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時枝は、カウンターの隅っこの席に腰を下ろすと、たて続けに二杯、小さなグラスでビールを呷《あお》った。「ハモニカ」──、雑居ビルの二階の、七、八坪ばかりのせせこましいスナックだ。昔ちょっと世話をした波恵という女がママをしている。それで時枝も波恵の顔見がてら、たまに店に顔を出す。間口の狭い、鰻の寝床のような細長い店だ。ボックス席など、設けようもない。カウンターが奥に向かって一列並んだだけの造り、だからハモニカ。時枝は、悪くないネーミングだと思っている。ビールを二杯飲んでひと息ついてから、煙草をふかした。気がつくと、たて続けに二本喫っていた。黒いガラスの灰皿の中に並んで横たわった吸殻を見ながら、いつの間に二本喫ったものかと、ふと考える。心が半分泳いでいる。
「ママ、今日はどうかしたの?」カウンターの内側から、波恵が声をかけてくる。「からだから漂う空気が、今日は何か妙にざわついてる感じ。久々に顔が怖いよ」
「そう? 怖いって私、どんな顔している?」
「そうだなぁ」波恵は少し身を離して、時枝の顔を眺めた。「怖がってるっていうほうが当たっているのかな。──そう、幽霊に出喰わしでもしたみたいな顔してる」
「幽霊……」呟いてから、うん、と小さく時枝は頷いた。「悪くない。あんた、やっぱりいい勘している。風に煽られたぼろっきれみたいに舞い込んできた時は一体どうなることかと思ったけど、すぐに、ああ、この娘《こ》ならいかようにでも泳いでいけると私は思った。その私の目に狂いはなかったね。波恵、あんた、何だかんだ、結構金貯めたでしょ?」
「嫌ぁねぇ、人の財布覗き込むみたいなこと言って。それにぼろっきれだなんて人聞きが悪いよ」
「仕方ないじゃない、本当のことなんだから」
はは、確かにと、波恵は天井を仰いでひと笑いした。それから、改めて時枝の顔を覗き込んで言う。「だけど本当にママ、何かあったんじゃないの?」
その顔は真顔だった。しかし時枝は首を横に振った。それから、いくぶんとぼけたような笑みを浮かべて波恵を見る。「何も」
「本当? ならいいけど。ママって案外水臭いからな」
「私のことはいいから。あんた、他の客の相手をしなさいよ」
はいはいと、波恵はわざとらしく肩を竦めた。
目の前から波恵の姿が消えると、時枝は小さく息をつき、またビールをきゅっと呷って咽喉を潤した。幽霊とはよく言ったものだ。まさしく一度は死んだはずの人間が、地獄の底から這いずりだしてきたのだから、あれはやはり幽霊か化け物だ。時枝とて、よもやあの女が再び自分の前に姿を現してこようとは、さすがに思ってもみなかった。いや、悪い予感は、もう何十年も前からずっとあるにはあったのだ。ただ、この十年あまり、時枝はすっかりそのことを失念していた。少し神経が緩んでいたのかもしれない。それでいい気に娘と孫との人並みの日常など頭に思い描いて、二人がくるのを内心楽しみにしていたというのだから笑わせる。無意識のうちに、またも煙草を銜えて火を点けていたらしく、唇から溜息のように白い煙を吐き出している自分に気がついた。このところ、不整脈がでやすくなっている。だから煙草は意識的に控えようと心がけ始めた矢先だった。家に子供もくることだし、本数を減らすかやめるかするにはちょうどよい折かもしれないと考えたりもして……。時枝は、自嘲気味にちょっと顔を歪めた。これではまったくの逆、何が本数を少なくするだ、何が子供のためだ、おめでたいもいいところではないか。
狭い店がたて込み始めていた。ドアが開き、背広姿の男がまた二人、店の中へとはいってきた。「ハモニカ」の常連客。何の取り柄もない店だが、ちょっと気のきいた酒の肴と湿りけがなくほどよい波恵の気配りが、思いのほかこの店を流行らせている。ツボを心得た人間というのは、何をやらせてもそう大きくははずさない。波恵はあれで、なかなかたいした娘だ。時枝はすっと席を立った。この店にあっては、たった一席とはいえ長々占領しているのは、商売の邪魔というものだった。
「あれ、ママ、もう帰っちゃうの?」
「うん。またくるよ」
「今晩また寄ってよ。たまには帰りに一緒にごはん食べにいこ。久々、『牡丹苑』なんかどう?」
「やだよ」時枝は言った。「あんたと『牡丹苑』へいくと、いつも豚足とかレバ刺しとか、そんなものばっかり頼むんだもの。夜中に女が二人豚足にかぶりついて……色気がないったらありゃしない。はたの人がいつも白い目をして見ているよ」
「だって、あそこはあれが美味《うま》いんだから仕方がない」
「ま、また今度ね」
「やだな。今度とお化けは何とやらって言うから」
「お化けはもういいよ、たくさんだ」
波恵は、時枝を送って店の外のビルのフロアまで出てきた。
「あんた、いくつになった?」薄暗いビルのフロアの照明の下、時枝は波恵の顔をじっと見て言った。
「何よ、急に?──恥ずかしながら、三十九にもなりましたけど。ふふ、来年も再《さ》来年も三十九のままにしとこ。ここだけの話ね」
笑うと下瞼がぷくっとふくれて、波恵はくすぐったそうな顔になる。育ちの良さを感じさせる笑顔だし、匂い袋が香るような類の色気も一緒に漂う。人の魅力というのは不思議だった。波恵には本人の意図や努力とはまた別に、何か好もしいものが身に備わっている感じがする。
「三十九か……」
呟くように時枝は言った。香苗よりも六つ年上だ。それでも時枝の娘というにふさわしい年頃であることにちがいはない。
「何よ、ママ。ママはいくつになったのよ?」
「三十九だよ。今年も来年も再来年も」
波恵は、あははと、フロアに響き渡るような声を立てて笑った。それに合わせて、大きなウェーヴをつけた長い豊かな髪が揺れる。
「近いうちまた寄って。絶対だよ。その時は本当に一緒にごはん食べにいこ」
うんうんと頷いてから後ろ向きになって手を振り、波恵と別れて階段を降りた。夜の闇が重たげになりつつある歌舞伎町をぶらぶら歩く。もしもあの娘が実の娘だったらと、ぼんやり考えている自分に気がつく。波恵とだったら案外さばさばとしたいい母娘として、気楽に楽しくやっていけたのではないか。時枝は小さく首を振った。あり得ないこと、絶対に起こり得ないことを、考えてみたところで意味がない。
時枝は、夜の街で行き惑っている自分に気がついた。喫茶店は赤井と里美、既に二人に任せ始めている。なのに自分がちょこちょこ顔を出したら、かえって二人がやりづらかろう。ここ何ヵ月かは、本当に久し振りに自分の家で夜の時間を過ごすことが増えていた。最初のうちは家にいても手持ち無沙汰というか、妙にお尻が落ち着かず、思いがけず長い夜に戸惑ったりもしていた。それにもこの頃ようやく慣れてきていたのだが。
自分の家だ、用事がないなら帰ったらいい。だが、彼女らがいる。紛れもないわが子、わが孫。しかしながら相性が悪い。因縁が悪い。最悪だ。香苗とは、十年ぶりに再会した。孫の真穂とは初めて会った。にもかかわらず、二人と何十分か一緒にいただけで、自分でも心が冷えていくのがわかった。このままでは、私は昔ながらの鬼になる、と思った。誰も好き好んで鬼になる人間はいない。しかし──。
時枝は、大久保には向かわずに、煌々とネオンのともる街の中へとはいっていった。あてどなく、夜の街をさすらい歩く。遠い昔、今夜のようにあてもなく、この街をさまよったことがあったような、そんな記憶が甦っていた。
「ママ、今日はどうかしたの?」カウンターの内側から、波恵が声をかけてくる。「からだから漂う空気が、今日は何か妙にざわついてる感じ。久々に顔が怖いよ」
「そう? 怖いって私、どんな顔している?」
「そうだなぁ」波恵は少し身を離して、時枝の顔を眺めた。「怖がってるっていうほうが当たっているのかな。──そう、幽霊に出喰わしでもしたみたいな顔してる」
「幽霊……」呟いてから、うん、と小さく時枝は頷いた。「悪くない。あんた、やっぱりいい勘している。風に煽られたぼろっきれみたいに舞い込んできた時は一体どうなることかと思ったけど、すぐに、ああ、この娘《こ》ならいかようにでも泳いでいけると私は思った。その私の目に狂いはなかったね。波恵、あんた、何だかんだ、結構金貯めたでしょ?」
「嫌ぁねぇ、人の財布覗き込むみたいなこと言って。それにぼろっきれだなんて人聞きが悪いよ」
「仕方ないじゃない、本当のことなんだから」
はは、確かにと、波恵は天井を仰いでひと笑いした。それから、改めて時枝の顔を覗き込んで言う。「だけど本当にママ、何かあったんじゃないの?」
その顔は真顔だった。しかし時枝は首を横に振った。それから、いくぶんとぼけたような笑みを浮かべて波恵を見る。「何も」
「本当? ならいいけど。ママって案外水臭いからな」
「私のことはいいから。あんた、他の客の相手をしなさいよ」
はいはいと、波恵はわざとらしく肩を竦めた。
目の前から波恵の姿が消えると、時枝は小さく息をつき、またビールをきゅっと呷って咽喉を潤した。幽霊とはよく言ったものだ。まさしく一度は死んだはずの人間が、地獄の底から這いずりだしてきたのだから、あれはやはり幽霊か化け物だ。時枝とて、よもやあの女が再び自分の前に姿を現してこようとは、さすがに思ってもみなかった。いや、悪い予感は、もう何十年も前からずっとあるにはあったのだ。ただ、この十年あまり、時枝はすっかりそのことを失念していた。少し神経が緩んでいたのかもしれない。それでいい気に娘と孫との人並みの日常など頭に思い描いて、二人がくるのを内心楽しみにしていたというのだから笑わせる。無意識のうちに、またも煙草を銜えて火を点けていたらしく、唇から溜息のように白い煙を吐き出している自分に気がついた。このところ、不整脈がでやすくなっている。だから煙草は意識的に控えようと心がけ始めた矢先だった。家に子供もくることだし、本数を減らすかやめるかするにはちょうどよい折かもしれないと考えたりもして……。時枝は、自嘲気味にちょっと顔を歪めた。これではまったくの逆、何が本数を少なくするだ、何が子供のためだ、おめでたいもいいところではないか。
狭い店がたて込み始めていた。ドアが開き、背広姿の男がまた二人、店の中へとはいってきた。「ハモニカ」の常連客。何の取り柄もない店だが、ちょっと気のきいた酒の肴と湿りけがなくほどよい波恵の気配りが、思いのほかこの店を流行らせている。ツボを心得た人間というのは、何をやらせてもそう大きくははずさない。波恵はあれで、なかなかたいした娘だ。時枝はすっと席を立った。この店にあっては、たった一席とはいえ長々占領しているのは、商売の邪魔というものだった。
「あれ、ママ、もう帰っちゃうの?」
「うん。またくるよ」
「今晩また寄ってよ。たまには帰りに一緒にごはん食べにいこ。久々、『牡丹苑』なんかどう?」
「やだよ」時枝は言った。「あんたと『牡丹苑』へいくと、いつも豚足とかレバ刺しとか、そんなものばっかり頼むんだもの。夜中に女が二人豚足にかぶりついて……色気がないったらありゃしない。はたの人がいつも白い目をして見ているよ」
「だって、あそこはあれが美味《うま》いんだから仕方がない」
「ま、また今度ね」
「やだな。今度とお化けは何とやらって言うから」
「お化けはもういいよ、たくさんだ」
波恵は、時枝を送って店の外のビルのフロアまで出てきた。
「あんた、いくつになった?」薄暗いビルのフロアの照明の下、時枝は波恵の顔をじっと見て言った。
「何よ、急に?──恥ずかしながら、三十九にもなりましたけど。ふふ、来年も再《さ》来年も三十九のままにしとこ。ここだけの話ね」
笑うと下瞼がぷくっとふくれて、波恵はくすぐったそうな顔になる。育ちの良さを感じさせる笑顔だし、匂い袋が香るような類の色気も一緒に漂う。人の魅力というのは不思議だった。波恵には本人の意図や努力とはまた別に、何か好もしいものが身に備わっている感じがする。
「三十九か……」
呟くように時枝は言った。香苗よりも六つ年上だ。それでも時枝の娘というにふさわしい年頃であることにちがいはない。
「何よ、ママ。ママはいくつになったのよ?」
「三十九だよ。今年も来年も再来年も」
波恵は、あははと、フロアに響き渡るような声を立てて笑った。それに合わせて、大きなウェーヴをつけた長い豊かな髪が揺れる。
「近いうちまた寄って。絶対だよ。その時は本当に一緒にごはん食べにいこ」
うんうんと頷いてから後ろ向きになって手を振り、波恵と別れて階段を降りた。夜の闇が重たげになりつつある歌舞伎町をぶらぶら歩く。もしもあの娘が実の娘だったらと、ぼんやり考えている自分に気がつく。波恵とだったら案外さばさばとしたいい母娘として、気楽に楽しくやっていけたのではないか。時枝は小さく首を振った。あり得ないこと、絶対に起こり得ないことを、考えてみたところで意味がない。
時枝は、夜の街で行き惑っている自分に気がついた。喫茶店は赤井と里美、既に二人に任せ始めている。なのに自分がちょこちょこ顔を出したら、かえって二人がやりづらかろう。ここ何ヵ月かは、本当に久し振りに自分の家で夜の時間を過ごすことが増えていた。最初のうちは家にいても手持ち無沙汰というか、妙にお尻が落ち着かず、思いがけず長い夜に戸惑ったりもしていた。それにもこの頃ようやく慣れてきていたのだが。
自分の家だ、用事がないなら帰ったらいい。だが、彼女らがいる。紛れもないわが子、わが孫。しかしながら相性が悪い。因縁が悪い。最悪だ。香苗とは、十年ぶりに再会した。孫の真穂とは初めて会った。にもかかわらず、二人と何十分か一緒にいただけで、自分でも心が冷えていくのがわかった。このままでは、私は昔ながらの鬼になる、と思った。誰も好き好んで鬼になる人間はいない。しかし──。
時枝は、大久保には向かわずに、煌々とネオンのともる街の中へとはいっていった。あてどなく、夜の街をさすらい歩く。遠い昔、今夜のようにあてもなく、この街をさまよったことがあったような、そんな記憶が甦っていた。