8
「おかあさん、これはいったいどういうことなのよ?」
いきり立つ香苗を、時枝は暗い洞《ほら》のような虚しく冷たい目をして黙って見ていた。その顔は石だ。感情というものが読み取れない。激しながらも香苗は、以前にも時枝のこんな顔を見たことがあるのを思い出していた。何があっても動じず怯むことのない母。場面によっては相手を威嚇するように憤怒の顔を作りもするが、こうしてすべての感情を封じて石化してしまうこともあった。完璧なまでの外界の拒絶。
「返事をしてよ」香苗は金切り声にも等しい声を張り上げて言った。「真穂のお尻の痣《あざ》よ。あんなものがどうしてできるの? 真穂にやさしくしてやってって頼んだはずじゃない? おかあさん、普通にしかできないって言った。普通でいいのよ。だけど、これが普通のこと?」
自分の留守中、家の中では何も起きてはいないと、信じようとした矢先の出来事だった。真穂の尻にできた見るも無残な赤い大きな痣、それを目にした時は顔から血の気が退き、現実に目の前が暗くなるのを香苗は覚えた。どうしたの、と真穂に問うと、真穂は言葉を濁らせた。家の中でできたのかと問うと、最初はそうだと頷いた。どこで、どうして、と重ねて問う。すると真穂は玄関のところで転んだと答えたが、すぐさま外の階段のところで遊んでいて転んだのだと訂正した。
「それじゃ家の中じゃないじゃないの」香苗は言った。
「間違えたんだよ。家の中じゃなくてマンションの中」
「どうしてそんなことを間違えるの?」
「たいしたことなかったから忘れちゃったんだってば」
「たいしたことないだなんて。それだけ痣になっていたら、椅子に座るのだって痛いはずよ」
今度はわかった。真穂は嘘をついている。最初に言った家の中というのが本当。痣ができたのは、転んで尻餅をついたからなどではない。痣は縦方向に大きくできている。これは突き飛ばされたか投げ飛ばされたかした弾みに、家具の角にしたたか打ちつけてできたものだ。家の中に人は二人、当然突き飛ばしたのは時枝。
「おかあさん、だんまりはよして。ちゃんと返事をしてよ」
時枝は鼻から大きく息を吐き出して、いくぶん唇をへの字に曲げて首を小さく横に振った。
「ねえ、おかあさん!」
「うるさいな」時枝はようやく、低く唸るような声で言った。「私は頭に血がのぼっている人間とは話をしたくないんだ。どうせまともな話にならないからさ」
「私は真穂のお尻の痣のことを訊いているのよ」
「知らないよ」素っ気なく、しかもソッポを向いて時枝は言った。「私は真穂ちゃんのお尻なんか見てないもの」
「見ていなくたって、何かがあったからあんな酷い痣ができたんでしょ?」
「何かがあった……。つまり私が真穂ちゃんを叩いたり蹴ったり、そういう真似をしたってことか」
「だって、それ以外に考えられないんだもの」
「真穂ちゃんがそう言った?」
「──真穂は階段で転んだと言ったけど」
「真穂ちゃんがそう言うんならそうなんだろ」
その言い種を耳にした途端、香苗の頭にかっと熱い血がのぼった。胸の中にも、むかむかと焼けた空気がひろがっていく。
「おかあさん、それで恥ずかしくないの? 子供が何も言わないのをいいことにして」
「何も言わないんじゃなくて、階段で転んだって言ったんだろ?」
「それは真穂の嘘よ」
「嘘?」
「おかあさんを庇う嘘」
時枝はちょっとぽかんとした面持ちで香苗を見た。その直後、さくりと石榴《ざくろ》が割れたように口が開き、時枝は少し腹を抱えるようにして、呵々《かか》と笑った。
「あんた、馬鹿じゃないの?」
「何がおかしいの? 私のどこが馬鹿なの?」
「あんたちっともわかってないよ」そう言った時枝の顔は、石榴からまた石へと瞬時のうちに戻っていた。「ま、いいよ。あんたにははなから期待していないから」
「期待していないって何なのよ?」
「物事わかってもらおうなんて、思ってないってこと」
「話をすり替えないでちょうだい」
「すり替えてなんかいないさ。ねえ、香苗。あんた真穂ちゃんが嘘をついたって言ったけど、真穂ちゃんっていうのは、そういう子なの? そうやってよく嘘をつくの?」
胸をぐさりと突き刺されたような思いがした。一瞬香苗は言葉を失った。
「そうなんだ。やっぱりそういう癖のある子供なんだ」
「それは西納の家で……」
「わかってる。向こうのお義母さんにいじめられて歪められたせいだって言うんだろ? また誰かのせい……あんた、少しは自分の身に引き受けてみたらどうさ」
「おかあさん、私は今、真穂の痣の話をしているのよ」
「その話ならもう済んでいるじゃない? 真穂ちゃんは転んだと言った。私は知らないと言っている。それでもまだ私を疑う根拠は何? いい加減にしてよ、本当に」
時枝は香苗の顔も見ずにふいと立ち上がると、いったん衣装部屋兼寝室にゆき、着替えを済ませてまた出てきた。そのまま黙って玄関へと向かってゆく。
「出かけるの?」
「ああ」やはり時枝は香苗の顔を見ず、靴に足を突っ込みながら言った。「顔突き合わせていたら、お互いむしゃくしゃするだけだから」
ばたんといつもよりも大きな音を立ててドアが閉まり、時枝の姿が家の中から消えた。香苗は急に背骨の力が抜けたみたいになって、ずるりとその場に座り込んだ。コントロールできないぐらいに感情が激していたから、頭ごなしな言い方をしてしまったかもしれない。だが、香苗にしても、根拠なく言ったことではなかった。
仕事を終えてマンションにまで帰ってくると、下のエレベータの脇に、香苗の帰りを待ち構えていたような志水悦子の姿があった。彼女のほうはこれから出勤してゆくところで、派手なスーツに身を包んでいた。前に朝会った時とはまるで別人、厚く塗られたファンデーションの肌色と赤く艶やかなルージュとが、病人のようにくすんだ彼女本来の顔色を完璧なまでに隠していた。茶色の髪もきれいに巻き、瞼にもシャドーを施しているせいか、目の色までもが違って見えた。年齢不詳、たぶん香苗よりは少し若いのではあるまいか。ただし悦子に若さは感じられなかった。
「ああ、よかった。帰ってきた」
待ちかねていたように、悦子は腕を取らんばかりに身を寄せてきた。今夜も口からメンソールの香が漂う。
「何か、あったんですか?」香苗は二、三度目を瞬かせた。
「また山上さんのすごい喚き声と大きな物音がして……。今日は確かに聞いたわ、真穂ちゃんの泣き声。最初はえんえん泣いていたけど、じき痛みに耐えるような啜り泣きに変わった。今度は絶対間違いない」
言葉が出なかった。自分の顔から表情が消えていくのがわかった。胸の中に、むくむくと不穏な空気が充満していく。
「帰ったら、しっかり真穂ちゃんと話をして、真穂ちゃんのからだを確かめたほうがいいと思う。何かが打ちつけられるような大きな物音が響いた直後の大泣きだったから、あれは真穂ちゃんに関係あることだと思う。私、それをあなたに伝えなくちゃと思って」
そう言ってから、悦子は腕の時計に目を落とし、あっと両の眉を持ち上げた。
「ごめんなさい」その顔を見て香苗は言った。「私のこと、待っててくださったんですね。お仕事遅刻したんじゃありませんか?」
「ああ、大丈夫。遅刻は今日が初めてという訳じゃなし。私の自分勝手なお節介」そう言いつつも悦子は急に身が落ち着かなくなったような素振りになり、早くもからだを前へと動かしかけていた。「ごめん。それじゃ私、行くわ。またまた余計なことかもしれないけど、本当に確かめたほうがいい。あの様子はただごとじゃなかったもの」
悦子は大急ぎでそれだけ言うと、香苗にじゃあねと手を振り、カツカツと忙《せわ》しげにヒールの音を響かせて歩き始めた。歩きながら、携帯電話を取り出して店に電話をかけている。遅刻を詫びる悦子の声が、何歩かの間香苗の耳にも届く。その悦子の後ろ姿から目を離し、マンションのほうへと顔を向けた途端、ずしりとからだと心が重たくなった。悦子の話を鵜呑みにすまいと、自らを戒める気持ちもあった。が、彼女は店に遅刻してまで、香苗の帰りを待っていた。それはやはり、単なるお節介でできることではないと思う。またしても迷路、誰を、そして何を信じたらいいのかわからない。怒ってよいのか嘆いてよいのか、自分の気持ちの持っていき場所さえもが、香苗にはよくはわからなくなっていた。
帰って確かめてみると、真穂のからだには悦子の言葉を裏付ける証拠があった。思った以上に深く大きな酷い痣。痛々しさに、香苗は思わず顔を顰《しか》めた。子供は想像以上に弾力のあるからだをしているし、場所が尻という脂肪の多い部分だっただけに、この程度で済んだのだろう。打ちどころを間違えていたら、大事にならなかったとも限らない。悦子の話を、信じない訳にはいかなくなった。事実と認識した次の瞬間、時枝に対するどうしようもない怒りがこみ上げてきて、感情ばかりが走りだした。自分でも抑えがきかず、時枝に対して一方的に言葉を吐いたが、理性も冷静さも欠いてしまっていては何の解決にもならない。今、少し冷めた頭で考えてみると、いったい自分は何を求めていたのか、と思う。事実を確かめたかったのか、時枝に詫びてほしかったのか。しかし、仮に事実が明らかになったとして、それでどうなるというのだろう。香苗は真穂を連れ、すぐにはここを出てはゆけない。ならば今度は逆に時枝に頭を下げて、真穂に手を出さないように頼むのか。真穂と二人、出てゆけるようになるまでの、浅ましい限りの時間稼ぎ。
ビニタイルの床の上に座り込んだまま、しばらく香苗は動けずにいた。何の力もない自分自身が情けなかったし、感情が一気に激したことの反動で、どんな力も湧いてこなかった。容量以上にエネルギーを消費した神経が、だれて弛んだようになっている。少し、頭痛がした。
その晩時枝は、香苗が床についてもまだ家に帰ってこなかった。恐らくどこか知り合いの店で、自棄半分にしたたか飲んだくれているのだと思う。真穂はといえば、その日あったことなどもはや忘れ果てたような顔をして、いつものように眠りについた。香苗は真穂が羨ましかった。子供は忘れるという、大人が失くしてしまった能力を持っている。床にはいってからもしばらく香苗は、時枝が家へと帰ってくる物音を気にして神経を立てていた。が、じきに眠気のほうが勝ち、知らず知らずにうつらうつらし始めていたらしい。もはや眠りの沼に滑り込もうかというその寸前、香苗は真穂の声ではっと現実へと引き戻された。見るとかたわらの真穂は目を瞑《つむ》っている。だから起きて何かを言った訳ではない。寝言。
香苗は真穂の顔に自分の顔を近づけた。真穂の顔が少し歪み、何かを言おうとするように唇が動きかけた。神経を集中して耳を澄まし、真穂の口許を見る。
ぽっと魂を吐き出すように真穂の唇が開いた。「ひと……し」
それは咽喉の奥から絞り出されるような、どこか嗄《しわが》れた感じのする声だった。よく聞き取れず、香苗はさらに真穂に顔を近づけた。真穂はもう一度言葉を口にした。
「ひとごろし……」
人殺し──、思いがけない真穂の言葉に、薄い闇の中で香苗は愕然とした。子供だから、夢の中では自由に楽しく、お伽話のような世界を飛びまわっているのだろうと思っていた。それなのに──。
目を凝らして真穂の表情を見る。幸いなことに、真穂は苦しげな顔はしていなかった。香苗の目には、真穂の顔にうっすらとした笑みの如きものさえ浮かんでいるようにも見えた。それを救いに、香苗は軽く真穂の髪を撫でてから、自分も身を横たえて目を瞑った。ごめんね……瞼の裏の闇を眺めながら、心の中で真穂に詫びる。詫びながら、再び眠りに滑り込もうと試みた。が、眠りに落ちようとするとその寸前に、すかさず真穂のうわ言のような「ひとごろし」という声が耳の中にまた響く。窓の外では、地を打つ雨の音が聞こえ始めていた。気がつくと香苗は、闇に一人浮かぶように、すっかり眠りからはぐれてしまっていた。
いきり立つ香苗を、時枝は暗い洞《ほら》のような虚しく冷たい目をして黙って見ていた。その顔は石だ。感情というものが読み取れない。激しながらも香苗は、以前にも時枝のこんな顔を見たことがあるのを思い出していた。何があっても動じず怯むことのない母。場面によっては相手を威嚇するように憤怒の顔を作りもするが、こうしてすべての感情を封じて石化してしまうこともあった。完璧なまでの外界の拒絶。
「返事をしてよ」香苗は金切り声にも等しい声を張り上げて言った。「真穂のお尻の痣《あざ》よ。あんなものがどうしてできるの? 真穂にやさしくしてやってって頼んだはずじゃない? おかあさん、普通にしかできないって言った。普通でいいのよ。だけど、これが普通のこと?」
自分の留守中、家の中では何も起きてはいないと、信じようとした矢先の出来事だった。真穂の尻にできた見るも無残な赤い大きな痣、それを目にした時は顔から血の気が退き、現実に目の前が暗くなるのを香苗は覚えた。どうしたの、と真穂に問うと、真穂は言葉を濁らせた。家の中でできたのかと問うと、最初はそうだと頷いた。どこで、どうして、と重ねて問う。すると真穂は玄関のところで転んだと答えたが、すぐさま外の階段のところで遊んでいて転んだのだと訂正した。
「それじゃ家の中じゃないじゃないの」香苗は言った。
「間違えたんだよ。家の中じゃなくてマンションの中」
「どうしてそんなことを間違えるの?」
「たいしたことなかったから忘れちゃったんだってば」
「たいしたことないだなんて。それだけ痣になっていたら、椅子に座るのだって痛いはずよ」
今度はわかった。真穂は嘘をついている。最初に言った家の中というのが本当。痣ができたのは、転んで尻餅をついたからなどではない。痣は縦方向に大きくできている。これは突き飛ばされたか投げ飛ばされたかした弾みに、家具の角にしたたか打ちつけてできたものだ。家の中に人は二人、当然突き飛ばしたのは時枝。
「おかあさん、だんまりはよして。ちゃんと返事をしてよ」
時枝は鼻から大きく息を吐き出して、いくぶん唇をへの字に曲げて首を小さく横に振った。
「ねえ、おかあさん!」
「うるさいな」時枝はようやく、低く唸るような声で言った。「私は頭に血がのぼっている人間とは話をしたくないんだ。どうせまともな話にならないからさ」
「私は真穂のお尻の痣のことを訊いているのよ」
「知らないよ」素っ気なく、しかもソッポを向いて時枝は言った。「私は真穂ちゃんのお尻なんか見てないもの」
「見ていなくたって、何かがあったからあんな酷い痣ができたんでしょ?」
「何かがあった……。つまり私が真穂ちゃんを叩いたり蹴ったり、そういう真似をしたってことか」
「だって、それ以外に考えられないんだもの」
「真穂ちゃんがそう言った?」
「──真穂は階段で転んだと言ったけど」
「真穂ちゃんがそう言うんならそうなんだろ」
その言い種を耳にした途端、香苗の頭にかっと熱い血がのぼった。胸の中にも、むかむかと焼けた空気がひろがっていく。
「おかあさん、それで恥ずかしくないの? 子供が何も言わないのをいいことにして」
「何も言わないんじゃなくて、階段で転んだって言ったんだろ?」
「それは真穂の嘘よ」
「嘘?」
「おかあさんを庇う嘘」
時枝はちょっとぽかんとした面持ちで香苗を見た。その直後、さくりと石榴《ざくろ》が割れたように口が開き、時枝は少し腹を抱えるようにして、呵々《かか》と笑った。
「あんた、馬鹿じゃないの?」
「何がおかしいの? 私のどこが馬鹿なの?」
「あんたちっともわかってないよ」そう言った時枝の顔は、石榴からまた石へと瞬時のうちに戻っていた。「ま、いいよ。あんたにははなから期待していないから」
「期待していないって何なのよ?」
「物事わかってもらおうなんて、思ってないってこと」
「話をすり替えないでちょうだい」
「すり替えてなんかいないさ。ねえ、香苗。あんた真穂ちゃんが嘘をついたって言ったけど、真穂ちゃんっていうのは、そういう子なの? そうやってよく嘘をつくの?」
胸をぐさりと突き刺されたような思いがした。一瞬香苗は言葉を失った。
「そうなんだ。やっぱりそういう癖のある子供なんだ」
「それは西納の家で……」
「わかってる。向こうのお義母さんにいじめられて歪められたせいだって言うんだろ? また誰かのせい……あんた、少しは自分の身に引き受けてみたらどうさ」
「おかあさん、私は今、真穂の痣の話をしているのよ」
「その話ならもう済んでいるじゃない? 真穂ちゃんは転んだと言った。私は知らないと言っている。それでもまだ私を疑う根拠は何? いい加減にしてよ、本当に」
時枝は香苗の顔も見ずにふいと立ち上がると、いったん衣装部屋兼寝室にゆき、着替えを済ませてまた出てきた。そのまま黙って玄関へと向かってゆく。
「出かけるの?」
「ああ」やはり時枝は香苗の顔を見ず、靴に足を突っ込みながら言った。「顔突き合わせていたら、お互いむしゃくしゃするだけだから」
ばたんといつもよりも大きな音を立ててドアが閉まり、時枝の姿が家の中から消えた。香苗は急に背骨の力が抜けたみたいになって、ずるりとその場に座り込んだ。コントロールできないぐらいに感情が激していたから、頭ごなしな言い方をしてしまったかもしれない。だが、香苗にしても、根拠なく言ったことではなかった。
仕事を終えてマンションにまで帰ってくると、下のエレベータの脇に、香苗の帰りを待ち構えていたような志水悦子の姿があった。彼女のほうはこれから出勤してゆくところで、派手なスーツに身を包んでいた。前に朝会った時とはまるで別人、厚く塗られたファンデーションの肌色と赤く艶やかなルージュとが、病人のようにくすんだ彼女本来の顔色を完璧なまでに隠していた。茶色の髪もきれいに巻き、瞼にもシャドーを施しているせいか、目の色までもが違って見えた。年齢不詳、たぶん香苗よりは少し若いのではあるまいか。ただし悦子に若さは感じられなかった。
「ああ、よかった。帰ってきた」
待ちかねていたように、悦子は腕を取らんばかりに身を寄せてきた。今夜も口からメンソールの香が漂う。
「何か、あったんですか?」香苗は二、三度目を瞬かせた。
「また山上さんのすごい喚き声と大きな物音がして……。今日は確かに聞いたわ、真穂ちゃんの泣き声。最初はえんえん泣いていたけど、じき痛みに耐えるような啜り泣きに変わった。今度は絶対間違いない」
言葉が出なかった。自分の顔から表情が消えていくのがわかった。胸の中に、むくむくと不穏な空気が充満していく。
「帰ったら、しっかり真穂ちゃんと話をして、真穂ちゃんのからだを確かめたほうがいいと思う。何かが打ちつけられるような大きな物音が響いた直後の大泣きだったから、あれは真穂ちゃんに関係あることだと思う。私、それをあなたに伝えなくちゃと思って」
そう言ってから、悦子は腕の時計に目を落とし、あっと両の眉を持ち上げた。
「ごめんなさい」その顔を見て香苗は言った。「私のこと、待っててくださったんですね。お仕事遅刻したんじゃありませんか?」
「ああ、大丈夫。遅刻は今日が初めてという訳じゃなし。私の自分勝手なお節介」そう言いつつも悦子は急に身が落ち着かなくなったような素振りになり、早くもからだを前へと動かしかけていた。「ごめん。それじゃ私、行くわ。またまた余計なことかもしれないけど、本当に確かめたほうがいい。あの様子はただごとじゃなかったもの」
悦子は大急ぎでそれだけ言うと、香苗にじゃあねと手を振り、カツカツと忙《せわ》しげにヒールの音を響かせて歩き始めた。歩きながら、携帯電話を取り出して店に電話をかけている。遅刻を詫びる悦子の声が、何歩かの間香苗の耳にも届く。その悦子の後ろ姿から目を離し、マンションのほうへと顔を向けた途端、ずしりとからだと心が重たくなった。悦子の話を鵜呑みにすまいと、自らを戒める気持ちもあった。が、彼女は店に遅刻してまで、香苗の帰りを待っていた。それはやはり、単なるお節介でできることではないと思う。またしても迷路、誰を、そして何を信じたらいいのかわからない。怒ってよいのか嘆いてよいのか、自分の気持ちの持っていき場所さえもが、香苗にはよくはわからなくなっていた。
帰って確かめてみると、真穂のからだには悦子の言葉を裏付ける証拠があった。思った以上に深く大きな酷い痣。痛々しさに、香苗は思わず顔を顰《しか》めた。子供は想像以上に弾力のあるからだをしているし、場所が尻という脂肪の多い部分だっただけに、この程度で済んだのだろう。打ちどころを間違えていたら、大事にならなかったとも限らない。悦子の話を、信じない訳にはいかなくなった。事実と認識した次の瞬間、時枝に対するどうしようもない怒りがこみ上げてきて、感情ばかりが走りだした。自分でも抑えがきかず、時枝に対して一方的に言葉を吐いたが、理性も冷静さも欠いてしまっていては何の解決にもならない。今、少し冷めた頭で考えてみると、いったい自分は何を求めていたのか、と思う。事実を確かめたかったのか、時枝に詫びてほしかったのか。しかし、仮に事実が明らかになったとして、それでどうなるというのだろう。香苗は真穂を連れ、すぐにはここを出てはゆけない。ならば今度は逆に時枝に頭を下げて、真穂に手を出さないように頼むのか。真穂と二人、出てゆけるようになるまでの、浅ましい限りの時間稼ぎ。
ビニタイルの床の上に座り込んだまま、しばらく香苗は動けずにいた。何の力もない自分自身が情けなかったし、感情が一気に激したことの反動で、どんな力も湧いてこなかった。容量以上にエネルギーを消費した神経が、だれて弛んだようになっている。少し、頭痛がした。
その晩時枝は、香苗が床についてもまだ家に帰ってこなかった。恐らくどこか知り合いの店で、自棄半分にしたたか飲んだくれているのだと思う。真穂はといえば、その日あったことなどもはや忘れ果てたような顔をして、いつものように眠りについた。香苗は真穂が羨ましかった。子供は忘れるという、大人が失くしてしまった能力を持っている。床にはいってからもしばらく香苗は、時枝が家へと帰ってくる物音を気にして神経を立てていた。が、じきに眠気のほうが勝ち、知らず知らずにうつらうつらし始めていたらしい。もはや眠りの沼に滑り込もうかというその寸前、香苗は真穂の声ではっと現実へと引き戻された。見るとかたわらの真穂は目を瞑《つむ》っている。だから起きて何かを言った訳ではない。寝言。
香苗は真穂の顔に自分の顔を近づけた。真穂の顔が少し歪み、何かを言おうとするように唇が動きかけた。神経を集中して耳を澄まし、真穂の口許を見る。
ぽっと魂を吐き出すように真穂の唇が開いた。「ひと……し」
それは咽喉の奥から絞り出されるような、どこか嗄《しわが》れた感じのする声だった。よく聞き取れず、香苗はさらに真穂に顔を近づけた。真穂はもう一度言葉を口にした。
「ひとごろし……」
人殺し──、思いがけない真穂の言葉に、薄い闇の中で香苗は愕然とした。子供だから、夢の中では自由に楽しく、お伽話のような世界を飛びまわっているのだろうと思っていた。それなのに──。
目を凝らして真穂の表情を見る。幸いなことに、真穂は苦しげな顔はしていなかった。香苗の目には、真穂の顔にうっすらとした笑みの如きものさえ浮かんでいるようにも見えた。それを救いに、香苗は軽く真穂の髪を撫でてから、自分も身を横たえて目を瞑った。ごめんね……瞼の裏の闇を眺めながら、心の中で真穂に詫びる。詫びながら、再び眠りに滑り込もうと試みた。が、眠りに落ちようとするとその寸前に、すかさず真穂のうわ言のような「ひとごろし」という声が耳の中にまた響く。窓の外では、地を打つ雨の音が聞こえ始めていた。気がつくと香苗は、闇に一人浮かぶように、すっかり眠りからはぐれてしまっていた。