まずは、
・中本恒子『ジャスコに宿題が並んでいたので、私笑っちゃいました』(竹) 楽屋ウケをねらったにはちがいないのだが、そのクサミがない。本当に笑っちゃったのだろう、と思わせるところでトクをしたね。
そう。つまり、今週は「バナナ」がテーマであった。まずは、思い出のバナナを語ったコピーから紹介していこう。
「ハイライト」の時もそうだったが、売れていた頃、人気があった時代のことを書くというスタイルには、おとし穴がある。それは、広告コピーというよりは短いエッセイになっちまうという危険性だ。
これも、うまくツボにはまれば、十分に広告にはなる。「食うのをやめていた」休火山的な購買者が、もどってくる可能性もあるし、一度獲得した知名度を利用するというのは効率のいいやり方ではある。
しかし、これはあくまでも一行エッセイとしての完成度あってのことである。その点、
・笠原昌英『給食に出た日、こいつはよくろうかで死んでたっけな』(梅) などは、危い橋を渡ってはいるがインパクトのあるコピーになっている。
・吉川潔『「バナナ、あんまり好きじゃない」。あのころ、ちょっとキザな台詞だった』(梅) は、笠原君のものに比べると平板。すっと流し読みできちゃう。
・菅次郎『お元気ですか、おにいちゃん。サチコは今でもバナナが好きです』(梅) も、童謡に題材をとった思い出もの。
「浮世時節の流れを感じますですね。サチコさんは、もうきっと中年の人妻でございましょうに、バナナを、ねぇ……」
サッちゃんものは多かった。しかし、このテーマでサッちゃんを出すのは素直すぎるね。私は、もっと別のことを考えているが言わない。
思い出のように見えて、実は現在、というのもあるぞ。
・五十嵐徹『バナナがとりもつ親族会議』(梅) いい観察をしとるねぇ。親族会議というものの、現在の位置と意味が、実によく見えてくる。この感じで描かれたバナナは、他にもある。
・高橋正人『はた日の前のばん、35歳独身のつのださんがバナナを一山200円で買って、「おみやげだ」と町田のスナックに入って行った。ぼくには、なにも言えない』(梅) コピーになってはいない。萬流だから許されるものだ。これじゃますます売れなくなっちゃうもんね。もうひとつ、
・石橋一大『ばななをたべたくてたまんないけどおかあさんがたかいからだめだってかってくれません』(梅) いつの時代のことかと思うが、石橋君は、七歳なのである。石橋家の家風に口出しをする気はない。
・田中孝治『鈴木、同じ房のバナナを食べた仲じゃないか』(梅) も、田中君が十九歳であることで納得がいく。
・菅谷充『さらばラバウル』(梅) などとは、バナナ観がちがうのだ。貴重品だった時代を知らぬ若者が多いのには、家元も驚いている。もう何がなんだかわからないけれど、古い人といっても「上には上」で、
・宮林光三『|新高《にいたか》バナナキャラメル30粒入箱を持ったことないダロ、ザマァ見ろ!(イイトコの子)』(餅) なんてのを読んでると、ついスイマセンなどと謝っちまう。宮林君は六十四歳だという。お達者で。
軽くてイージーに思えるけれど、不思議に感動的だったのが、
・宮城聰『遠足に。素手で』(梅) 妙に味わいがある。
妙に、といえば、なぜか選ばれちまうのが、このあたり。
・上松治『オマエ、バナナ食っただろ。あら、臭う? ゴメンナサイ』(梅)
同じようだが、
・榎本時雄『あなた、食後に一本お付けしましょうか。うん、たのむ』(竹) まぁ、スジは通っている。が、
・秋田良夫『我家には、中畑清のサイン入りバナナがある』(梅) とか、
・小林井秀雄『カサッ……カサカサカサッ……バナナの横ばいでした』(毒)
『おっと、何か踏んじまったが糞じゃなくてよかったぜ』(竹) あたりになると、萬心なくしては理解不能であろう。
・川原暢『バナナの房であなたの背中をたたくとジャイアント馬場に抱かれた気分になります』(梅) や、
・不破秀介『房から一本だけちぎり取る時の人買いになったような気分が好きだ』(竹) などが、意外にまともに思えるのは、どちらも「気分」というコトバを上手に使って比喩をわかりやすくしているからであろう。
・中本恒子『ジャスコに宿題が並んでいたので、私笑っちゃいました』(竹) 楽屋ウケをねらったにはちがいないのだが、そのクサミがない。本当に笑っちゃったのだろう、と思わせるところでトクをしたね。
そう。つまり、今週は「バナナ」がテーマであった。まずは、思い出のバナナを語ったコピーから紹介していこう。
「ハイライト」の時もそうだったが、売れていた頃、人気があった時代のことを書くというスタイルには、おとし穴がある。それは、広告コピーというよりは短いエッセイになっちまうという危険性だ。
これも、うまくツボにはまれば、十分に広告にはなる。「食うのをやめていた」休火山的な購買者が、もどってくる可能性もあるし、一度獲得した知名度を利用するというのは効率のいいやり方ではある。
しかし、これはあくまでも一行エッセイとしての完成度あってのことである。その点、
・笠原昌英『給食に出た日、こいつはよくろうかで死んでたっけな』(梅) などは、危い橋を渡ってはいるがインパクトのあるコピーになっている。
・吉川潔『「バナナ、あんまり好きじゃない」。あのころ、ちょっとキザな台詞だった』(梅) は、笠原君のものに比べると平板。すっと流し読みできちゃう。
・菅次郎『お元気ですか、おにいちゃん。サチコは今でもバナナが好きです』(梅) も、童謡に題材をとった思い出もの。
「浮世時節の流れを感じますですね。サチコさんは、もうきっと中年の人妻でございましょうに、バナナを、ねぇ……」
サッちゃんものは多かった。しかし、このテーマでサッちゃんを出すのは素直すぎるね。私は、もっと別のことを考えているが言わない。
思い出のように見えて、実は現在、というのもあるぞ。
・五十嵐徹『バナナがとりもつ親族会議』(梅) いい観察をしとるねぇ。親族会議というものの、現在の位置と意味が、実によく見えてくる。この感じで描かれたバナナは、他にもある。
・高橋正人『はた日の前のばん、35歳独身のつのださんがバナナを一山200円で買って、「おみやげだ」と町田のスナックに入って行った。ぼくには、なにも言えない』(梅) コピーになってはいない。萬流だから許されるものだ。これじゃますます売れなくなっちゃうもんね。もうひとつ、
・石橋一大『ばななをたべたくてたまんないけどおかあさんがたかいからだめだってかってくれません』(梅) いつの時代のことかと思うが、石橋君は、七歳なのである。石橋家の家風に口出しをする気はない。
・田中孝治『鈴木、同じ房のバナナを食べた仲じゃないか』(梅) も、田中君が十九歳であることで納得がいく。
・菅谷充『さらばラバウル』(梅) などとは、バナナ観がちがうのだ。貴重品だった時代を知らぬ若者が多いのには、家元も驚いている。もう何がなんだかわからないけれど、古い人といっても「上には上」で、
・宮林光三『|新高《にいたか》バナナキャラメル30粒入箱を持ったことないダロ、ザマァ見ろ!(イイトコの子)』(餅) なんてのを読んでると、ついスイマセンなどと謝っちまう。宮林君は六十四歳だという。お達者で。
軽くてイージーに思えるけれど、不思議に感動的だったのが、
・宮城聰『遠足に。素手で』(梅) 妙に味わいがある。
妙に、といえば、なぜか選ばれちまうのが、このあたり。
・上松治『オマエ、バナナ食っただろ。あら、臭う? ゴメンナサイ』(梅)
同じようだが、
・榎本時雄『あなた、食後に一本お付けしましょうか。うん、たのむ』(竹) まぁ、スジは通っている。が、
・秋田良夫『我家には、中畑清のサイン入りバナナがある』(梅) とか、
・小林井秀雄『カサッ……カサカサカサッ……バナナの横ばいでした』(毒)
『おっと、何か踏んじまったが糞じゃなくてよかったぜ』(竹) あたりになると、萬心なくしては理解不能であろう。
・川原暢『バナナの房であなたの背中をたたくとジャイアント馬場に抱かれた気分になります』(梅) や、
・不破秀介『房から一本だけちぎり取る時の人買いになったような気分が好きだ』(竹) などが、意外にまともに思えるのは、どちらも「気分」というコトバを上手に使って比喩をわかりやすくしているからであろう。