5
一文無しに等しい状態で舞い戻ってきたのだ、母子二人分の喰い扶持《ぶち》だけは、何とか自分で稼がなくてはならない。離婚を決めた時、香苗はこの先のことを学生時代に仲がよかった安藤浩子に電話で相談した。今は結婚して、中上浩子になっている。彼女は、とにかく経済的な基盤を作ることを第一に考えるべきだと言い、香苗がまだO町にいるうちに、あちこちの知り合いに職がないかと声をかけてくれていた。しかし景気は冷え込んでいる。子供を抱えた三十過ぎの女、それもろくな社会経験もなく、おまけに十年ものブランクまである女がまともな職につくというのは、なかなか容易なことではなかった。
「仕事、あるにはあったのよ」東京に帰ってきて最初に会った時、浩子は香苗に言った。「だけど、あんまりいい仕事じゃないのよね」
聞けば渋谷のマンションにある事務所の電話番兼一般事務だという。実質は、どうやら雑用係のようなものらしい。
「何をやっている会社なの?」
「会社といえる会社じゃないのよ。そこがまた問題で。何せ社長が一人でやっているような事務所だから」
一応業種は広告代理業ということになるらしいが、本当のところ何をしているかははっきりしない。今は社長の城下《しろした》という男が、携帯電話片手に一人であちこちを走りまわっているような状況だという。だから従業員は、香苗を含めても社長と二人、零細企業の最たるものだ。
「お給料もパートに毛が生えた程度のものだしね。だからあんまりお勧めじゃないんだけど……」
どうしてそんな会社を知っているのかまでは、香苗も浩子に尋ねなかった。久し振りに会った浩子の変わりようのほうに度肝を抜かれてしまって、何とはなしに聞きそびれてしまったのだ。学生時代はお嬢さん、結婚してからは中の上のクラスの若奥さん、浩子はそういう路線を歩いてきたし、それは今も変わりがないはずだった。だが、十年ぶりに会った浩子は見た目がずいぶん派手になり、そのぶん品がなくなっていた。煙草を喫うのがいけないとは言わないが、メンソールの煙草に女持ちのダンヒルのライターで火を点ける様は、家庭の奥さんというより玄人女のようだった。ベルサーチのブラウスにしてもこれ見よがしだ。だが、たぶん浩子は東京の時流に乗って流れているだけだった。向こうは逆に、きっと香苗に驚き呆れているにちがいない。時流に完全に置いてけぼりにされ、すっかり田舎臭くなってしまったかつての友。
香苗は結局、その「オンタイム」という事務所に勤めることにした。わが身を鑑《かんが》みれば、そう贅沢は言っていられない。それに会ってみると社長の城下というのは四十一、二とまだ若く、気さくで話のしやすい人物だった。事務所は渋谷で、通うに遠くないのもよい。勤務時間は原則的に十時から五時、朝の時間がゆっくり持てるのも、子を持つ身としてはありがたい。しかも城下は外に出ていることがほとんどで、1DKのマンションにはたいがい香苗ただ一人、気楽といえばこれほど気楽なこともなかった。
真穂も、戸山にある区立の小学校に通い始めた。春まで待って東京へ戻ってきたのは、学年の変わり目のほうが、やはり真穂もクラスに馴染みやすいだろうと考えてのことだった。名札の中の文字は、「にしのうまほ」ではなく「やまがみまほ」、香苗も真穂も新しい苗字になった。いや、香苗は、生まれながらの古い苗字に戻った。
香苗と真穂、それぞれの東京での新しい生活が動き始めた。香苗は仕事に真穂は学校に、しばらくは互いにそれに馴染むのに懸命だった。O町にいた頃はほとんど止まっているかと思われた時が、いきなり目まぐるしくまわりだした感じだった。実際東京での時間は、うっかりすると乗り遅れそうになるほど迅速に過ぎてゆく。東京で育ったのだからそんなことぐらい重々承知しているはずだったが、十年茨城ののんべんだらりとした平坦な田畑の中に身を置いてだだっ広い太平洋を眺めて暮らすうち、いつの間にやら田舎の時間に、自分の時計を合わせてしまっていたらしい。
その朝香苗は会社へ行こうと部屋のドアを開けて一歩外に出るなり、曇った空と空気の匂いに梅雨の気配を感じた。肌に、湿りけを帯びた空気が纏《まつ》わりついてくる。慌ただしく過ごすうち、いつの間にやらゴールデンウィークも過ぎ、五月も終わり、うららかに晴れ渡っていた空にも翳りが見えるようになってきていた。時が流れるのなどあっという間だ。なまくらになってしまった頭を抱えてぼやぼやしていると、時にどっと押し流されてしまいそうだった。
バッグの中の折り畳み傘を確かめながらエレベータに乗り込む。扉が閉まる寸前に、四〇四号室、隣の部屋の住人の、志水悦子が身を滑り込ませるようにして箱の中に乗り込んできた。おはようございますと、互いに小さな声で挨拶を交わす。悦子の顔には化粧っ気がなく、血の気を感じさせる色もまたなかった。青白く沈んだ肌は不健康にくすみ、半ば病人のようでさえある。この街に多い夜の稼業の女──。人を職業で判断してはいけないことぐらいわかっている。しかし香苗はそのことだけで、彼女があまり好きになれなかった。朝の九時を十五分かそこらまわったところ。仕事柄、彼女にとってはまだ早朝の部類だろう。まだ眠りの中に在ってしかるべき悦子が同じエレベータの中にいるということ自体が、不思議に思えた。箱の中に香水の匂いが満ちていく。化粧もしていないというのに香水をつける彼女の感覚も、香苗には理解できなかったし、したくもなかった。
「あの、余計なことだとは思うんだけど」思いつめたような顔で、不意に悦子が口を開いた。歯を磨いたばかりなのか、メンソールの香が漂う。「真穂ちゃん、大丈夫かな、と思ったりして……」
「え? 真穂?」
香苗は怪訝《けげん》そうに眉を寄せ、色のない悦子の顔をじっと見た。
「昼間時々ね、山上さんが大声を上げたり物を投げたり……時には何かを叩くみたいな音がしたりするから」そう言ってから、悦子は慌ててひろげた手をひらひら振った。「あ、いえ、もちろん家の中で何が起きているかなんて私にはわからない。山上さんが小さな子供に何かするような人じゃないってこともよく知ってるつもり。だから余計なことだと思ったし、こんなことあなたに言っていいものかどうかも迷ったの。だけど私、たったいっぺんだけだけど見たのよね」
「見たって、何をですか?」
「ちょうど買い物に表に出るところだったの。そうしたら、山上さんのものすごい怒鳴り声だか叫び声だかがした後に、玄関から真穂ちゃんがゴムまりみたいに転がり出てきて。私には、蹴り出されたみたいに見えた。でも、絶対とは言えない。真穂ちゃん、青い顔はしていたけど、別に泣いたりはしていなかったし」
香苗の顔から、一瞬血の気が退いた。「山上さん」というのはむろん時枝のことだ。悦子にとっては時枝がお隣の「山上さん」であって、香苗や真穂の「おかあさん」や「おばあちゃん」ではない。
半分茫然として言葉を失っているうち、エレベータが一階へと着いた。二人していったん地上に降りる。
「ごめんね、朝から変なこと聞かせて。だけど、あなたとは時間帯が合わないせいもあってなかなか話をする機会もないし。……もしかしたら、私の早とちりもいいとこかも。だとしたら勘弁してね。それでも事は子供の問題だから、一応は耳に入れておいたほうがいいかと思って。ああ、会社、遅れちゃうね。本当にごめんなさいね」
それだけ言うと、悦子は再びエレベータに乗り込んだ。扉が閉まる前、香苗に向かってちょっと頬笑んでみせた悦子の顔が、しばらく脳裏に焼きついていた。言いづらいことを口にした後のバツの悪そうな表情、わずかに揺らぐ昏い眼、つれたみたいにいくぶん歪んだ口許の笑み……。悦子はそのことを告げるため、わざわざ香苗の出勤時間に合わせて起き出して、出かけてゆく香苗を捕まえようと飛び出してきたのだろう。恐らくもういく日も前から、時間やタイミングを計っていたのだと思う。
家に引き返しているだけの時間はなかった。たとえ引き返したとしても、それで今どうしろというのか。真穂は学校へ行った。時枝はまだ寝ている。いきなりそんな話をするとっかかりもない。茫然たる思いのまま、香苗は新大久保の駅に向かって歩きだした。時枝の怒鳴り声がした直後に、真穂が玄関からゴムまりのように転がり出てきた──、それはとりもなおさず時枝がサッカーボールさながらに、真穂を家の外に蹴り出したということではないか。
馬鹿げた話だった。まだ小学校に上がったばかりの小さな子供、それもひよわな女の子を、蹴り出すような祖母がどこの世界にいるものか。あの西納の義母ですら、そこまではしなかった。時枝と真穂、香苗の目から見ても、確かに二人がうまくいっているとは思わない。相変わらず時枝は外に出ていることが多く、真穂のことには無関心だ。真穂もあえて自分から「おばあちゃん、おばあちゃん」と時枝に寄っていこうとはしていない。とはいえ二人の間にそれだけのことが起きているとすれば、いくら何でも香苗にだってわかるだろう。仮に暴力をふるわれていれば、真穂ももっと時枝に対して脅えの色を見せるだろうし、母親の香苗にはきっとそのことを話す。真穂とはたいがい毎晩一緒に風呂にはいっているが、どこにも傷や痣といった類のものは見当たらなかった。悦子本人が言っていたように、それは彼女の早とちり、とんでもない勘違い──。
一方で、悦子の話を、完全には否定しきれず、笑い飛ばせずにもいる自分がいた。打ち消そうとしても、頭の中で勝手に「幼児虐待」の四文字が躍っている。神経が浮足立ったようなからだで駅への道を歩きながら、香苗は頭の中で、「幼児虐待」ではなく「児童虐待」かと、律儀に言葉を訂正したりしてもいた。どちらにしても、神経が現実からはぐれかけていた。歯車の狂いかけた頭で地に足がつかぬまま、さまよい歩いているような心地だった。
自分が幼かった頃のことに思いを馳せてみる。時枝が子供に対して愛情のない母親だったことは間違いない。まるでいやなものでも見るような冷めた目をして、しばしば香苗をちらりと横目で見たものだ。香苗の心を一瞬にして石のように強張らせるその一瞥を、今も香苗ははっきりと覚えている。あれは本当にいやな顔だった。少なくとも、母親が子供に対して見せる顔ではなかったと思う。けれども、時枝から暴力をふるわれた記憶はまったくなかった。本当に幼い頃、悪戯を注意するという意味でお尻ぐらいは叩かれたことがあったかもしれないが、物心ついてからは手を上げられたという記憶もない。だから時枝が真穂に対して手を上げたり、ましてや蹴ったり何だりするなど、考えられないことだった。理屈ではそうなのだが、納得できずにいる心が残る。時枝ならばやる、あの人はそれができる人間だ──。香苗は、時枝という人間を信じていない自分に気がついた。時枝という人間をというよりも、母をと言うべきかもしれない。赤の他人ではない。紛れもない実母だ。その母を信じきれないということが、香苗の心を打ちのめした。
いつとも知らず乗り込んでいた電車が渋谷に着き、人波に押し流されるように香苗もホームに降り立った。血の気が退いて青ざめた顔に、ひとりでに涙が筋を引いて落ちていく。泣くつもりなどなかった。それだけに涙の温《ぬく》みに少し驚き、手の甲で慌ててそれを拭い取った。かわいそうな真穂……香苗は心の中で呟く。どんな人からも愛されるだけのものを神から与えられてこの世に生まれてきたというのに、何故か真穂は肉親の愛に恵まれない。ことに祖母には恵まれない。香苗の脳裏に、ふと西納の義母の顔が浮かんだ。途端に胸に焼けるような憤りがこみ上げてきて、瞬間香苗はちずに対して、殺意に近い憎悪を覚えた。あの人さえいなかったら、と思う。あのまま西納の家で暮らし続けていたら、いつか香苗はちずを殺していたかもしれない。だが、もしも時枝が実際に真穂を虐待しているとしたら……そう考えてみても、焼けるような憎しみは湧いてこなかった。憤りや憎悪よりも、身からすべての力を奪い去ってしまうような絶望が、香苗の中に隈なくすみやかにひろがっていく。どうしておかあさんはそうなの? 私ばかりか孫のことまで愛せないの?──
肩を落とした色のない顔で、香苗は駅の階段を人に背を押されながら降りていった。
「仕事、あるにはあったのよ」東京に帰ってきて最初に会った時、浩子は香苗に言った。「だけど、あんまりいい仕事じゃないのよね」
聞けば渋谷のマンションにある事務所の電話番兼一般事務だという。実質は、どうやら雑用係のようなものらしい。
「何をやっている会社なの?」
「会社といえる会社じゃないのよ。そこがまた問題で。何せ社長が一人でやっているような事務所だから」
一応業種は広告代理業ということになるらしいが、本当のところ何をしているかははっきりしない。今は社長の城下《しろした》という男が、携帯電話片手に一人であちこちを走りまわっているような状況だという。だから従業員は、香苗を含めても社長と二人、零細企業の最たるものだ。
「お給料もパートに毛が生えた程度のものだしね。だからあんまりお勧めじゃないんだけど……」
どうしてそんな会社を知っているのかまでは、香苗も浩子に尋ねなかった。久し振りに会った浩子の変わりようのほうに度肝を抜かれてしまって、何とはなしに聞きそびれてしまったのだ。学生時代はお嬢さん、結婚してからは中の上のクラスの若奥さん、浩子はそういう路線を歩いてきたし、それは今も変わりがないはずだった。だが、十年ぶりに会った浩子は見た目がずいぶん派手になり、そのぶん品がなくなっていた。煙草を喫うのがいけないとは言わないが、メンソールの煙草に女持ちのダンヒルのライターで火を点ける様は、家庭の奥さんというより玄人女のようだった。ベルサーチのブラウスにしてもこれ見よがしだ。だが、たぶん浩子は東京の時流に乗って流れているだけだった。向こうは逆に、きっと香苗に驚き呆れているにちがいない。時流に完全に置いてけぼりにされ、すっかり田舎臭くなってしまったかつての友。
香苗は結局、その「オンタイム」という事務所に勤めることにした。わが身を鑑《かんが》みれば、そう贅沢は言っていられない。それに会ってみると社長の城下というのは四十一、二とまだ若く、気さくで話のしやすい人物だった。事務所は渋谷で、通うに遠くないのもよい。勤務時間は原則的に十時から五時、朝の時間がゆっくり持てるのも、子を持つ身としてはありがたい。しかも城下は外に出ていることがほとんどで、1DKのマンションにはたいがい香苗ただ一人、気楽といえばこれほど気楽なこともなかった。
真穂も、戸山にある区立の小学校に通い始めた。春まで待って東京へ戻ってきたのは、学年の変わり目のほうが、やはり真穂もクラスに馴染みやすいだろうと考えてのことだった。名札の中の文字は、「にしのうまほ」ではなく「やまがみまほ」、香苗も真穂も新しい苗字になった。いや、香苗は、生まれながらの古い苗字に戻った。
香苗と真穂、それぞれの東京での新しい生活が動き始めた。香苗は仕事に真穂は学校に、しばらくは互いにそれに馴染むのに懸命だった。O町にいた頃はほとんど止まっているかと思われた時が、いきなり目まぐるしくまわりだした感じだった。実際東京での時間は、うっかりすると乗り遅れそうになるほど迅速に過ぎてゆく。東京で育ったのだからそんなことぐらい重々承知しているはずだったが、十年茨城ののんべんだらりとした平坦な田畑の中に身を置いてだだっ広い太平洋を眺めて暮らすうち、いつの間にやら田舎の時間に、自分の時計を合わせてしまっていたらしい。
その朝香苗は会社へ行こうと部屋のドアを開けて一歩外に出るなり、曇った空と空気の匂いに梅雨の気配を感じた。肌に、湿りけを帯びた空気が纏《まつ》わりついてくる。慌ただしく過ごすうち、いつの間にやらゴールデンウィークも過ぎ、五月も終わり、うららかに晴れ渡っていた空にも翳りが見えるようになってきていた。時が流れるのなどあっという間だ。なまくらになってしまった頭を抱えてぼやぼやしていると、時にどっと押し流されてしまいそうだった。
バッグの中の折り畳み傘を確かめながらエレベータに乗り込む。扉が閉まる寸前に、四〇四号室、隣の部屋の住人の、志水悦子が身を滑り込ませるようにして箱の中に乗り込んできた。おはようございますと、互いに小さな声で挨拶を交わす。悦子の顔には化粧っ気がなく、血の気を感じさせる色もまたなかった。青白く沈んだ肌は不健康にくすみ、半ば病人のようでさえある。この街に多い夜の稼業の女──。人を職業で判断してはいけないことぐらいわかっている。しかし香苗はそのことだけで、彼女があまり好きになれなかった。朝の九時を十五分かそこらまわったところ。仕事柄、彼女にとってはまだ早朝の部類だろう。まだ眠りの中に在ってしかるべき悦子が同じエレベータの中にいるということ自体が、不思議に思えた。箱の中に香水の匂いが満ちていく。化粧もしていないというのに香水をつける彼女の感覚も、香苗には理解できなかったし、したくもなかった。
「あの、余計なことだとは思うんだけど」思いつめたような顔で、不意に悦子が口を開いた。歯を磨いたばかりなのか、メンソールの香が漂う。「真穂ちゃん、大丈夫かな、と思ったりして……」
「え? 真穂?」
香苗は怪訝《けげん》そうに眉を寄せ、色のない悦子の顔をじっと見た。
「昼間時々ね、山上さんが大声を上げたり物を投げたり……時には何かを叩くみたいな音がしたりするから」そう言ってから、悦子は慌ててひろげた手をひらひら振った。「あ、いえ、もちろん家の中で何が起きているかなんて私にはわからない。山上さんが小さな子供に何かするような人じゃないってこともよく知ってるつもり。だから余計なことだと思ったし、こんなことあなたに言っていいものかどうかも迷ったの。だけど私、たったいっぺんだけだけど見たのよね」
「見たって、何をですか?」
「ちょうど買い物に表に出るところだったの。そうしたら、山上さんのものすごい怒鳴り声だか叫び声だかがした後に、玄関から真穂ちゃんがゴムまりみたいに転がり出てきて。私には、蹴り出されたみたいに見えた。でも、絶対とは言えない。真穂ちゃん、青い顔はしていたけど、別に泣いたりはしていなかったし」
香苗の顔から、一瞬血の気が退いた。「山上さん」というのはむろん時枝のことだ。悦子にとっては時枝がお隣の「山上さん」であって、香苗や真穂の「おかあさん」や「おばあちゃん」ではない。
半分茫然として言葉を失っているうち、エレベータが一階へと着いた。二人していったん地上に降りる。
「ごめんね、朝から変なこと聞かせて。だけど、あなたとは時間帯が合わないせいもあってなかなか話をする機会もないし。……もしかしたら、私の早とちりもいいとこかも。だとしたら勘弁してね。それでも事は子供の問題だから、一応は耳に入れておいたほうがいいかと思って。ああ、会社、遅れちゃうね。本当にごめんなさいね」
それだけ言うと、悦子は再びエレベータに乗り込んだ。扉が閉まる前、香苗に向かってちょっと頬笑んでみせた悦子の顔が、しばらく脳裏に焼きついていた。言いづらいことを口にした後のバツの悪そうな表情、わずかに揺らぐ昏い眼、つれたみたいにいくぶん歪んだ口許の笑み……。悦子はそのことを告げるため、わざわざ香苗の出勤時間に合わせて起き出して、出かけてゆく香苗を捕まえようと飛び出してきたのだろう。恐らくもういく日も前から、時間やタイミングを計っていたのだと思う。
家に引き返しているだけの時間はなかった。たとえ引き返したとしても、それで今どうしろというのか。真穂は学校へ行った。時枝はまだ寝ている。いきなりそんな話をするとっかかりもない。茫然たる思いのまま、香苗は新大久保の駅に向かって歩きだした。時枝の怒鳴り声がした直後に、真穂が玄関からゴムまりのように転がり出てきた──、それはとりもなおさず時枝がサッカーボールさながらに、真穂を家の外に蹴り出したということではないか。
馬鹿げた話だった。まだ小学校に上がったばかりの小さな子供、それもひよわな女の子を、蹴り出すような祖母がどこの世界にいるものか。あの西納の義母ですら、そこまではしなかった。時枝と真穂、香苗の目から見ても、確かに二人がうまくいっているとは思わない。相変わらず時枝は外に出ていることが多く、真穂のことには無関心だ。真穂もあえて自分から「おばあちゃん、おばあちゃん」と時枝に寄っていこうとはしていない。とはいえ二人の間にそれだけのことが起きているとすれば、いくら何でも香苗にだってわかるだろう。仮に暴力をふるわれていれば、真穂ももっと時枝に対して脅えの色を見せるだろうし、母親の香苗にはきっとそのことを話す。真穂とはたいがい毎晩一緒に風呂にはいっているが、どこにも傷や痣といった類のものは見当たらなかった。悦子本人が言っていたように、それは彼女の早とちり、とんでもない勘違い──。
一方で、悦子の話を、完全には否定しきれず、笑い飛ばせずにもいる自分がいた。打ち消そうとしても、頭の中で勝手に「幼児虐待」の四文字が躍っている。神経が浮足立ったようなからだで駅への道を歩きながら、香苗は頭の中で、「幼児虐待」ではなく「児童虐待」かと、律儀に言葉を訂正したりしてもいた。どちらにしても、神経が現実からはぐれかけていた。歯車の狂いかけた頭で地に足がつかぬまま、さまよい歩いているような心地だった。
自分が幼かった頃のことに思いを馳せてみる。時枝が子供に対して愛情のない母親だったことは間違いない。まるでいやなものでも見るような冷めた目をして、しばしば香苗をちらりと横目で見たものだ。香苗の心を一瞬にして石のように強張らせるその一瞥を、今も香苗ははっきりと覚えている。あれは本当にいやな顔だった。少なくとも、母親が子供に対して見せる顔ではなかったと思う。けれども、時枝から暴力をふるわれた記憶はまったくなかった。本当に幼い頃、悪戯を注意するという意味でお尻ぐらいは叩かれたことがあったかもしれないが、物心ついてからは手を上げられたという記憶もない。だから時枝が真穂に対して手を上げたり、ましてや蹴ったり何だりするなど、考えられないことだった。理屈ではそうなのだが、納得できずにいる心が残る。時枝ならばやる、あの人はそれができる人間だ──。香苗は、時枝という人間を信じていない自分に気がついた。時枝という人間をというよりも、母をと言うべきかもしれない。赤の他人ではない。紛れもない実母だ。その母を信じきれないということが、香苗の心を打ちのめした。
いつとも知らず乗り込んでいた電車が渋谷に着き、人波に押し流されるように香苗もホームに降り立った。血の気が退いて青ざめた顔に、ひとりでに涙が筋を引いて落ちていく。泣くつもりなどなかった。それだけに涙の温《ぬく》みに少し驚き、手の甲で慌ててそれを拭い取った。かわいそうな真穂……香苗は心の中で呟く。どんな人からも愛されるだけのものを神から与えられてこの世に生まれてきたというのに、何故か真穂は肉親の愛に恵まれない。ことに祖母には恵まれない。香苗の脳裏に、ふと西納の義母の顔が浮かんだ。途端に胸に焼けるような憤りがこみ上げてきて、瞬間香苗はちずに対して、殺意に近い憎悪を覚えた。あの人さえいなかったら、と思う。あのまま西納の家で暮らし続けていたら、いつか香苗はちずを殺していたかもしれない。だが、もしも時枝が実際に真穂を虐待しているとしたら……そう考えてみても、焼けるような憎しみは湧いてこなかった。憤りや憎悪よりも、身からすべての力を奪い去ってしまうような絶望が、香苗の中に隈なくすみやかにひろがっていく。どうしておかあさんはそうなの? 私ばかりか孫のことまで愛せないの?──
肩を落とした色のない顔で、香苗は駅の階段を人に背を押されながら降りていった。