7
時枝との間にはこれといって何事もない、真穂は香苗にそう話したし、改めて真穂のからだを隈《くま》なく眺めてみたところで、外傷とおぼしきものは見当たらなかった。時枝は子供は苦手、自分は孫を猫かわいがりする世のおばあちゃんのようにはなれないと言いはしたが、もともと時枝というのはそういう人だ。むしろそれを忌憚なく口にできるのは、うしろめたいところは何もないということの証ではないか。時枝と真穂、二人の話に矛盾はない。香苗は安心してもよいはずだった。なのに心に澱みが残る。
西納の家で育てたせいだろう、真穂は必要以上に周囲の人に気を遣うところがある。それを西納の義母は「子供のくせに大人の顔色を見る」と、忌むべきことの如く言ったものだが。真穂は今、自分たち母子にはここしか居場所がないことを承知している。自分がここにいたくないと口にすれば、香苗を困らせることになると心得てもいる。そういう時、真穂は口を閉ざして本心を告げない。嘘をついてでも隠そうとする。西納の家でもそうだった。真穂は泣き言めいたことは何ひとつ言わなかった。折檻《せつかん》に近い目に遭わされながらも、ちずを嫌いだと言ったことすらなかった。そして我慢が限界に達すると、真穂は自分が構築した虚構の世界に逃げ込んでしまう。それがちずの言う「作り話」だ。真穂が口にすることは、大人の判断を惑わせるぐらいにまことしやかでもある。真穂は生まれてからこの七年のうちに、自分の心を上手に包み隠してしまうことばかりを覚えてしまった。だから香苗は親でありながら、時として真穂の言っていることが本当なのか嘘なのか、その判断がつかなくなる。今回に限って言えば、話を途中で杉田由衣という子や自転車の方に振り向けたということがひっかかる。肝心なことに触れられそうになると、真穂は話を逸らせる傾向がある。はっきりとはしないが、香苗には真穂が何かを隠しているような手応えがあった。手応えだけで中身がさっぱり見えてこないことが、余計にもどかしい。
時枝の言ったことでも、気になることがまったくなかった訳ではなかった。時枝は真穂のことを、自分などよりよほど強い人間だと言った。あれは放っておいても生きていける子だと。長年の商売柄、時枝には人を見る目があると香苗も思う。その時枝が真穂を強いと言ったのは、いったい何を指してのことなのか。手を震わせ頬をひきつらせていた真穂、必死の形相、青白い顔……思い出すと香苗には、真穂がとうてい強い子だとは思えない。しかも真穂は真穂で時枝のことを、弱いところのある人だと言った。万が一、時枝が真穂に虐待に等しい行為をしているとすれば、当然両者の関係は時枝が強者で真穂が弱者だ。なのに二人の話の中では、強者と弱者の立場が逆転している。逆転しているという点で、二人の話の辻褄は合っている。それでいて、現実とは何か大きな喰い違いがあるような気がしてならなかった。そう思うのは、香苗自身が家の中に漂う空気に、何か緊迫感に通じる気配を覚える時があるせいかもしれなかった。仕事を終えて家に帰っても、日によって神経がすんなりほぐれていかないことがある。いわば家の空気がぴんと張っている感じ、あれはいったい何なのか……。
そんなことを頭の中で思い巡らせながら、香苗は渋谷の駅から山手線へと乗り込んだ。五時を過ぎ、そろそろ家路をたどり始めた人々で、帰宅のラッシュが始まりつつあった。人と人とが肌触れ合わせる混雑に揉まれながら、香苗は小さく頭を振った。時枝も真穂も、揃って何もないと言っているのだ、どうしてそれを素直に信じられないのか。あれは隣家の女の勘違い。詮索好きの女が自分勝手に想像した、ありもしない空想話。それをあれこれ考えてみたところで始まらない。今はただ、まじめに勤めて金を貯め、いざという時真穂と二人で暮らしていけるだけの経済的基盤を作ることのほうが肝心だ。とはいっても、先にさほど希望は持てなかった。今の事務所は週休二日で、一日の拘束時間も短く仕事も楽だ。だから給料は一ヵ月十三万円。それではとても親子二人、独立して生活していくことなどできはしない。
新大久保に着き、電車を降りた。自分でも気づかぬまま、肩をすぼめ気味にして家路をたどる。大久保通りを歩いていて、途中ショーウィンドーに映った自分の姿を目にして溜息をつく。十年も茨城の田舎町で下女さながらの生活を送ってきたから、香苗はすっかり所帯やつれしてしまっている。東京に戻ってきて浩子に会った時にも感じたことだが、ファッションにしろ化粧にしろこの十年でまるきり変わってしまっていて、香苗は流行どころか世間一般の波にさえ乗り遅れている。一応は勤めに出ているのだ、新しい服だって何着かはほしい。けれども今はその余裕もなく、十年前と体型が変わっていないのを幸いに、昔の服を着て出かけている。しかし肩パットも膝丈ちょうどのタイトスカートも、今では野暮としか映らない。パーマをかけたセミロングの髪にしても、東京にあっては田舎臭くて垢抜けないばかりだ。なのに十年分、歳だけはしっかりとってしまった。今年香苗は三十三歳、十五、六の娘たちが主流となった世の中では、たとえこちらが肚《はら》を括って夜の勤めに出ようと決心したところで、先方がそれを許さない。
そこまで考えて、思わず香苗はぞっと身を震わせた。子供を抱えて生活していこうとするため、心の隅では夜の勤めに出ることまで算段している──、それは長年香苗が厭悪していた暮らし、はっきり言ってしまえば過去に時枝が選択した、安易このうえない路線だった。母と同じ道筋をたどって子連れでこの街へと舞い戻り、行き惑うような心地で同じことを考えている自分が堪らなかった。
ぼやっと歩く香苗と危うく肩をぶつけそうになりながらすれ違い、通り過ぎかけた男がふと足を止めた。男の強い視線を感じて、香苗も反射的に相手の顔に目をやる。どこかで見たような顔だった。歳は三十五、六というところか。物のいいスーツに身を包んではいるが、目には獣の光があるし、皮膚の毛穴からもふんぷんと雄の匂いを漂わせている。堅気の人間の放つ気配ではない。男の顔から目が離せぬままに、香苗はいくぶん身を固くした。
「もしかして山上? だよな? 山上だろ?」
男の言葉に、香苗の中でも記憶の糸が繋がりかける。しかし、もう少しというところでその糸はうやむやになってしまって繋がらない。もどかしさが募る。
「俺、俺。春山だよ。小、中ずっと一緒だったじゃねえかよ。山上……山上香苗だ。よく覚えてるだろ、俺」
自然とぱっと目が開き、同時に視界も広がって、光が射した心地がした。春山秀浩、この街に帰ってきた時どうしているだろうと真っ先に考えた、「ゲームセンターJ」の息子だった。春山の父親は大久保に腰を据え、いわゆる遊興娯楽事業を営んでいたから、彼は他の多くの友だちとは異なり、この街から消えてしまうことがなかった。だから小、中ずっと一緒、互いのことはよく知っていた。
「春山君……驚いた。すっかり変わっちゃって。ううん、変わっていない。こうして見てみると、やっぱりあの春山君だわ」
「驚いたのはこっちだぜ。大久保に帰ってきてたのかよ? それとも里帰り……っていう恰好でもないか」
「離婚したのよ。しかも子連れで。それでこの春、すごすご舞い戻ってきたの。情けない話でしょ?」
「よくある話だよ。自慢じゃないけど俺だってバツイチだぜ」
「で、今は? 再婚したの?」
「冗談じゃねえ。もう結婚なんて当分結構。その時その時かわいいおねえちゃんと気楽につき合っているのが一番だよ。──ま、前の結婚で、ガキも一人手元に残ったしな。不足はないよ、万万歳だ」
春山の言い種に、香苗は思わず笑みを顔に滲ませた。子供の頃から、線の太い逞しい男だった。からだはたいして大きくないのだが、雑草みたいな強さがあって、何があってもへこたれるということがない。春山を見ていると、香苗もいつも元気になったものだった。
「で、山上は? 今何してるんだよ? かあちゃんの店でも継ぐのか?」
香苗はやや渋い面持ちを作って首を横に振った。「私、ああいうお商売は苦手だから。今は知り合いの紹介で、渋谷の小さな事務所に勤めてる。ま、事務兼雑用係ね」
「何だよ、苦手だなんて言ってないで、おとなしくかあちゃんの店やらせてもらったらいいじゃないか。そのほうがお前、やりようによっちゃ事務員なんかの二倍三倍の金になるだろうに」
「それはそうなんだけど……」
「山上、かあちゃんと違って昔からお上品ぶってたからな」
かあちゃんと違って……その言葉に、ついつい敏感に反応してしまう自分がいる。大久保で夜の商売をしている人間の間では、良くも悪くも。かつて時枝は知られた存在だった。
春山はと言えば、父親の後を継ぎ、相変わらずこの街で遊興娯楽の事業に携わっているという。ゲームセンター、ゲーム喫茶、パチスロ店、それに一昨年、ラブホテルも一軒買い取ったとか。どうやら彼は、今や押しも押されもせぬ実業家ということらしかった。
「そういえばかあちゃん、どうしてる? このところちょっとなりを潜めているみたいだけどよ」
「うん。でも、相変わらず忙しくしているみたいよ。家にもあんまりじっとしていないし」
「そうか? 店のほうじゃ、あんまり姿見ないけどな」
「半分は、もう人に任せてるって言ってたから」
「なのに忙しそうにしているってことは、かあちゃん、また何か企んでるってことか。今度は何の商売始めるつもりだ? 何せお前のかあちゃん、昔っからやり手というか女のくせして強面《こわもて》だったからな。俺なんか高校出るぐらいまでは、おっかなくてまともに口なんか利けなかったぜ」
まさか、と香苗は笑った。けれども春山は真顔で首を前に突き出す。
「本当だって。お前に手ェ出す人間がいなかったのも、かあちゃんのお蔭だよ。あのかあちゃんが後ろについているんじゃおっかなくってよ」
「どうして怖いの?」
「半端じゃないからよ。全盛時代のことは俺もよく知らないけど、肚が坐ってて、殺《や》るか殺られるか、いつも本気で勝負賭けてくるみたいなところがあったらしいから。うちの親父だって、一目置いていたからな」
この街に流れてきてから時枝がどういう生きかたをしてきたのか、それをつぶさに知りたいという欲求が、不意に香苗の中で頭をもたげた。それでいて、同じぐらいの強さで何も知りたくないという思いが萌す。知れば幸せな気持ちにはなれないような気がした。少なくとも、今より時枝を嫌いになることはあっても、好きになるということはないだろう。
「そうそう。昔かあちゃんが飲み屋やってた頃、作田っておやじがいただろ?」
懐かしい名前だった。作田というのは、時枝がスナックだのデートクラブだのをやっていた時のマネージャーで、腰巾着みたいにいつも時枝にくっついていた男だ。だが、香苗が大学にはいった頃から姿を見かけなくなった。それきり香苗も、作田のことは完全に忘れていた。そんな男がこの世に存在したということさえ。
「あのおやじ、今どこにいるか知らねえかな? 四、五年前には大久保に戻っていたんだけど、最近また姿が見えなくてよ」
香苗は首を振った。「知らない。私十年以上も、あの人には会っていないもの」
「だよな。ずっと田舎に引っ込んでた山上に聞いてみたところでわかりっこないな」
「作田さん……あの人がどうかしたの?」
「あのおやじ、曲者だからよ。ああ見えてしこたま金持っていて、金の匂いにもさといんだよ。裏のほうにもいろいろと顔が広くてよ、俺も今度始める商売のことで、ちょっと相談したいことがあったんだけどな」
「作田さんが?」
意外だった。作田というのは、実際の歳も時枝よりは五つか六つ上だと思うが、若白髪だったのか、昔から年齢よりもずっと老けて見えた。だから香苗にとってはずっと、おじさん、おじいさん。時枝との関係も、いつも時枝がオーナーで作田がマネージャー、その主従の関係は変わることがなく、彼は常に時枝に頭が上がらぬ子分だった。どちらかというと鈍重な感じのする温和な初老の男。香苗の中の作田像は、春山の言ったそれとはずいぶんずれがあった。
内ポケットの携帯が震えたらしい。春山は携帯を取り出して、相手を確認してからいったん電話を切った。
「とにかくよ、近いうちいっぺんうちの事務所に顔出せや。女が子供抱えてっていうんじゃ、何かと大変だろう。今なら俺だって、相談に乗れることもあると思うからよ。まあ、山上にはかあちゃんがついているから心配はないと思うけど」
「そんなこと……」
「それにしてもかあちゃん、金、いったいどうしたんだろうな?」
春山は眉根を寄せ、いくぶん左右の目を段違いにして呟いた。その表情はどこか小狡そうで、油断ならない感じがした。オールバックにした黒い髪が艶々とてかっている。
「だってよ、かあちゃん長年金になる商売を、結構手広くやってたじゃねえか。その金うまくまわしていりゃあ、億に届く額になってるはずなんだよな。なのにいまだにあのアパートに住んでるんだろ?」
アパートという表現が、妙に肌にしっくりきた。事実「大久保東レジデンス」は、かつてはマンションだったかもしれないが、今はアパートに成り下がった。
「今手もとにあるのは、あの喫茶店一軒だけだろ? 不思議なんだよな。贅沢しているようにゃとても見えないし。案外ハワイかどっかに豪邸持っていたりしてな」自分で言っておきながら、春山はすぐさま、はは、と笑い飛ばして天を仰いだ。それから香苗の顔を見て言う。「悪い。俺、まだ一軒集金にまわらなきゃならないんだ。山上、本当に近いうち寄れよ。かあちゃんにもよろしくな」
言いながらも、春山はぐんぐん香苗から遠ざかり、舗道の人込みに紛れていった。立ち話をしているうち、町は暮色に包まれて、通りを挟んだ店々には、色とりどりの明かりが灯り始めていた。香苗は、再び家に向かってゆっくりと歩きだした。歩きながら頭の中で、春山の言葉を反芻する。確かにおかしい。昔から時枝は昼も夜もろくに家にはいないほど、忙しく動きまわっていた。金のためとあらば仕事は選ばず、際どい商売にも手を染めてきた。ならば春山の言うとおり、相当の額の金を貯め込んでいても不思議はない。むろん香苗も時枝の通帳だの何だのを、この目で確《しか》と見た訳ではない。だが、少なくとも香苗が知っている限りでは、今の時枝に家一軒買えるほどの金はない。2LDKのマンションの部屋ひとつ買えるかどうかも怪しいぐらい、老後の蓄えというのがせいぜいの額だろう。時枝がなりふりかまわず稼いだ金は、いったいどこに消えてしまったのか。作田のことにしても、何か釈然としない気分だった。あれはいわば時枝の下僕のような男だとばかり思い込んでいた。しかしどうやら彼には別の顔があったらしい。
香苗は、不意に悦子の言った言葉を思い出した。山上さんと同じぐらいの年頃の女の人の声がする……。そうだった、謎はほかにもまだあった。それが事実とするならば、女はどこの誰なのか。その女がくると、どうして時枝はヒステリーを起こして喚きたてるのか。それほどいやな相手なら、何だって家に上げたりするのか。
一日この街で過ごすごとに事情に明るくなっていくどころか、次々わからないことばかりができてきて、日増しに深く迷路にはいり込んでゆくようだった。
おかあさんは東京で生まれて育ったのに、東京のことなんにも知らないんだね──、いつだったか真穂は香苗に言った。東京のことばかりでなくこの街のこと、人間のこと……自分の母親の時枝のことさえ、その実香苗はろくに知らずにいた。大久保通りを左に折れると途端に周囲の光度が落ちて、あたりに闇がひろがった。蛍光灯が切れかかっているのか、マンションの入口付近の明かりがちかちかしていた。いや、マンションではなくアパート……。香苗は頭の中で訂正した。
西納の家で育てたせいだろう、真穂は必要以上に周囲の人に気を遣うところがある。それを西納の義母は「子供のくせに大人の顔色を見る」と、忌むべきことの如く言ったものだが。真穂は今、自分たち母子にはここしか居場所がないことを承知している。自分がここにいたくないと口にすれば、香苗を困らせることになると心得てもいる。そういう時、真穂は口を閉ざして本心を告げない。嘘をついてでも隠そうとする。西納の家でもそうだった。真穂は泣き言めいたことは何ひとつ言わなかった。折檻《せつかん》に近い目に遭わされながらも、ちずを嫌いだと言ったことすらなかった。そして我慢が限界に達すると、真穂は自分が構築した虚構の世界に逃げ込んでしまう。それがちずの言う「作り話」だ。真穂が口にすることは、大人の判断を惑わせるぐらいにまことしやかでもある。真穂は生まれてからこの七年のうちに、自分の心を上手に包み隠してしまうことばかりを覚えてしまった。だから香苗は親でありながら、時として真穂の言っていることが本当なのか嘘なのか、その判断がつかなくなる。今回に限って言えば、話を途中で杉田由衣という子や自転車の方に振り向けたということがひっかかる。肝心なことに触れられそうになると、真穂は話を逸らせる傾向がある。はっきりとはしないが、香苗には真穂が何かを隠しているような手応えがあった。手応えだけで中身がさっぱり見えてこないことが、余計にもどかしい。
時枝の言ったことでも、気になることがまったくなかった訳ではなかった。時枝は真穂のことを、自分などよりよほど強い人間だと言った。あれは放っておいても生きていける子だと。長年の商売柄、時枝には人を見る目があると香苗も思う。その時枝が真穂を強いと言ったのは、いったい何を指してのことなのか。手を震わせ頬をひきつらせていた真穂、必死の形相、青白い顔……思い出すと香苗には、真穂がとうてい強い子だとは思えない。しかも真穂は真穂で時枝のことを、弱いところのある人だと言った。万が一、時枝が真穂に虐待に等しい行為をしているとすれば、当然両者の関係は時枝が強者で真穂が弱者だ。なのに二人の話の中では、強者と弱者の立場が逆転している。逆転しているという点で、二人の話の辻褄は合っている。それでいて、現実とは何か大きな喰い違いがあるような気がしてならなかった。そう思うのは、香苗自身が家の中に漂う空気に、何か緊迫感に通じる気配を覚える時があるせいかもしれなかった。仕事を終えて家に帰っても、日によって神経がすんなりほぐれていかないことがある。いわば家の空気がぴんと張っている感じ、あれはいったい何なのか……。
そんなことを頭の中で思い巡らせながら、香苗は渋谷の駅から山手線へと乗り込んだ。五時を過ぎ、そろそろ家路をたどり始めた人々で、帰宅のラッシュが始まりつつあった。人と人とが肌触れ合わせる混雑に揉まれながら、香苗は小さく頭を振った。時枝も真穂も、揃って何もないと言っているのだ、どうしてそれを素直に信じられないのか。あれは隣家の女の勘違い。詮索好きの女が自分勝手に想像した、ありもしない空想話。それをあれこれ考えてみたところで始まらない。今はただ、まじめに勤めて金を貯め、いざという時真穂と二人で暮らしていけるだけの経済的基盤を作ることのほうが肝心だ。とはいっても、先にさほど希望は持てなかった。今の事務所は週休二日で、一日の拘束時間も短く仕事も楽だ。だから給料は一ヵ月十三万円。それではとても親子二人、独立して生活していくことなどできはしない。
新大久保に着き、電車を降りた。自分でも気づかぬまま、肩をすぼめ気味にして家路をたどる。大久保通りを歩いていて、途中ショーウィンドーに映った自分の姿を目にして溜息をつく。十年も茨城の田舎町で下女さながらの生活を送ってきたから、香苗はすっかり所帯やつれしてしまっている。東京に戻ってきて浩子に会った時にも感じたことだが、ファッションにしろ化粧にしろこの十年でまるきり変わってしまっていて、香苗は流行どころか世間一般の波にさえ乗り遅れている。一応は勤めに出ているのだ、新しい服だって何着かはほしい。けれども今はその余裕もなく、十年前と体型が変わっていないのを幸いに、昔の服を着て出かけている。しかし肩パットも膝丈ちょうどのタイトスカートも、今では野暮としか映らない。パーマをかけたセミロングの髪にしても、東京にあっては田舎臭くて垢抜けないばかりだ。なのに十年分、歳だけはしっかりとってしまった。今年香苗は三十三歳、十五、六の娘たちが主流となった世の中では、たとえこちらが肚《はら》を括って夜の勤めに出ようと決心したところで、先方がそれを許さない。
そこまで考えて、思わず香苗はぞっと身を震わせた。子供を抱えて生活していこうとするため、心の隅では夜の勤めに出ることまで算段している──、それは長年香苗が厭悪していた暮らし、はっきり言ってしまえば過去に時枝が選択した、安易このうえない路線だった。母と同じ道筋をたどって子連れでこの街へと舞い戻り、行き惑うような心地で同じことを考えている自分が堪らなかった。
ぼやっと歩く香苗と危うく肩をぶつけそうになりながらすれ違い、通り過ぎかけた男がふと足を止めた。男の強い視線を感じて、香苗も反射的に相手の顔に目をやる。どこかで見たような顔だった。歳は三十五、六というところか。物のいいスーツに身を包んではいるが、目には獣の光があるし、皮膚の毛穴からもふんぷんと雄の匂いを漂わせている。堅気の人間の放つ気配ではない。男の顔から目が離せぬままに、香苗はいくぶん身を固くした。
「もしかして山上? だよな? 山上だろ?」
男の言葉に、香苗の中でも記憶の糸が繋がりかける。しかし、もう少しというところでその糸はうやむやになってしまって繋がらない。もどかしさが募る。
「俺、俺。春山だよ。小、中ずっと一緒だったじゃねえかよ。山上……山上香苗だ。よく覚えてるだろ、俺」
自然とぱっと目が開き、同時に視界も広がって、光が射した心地がした。春山秀浩、この街に帰ってきた時どうしているだろうと真っ先に考えた、「ゲームセンターJ」の息子だった。春山の父親は大久保に腰を据え、いわゆる遊興娯楽事業を営んでいたから、彼は他の多くの友だちとは異なり、この街から消えてしまうことがなかった。だから小、中ずっと一緒、互いのことはよく知っていた。
「春山君……驚いた。すっかり変わっちゃって。ううん、変わっていない。こうして見てみると、やっぱりあの春山君だわ」
「驚いたのはこっちだぜ。大久保に帰ってきてたのかよ? それとも里帰り……っていう恰好でもないか」
「離婚したのよ。しかも子連れで。それでこの春、すごすご舞い戻ってきたの。情けない話でしょ?」
「よくある話だよ。自慢じゃないけど俺だってバツイチだぜ」
「で、今は? 再婚したの?」
「冗談じゃねえ。もう結婚なんて当分結構。その時その時かわいいおねえちゃんと気楽につき合っているのが一番だよ。──ま、前の結婚で、ガキも一人手元に残ったしな。不足はないよ、万万歳だ」
春山の言い種に、香苗は思わず笑みを顔に滲ませた。子供の頃から、線の太い逞しい男だった。からだはたいして大きくないのだが、雑草みたいな強さがあって、何があってもへこたれるということがない。春山を見ていると、香苗もいつも元気になったものだった。
「で、山上は? 今何してるんだよ? かあちゃんの店でも継ぐのか?」
香苗はやや渋い面持ちを作って首を横に振った。「私、ああいうお商売は苦手だから。今は知り合いの紹介で、渋谷の小さな事務所に勤めてる。ま、事務兼雑用係ね」
「何だよ、苦手だなんて言ってないで、おとなしくかあちゃんの店やらせてもらったらいいじゃないか。そのほうがお前、やりようによっちゃ事務員なんかの二倍三倍の金になるだろうに」
「それはそうなんだけど……」
「山上、かあちゃんと違って昔からお上品ぶってたからな」
かあちゃんと違って……その言葉に、ついつい敏感に反応してしまう自分がいる。大久保で夜の商売をしている人間の間では、良くも悪くも。かつて時枝は知られた存在だった。
春山はと言えば、父親の後を継ぎ、相変わらずこの街で遊興娯楽の事業に携わっているという。ゲームセンター、ゲーム喫茶、パチスロ店、それに一昨年、ラブホテルも一軒買い取ったとか。どうやら彼は、今や押しも押されもせぬ実業家ということらしかった。
「そういえばかあちゃん、どうしてる? このところちょっとなりを潜めているみたいだけどよ」
「うん。でも、相変わらず忙しくしているみたいよ。家にもあんまりじっとしていないし」
「そうか? 店のほうじゃ、あんまり姿見ないけどな」
「半分は、もう人に任せてるって言ってたから」
「なのに忙しそうにしているってことは、かあちゃん、また何か企んでるってことか。今度は何の商売始めるつもりだ? 何せお前のかあちゃん、昔っからやり手というか女のくせして強面《こわもて》だったからな。俺なんか高校出るぐらいまでは、おっかなくてまともに口なんか利けなかったぜ」
まさか、と香苗は笑った。けれども春山は真顔で首を前に突き出す。
「本当だって。お前に手ェ出す人間がいなかったのも、かあちゃんのお蔭だよ。あのかあちゃんが後ろについているんじゃおっかなくってよ」
「どうして怖いの?」
「半端じゃないからよ。全盛時代のことは俺もよく知らないけど、肚が坐ってて、殺《や》るか殺られるか、いつも本気で勝負賭けてくるみたいなところがあったらしいから。うちの親父だって、一目置いていたからな」
この街に流れてきてから時枝がどういう生きかたをしてきたのか、それをつぶさに知りたいという欲求が、不意に香苗の中で頭をもたげた。それでいて、同じぐらいの強さで何も知りたくないという思いが萌す。知れば幸せな気持ちにはなれないような気がした。少なくとも、今より時枝を嫌いになることはあっても、好きになるということはないだろう。
「そうそう。昔かあちゃんが飲み屋やってた頃、作田っておやじがいただろ?」
懐かしい名前だった。作田というのは、時枝がスナックだのデートクラブだのをやっていた時のマネージャーで、腰巾着みたいにいつも時枝にくっついていた男だ。だが、香苗が大学にはいった頃から姿を見かけなくなった。それきり香苗も、作田のことは完全に忘れていた。そんな男がこの世に存在したということさえ。
「あのおやじ、今どこにいるか知らねえかな? 四、五年前には大久保に戻っていたんだけど、最近また姿が見えなくてよ」
香苗は首を振った。「知らない。私十年以上も、あの人には会っていないもの」
「だよな。ずっと田舎に引っ込んでた山上に聞いてみたところでわかりっこないな」
「作田さん……あの人がどうかしたの?」
「あのおやじ、曲者だからよ。ああ見えてしこたま金持っていて、金の匂いにもさといんだよ。裏のほうにもいろいろと顔が広くてよ、俺も今度始める商売のことで、ちょっと相談したいことがあったんだけどな」
「作田さんが?」
意外だった。作田というのは、実際の歳も時枝よりは五つか六つ上だと思うが、若白髪だったのか、昔から年齢よりもずっと老けて見えた。だから香苗にとってはずっと、おじさん、おじいさん。時枝との関係も、いつも時枝がオーナーで作田がマネージャー、その主従の関係は変わることがなく、彼は常に時枝に頭が上がらぬ子分だった。どちらかというと鈍重な感じのする温和な初老の男。香苗の中の作田像は、春山の言ったそれとはずいぶんずれがあった。
内ポケットの携帯が震えたらしい。春山は携帯を取り出して、相手を確認してからいったん電話を切った。
「とにかくよ、近いうちいっぺんうちの事務所に顔出せや。女が子供抱えてっていうんじゃ、何かと大変だろう。今なら俺だって、相談に乗れることもあると思うからよ。まあ、山上にはかあちゃんがついているから心配はないと思うけど」
「そんなこと……」
「それにしてもかあちゃん、金、いったいどうしたんだろうな?」
春山は眉根を寄せ、いくぶん左右の目を段違いにして呟いた。その表情はどこか小狡そうで、油断ならない感じがした。オールバックにした黒い髪が艶々とてかっている。
「だってよ、かあちゃん長年金になる商売を、結構手広くやってたじゃねえか。その金うまくまわしていりゃあ、億に届く額になってるはずなんだよな。なのにいまだにあのアパートに住んでるんだろ?」
アパートという表現が、妙に肌にしっくりきた。事実「大久保東レジデンス」は、かつてはマンションだったかもしれないが、今はアパートに成り下がった。
「今手もとにあるのは、あの喫茶店一軒だけだろ? 不思議なんだよな。贅沢しているようにゃとても見えないし。案外ハワイかどっかに豪邸持っていたりしてな」自分で言っておきながら、春山はすぐさま、はは、と笑い飛ばして天を仰いだ。それから香苗の顔を見て言う。「悪い。俺、まだ一軒集金にまわらなきゃならないんだ。山上、本当に近いうち寄れよ。かあちゃんにもよろしくな」
言いながらも、春山はぐんぐん香苗から遠ざかり、舗道の人込みに紛れていった。立ち話をしているうち、町は暮色に包まれて、通りを挟んだ店々には、色とりどりの明かりが灯り始めていた。香苗は、再び家に向かってゆっくりと歩きだした。歩きながら頭の中で、春山の言葉を反芻する。確かにおかしい。昔から時枝は昼も夜もろくに家にはいないほど、忙しく動きまわっていた。金のためとあらば仕事は選ばず、際どい商売にも手を染めてきた。ならば春山の言うとおり、相当の額の金を貯め込んでいても不思議はない。むろん香苗も時枝の通帳だの何だのを、この目で確《しか》と見た訳ではない。だが、少なくとも香苗が知っている限りでは、今の時枝に家一軒買えるほどの金はない。2LDKのマンションの部屋ひとつ買えるかどうかも怪しいぐらい、老後の蓄えというのがせいぜいの額だろう。時枝がなりふりかまわず稼いだ金は、いったいどこに消えてしまったのか。作田のことにしても、何か釈然としない気分だった。あれはいわば時枝の下僕のような男だとばかり思い込んでいた。しかしどうやら彼には別の顔があったらしい。
香苗は、不意に悦子の言った言葉を思い出した。山上さんと同じぐらいの年頃の女の人の声がする……。そうだった、謎はほかにもまだあった。それが事実とするならば、女はどこの誰なのか。その女がくると、どうして時枝はヒステリーを起こして喚きたてるのか。それほどいやな相手なら、何だって家に上げたりするのか。
一日この街で過ごすごとに事情に明るくなっていくどころか、次々わからないことばかりができてきて、日増しに深く迷路にはいり込んでゆくようだった。
おかあさんは東京で生まれて育ったのに、東京のことなんにも知らないんだね──、いつだったか真穂は香苗に言った。東京のことばかりでなくこの街のこと、人間のこと……自分の母親の時枝のことさえ、その実香苗はろくに知らずにいた。大久保通りを左に折れると途端に周囲の光度が落ちて、あたりに闇がひろがった。蛍光灯が切れかかっているのか、マンションの入口付近の明かりがちかちかしていた。いや、マンションではなくアパート……。香苗は頭の中で訂正した。