「ああ、罰(ばち)はこれだったのか。おれが死んだら、妻子が路頭(ろとう)に迷(まよ)うことになる。こんなことなら、結婚するんじゃなかった。子どもなんかつくるんじゃなかった」
父の父、つまり私の祖父(そふ)は内科医で、親戚(しんせき)には脳外科(のうげか)医や歯科技工士もいる。品川区の戸越銀座(とごしぎんざ)に祖父が開業していた梅宮(うめみや)医院があり、いまは父の妹(私の叔母(おば))のご主人が継(つ)いでいる。
私が生まれた代々木上原(よよぎうえはら)の産婦人科医院は、親戚ではないけれど、お医者さん仲間の関係で、昔(むかし)から家族ぐるみの付き合いをしていた(のちに、ここが私の“緊急避難(きんきゆうひなん)場所”になる)。
親族にもお友だちにもお医者さんが多い中で、医者の長男のくせに映画の道に進んだ父は、一族の中でも特殊(とくしゆ)な存在だったに違いない。
祖父は戦前、満州(まんしゆう)(現在の中国東北部)で医者をしていたそうだが、まだ子どもだった父は、零下(れいか)何十度の雪の降る夜でも急患(きゆうかん)だからと出かけていく父親の姿を見て、「おれは医者だけはいやだ」と思うようになり、それで父親のあとを継がなかったのだと公言(こうげん)している。でも、本当のところは、たんに勉強嫌(ぎら)いのなまけ者だったからではないかと思っているのだけれども……。
父は当時売り出し中だった石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんに憧(あこが)れていた。大学在学中の二十歳(は た ち)のときに東映(とうえい)のオーディションに応募(おうぼ)したところ、運よく合格した。それで、そのまま映画の世界に進むことになったのであって、それほど強い動機があったとは思えない。
もともと体力があった父は、自分の身体(からだ)に気をつかったことなどなく、定期的な健康診断など受けたこともなかったと思う。親族に医者がいなかったら、自分の病気に気づいたときには確実に手遅れになっていただろう。そのときでさえ、「長くてもあと一年の命」といわれたという。
当時、そのことを知っていたのは、担当医以外では祖父母だけで、本人には告げられていなかったが、その後に受けた治療(ちりよう)などから、父は自分の病気に気づいていたそうだ。そして、大後悔(だいこうかい)——。
もともと親の反対を押し切って結婚したから、自分が死んだあと、嫁と子どもの面倒(めんどう)は見てはもらえないのではないかと思い、それがすごく気がかりだったのではないだろうか。