あたしゃ……もうねえ、あなたを放さないよ。どこへでも付いて行きますから……」
「付いて来ちゃァいけねえ。そんなどころじゃねえんだ。今日はちょいとこみ入った話がある」
「こみ入るも入らないもないよ、あなた。もう決して離れないから」
「こん畜生、よせ」
振り切ると、向うへ突き飛ばして、鳶頭の足は速い、どんどん駈け出して角海老へ入った。
……二階へ上がって、
「さァ若旦那、あたしがお迎えに参りましたンですから、どうか顔を立ててどうしても帰っておくんなせえ」
鳶頭は居丈高に、意見をしているところへ、さっきの幇間が……、
「どうも鳶頭ァ、いまほどは[#「いまほどは」に傍点]……」
って繰り込んで来た。
「まァまァ鳶頭……とにかく一杯戴きましょうよ」
これからわッ[#「わッ」に傍点]と遊興《さわぎ》になって、あとはどがちゃが[#「どがちゃが」に傍点]になって……、鳶頭は五日経っても帰って来ない。
「婆さん、見ねえ。行くやつ行くやつみんな木乃伊取《みいらと》りが木乃伊になっちまやァがる。番頭は堅いと思ったら帰らない。鳶頭はさんざん啖呵《たんか》を切って行ったが、また鉄砲玉だ。どいつもこいつも呆れ返《けえ》ったもんだ。こうなると、婆さん、おまえが恨みだ。伜のことと言うと陰になり日向《ひなた》になり、あたしの目褄《めつま》を忍んで金をやったりなにかするから、いい気になって、とうとういい道楽者になっちまった。だいたいあんな道楽者を拵《こさ》えたのは、おまえが悪いんだ」
「お父っつァんはなにかあの伜《こ》に悪いことがあると、おまえが悪いとおっしゃるが、あなた、そう頑固なことを言ったっていけませんよ。若い者《もん》ですから道楽もしかたがございません。意見するところはして……」
「おまえがそういうことを言ってるからいけないんだよ。おまえが要《い》りもしない余計な金をあてがったりするから、ああいう道楽者が出来上がるんだ。なんだ? 遣《つか》うことばかりで儲けることは知りゃがらねえで、あたしなんぞはねェ、あいつと違って、若い間《うち》から道楽なんてえなあ、これっぱかりもしたことがない」
「お父っつァんはなにかと言うと、おれは堅くって道楽はしない、とおっしゃいますが、そりゃあなたは外《そと》の道楽はなさいませんよ。その代り家《うち》ィおく女中はみんなあなた……」
「なにを言ってるんだ。いまそんな話をしてるんじゃァない。……あんな伜にこの身上《しんしよう》は譲れません。子のないものと諦《あきら》めればそれまでだ、勘当をしてしまおう。叱言も意見ももう言い飽きた……だれだ、そこへ来たのは?」
「ちょッくら、ご免なすっておくんなせえ」
「なんだ? 権助の清蔵じゃァねえか」
「へえ」
「なにしに来た?」
「はァ、若旦那がお帰《けえ》んなさらねえんで、さぞかしご心配な事《こん》だんべえと思って、そんでおらがかげながらお心のうちをお察し申しますで……」
「まァおまえも、そうして気を揉んでくれるのかい。有難うよ。でもおまえがいくら気を揉んでも無駄だから……あっちへ行ってなさい。伜のことでむしゃくしゃしているところへ、そうずかずか座敷へ入って来ちゃァいけねえよ」
「そこでがすよ。はァおめえさまたちが夜《よ》の目も寝ねえで心配《しんぺえ》ぶってるのを、なんぼ権助だって知ンねえ顔をしているわけにいかねえでさ。……そんでおらが今度、ちょっくら行ってくべえと思うが……」
「余計なとこへ口出しをしなくてもいいてんだ。番頭が行き、鳶頭《かしら》が行ってさえ帰らないものを、おまえなんぞが行って、なんで帰って来るわけがあるんだ。おまえは余計なとこへ口出しをしなくても、飯《めし》の焦《こ》げないように台所にいりゃァいいんだ」
「こりゃァ……ちょっくら伺うべえ」
「なにを伺う?」
「そりゃァ、おらァ台所をまごついて、竃《へつつい》の前《めえ》へ坐って、飯焦げねえようにすれば給金を貰ってられるだども、それじゃァはァ人間《ひと》の道に欠けるべえと思う。まァ、仮にここな家へ泥棒が入《へえ》って……」
「いつ入るんだ」
「いや、いつ入るじゃねえ。こりゃ、ま、ものの譬《たとえ》だでな。泥棒が入って、金ェ盗られるべえじゃァねェ、あんたが泥棒におッ殺されて……」
「なにを言うんだ」
「いやァ、怒っちゃいかねえ。だがら、こりゃま、ものの譬だ」
「そんな、いやな譬があるか」
「……おッ殺されべえちゅうときに、おらァ飯炊《まンまた》きだから、飯《まんま》せえ焦げなければええから言《ち》ッて、台所におらが蹲《つくば》ってるわけには、いかなかんべえ。泥棒と一騎打ち勝負をぶって、あんたァ助けるのがおらァ、人の道だんべえと思う。おらァの言うことに間違いはねえはずだ。ちょっくら伺いてえ」
「それごらんなさい、あなた。清蔵に一本やられましたろう」
「余計なことを言うな」
「あなたはまァ、がみがみ言って、それじゃァものはまとまるもんじゃありませんよ。……清蔵、おまえなにかい、伜を迎えに行っておくれかい?」
「はあ、よろしゅうごぜえます。おらが行かば決して間違《まちげ》えはねえ、きっと若旦那ァ首ン縄ァ付けても、しょ引《ぴ》いて来るだで、心配《しんぺえ》ぶたねえほうがええ。いま、支度ゥぶちやすから……」
清蔵は、二階へ上がって、郷里《くに》から持って来た文庫の蓋をとって、手織木綿《ておりもめん》の、昆布《こんぶ》の皮のようなごつごつした裄丈《ゆきたけ》の短い着物を着て、茶だか紺だかもう色のわからなくなった小倉の一本|独鈷《どつこ》の帯を胸高に締めて、熊の皮で拵えた自慢の煙草入れを前へ差して、一昨年《おととし》買った草履《ぞうり》を大事そうに出して、二階からのそのそ降りて来る。裏口から出ようとすると、内儀《おかみ》さんが待っていて、
「清蔵……おまえ、伜に会ったら、お父っつァんは、ああして大変怒ってらっしゃるが、あたしがなんとでも詫びごとはするから、少しも早く帰って来るように、もしも勘定が足りないといけないから、この巾着をおまえ持ってって勘定を済まして伜を連れて帰っておくれ、いいかい……」
「(巾着を内懐へ入れ)有難てえもんだねェ。……あんだにへえ、道楽《のら》べえこいてる若旦那ァ、そんだに心配《しんぺえ》ぶちなさるだな。ようがす、おらが、あンと言っても若旦那ァ、しょ引いて来るだで、大丈夫だァ、これァはァ確かに預かりました」
「じゃァ頼むよ」
「ようがす。じゃァ行って参《めえ》ります」
「お父っつァんはなにかあの伜《こ》に悪いことがあると、おまえが悪いとおっしゃるが、あなた、そう頑固なことを言ったっていけませんよ。若い者《もん》ですから道楽もしかたがございません。意見するところはして……」
「おまえがそういうことを言ってるからいけないんだよ。おまえが要《い》りもしない余計な金をあてがったりするから、ああいう道楽者が出来上がるんだ。なんだ? 遣《つか》うことばかりで儲けることは知りゃがらねえで、あたしなんぞはねェ、あいつと違って、若い間《うち》から道楽なんてえなあ、これっぱかりもしたことがない」
「お父っつァんはなにかと言うと、おれは堅くって道楽はしない、とおっしゃいますが、そりゃあなたは外《そと》の道楽はなさいませんよ。その代り家《うち》ィおく女中はみんなあなた……」
「なにを言ってるんだ。いまそんな話をしてるんじゃァない。……あんな伜にこの身上《しんしよう》は譲れません。子のないものと諦《あきら》めればそれまでだ、勘当をしてしまおう。叱言も意見ももう言い飽きた……だれだ、そこへ来たのは?」
「ちょッくら、ご免なすっておくんなせえ」
「なんだ? 権助の清蔵じゃァねえか」
「へえ」
「なにしに来た?」
「はァ、若旦那がお帰《けえ》んなさらねえんで、さぞかしご心配な事《こん》だんべえと思って、そんでおらがかげながらお心のうちをお察し申しますで……」
「まァおまえも、そうして気を揉んでくれるのかい。有難うよ。でもおまえがいくら気を揉んでも無駄だから……あっちへ行ってなさい。伜のことでむしゃくしゃしているところへ、そうずかずか座敷へ入って来ちゃァいけねえよ」
「そこでがすよ。はァおめえさまたちが夜《よ》の目も寝ねえで心配《しんぺえ》ぶってるのを、なんぼ権助だって知ンねえ顔をしているわけにいかねえでさ。……そんでおらが今度、ちょっくら行ってくべえと思うが……」
「余計なとこへ口出しをしなくてもいいてんだ。番頭が行き、鳶頭《かしら》が行ってさえ帰らないものを、おまえなんぞが行って、なんで帰って来るわけがあるんだ。おまえは余計なとこへ口出しをしなくても、飯《めし》の焦《こ》げないように台所にいりゃァいいんだ」
「こりゃァ……ちょっくら伺うべえ」
「なにを伺う?」
「そりゃァ、おらァ台所をまごついて、竃《へつつい》の前《めえ》へ坐って、飯焦げねえようにすれば給金を貰ってられるだども、それじゃァはァ人間《ひと》の道に欠けるべえと思う。まァ、仮にここな家へ泥棒が入《へえ》って……」
「いつ入るんだ」
「いや、いつ入るじゃねえ。こりゃ、ま、ものの譬《たとえ》だでな。泥棒が入って、金ェ盗られるべえじゃァねェ、あんたが泥棒におッ殺されて……」
「なにを言うんだ」
「いやァ、怒っちゃいかねえ。だがら、こりゃま、ものの譬だ」
「そんな、いやな譬があるか」
「……おッ殺されべえちゅうときに、おらァ飯炊《まンまた》きだから、飯《まんま》せえ焦げなければええから言《ち》ッて、台所におらが蹲《つくば》ってるわけには、いかなかんべえ。泥棒と一騎打ち勝負をぶって、あんたァ助けるのがおらァ、人の道だんべえと思う。おらァの言うことに間違いはねえはずだ。ちょっくら伺いてえ」
「それごらんなさい、あなた。清蔵に一本やられましたろう」
「余計なことを言うな」
「あなたはまァ、がみがみ言って、それじゃァものはまとまるもんじゃありませんよ。……清蔵、おまえなにかい、伜を迎えに行っておくれかい?」
「はあ、よろしゅうごぜえます。おらが行かば決して間違《まちげ》えはねえ、きっと若旦那ァ首ン縄ァ付けても、しょ引《ぴ》いて来るだで、心配《しんぺえ》ぶたねえほうがええ。いま、支度ゥぶちやすから……」
清蔵は、二階へ上がって、郷里《くに》から持って来た文庫の蓋をとって、手織木綿《ておりもめん》の、昆布《こんぶ》の皮のようなごつごつした裄丈《ゆきたけ》の短い着物を着て、茶だか紺だかもう色のわからなくなった小倉の一本|独鈷《どつこ》の帯を胸高に締めて、熊の皮で拵えた自慢の煙草入れを前へ差して、一昨年《おととし》買った草履《ぞうり》を大事そうに出して、二階からのそのそ降りて来る。裏口から出ようとすると、内儀《おかみ》さんが待っていて、
「清蔵……おまえ、伜に会ったら、お父っつァんは、ああして大変怒ってらっしゃるが、あたしがなんとでも詫びごとはするから、少しも早く帰って来るように、もしも勘定が足りないといけないから、この巾着をおまえ持ってって勘定を済まして伜を連れて帰っておくれ、いいかい……」
「(巾着を内懐へ入れ)有難てえもんだねェ。……あんだにへえ、道楽《のら》べえこいてる若旦那ァ、そんだに心配《しんぺえ》ぶちなさるだな。ようがす、おらが、あンと言っても若旦那ァ、しょ引いて来るだで、大丈夫だァ、これァはァ確かに預かりました」
「じゃァ頼むよ」
「ようがす。じゃァ行って参《めえ》ります」
権助の清蔵は、もとより見栄も素っ気もない。頭髪《あたま》はもうぼうぼうと伸びて、顔はむく[#「むく」に傍点]犬のように髭がもじゃもじゃと生《は》え、おまけに鼻毛が五分も伸びて、せっせと歩くので呼吸《いき》をするたびに出たり引っこんだりして、くしょんくしょんくしゃみをする。前を見ると熊の皮の煙草入れに橙《だいだい》の根付けがぶらさがってる。懐手をして吉原へ入って来て、角海老は訊いてすぐわかったが、夜と違って昼の廓《くるわ》はひっそりとして寂しい。
角海老の前まで来て、突っ立って中を覗いてると、若い衆が出て来て、
「へえ、いらっしゃいまし」
「ちょっくら訊くが、汝《われ》がとこは角海老か?」
「へえ、さようでございます」
「じゃァ、おらとこの若旦那、汝《わが》とこに来てべえ」
「へえへえ……ェェ、お茶屋はどちらでいらっしゃいます?」
「そんだなことは、おらァ知ンねえが、若旦那と佐兵衛さんてえ番頭さんと、そりから、喜太郎てえ鳶頭《かしら》と三人で来ているだな。そう言わばわかんねえこともなかんべえに……いねえのなんのと、隠し立てすると、為《ため》ンなンねえぞ」
「えッへッへッ、別に隠し立てはいたしません、はァはァ。お三《さん》かたのお客様と……ああ、確か丸小《まるこ》のお客様でございましょう。それならばおいでになっております」
「おらの来たこと、ちょっくら若旦那に取り次げ」
「はァはァ、お迎えで、いらっしゃるんでげすか?……あァ、さようでげすか。へッへッへへ、どうもお寒いところをご苦労様でございます。どうも……へへへへへ」
「あンだ、この野郎。おかしくもねえことを、えへらえへら笑やァがって。笑うだら、あははと笑ったらよかんべ。あンだ、鼻の先でいひひひ……蔑《さげす》み笑《われ》えと言って、よくねえ笑《われ》えかただ。肋骨《ろつこつ》の三枚目から声が出ねえか……この野郎。汝《われ》の面《つら》ァ……天庭《てんてえ》(額《ひたい》)に曇りがあって、はなはだ相好《そうこう》のよくねえ野郎だ。おらァ来たことをちょっくら若旦那へ取り次げ。取り次がねえと野郎、ぶっ張り返《けえ》すぞ!」
「へえへえ、お取り次ぎをいたします。少々お待ちを願いまして、まっぴらごめんくださいまし」
若い衆は面くらって二階へ飛んで行って、
「ェェ、あのゥ恐れ入りますが、ちょっとお静まりを願いまして……ェェご一同様へ申し上げます。ちょっとお目にかかりたいというかたがお出《い》でになりましたが、如何いたしましょう」
「おうおう、喜助じゃねえか……入んな、入んな。飲ましてやんな。おう、こっちィ入《へえ》れ」
「いえ……若旦那へお使いがお出でになりました」
「だれが来たって? また迎えだろう? どしどしこっちィ上げて飲ましてやれ。親父《おやじ》のほうじゃ、また怒って、どんどん迎えを寄越すに違《ちげ》えねえから、来たやつは大勢こっちへ溜めてな、だんだん賑やかにしようてんだ、はははは……面白いだろう」
「へへへ……へへ、それがどうも、いままでのお使いと違いまして、おッそろしく風変わりなかたがいらっしゃいました、ええ。わたしがへへへと笑いましたら、いきなり叱言を食らいました。へへへだなんてえのは蔑み笑いと言って、よくない笑いかただ、肋骨の三枚目から声を出せなんてことは素人《しろうと》には気がつきませんからな、へえ。天庭に曇りがあって、はなはだ相好のよくない面だァとおっしゃいました。人相見のかたじゃァございませんか?」
「ふーん、親父もまた変なものを寄越したもんだな……だれだろう? 番頭」
「さあ、わかりませんなァ……どんな身装《なり》をしていたい?」
「なにか、手織木綿のような、手丈夫な着物で……あ、熊の皮の煙草入れを前に差して……」
「あァあ、わかった……わかりました」
「だれだい?」
「熊の皮の煙草入れを持っているんなら、余人じゃァありませんよ。台所のあれ[#「あれ」に傍点]ですよ、清蔵ですよ」
「ぷッ……親父も変な者を寄越しゃァがったな……いいよ、いいよ、上げな上げな……こっちへ。若い衆、心配の者じゃァない。家《うち》の飯炊《めした》きだ。清蔵という、人間はちょいと頑固なようだが、あれァとぼけたところもあって面白いやつなんだ」
「お宅の……あれが飯炊《めした》き……ぷッ……恐れ入りましたなァどうも……。若旦那のような粋なお宅ィ、よくまた、あんな頑固なやつを飼っていらっしゃるんで……」
「この野郎っ、あンだっ」
「へえ、これはもうお上がりでございますか……ェェお迎えの旦那様はこのかたでございます」
「野郎、はァおらが後にいるのを知らねえで、この野郎。犬や猫でもあンめえし、飼っとくだなんて言《こき》ゃァがって、面ァ見れば手のひらァ返したように、旦那だなんて言《こき》ゃァがって、人を上げたり下げたりしゃァがる。この野郎、殴《は》っくり返《けえ》すぞ」
「へえ、どうぞご免くださいまし」
「おいおい清蔵、なんだ、見栄の場所へ来て、荒ッぽいことを言っちゃいけねえ。ま、こっちィ入んな」
「ひゃァ、これは、若旦那ァ、まァご免なすっておくんなせえ……番頭さん、鳶頭《かしら》、このたびはお迎えに長《なげ》えことご苦労さんでごぜえました。……あンだまァ、番頭、あんた店《たな》ァ出るときゃ、汝《われ》が行って連れべえなん言《ち》ったそうだが、あンだ、その態《ざま》は、え? 店《うち》の白鼠《しろねずみ》(忠実な奉公人の意)だなんて、白鼠ではねえ溝鼠《どぶねずみ》だ。ばか野郎! 鳶頭もそうだ……腕ェ叩き折っても四の五の言わせねえで連れて帰《けえ》るってえことを言《こ》いたが、あンだ、くそったれ。あンだまァ……踊り、えかく上手《うめ》えでねえか。まっと踊ったらよかんべえ。※[#歌記号、unicode303d]奴さん、どちら行くゥ、でもあンめえねえ。どけェでも行けや、ばか野郎。鳶頭《かしら》、鳶頭ってえば、ええ気になりゃァがってェ、あにがかしら[#「かしら」に傍点]だ、この芋頭《いもがしら》」
「ははははは……おい、清の字、おい。そうとんがる[#「とんがる」に傍点]なよ。しようがねえんだよ、え? 大旦那の前《めえ》じゃちょいと啖呵《たんか》ァ切ったけども、さてここへ来るてェとそうも言えねえ、いろいろわけがあるんだからよ、ま、へへへ……そう怒るなよ。まァ大将、こっちィ来て、機嫌を直して、一杯《いつぺえ》飲め。おうッ、大将、一杯飲みなよ、大将……」
「あンだ、大将、大将って……おらァ戦さしたことねェ……やァ女子《おなご》たち、そう三味線をジャンガラジャンガラかン廻しては、騒がしくて話ぶてねえから、少しやめてくらっせえ……これこれ太鼓《てえこ》叩く姐さん、太鼓《てえこ》ぶっぱたくでねえ、このばか野郎! さがってろ!……まっほかの者はええ。……ェェ若旦那様、あなたもなァ、いつまでもここにいたかんべえが、大旦那や、おふくろ様がえらい心配《しんぺえ》ぶってるから、おらがのような者でもはァ見かねてからに、若旦那のお迎《むけ》えに出ましたようなわけで、どうかいッぺんおらがと一緒にお帰《けえ》んなすってくだせえまし」
「いや、忠義者の清蔵、よく迎えに来てくれた。そりゃァ有難てえが、どうもおれはまだ二、三日帰る心持ちにならねえから、折角だが、今日は帰らねえよ」
「はァ、二、三日なにかね、お帰《けえ》りになる心持にならねえかね。お帰《けえ》りになろうという心持ち出れば、お帰《けえ》りになるだね?」
「ああそうだよ。おれァなにもこの楼《うち》に生涯いるわけじゃァねえんだから、帰《けえ》れと言われなくたって帰るよ。でもまだ帰ろうてえ心持ちにならねえんだ。帰りたくなったら帰るんだから、おめえがその、変な顔をしなくってもいいんだよ」
「それではちょっくらこれをごらんに入れますが……この巾着ゥあんた見覚えがあんべえに。おふくろ様のこれァ巾着だァ。どうかこれで、勘定が足ンねえようなことがあったらば、済まして、伜ェ連れて帰ってくんろッてえ。大旦那は勘当ぶつなんて言ってるが、どうだにでもおらが詫び言するから、どうか帰るように伜に言ってくんろッて、親てえものァあんた、有難てえもんだよォ。寝る目も寝ねえで若旦那のことォ心配《しんぺえ》ぶってるんだァねェ。どうかこの巾着に免じてお帰《けえ》んなせえ」
「ああ、わかった。じゃ、巾着だけはおれが預かる。だからそれを置いておめえは先ィ帰ンな。おれが受け取るんだから間違《まちげ》えはねえじゃねえか、そうしなよ」
「それじゃァあにけえ、巾着だけ置いて、おらだけ帰《けえ》るッてえ……へへ、子供の使《つけ》えじゃァあんめえし、そんなばかことォ言わねえで。おらァ首ィ縄ァ付けてもきっと、しょ引《ぴ》いてくべえて約束《だめしき》して来たでねェ。まァ、そんだなことを言わねえで、おらァ面《つら》ァ立てて帰っとくんなせえ、ね、お願《ねげ》えだから、お帰《けえ》ンなせえ。ねェ、若旦那、ねェ、帰《けえ》って……」
「うるせえッ、なにょゥ言ってやンでえ。なんだ、首ィ縄ァ付けて引っぱっててえなあ。狆《ちん》ころじゃァねえや、なに言ってやンでえ。おまえなんぞにぐずぐず言われることァないよ。おれは主人で、おめえは家の奉公人じゃねえか。おめえがなんか言ってると、酒がまずくなるから、帰《けえ》ンな帰《けえ》ンな。ぐずぐず言ってるとおれァ暇ァ出すぞ……」
「あんだってェ?」
「いや、親父《おやじ》になり代って、おれが暇ァ出すてんだよ」
「そんじゃァあにけえ、おらがこうだに(両手をつき)頼んでも、あんた駄目けえ。帰《けえ》ンねえけえ。行《い》かねえ……帰《けえ》らねえけえ?」
「くどいよッ、おらァ帰らねえッたら帰らねえ、いやだ……いやだ」
「あンだ、言うに事欠《ことけ》ェておらに暇ァやるだってえ? 貰うべえ……暇ァ貰うべえ。汝《われ》のほうでいてくれと頼んでも、おらがほうでいねえぞ、この……ばか野郎ッ。これほどに言ってあぜ[#「あぜ」に傍点]帰《けえ》らねえ、汝《われ》が帰《けえ》らねえと言って、おらだけ帰《けえ》るわけになンねェ。こうならば野郎、腕ずくでしょ引《ぴ》いて行くだぞ。妨《さまた》げェぶつやつがあらば、どいつこいつの容赦はねえ、こんでも村相撲の大関は取った男だ。野郎……覚悟ォぶてェ」
「まァまァまァ、穏やかでない、覚悟と来ましたよ……お帰りになったほうがようがすよ」
「ああ、おいおい、いまのァ冗談だ、冗談だよ、ええ? まァ悪かった悪かった……じゃおまえの顔ォ立ってあたしは帰《かい》る。いまのは冗談が過ぎた、悪いところはあたしがおまえに両手をついて謝るから、まァこのとおりだ……清蔵、済まなかった。どうかまァ勘弁しておくれ」
「あれ、若旦那、どうぞお手を上げてくだせえ、それでは済まねえ。ご主人様に手を下げさしては済まねえ……あァ有難てえ、じゃァわしのような者の言うことを聞いておくンなさるか。わしゃァお暇ァ出てもええだよ。おふくろ様ァ寝る目も寝ねえであんたのことォ、心配《しんぺえ》ぶっていなさるだ……どうか一遍だけ家ィ帰っておくんなせえ……お願《ねげ》えだ」
「わかった、わかったよ。めそめそ泣きなさんなよ、……どうも女郎屋の二階で泣かれちゃァ困るじゃァねえかなァ。ああ、よしよし、じゃおまえの顔を立って帰るが、ここの楼《うち》へ悪いじゃァねえか。こうして座が白けちまって、このまんまじゃァなんだから、�立つ鳥あとを濁《にご》さず�という譬もあるから、ここで一杯ちょいと飲んで、みんなでわッと笑ったところで引き上げてやれば、ここの楼《うち》も大変喜ぶんだが……じゃ、清蔵、一杯だけ付き合ってもらえるかい?」
「若旦那せえお帰《けえ》ンなすっておくんなさりゃ、そんだなことァどうでもええ」
「じゃァおい、酒を、早く早く、いや、それがいい……いや、こっちの、その大きいほうで、清蔵に一杯飲ましてな……飲みな、飲みな、なんだい……それァいけないな。おまえが飲まないてんじゃ、みんなが遠慮して飲まないじゃァないか。めでたい酒だ。景気をつけて帰るんだから、飲めよ」
「なるほど、お帰《けえ》りになるめでてえ酒だで、そんじゃァまァ一杯《いつぺえ》だけおらァよばれべえ。こんだに大《で》けえ器《もん》で飲んだら酔っぱらっちまう……そうかね、姐《ねえ》さんお酌《しやく》してくれるか……大《で》けえ器《もん》だから半分でええちいに……こんなにまァ、えかく注いじゃこりゃ、口からお迎えだ、こりゃァ。ふふ……あァ……いい酒だねえ、こりゃ。おらたちァはァ、こんだな酒はめったに飲めねえから……安くなかんべえに……番頭さん、これなにけ、一合どのくれえ取る?」
「冗談じゃァない。見栄の場所で酒の値段を訊くやつがあるか」
「そうかね。じゃ黙ってよばれべえ、へへ……やァ、えかく旨《うめ》えだ、そんじゃ、ご馳走に……こんでまァ、ご納盃《のうへえ》に……」
「なんだい、もう飲んじまったのかい? 早いね。こっちァこれから飲むんだよ。もう一杯付き合いな、え? もう一杯だけ、いいじゃァないか。ものは一《しと》つてえなあなんだ、きまりのつかないもんだから、もう一つ重ねて飲みなよ、もう一杯だけ……」
「もう勘弁しとくんなせえ、そうだにおらァ駄目《だみ》だよ。もういっぺえ飲んでるだでねェ。酔っぱらっちまうで……ェえ? まァ一杯《いつぺえ》だけだって? そんじゃァ、あとァ飲まねえで、えェかえ? そうだに飲《や》っちゃァ駄目《だみ》だァな、こらァ、大《で》っけえ器《もん》だで……そんじゃァ姐さん、済《す》んませんが、まァ一杯《いつぺえ》だけ、え? こんだァいっぺえ注がねえで、半分でええだ。あァ、あァあァ、もう半分で、あァッ(手を添え)あァあァ、そ、だ、だだ……駄目《だみ》だァな。姐さん、徳利《とつくり》でこう押《お》っぺすからいかねえ。おゥおゥ勿体《もつてえ》ねえ。こら、口からお迎えだ……おほ……そんだが、まァ若旦那ァお帰《けえ》ンなすっとくなされァ、大旦那も喜びなさるだよ。野郎もう勘当ぶつだァ、なんてねェ。えへへへへ、えかく怒鳴《がな》っていなされたが、やァあんた一人っ子だで、勘当ぶてっこねえ、大丈夫だよ。えへへ、おふくろ様も安心すべえ。いや、まァ番頭さんにも鳶頭《かしら》にも済ンませんで、溝鼠《どぶねずみ》だの芋頭《いもがしら》だなんて、えへへへ、おらァ腹にあるでねえがねェ。若旦那に帰《けえ》ってもれえてえで、おらァあァだなことを言って、どうかまァ許しとくんなせえ。(と一と口飲む)あンだって? へァ……お肴《さかな》ァくださるてェ。やァそりゃ済ンませんで。はいはい、そんじゃァ、えへへ、頂戴すべえ……やァ、えかく旨そうなもんだねこら……こりゃあンだね? 甘えような酸《す》っぺえような、あンてえ魚だな、ふン? 魚じゃァねえ、杏《あんず》だって? 杏けえ、こらァ。うッふふ、道理でおらァ骨がねえと思った。杏にァ骨がねえで(と飲み干し)ご馳走さんで……そンじゃァこンでご納盃に……」
「なんだなァ、おめえは飲むのもいいけども水ゥ飲んでるようだな、がぶがぶがぶっと飲んじまって……こっちゃァまだ碌に飲んでねえうちに。もう一杯付き合え、�駆けつけ三杯�てえ譬もあるから、もう一杯だけ。ぐッとおめえがひっかけて、いい気持になったとき、すっと引き上げることにするから、もう一杯飲みな」
「もう……勘弁しておくんなせえ。おらァ二杯《にへえ》、こんだな大きい器《もん》で飲んでるだでね、そんだに飲めね……え? まァ一杯だけだからって……そんじゃもう、ほんとうにあと一杯しか飲まねえ。こんだにおらァ飲んだことァねえね、二杯もやってる……え? いやもう……はははは。ま、いっぺえ注《つ》いでおくンなせえ、毎度《めえど》済ンませんで……あ、あ……ちょっくら足りなかんべえに、姐さん。へへへ、いやァ、やっぱり一杯ちゅうのはいっぱい入ってねえとねェ……気持悪いからね、まちっと足してもらうべえ。……あァッと……ととと……(いっぱい注がれて)まァ、有難てえ。こんだな、うめえ酒、久しぶりで……(ぐうゥと飲み)あァ、いい気持になってきたな、はははは……いやァ、芸者さんがた、おらァ大《で》けえ声で怒鳴《がな》ったから魂消《たまげ》たべえね、え? ははは、勘弁してくだせえ。あ、あんた、太鼓《てえこ》ぶっぱたくだな、あァ? うめえもんだねえ……いくつになるだ? うん? 叩きなせえ……あンだ、おじさんは恐《おつ》かねえからいやだ? ははは。いやァ、もう恐《おつ》かねえことはねえだよ、うん。可愛らしいねェ。いくつだ? 十三だって……うーん、十三かァ。そんだな時分から大勢に揉《も》まれるだでな、人が悪くなるのも無理はねェね。あァ、そんだな細ッけえ手で大《で》けえ撥《ばち》ィ持って、うめえもんだね、うん。商売《しようべえ》商売ッてなァ……(飲み)芸者さんがた、若旦那ァもうお帰りになりますだから、なんぞ聴かせておくんなせえ。若旦那、なんか聴かせてもらってよかんべえか、え? いいってね?……やってくんなせえ、おらも久しぶりだからね……あにがいいかな……鈴木|主水《もんど》かなんかどうだな、あァ、鈴木主水……知ンねえッて? あァ? 知んねえじゃしょンねえ。そんじゃァ、小栗判官照手姫《おぐりはんがんてるてひめ》なんかどうだァ、あァ? 涙の溢《こぼ》れるようなものをやってもらいてえね。……それも知ンねえって? あァ、なんにもわかんねえね。ふふふ、あんまりいい芸者じゃねえなァ、(と飲み)ふーん、吉原だから勤《つと》まるだね。ふふふ、そんなこっちゃァ、おらがの村へ来たら三日と持たねえな、こらァ」
「まァなんでもやらせるから……おい、かしく、なにをしてるんだな、おまえ。そんなとこでもじもじしてるやつがあるかな。構わねえから清蔵の傍へ行って、酌でもしてやんな」
「そうですか、じゃ済みません。うちの人に……ちょっと勘弁してくださいよ……さ、あなた、お酌をさしてください、ね? あなた」
「すんだがね、若旦那が……あにをするだな、あんた! ひとが話しッこぶってる最中《せえちゆう》におらに断わりもねえであんだってまァ、おらに……あんた、おやおや……いや、済ンませんね、へへへ、お酌してくださる? ははは……若旦那、この女《ひと》はえかくきれいだね。あンてえ色が白ッけえねえ、白《しら》っ子じゃあんめえね、くりゃ。おッほほ、おらン村では名主の嫁っこがはァ、器量よしだなン言《ち》ってるがねえ、これははァおそろしいきれいな女《あま》っ子だな」
「清蔵、遠慮するには及ばねえ、その傍《そば》にいるのは、おめえの敵娼《あいかた》に出した」
「ええ? おらがの敵娼? はァ無駄だよ若旦那、おらみてェな者に敵娼なんぞ……」
「かしくと言うんだ……可愛がってやんな。え? いやいや、ここはな、すぐ帰るにしても二階へ登楼《あが》れば、一人の敵娼が付くというのが、決めなんだから、ま、すぐに帰るにしてもそれまでは、おまえの女房になるんだから、可愛がってやんな」
「若旦那、あたし、この旦那に初会惚《しよかいぼ》れをしてしまったわ。あたしみたいな者《もん》でも……ねえ、可愛がってくださいよ。ねえ、あなた」
「……よせよ、ばかァこけェ……あははは、ばッき野郎。へへへへ、おらにおッ惚《ぽ》れたなんてね、あははは、ばかべえ言《こい》てやがら……よォせよ、へへへ、おらがみてえなこうだな面《つら》で、女《あま》っ子がおっ惚れるわけはねえだ」
「あら、いやだ。顔や形で惚れるんじゃないわよォ。わちきはお平《ひら》の長芋《ながいも》みたいな、にょろにょろした男は大嫌い。まァほんとうに頼もしいわ。手でもなんでも。まァこんなに毛が生えて……もくぞう[#「もくぞう」に傍点]蟹《がに》みたい……」
「よせよォ、へへへ……じゃれるな、ばかめ……へへへ、くすぐってェね、触るなって……くすぐっては駄目だよ。みんな見て笑うじゃァねえか。そんな可愛らしい小《ち》っこい手で、おらがような肉刺《まめ》だらけの手ェ撫でたりなんかして……よせってえばよゥ」
「まァ頼もしいわ。こういう堅い手で、いっぺん思い切り握ってもらいたいの。わちきの手をしっかり握ってくだいよ。ねェ、後生だから」
「えへへ、若旦那、女《あま》っ子が手ェ握ってくんろって、握ってやってええかね。ええけえ?」
「握ってやったらいいじゃねえか。どうだ、え? かしくと清蔵と並んだとこは、番頭、似合いだな」
「まったくですよ。鳶頭《かしら》、ね? どうです」
「ふふふ、ほんとだ。ははは、ばか似合いだよ。似合ったよ。あァ、いいよいいよ。握ってやれ、握ってやれ。ねえ若旦那、ようがすね」
「おう、いいよ。握んな、握んな」
「よおし、すんだら握ってやんべえ。あとで痛えったって放さねえぞ、ええけえ。若旦那もええねェ……よゥし、ほんこに握るぞ、さあ、握ってやんべえ。さァ出せ……握るぞ、ええけえ。それ握るぞ、にぎ……にぎ……いいひッ……よゥすべえ、おらァ、駄目だァね、ははは(腋《わき》の下をくすぐられて)よォせちば。じゃれるな、ばかだなこら、はッはは(またくすぐられ)……やァ、こうだな女《あま》っ子と道楽《のら》ァこいてるだでなァ、はっは、帰れっちゅうおらのほうが無理かもすンねえ」
「おいおい、清蔵、とろけるなとろけるな。さァさ、支度はいいかい? そろそろ引き上げよう。帰ろう」
「若旦那、面白くてたまらねえ、二、三日いべえ……」
角海老の前まで来て、突っ立って中を覗いてると、若い衆が出て来て、
「へえ、いらっしゃいまし」
「ちょっくら訊くが、汝《われ》がとこは角海老か?」
「へえ、さようでございます」
「じゃァ、おらとこの若旦那、汝《わが》とこに来てべえ」
「へえへえ……ェェ、お茶屋はどちらでいらっしゃいます?」
「そんだなことは、おらァ知ンねえが、若旦那と佐兵衛さんてえ番頭さんと、そりから、喜太郎てえ鳶頭《かしら》と三人で来ているだな。そう言わばわかんねえこともなかんべえに……いねえのなんのと、隠し立てすると、為《ため》ンなンねえぞ」
「えッへッへッ、別に隠し立てはいたしません、はァはァ。お三《さん》かたのお客様と……ああ、確か丸小《まるこ》のお客様でございましょう。それならばおいでになっております」
「おらの来たこと、ちょっくら若旦那に取り次げ」
「はァはァ、お迎えで、いらっしゃるんでげすか?……あァ、さようでげすか。へッへッへへ、どうもお寒いところをご苦労様でございます。どうも……へへへへへ」
「あンだ、この野郎。おかしくもねえことを、えへらえへら笑やァがって。笑うだら、あははと笑ったらよかんべ。あンだ、鼻の先でいひひひ……蔑《さげす》み笑《われ》えと言って、よくねえ笑《われ》えかただ。肋骨《ろつこつ》の三枚目から声が出ねえか……この野郎。汝《われ》の面《つら》ァ……天庭《てんてえ》(額《ひたい》)に曇りがあって、はなはだ相好《そうこう》のよくねえ野郎だ。おらァ来たことをちょっくら若旦那へ取り次げ。取り次がねえと野郎、ぶっ張り返《けえ》すぞ!」
「へえへえ、お取り次ぎをいたします。少々お待ちを願いまして、まっぴらごめんくださいまし」
若い衆は面くらって二階へ飛んで行って、
「ェェ、あのゥ恐れ入りますが、ちょっとお静まりを願いまして……ェェご一同様へ申し上げます。ちょっとお目にかかりたいというかたがお出《い》でになりましたが、如何いたしましょう」
「おうおう、喜助じゃねえか……入んな、入んな。飲ましてやんな。おう、こっちィ入《へえ》れ」
「いえ……若旦那へお使いがお出でになりました」
「だれが来たって? また迎えだろう? どしどしこっちィ上げて飲ましてやれ。親父《おやじ》のほうじゃ、また怒って、どんどん迎えを寄越すに違《ちげ》えねえから、来たやつは大勢こっちへ溜めてな、だんだん賑やかにしようてんだ、はははは……面白いだろう」
「へへへ……へへ、それがどうも、いままでのお使いと違いまして、おッそろしく風変わりなかたがいらっしゃいました、ええ。わたしがへへへと笑いましたら、いきなり叱言を食らいました。へへへだなんてえのは蔑み笑いと言って、よくない笑いかただ、肋骨の三枚目から声を出せなんてことは素人《しろうと》には気がつきませんからな、へえ。天庭に曇りがあって、はなはだ相好のよくない面だァとおっしゃいました。人相見のかたじゃァございませんか?」
「ふーん、親父もまた変なものを寄越したもんだな……だれだろう? 番頭」
「さあ、わかりませんなァ……どんな身装《なり》をしていたい?」
「なにか、手織木綿のような、手丈夫な着物で……あ、熊の皮の煙草入れを前に差して……」
「あァあ、わかった……わかりました」
「だれだい?」
「熊の皮の煙草入れを持っているんなら、余人じゃァありませんよ。台所のあれ[#「あれ」に傍点]ですよ、清蔵ですよ」
「ぷッ……親父も変な者を寄越しゃァがったな……いいよ、いいよ、上げな上げな……こっちへ。若い衆、心配の者じゃァない。家《うち》の飯炊《めした》きだ。清蔵という、人間はちょいと頑固なようだが、あれァとぼけたところもあって面白いやつなんだ」
「お宅の……あれが飯炊《めした》き……ぷッ……恐れ入りましたなァどうも……。若旦那のような粋なお宅ィ、よくまた、あんな頑固なやつを飼っていらっしゃるんで……」
「この野郎っ、あンだっ」
「へえ、これはもうお上がりでございますか……ェェお迎えの旦那様はこのかたでございます」
「野郎、はァおらが後にいるのを知らねえで、この野郎。犬や猫でもあンめえし、飼っとくだなんて言《こき》ゃァがって、面ァ見れば手のひらァ返したように、旦那だなんて言《こき》ゃァがって、人を上げたり下げたりしゃァがる。この野郎、殴《は》っくり返《けえ》すぞ」
「へえ、どうぞご免くださいまし」
「おいおい清蔵、なんだ、見栄の場所へ来て、荒ッぽいことを言っちゃいけねえ。ま、こっちィ入んな」
「ひゃァ、これは、若旦那ァ、まァご免なすっておくんなせえ……番頭さん、鳶頭《かしら》、このたびはお迎えに長《なげ》えことご苦労さんでごぜえました。……あンだまァ、番頭、あんた店《たな》ァ出るときゃ、汝《われ》が行って連れべえなん言《ち》ったそうだが、あンだ、その態《ざま》は、え? 店《うち》の白鼠《しろねずみ》(忠実な奉公人の意)だなんて、白鼠ではねえ溝鼠《どぶねずみ》だ。ばか野郎! 鳶頭もそうだ……腕ェ叩き折っても四の五の言わせねえで連れて帰《けえ》るってえことを言《こ》いたが、あンだ、くそったれ。あンだまァ……踊り、えかく上手《うめ》えでねえか。まっと踊ったらよかんべえ。※[#歌記号、unicode303d]奴さん、どちら行くゥ、でもあンめえねえ。どけェでも行けや、ばか野郎。鳶頭《かしら》、鳶頭ってえば、ええ気になりゃァがってェ、あにがかしら[#「かしら」に傍点]だ、この芋頭《いもがしら》」
「ははははは……おい、清の字、おい。そうとんがる[#「とんがる」に傍点]なよ。しようがねえんだよ、え? 大旦那の前《めえ》じゃちょいと啖呵《たんか》ァ切ったけども、さてここへ来るてェとそうも言えねえ、いろいろわけがあるんだからよ、ま、へへへ……そう怒るなよ。まァ大将、こっちィ来て、機嫌を直して、一杯《いつぺえ》飲め。おうッ、大将、一杯飲みなよ、大将……」
「あンだ、大将、大将って……おらァ戦さしたことねェ……やァ女子《おなご》たち、そう三味線をジャンガラジャンガラかン廻しては、騒がしくて話ぶてねえから、少しやめてくらっせえ……これこれ太鼓《てえこ》叩く姐さん、太鼓《てえこ》ぶっぱたくでねえ、このばか野郎! さがってろ!……まっほかの者はええ。……ェェ若旦那様、あなたもなァ、いつまでもここにいたかんべえが、大旦那や、おふくろ様がえらい心配《しんぺえ》ぶってるから、おらがのような者でもはァ見かねてからに、若旦那のお迎《むけ》えに出ましたようなわけで、どうかいッぺんおらがと一緒にお帰《けえ》んなすってくだせえまし」
「いや、忠義者の清蔵、よく迎えに来てくれた。そりゃァ有難てえが、どうもおれはまだ二、三日帰る心持ちにならねえから、折角だが、今日は帰らねえよ」
「はァ、二、三日なにかね、お帰《けえ》りになる心持にならねえかね。お帰《けえ》りになろうという心持ち出れば、お帰《けえ》りになるだね?」
「ああそうだよ。おれァなにもこの楼《うち》に生涯いるわけじゃァねえんだから、帰《けえ》れと言われなくたって帰るよ。でもまだ帰ろうてえ心持ちにならねえんだ。帰りたくなったら帰るんだから、おめえがその、変な顔をしなくってもいいんだよ」
「それではちょっくらこれをごらんに入れますが……この巾着ゥあんた見覚えがあんべえに。おふくろ様のこれァ巾着だァ。どうかこれで、勘定が足ンねえようなことがあったらば、済まして、伜ェ連れて帰ってくんろッてえ。大旦那は勘当ぶつなんて言ってるが、どうだにでもおらが詫び言するから、どうか帰るように伜に言ってくんろッて、親てえものァあんた、有難てえもんだよォ。寝る目も寝ねえで若旦那のことォ心配《しんぺえ》ぶってるんだァねェ。どうかこの巾着に免じてお帰《けえ》んなせえ」
「ああ、わかった。じゃ、巾着だけはおれが預かる。だからそれを置いておめえは先ィ帰ンな。おれが受け取るんだから間違《まちげ》えはねえじゃねえか、そうしなよ」
「それじゃァあにけえ、巾着だけ置いて、おらだけ帰《けえ》るッてえ……へへ、子供の使《つけ》えじゃァあんめえし、そんなばかことォ言わねえで。おらァ首ィ縄ァ付けてもきっと、しょ引《ぴ》いてくべえて約束《だめしき》して来たでねェ。まァ、そんだなことを言わねえで、おらァ面《つら》ァ立てて帰っとくんなせえ、ね、お願《ねげ》えだから、お帰《けえ》ンなせえ。ねェ、若旦那、ねェ、帰《けえ》って……」
「うるせえッ、なにょゥ言ってやンでえ。なんだ、首ィ縄ァ付けて引っぱっててえなあ。狆《ちん》ころじゃァねえや、なに言ってやンでえ。おまえなんぞにぐずぐず言われることァないよ。おれは主人で、おめえは家の奉公人じゃねえか。おめえがなんか言ってると、酒がまずくなるから、帰《けえ》ンな帰《けえ》ンな。ぐずぐず言ってるとおれァ暇ァ出すぞ……」
「あんだってェ?」
「いや、親父《おやじ》になり代って、おれが暇ァ出すてんだよ」
「そんじゃァあにけえ、おらがこうだに(両手をつき)頼んでも、あんた駄目けえ。帰《けえ》ンねえけえ。行《い》かねえ……帰《けえ》らねえけえ?」
「くどいよッ、おらァ帰らねえッたら帰らねえ、いやだ……いやだ」
「あンだ、言うに事欠《ことけ》ェておらに暇ァやるだってえ? 貰うべえ……暇ァ貰うべえ。汝《われ》のほうでいてくれと頼んでも、おらがほうでいねえぞ、この……ばか野郎ッ。これほどに言ってあぜ[#「あぜ」に傍点]帰《けえ》らねえ、汝《われ》が帰《けえ》らねえと言って、おらだけ帰《けえ》るわけになンねェ。こうならば野郎、腕ずくでしょ引《ぴ》いて行くだぞ。妨《さまた》げェぶつやつがあらば、どいつこいつの容赦はねえ、こんでも村相撲の大関は取った男だ。野郎……覚悟ォぶてェ」
「まァまァまァ、穏やかでない、覚悟と来ましたよ……お帰りになったほうがようがすよ」
「ああ、おいおい、いまのァ冗談だ、冗談だよ、ええ? まァ悪かった悪かった……じゃおまえの顔ォ立ってあたしは帰《かい》る。いまのは冗談が過ぎた、悪いところはあたしがおまえに両手をついて謝るから、まァこのとおりだ……清蔵、済まなかった。どうかまァ勘弁しておくれ」
「あれ、若旦那、どうぞお手を上げてくだせえ、それでは済まねえ。ご主人様に手を下げさしては済まねえ……あァ有難てえ、じゃァわしのような者の言うことを聞いておくンなさるか。わしゃァお暇ァ出てもええだよ。おふくろ様ァ寝る目も寝ねえであんたのことォ、心配《しんぺえ》ぶっていなさるだ……どうか一遍だけ家ィ帰っておくんなせえ……お願《ねげ》えだ」
「わかった、わかったよ。めそめそ泣きなさんなよ、……どうも女郎屋の二階で泣かれちゃァ困るじゃァねえかなァ。ああ、よしよし、じゃおまえの顔を立って帰るが、ここの楼《うち》へ悪いじゃァねえか。こうして座が白けちまって、このまんまじゃァなんだから、�立つ鳥あとを濁《にご》さず�という譬もあるから、ここで一杯ちょいと飲んで、みんなでわッと笑ったところで引き上げてやれば、ここの楼《うち》も大変喜ぶんだが……じゃ、清蔵、一杯だけ付き合ってもらえるかい?」
「若旦那せえお帰《けえ》ンなすっておくんなさりゃ、そんだなことァどうでもええ」
「じゃァおい、酒を、早く早く、いや、それがいい……いや、こっちの、その大きいほうで、清蔵に一杯飲ましてな……飲みな、飲みな、なんだい……それァいけないな。おまえが飲まないてんじゃ、みんなが遠慮して飲まないじゃァないか。めでたい酒だ。景気をつけて帰るんだから、飲めよ」
「なるほど、お帰《けえ》りになるめでてえ酒だで、そんじゃァまァ一杯《いつぺえ》だけおらァよばれべえ。こんだに大《で》けえ器《もん》で飲んだら酔っぱらっちまう……そうかね、姐《ねえ》さんお酌《しやく》してくれるか……大《で》けえ器《もん》だから半分でええちいに……こんなにまァ、えかく注いじゃこりゃ、口からお迎えだ、こりゃァ。ふふ……あァ……いい酒だねえ、こりゃ。おらたちァはァ、こんだな酒はめったに飲めねえから……安くなかんべえに……番頭さん、これなにけ、一合どのくれえ取る?」
「冗談じゃァない。見栄の場所で酒の値段を訊くやつがあるか」
「そうかね。じゃ黙ってよばれべえ、へへ……やァ、えかく旨《うめ》えだ、そんじゃ、ご馳走に……こんでまァ、ご納盃《のうへえ》に……」
「なんだい、もう飲んじまったのかい? 早いね。こっちァこれから飲むんだよ。もう一杯付き合いな、え? もう一杯だけ、いいじゃァないか。ものは一《しと》つてえなあなんだ、きまりのつかないもんだから、もう一つ重ねて飲みなよ、もう一杯だけ……」
「もう勘弁しとくんなせえ、そうだにおらァ駄目《だみ》だよ。もういっぺえ飲んでるだでねェ。酔っぱらっちまうで……ェえ? まァ一杯《いつぺえ》だけだって? そんじゃァ、あとァ飲まねえで、えェかえ? そうだに飲《や》っちゃァ駄目《だみ》だァな、こらァ、大《で》っけえ器《もん》だで……そんじゃァ姐さん、済《す》んませんが、まァ一杯《いつぺえ》だけ、え? こんだァいっぺえ注がねえで、半分でええだ。あァ、あァあァ、もう半分で、あァッ(手を添え)あァあァ、そ、だ、だだ……駄目《だみ》だァな。姐さん、徳利《とつくり》でこう押《お》っぺすからいかねえ。おゥおゥ勿体《もつてえ》ねえ。こら、口からお迎えだ……おほ……そんだが、まァ若旦那ァお帰《けえ》ンなすっとくなされァ、大旦那も喜びなさるだよ。野郎もう勘当ぶつだァ、なんてねェ。えへへへへ、えかく怒鳴《がな》っていなされたが、やァあんた一人っ子だで、勘当ぶてっこねえ、大丈夫だよ。えへへ、おふくろ様も安心すべえ。いや、まァ番頭さんにも鳶頭《かしら》にも済ンませんで、溝鼠《どぶねずみ》だの芋頭《いもがしら》だなんて、えへへへ、おらァ腹にあるでねえがねェ。若旦那に帰《けえ》ってもれえてえで、おらァあァだなことを言って、どうかまァ許しとくんなせえ。(と一と口飲む)あンだって? へァ……お肴《さかな》ァくださるてェ。やァそりゃ済ンませんで。はいはい、そんじゃァ、えへへ、頂戴すべえ……やァ、えかく旨そうなもんだねこら……こりゃあンだね? 甘えような酸《す》っぺえような、あンてえ魚だな、ふン? 魚じゃァねえ、杏《あんず》だって? 杏けえ、こらァ。うッふふ、道理でおらァ骨がねえと思った。杏にァ骨がねえで(と飲み干し)ご馳走さんで……そンじゃァこンでご納盃に……」
「なんだなァ、おめえは飲むのもいいけども水ゥ飲んでるようだな、がぶがぶがぶっと飲んじまって……こっちゃァまだ碌に飲んでねえうちに。もう一杯付き合え、�駆けつけ三杯�てえ譬もあるから、もう一杯だけ。ぐッとおめえがひっかけて、いい気持になったとき、すっと引き上げることにするから、もう一杯飲みな」
「もう……勘弁しておくんなせえ。おらァ二杯《にへえ》、こんだな大きい器《もん》で飲んでるだでね、そんだに飲めね……え? まァ一杯だけだからって……そんじゃもう、ほんとうにあと一杯しか飲まねえ。こんだにおらァ飲んだことァねえね、二杯もやってる……え? いやもう……はははは。ま、いっぺえ注《つ》いでおくンなせえ、毎度《めえど》済ンませんで……あ、あ……ちょっくら足りなかんべえに、姐さん。へへへ、いやァ、やっぱり一杯ちゅうのはいっぱい入ってねえとねェ……気持悪いからね、まちっと足してもらうべえ。……あァッと……ととと……(いっぱい注がれて)まァ、有難てえ。こんだな、うめえ酒、久しぶりで……(ぐうゥと飲み)あァ、いい気持になってきたな、はははは……いやァ、芸者さんがた、おらァ大《で》けえ声で怒鳴《がな》ったから魂消《たまげ》たべえね、え? ははは、勘弁してくだせえ。あ、あんた、太鼓《てえこ》ぶっぱたくだな、あァ? うめえもんだねえ……いくつになるだ? うん? 叩きなせえ……あンだ、おじさんは恐《おつ》かねえからいやだ? ははは。いやァ、もう恐《おつ》かねえことはねえだよ、うん。可愛らしいねェ。いくつだ? 十三だって……うーん、十三かァ。そんだな時分から大勢に揉《も》まれるだでな、人が悪くなるのも無理はねェね。あァ、そんだな細ッけえ手で大《で》けえ撥《ばち》ィ持って、うめえもんだね、うん。商売《しようべえ》商売ッてなァ……(飲み)芸者さんがた、若旦那ァもうお帰りになりますだから、なんぞ聴かせておくんなせえ。若旦那、なんか聴かせてもらってよかんべえか、え? いいってね?……やってくんなせえ、おらも久しぶりだからね……あにがいいかな……鈴木|主水《もんど》かなんかどうだな、あァ、鈴木主水……知ンねえッて? あァ? 知んねえじゃしょンねえ。そんじゃァ、小栗判官照手姫《おぐりはんがんてるてひめ》なんかどうだァ、あァ? 涙の溢《こぼ》れるようなものをやってもらいてえね。……それも知ンねえって? あァ、なんにもわかんねえね。ふふふ、あんまりいい芸者じゃねえなァ、(と飲み)ふーん、吉原だから勤《つと》まるだね。ふふふ、そんなこっちゃァ、おらがの村へ来たら三日と持たねえな、こらァ」
「まァなんでもやらせるから……おい、かしく、なにをしてるんだな、おまえ。そんなとこでもじもじしてるやつがあるかな。構わねえから清蔵の傍へ行って、酌でもしてやんな」
「そうですか、じゃ済みません。うちの人に……ちょっと勘弁してくださいよ……さ、あなた、お酌をさしてください、ね? あなた」
「すんだがね、若旦那が……あにをするだな、あんた! ひとが話しッこぶってる最中《せえちゆう》におらに断わりもねえであんだってまァ、おらに……あんた、おやおや……いや、済ンませんね、へへへ、お酌してくださる? ははは……若旦那、この女《ひと》はえかくきれいだね。あンてえ色が白ッけえねえ、白《しら》っ子じゃあんめえね、くりゃ。おッほほ、おらン村では名主の嫁っこがはァ、器量よしだなン言《ち》ってるがねえ、これははァおそろしいきれいな女《あま》っ子だな」
「清蔵、遠慮するには及ばねえ、その傍《そば》にいるのは、おめえの敵娼《あいかた》に出した」
「ええ? おらがの敵娼? はァ無駄だよ若旦那、おらみてェな者に敵娼なんぞ……」
「かしくと言うんだ……可愛がってやんな。え? いやいや、ここはな、すぐ帰るにしても二階へ登楼《あが》れば、一人の敵娼が付くというのが、決めなんだから、ま、すぐに帰るにしてもそれまでは、おまえの女房になるんだから、可愛がってやんな」
「若旦那、あたし、この旦那に初会惚《しよかいぼ》れをしてしまったわ。あたしみたいな者《もん》でも……ねえ、可愛がってくださいよ。ねえ、あなた」
「……よせよ、ばかァこけェ……あははは、ばッき野郎。へへへへ、おらにおッ惚《ぽ》れたなんてね、あははは、ばかべえ言《こい》てやがら……よォせよ、へへへ、おらがみてえなこうだな面《つら》で、女《あま》っ子がおっ惚れるわけはねえだ」
「あら、いやだ。顔や形で惚れるんじゃないわよォ。わちきはお平《ひら》の長芋《ながいも》みたいな、にょろにょろした男は大嫌い。まァほんとうに頼もしいわ。手でもなんでも。まァこんなに毛が生えて……もくぞう[#「もくぞう」に傍点]蟹《がに》みたい……」
「よせよォ、へへへ……じゃれるな、ばかめ……へへへ、くすぐってェね、触るなって……くすぐっては駄目だよ。みんな見て笑うじゃァねえか。そんな可愛らしい小《ち》っこい手で、おらがような肉刺《まめ》だらけの手ェ撫でたりなんかして……よせってえばよゥ」
「まァ頼もしいわ。こういう堅い手で、いっぺん思い切り握ってもらいたいの。わちきの手をしっかり握ってくだいよ。ねェ、後生だから」
「えへへ、若旦那、女《あま》っ子が手ェ握ってくんろって、握ってやってええかね。ええけえ?」
「握ってやったらいいじゃねえか。どうだ、え? かしくと清蔵と並んだとこは、番頭、似合いだな」
「まったくですよ。鳶頭《かしら》、ね? どうです」
「ふふふ、ほんとだ。ははは、ばか似合いだよ。似合ったよ。あァ、いいよいいよ。握ってやれ、握ってやれ。ねえ若旦那、ようがすね」
「おう、いいよ。握んな、握んな」
「よおし、すんだら握ってやんべえ。あとで痛えったって放さねえぞ、ええけえ。若旦那もええねェ……よゥし、ほんこに握るぞ、さあ、握ってやんべえ。さァ出せ……握るぞ、ええけえ。それ握るぞ、にぎ……にぎ……いいひッ……よゥすべえ、おらァ、駄目だァね、ははは(腋《わき》の下をくすぐられて)よォせちば。じゃれるな、ばかだなこら、はッはは(またくすぐられ)……やァ、こうだな女《あま》っ子と道楽《のら》ァこいてるだでなァ、はっは、帰れっちゅうおらのほうが無理かもすンねえ」
「おいおい、清蔵、とろけるなとろけるな。さァさ、支度はいいかい? そろそろ引き上げよう。帰ろう」
「若旦那、面白くてたまらねえ、二、三日いべえ……」