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「みにくいあひるの子」だった私04

时间: 2019-09-22    进入日语论坛
核心提示:外国人恐怖症娘をアメリカ人のように育てたかった両親が、三歳になった私を、英語がしゃべれなければと考え、通常の幼稚園ではな
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外国人恐怖症

娘をアメリカ人のように育てたかった両親が、三歳になった私を、英語がしゃべれなければと考え、通常の幼稚園ではなく、アメリカン・スクールの保育園に入れたのは当然のなりゆきだったかもしれない。父親の仕事の関係で七歳のときに来日した母も、子どものころはアメリカン・スクールに通(かよ)っていた。
当の私にとってみれば、単身、動物園のオリの中に放り込まれたも同然。
母はアメリカ人だったが、家での日常会話はすべて日本語。自分の頭の中で考えるのも、日本語でやっていたと思う。七歳のとき以来、ずっと日本で生活してきたのだから、外見はともかく、内面は日本人そのものといってもいい。
よく、両親の国籍(こくせき)が違い、物心ついたころから両方の言語を使っていると、子どもは自然にバイリンガルになるといわれるが、私の場合は、完全に日本語オンリーで育てられたから、いくら顔だちが外国人風でも、いくら髪の色を染(そ)めたって、日本語しか理解できない。
アメリカン・スクールの児童はほとんどが在日外国人の子女(しじよ)で、先生も外国人。おそらく“帰国子女”だろう、私のほかに日本人の子も二人ほどいたが、みんな英語でペラペラやっているから、私にはまるでチンプンカンプン、別の星に迷(まよ)い込んでしまったみたいで、私だけいつもカヤの外。頭の中がすっかり混乱(こんらん)してしまって、三歳にして外国人恐怖症(きようふしよう)になってしまった。
アメリカン・スクールにはそれでも一年間通ったが、私だけはどうしてもみんなの輪の中に入ることができず、いつも砂場で一人寂(さび)しく、山をつくってはこわし、家をつくってはこわししていた。
私自身がアメリカン・スクールに行くのをいやがっていたし、父の母親もそうした孫(まご)の育て方に反対していた。そのうえ、アメリカン・スクールの先生からも、引導(いんどう)を渡された。
「おたくのお子さんは、日本の幼稚園に行かせたほうが、精神的にもいいと思いますよ」
これで父もようやく目が覚(さ)めたみたい。四歳からは、晴れて日本の幼稚園に通わせてもらえることになった。
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