本人は気づいていたようだが、母はそのことをまったく知らず、一人でお気楽だった。いまの時代なら、放射線治療(ほうしやせんちりよう)などを受ければ、真っ先にガンではないかと疑うものだけれど、当時はいまのように情報がたくさんあるわけではない。
周囲の深刻そうな表情には気づいていたようだが、なぜみんなそんな顔をしているのか不思議(ふしぎ)でならなかったというから、のんきなものだこと。
それにしても、何度も放射線を浴(あ)び、それも通常の三倍もの量の治療を受け、激(はげ)しい脱力感(だつりよくかん)と嘔吐(おうと)で、父の闘病生活はそうとうにつらかったと聞いている。ただ、ふつうとは違っていたのは、父の髪の毛がまったく抜けることがなく、これには関係者の人たちもびっくりしたそうだ。
なにより驚いたのは、あちこちに転移していて、長くてあと一年といわれていたガンに、父が打ち勝ったこと。
結婚するんじゃなかった、子どもをつくるんじゃなかった——後悔(こうかい)はしたけれど、いまさらそんなことを言ってもはじまらない。「妻子のためにも、死んでなるものか」という気持ちに切り換えたからこそ、父はどんなにつらい治療にも耐(た)えることができたのではないだろうか。
「病(やまい)は気から」という言葉があるが、父の場合、「病気を気合で治(なお)した」。現在でも、国立がんセンターで過去にガンで治った人の十人に父の名前が残されている。
私はいまでもときどき、自分は父の存在を知らずに育っていたかもしれないと思うことがある。そのとき父が亡(な)くなっていたら、その後の私の人生はどうなっていただろうか……と。私は父のそのときの勇気と頑張(がんば)りに敬意を表(ひよう)し、感謝しなければならない。
重病に打ち勝ってからは、名誉(めいよ)ある“夜の帝王”の称号をすっぱりと返上、正反対のマイホームパパに、それもしょっちゅう「だれのおかげでメシが食えると思っているんだ」と怒鳴(どな)りちらし、かわいい娘にも容赦(ようしや)なく手をあげ、自分流のやり方でわが子を溺愛(できあい)する、頑固(がんこ)オヤジに変身した。