10
本当に作田と会うことが必要なのか、迷いはあった。ただ本能に近いものが、作田は時枝の近いところにある人間だと香苗に告げている。ためらいを残しながらも、香苗は翌週春山のところに電話を入れ、作田の連絡先を教えてもらった。春山に言わせれば、作田は裏の社会にも通じたなかなかの曲者ということになる。そういう男だから、ある面、慎重で警戒心も強いのだろう、香苗が春山から告げられたのは携帯電話の番号だけで、市ヶ谷のマンションの電話や住所は教えてもらえなかった。作田は作田で急に香苗が連絡をとろうとしてきた動機が掴めず、不審の念を抱いたのかもしれない。むろん香苗は作田に恐れられるような人間ではない。作田が警戒しているのは香苗ではなく時枝。彼は勝手に、香苗の後ろに時枝を見たのだろう。
電話は一度で繋がった。実のところ電話をかけるまでは、作田がどんな声の持ち主だったかすら忘れていた。が、ひと声聞いた途端に脳細胞の記憶が甦った。日向臭さに似た穏やかで温《ぬく》みのある少し曇った声……香苗はそれに、自然と懐かしさを覚えていた。
「本当にあの香苗ちゃんか? いや驚いたな。春山のぼんからあんたが私に連絡をとりたがっているとは聞いていたんだけれども、正直言うと半信半疑で」
香苗が会いたいと言うと、作田は嫌とは言わなかった。話の流れのまま、その週の土曜に会う約束をした。時刻は午前十一時頃、場所は新大久保駅前の喫茶店「サモワール」。三流ホテルのラウンジを思わせる、広いだけが取り柄の雑踏のような喫茶店だ。
その日は、学校のある土曜だった。真穂は昼には家に帰ってくる。だから真穂には一度家に帰ったら、「サモワール」に寄るようにと言っておいた。どうせ何時間もかかるような話ではない。その後真穂と外で昼食をとり、それから一緒にデパートへ買い物に行くつもりだった。少ないながらも今月の給料も無事はいった。季節もはや夏に移行しつつある。新しい服の一枚も買ってやりたかったし、たまには母子でデパートをぶらぶらして、気晴らしをするのも悪くはない。たとえささやかなことでも、今の真穂には何か楽しいことが必要だ。それを作る努力を母親の香苗がしてやらなければいけない。ずっとよいことなど何もなかった。今なお何ひとつとしてない。西納の家で患った真穂の病気も、いまだ治ってはいない。香苗は一昨日あったばかりの保護者会で、そのことを思い知らされた。
杉田由衣。真穂はその子と一番の仲よしで、いつも一緒に遊んでいると香苗に話していた。ピンクの自転車に乗った、戸山のマンションに住むタレントにしたいようなとびきりの美少女。けれども、クラスの名簿に杉田由衣の名前は見当たらなかった。保護者会にも、杉田という姓の母親はきていなかった。香苗は個人面談の時、友部明男という担任の教師に、ちらりとそのことを尋ねてみた。
「杉田、由衣、ですか?」彼は唇をちょっと突き出し、首を捻った。「いや、そういう名前の子は……。うちのクラスにはもちろん、学年にもいなかったはずですが。その子が何か?」
「いえ」香苗は慌てて首を横に振って言った。「真穂が家でその子の話をよくするものですから、私はてっきりクラスのお友だちかと。たぶん私の勘違いです。真穂は同じマンションの中でできたお友だちのことを言っていたんだと思います」
「杉田由衣、杉田由衣……」それでも友部は口の中でその名前を呟き、しばし考えるような面持ちを見せた。
「あ、先生、もう本当によろしいんです。単なる私の勘違いですから」
「いや、それが、僕にも何だか聞き覚えがあるような……」やがて友部はあっ、と声を上げ、顔にぱっと光を灯らせ笑い出した。「ああ、そうか。杉田由衣か」
「ご存じなんですか?」
「人気アニメの主人公の名前ですよ。ピンクのハイテク自転車に乗って活躍する──」
あらいやだ、私ったら現実とアニメの話との区別もついていなかったんだわ、と香苗は誤魔化した。だが、言うまでもなく現実とアニメの区別がついていないのは真穂だった。その実わかってはいても、現実が灰色であまりに面白味がないから、真穂はアニメを現実にと、故意に頭の中ですり替えているのかもしれない。真穂得意の現実からの逃避。うっかり聞いていると、いつの間にやらこちらのほうまで巻き込まれ、虚構を現実と取り違えてしまう。西納の母が、生来の嘘つきと言って眉を顰めて厭悪した真穂の癖、それがまだ治っていない。しかし真穂が悪いのではない。悪いのは真穂を取り巻く現実のほう、真穂は逃げなければならない現実の中にいる。
真穂は新しい学校で、まずまずうまくやっていけているようだった。勉強のほうは問題ない。ただ、やや内向的で口数が少なく、自分から積極的に友だちづき合いをしようとはしていない……そんな友部の話だった。
「ひょっとすると、ほかの子にくらべてちょっと精神年齢が高いのかもしれませんね」友部は言った。「時々びっくりするぐらいに大人びた表情を見せることがありますから。醒めた目、とでもいうか」
早く大人になってしまうのは不幸だった。大人になればなおのこと、世界が灰色に曇っていることを思い知らされるだけだ。もはや夢見ることも許されない。
「サモワール」で作田を待ちながら、香苗は真穂のことを想って爪を噛んだ。何とかしてやらなければと思うのだが、今は暮らしていくことだけで精一杯。そんな自分が口惜しい。
入口のドアから、作田がはいってくるのが見えた。最後に作田に会ったのは、確か香苗が高校三年の時ではなかったか。それから十五年もの月日が流れている。そのぶん作田も歳をとった。とはいえ、面変わりしてしまうほどではなかった。頭がずいぶん白くなり、ひとまわりからだが小さくなったようには見えるものの、彼の穏やかな中級紳士ぶりには変わるところがない。急に心臓がどきどきした。作田に会うのに緊張するというのもおかしな話だ。それは恐らく緊張ではなく、香苗の自信のなさを源とした胸の高鳴りだった。香苗も歳をとった。所帯やつれもした。今も幸せとはいえない日々の中にある。人の目に、香苗がかつてよりも見栄《みば》えよく映る道理がない。作田に驚いた顔をされるのが、少し怖かった。
作田はぐるっと店の中を見まわした。もしも彼が香苗を認識できないようならば、半分立ち上がって自ら指し示すよりほかあるまい。そう考えた矢先、彼は香苗に気がついた。はっと幾分目を見開いた後、作田の顔の上に以前に何度も目にしたことのある柔らかな笑みがゆっくりとひろがっていった。幸いにして作田の顔には、驚きの色も憐れみの色も見当たらなかった。そのことに、香苗は幾許《いくばく》かの安堵を得た。
「やあ、本当に香苗ちゃんだ」作田は瞳を輝かせて言った。顔にはビロードの手触りを思わせる滑らかな笑みを浮かべている。「久し振りだねぇ。何年振りになるんだろう。香苗ちゃんもすっかり大人になっちゃって。それじゃこっちが歳をとる訳だ」
久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》する、とでも言うのだろうか、しばしありきたりの挨拶に似た会話を交わした。
「で、私に会いたいって香苗ちゃん、何か話でもあったの?」挨拶の後の短い沈黙を切り上げるように、先に作田が話の口火を切った。「まさかお母さんの具合がよくないとか、そういうことじゃないよね?」
「母は、お蔭様で元気にしています。やっぱり歳はとりましたけど。作田さん、母とは全然?」
「そうだね、もう何年も会っていないね。ずいぶん世話になっておいてご無沙汰ばかり、本当に申し訳ないと思っているよ」
「いえ、そんなことは。──あの、今頃になってこんなことをお伺いするのも失礼とは思うのですが、作田さんとうちの母とは、どういうお知り合いなんでしょうか?」
作田はよれた箱から、ゆっくりと煙草を一本抜き出した。ピース。そう言えば、作田は昔からこの煙草だった。ひとつひとつ記憶が甦る。
「オーナーと従業員、それは香苗ちゃんも前から知っていたと思うけど」作田は煙草に火を点け、少し煙たそうな目をして香苗を見た。
「そういう間柄だと、ずっと思っていました。でも、ついこの間春山君から作田さんも新潟のご出身だと聞いて、もしかして作田さんとうちの母とは、東京に出てくる以前からの知り合いではなかったかと思うようになったんです。考えてみれば、母が信用して長いことそばで働いてもらっていたのは作田さんのほかいませんでしたし。だから作田さんに訊けば、母のことやふるさとのことが、いろいろわかるような気がして」
作田はまだいくぶん煙たそうに目をしばたかせ、あえてその視線を香苗の顔からはずしてテーブルのコーヒーカップの上に落とした。それから持ち前のゆったりとして奥行きのある柔らかな声で言った。
「香苗ちゃん、あんたそういうこと、一度でもママに直接尋ねたことあるの?」
「……いいえ」
「基本的に私は、過去のことは気にしない。だってすべて過ぎてしまったことだもの。だけど人はそれぞれ気にするところが違う。私にしてみれば過去の些細な出来事に過ぎなくても、ママにとってはそうじゃないかもしれない。私自身のことならばともかく、ママに関することは私の口から話すべきではないと思うんだよ」
「………」
「親子なんだ。訊けばママだって、きっと答えてくれると思うけどね」
「そうでしょうか。父のことも私には、『もともとお前に父親なんてものはいないんだよ』と言い続けた人ですから」
ママらしいなと、作田は苦笑に近い笑みを目の下あたりに滲ませた。
「私自身、これまでそんなことはどうでもいいと思っていました。母がどういう家の人間であろうが、父がどういう家のどういう人間であろうが、私は私、関係のないことだと。でも、自分が子供を持ってみて、考えが少し変わりました。真穂のためにも──、あ、真穂というのは私の娘ですが、やはりそういうことはきちんと知っておいたほうがいいと思うようになったんです。ですから……」
「だから、そういうことを、ママにちゃんと話したらいいじゃない? そうしたらママだって話してくれるさ。ひいてはかわいい孫のためなんだもの」
かわいい孫──、作田の言葉が、逆に香苗の顔と心を曇らせる。
「母は私の娘のことを、別にかわいいとは思っていないと思うんです」顔をやや俯けたまま、翳った声で香苗は言った。
「え?」
「いえ、娘のことをというよりも、母はたぶん子供が嫌いなんだと思います。いい歳をして僻みっぽいとお思いになるかもしれませんが、子供の頃、私もとくに大事にされた記憶はありませんし」
「まあママは、確かに特別子供好きではないだろうね。だけどあんた、自分の孫はまた別だよ。子供が嫌いな母親はいても、孫が嫌いなおばあちゃんはいない」
やはり他人には理解できない、そんな気持ちが香苗のからだの中にひろがっていく。その気持ちの重たさは、絶望感によく似ていた。
作田は煙草の煙を吐き出し、ついでに小さく息をついた。「それじゃあ、私に関することを少しだけ話すよ」
作田は、新潟はN町の、今は八木沢地区と呼ばれている地域の出身だという。八木沢地区は昔から農業を主体としてきた村落だが、作田の家も例外ではなく、彼は農家の三男坊だった。
「貧しい農家の三男坊なんてどうにもならない。田畑はどうせ兄貴のものになる訳だし。それに、朝どっかの溝に落っこちたら、昼には村中の人がそれを知っているような田舎の狭い暮らしにも、私はほとほとうんざりしていた。それである時、東京に出てきてしまったんだよ」
それは作田が三十をいくつか出た頃のこと、彼には既に新潟に、妻もいれば子供もいた。東京には、ひと足先に村を出た八木沢出身の人間がいた。作田はその人物を探し出し、頼った。お蔭で作田は東京で職にありつくこともでき、自分の口を糊《のり》するばかりでなく、故郷に残してきた妻子にも、金を仕送りしてやることができた。その人物とは、その後長年にわたり一緒に仕事をした。
「それが母、だったんですね?」
「香苗ちゃん、私は自分に関することだけを話すと言ったはずだよ」
言いながらも、作田は続けた。
「その人は、もとは首藤という家の一人息子の嫁さんだった。首藤というのは八木沢では昔からの庄屋、いわゆる豪農だが、何かとしきたりのうるさい家でね。またそこの大奥さんというのが、とにかく気のきつい人だった。どうにも堪えがたいことがきっと何かあったんだろう、その人は赤ん坊を抱えて首藤の家を出てしまった。その人も気の強い頑張り屋の嫁さんだったからね、私が予想していたとおり、東京で子供を育てながら立派に暮らしていたよ。お蔭で私も救われた。その人には、今でも感謝しているよ。私が話せるのはそれぐらいかな」
香苗は黙って頷いた。わずかとはいえ、作田と会った収穫はあった。新潟県N町八木沢地区、自分が生まれた土地、父親の家のある土地だけははっきりとした。
「あとはやっぱり自分の口から、お母さんに尋ねてみることだね」作田は言った。
「すみませんでした。こんなことでお呼びたてしてしまって」
「いや、久し振りに顔が見られただけで嬉しかったよ」
「あの、もうひとつだけお尋ねしてもいいですか?」
「何だろう?」
「母と同じぐらいの年齢の女の人に、作田さん、何か心当たりはありませんか?」
「どういう意味?」
「私の留守中、時々母のところを訪ねてくる、六十ぐらいの女の人がいるみたいなんです。その人がくると母は精神状態が悪くなるというか、ひどいヒステリーを起こしたりするらしくて」
「ママがヒステリー? 信じられないな」
「癇に障《さわ》るような相手なら家に上げなければいいと思うんですが、それでも母は家に上げているみたいで。だからもしかして昔からの知り合いなのかしら、と」
「ママと同じぐらいの年頃の女の人ねえ……」作田は首を傾げた。「残念ながら心当たりはないな。若い子の面倒はよく見たけど、ママは昔っから友だちだの何だのはいっさい作らない人だったもんな。人をあんまり信用しない性質《たち》なんだな。ことに女は。──その人、最近できた知り合いじゃないの?」
「かもしれません。でも、その人、言葉に北の方の訛りがあるらしいんです。だから、もしかしたら新潟にいた頃からの知り合いじゃないかと思ったりもして」
作田は眉を寄せた。その日初めて見せる、少し険しく黒ずんだ表情だった。
「そんなはずはないな」作田は言った。「ママは新潟の人間、ふるさとの人間とはまず絶対につき合わないはずだ」
確信に満ちた作田の声と言葉に、今度は香苗が眉を寄せる。ふるさとの人間とはつき合わない──、自信を持って絶対と言い切れるだけの根拠は何なのか。
だが作田は、すぐに顔をもとの穏やかな色に戻し、香苗に向かって得意の柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「まあ私も、もう何年もママとは会っていないから近頃のことはわからないけれどね」
根拠を尋ねようとしたところを、うまいことかわされたような気がした。作田の笑みは、柔軟そうでいて思いがけず手強い。柔らかに拒絶して立ち入らせることをしない。春山が言ったとおりの曲者だ。
ふと店の入口の方に泳いだ作田の視線が、宙に浮いたまま不意に止まった。作田ははっと目を見開いたきり、入口から目を離せずにいる。香苗もつられるようにドアの方に目を遣る。そこに真穂の姿があった。思わず香苗の唇が薄い笑みを形作る。真穂の可憐な容姿が思わず作田の目を瞠《みは》らせた、そう考えただけでくすぐったいような喜びが、自然と顔に滲み出す。
香苗は片手を上げて真穂に合図を送った。真穂はすぐに気がついて、香苗に向かってにっこり頬笑んだ。光に満ちた透明な笑顔。眩《まばゆ》いような肌の白。
真穂はテーブルへ歩み寄ってくると、「こんにちは」と作田に頭を下げ、香苗の隣の席に腰を下ろした。作田はまだ半分口を開けたまま、惚《ほう》けた顔で真穂を見ている。
「真穂です。さっきお話しした、私の娘の」香苗は、今日一番の笑顔で言った。
「……驚いたな」
魂が、思わず口から漏れ出たようなその声のあまりの深さに、香苗は改めて作田の顔を見つめた。真穂の見てくれの美しさに、ただ驚いたという顔とは違った。彼は何かに衝撃を受け、肝を潰したといった様子でいる。心なしか、その顔色が青白い。香苗は心持ち訝しげな面持ちを作り、どうかしましたかと問いかけるかわりに、黙って作田の目を覗き込んだ。
その視線に促されるように、作田は言った。「いや、何だか私、びっくりしちゃって……。血っていうのは面白いものだねぇ。今日香苗ちゃんを見た時にも、ああやっぱりすごく似てきたな、と思ったけど、これはまた」
香苗は思わず眉根を強く寄せ、二、三度瞼をしばたかせた。三十を過ぎた頃から徐々に顔が変わり始めたことは自分でも感じていた。しかしそれも歳のせいだと思ってきた。鏡の中に時とともに変わりゆく自分の顔を見出しても、時枝に似てきたと感じたことは一度もない。昔から、実の母子とは思えぬほどに似たところのない母子、今もそのことに変わりないと思っていたのだ。それも他人の目からすれば、違った見え方をしているのだろうか。加えて、香苗の目から見るなら真穂もまた、自分にも時枝にも少しも似たところのない娘だ。作田は自分たち三人のどこに血の面白さを見ているのか。
「このお嬢ちゃんが香苗ちゃんの娘さん……」作田は感慨深げに呟いた。「なるほど、これはかさねだな」
「え?」思わず目を見開いた顔を近づけて、香苗は作田に問い返した。「かさね?」
「あ、いや。私のひとり言」
そう言って頷いた時には、いったん青白くなった作田の顔には血の気が戻り、同時に笑みも戻っていた。香苗の目には、作田の笑みの質が、少し前とは些《いささ》か変質しているように映った。穏やかな中級紳士の顔は変わらない。しかしその眸の奥に、ほくそ笑むような光が見える。思いがけず価値あるものを拾った時の、噛み殺すような喜びの色。いったい作田は何を見つけたのか。
「あの……」
香苗が口を開きかけた途端、それを察したように素早く作田は席から立ち上がった。
「ごめん、香苗ちゃん。この後、人と会う約束をしていて……。よかったらまた連絡して。今度は一緒に飯でも喰おう。真穂ちゃんも一緒に三人で」
「あ……」
引き止める間もなく作田は伝票を手に、さっさとレジまで歩いていく。浮きかけた香苗の腰がソファに沈む。肩透かしを喰わされたような心地がした。置き去りにされた香苗の中に、「かさね」という言葉がひとつ残った。
電話は一度で繋がった。実のところ電話をかけるまでは、作田がどんな声の持ち主だったかすら忘れていた。が、ひと声聞いた途端に脳細胞の記憶が甦った。日向臭さに似た穏やかで温《ぬく》みのある少し曇った声……香苗はそれに、自然と懐かしさを覚えていた。
「本当にあの香苗ちゃんか? いや驚いたな。春山のぼんからあんたが私に連絡をとりたがっているとは聞いていたんだけれども、正直言うと半信半疑で」
香苗が会いたいと言うと、作田は嫌とは言わなかった。話の流れのまま、その週の土曜に会う約束をした。時刻は午前十一時頃、場所は新大久保駅前の喫茶店「サモワール」。三流ホテルのラウンジを思わせる、広いだけが取り柄の雑踏のような喫茶店だ。
その日は、学校のある土曜だった。真穂は昼には家に帰ってくる。だから真穂には一度家に帰ったら、「サモワール」に寄るようにと言っておいた。どうせ何時間もかかるような話ではない。その後真穂と外で昼食をとり、それから一緒にデパートへ買い物に行くつもりだった。少ないながらも今月の給料も無事はいった。季節もはや夏に移行しつつある。新しい服の一枚も買ってやりたかったし、たまには母子でデパートをぶらぶらして、気晴らしをするのも悪くはない。たとえささやかなことでも、今の真穂には何か楽しいことが必要だ。それを作る努力を母親の香苗がしてやらなければいけない。ずっとよいことなど何もなかった。今なお何ひとつとしてない。西納の家で患った真穂の病気も、いまだ治ってはいない。香苗は一昨日あったばかりの保護者会で、そのことを思い知らされた。
杉田由衣。真穂はその子と一番の仲よしで、いつも一緒に遊んでいると香苗に話していた。ピンクの自転車に乗った、戸山のマンションに住むタレントにしたいようなとびきりの美少女。けれども、クラスの名簿に杉田由衣の名前は見当たらなかった。保護者会にも、杉田という姓の母親はきていなかった。香苗は個人面談の時、友部明男という担任の教師に、ちらりとそのことを尋ねてみた。
「杉田、由衣、ですか?」彼は唇をちょっと突き出し、首を捻った。「いや、そういう名前の子は……。うちのクラスにはもちろん、学年にもいなかったはずですが。その子が何か?」
「いえ」香苗は慌てて首を横に振って言った。「真穂が家でその子の話をよくするものですから、私はてっきりクラスのお友だちかと。たぶん私の勘違いです。真穂は同じマンションの中でできたお友だちのことを言っていたんだと思います」
「杉田由衣、杉田由衣……」それでも友部は口の中でその名前を呟き、しばし考えるような面持ちを見せた。
「あ、先生、もう本当によろしいんです。単なる私の勘違いですから」
「いや、それが、僕にも何だか聞き覚えがあるような……」やがて友部はあっ、と声を上げ、顔にぱっと光を灯らせ笑い出した。「ああ、そうか。杉田由衣か」
「ご存じなんですか?」
「人気アニメの主人公の名前ですよ。ピンクのハイテク自転車に乗って活躍する──」
あらいやだ、私ったら現実とアニメの話との区別もついていなかったんだわ、と香苗は誤魔化した。だが、言うまでもなく現実とアニメの区別がついていないのは真穂だった。その実わかってはいても、現実が灰色であまりに面白味がないから、真穂はアニメを現実にと、故意に頭の中ですり替えているのかもしれない。真穂得意の現実からの逃避。うっかり聞いていると、いつの間にやらこちらのほうまで巻き込まれ、虚構を現実と取り違えてしまう。西納の母が、生来の嘘つきと言って眉を顰めて厭悪した真穂の癖、それがまだ治っていない。しかし真穂が悪いのではない。悪いのは真穂を取り巻く現実のほう、真穂は逃げなければならない現実の中にいる。
真穂は新しい学校で、まずまずうまくやっていけているようだった。勉強のほうは問題ない。ただ、やや内向的で口数が少なく、自分から積極的に友だちづき合いをしようとはしていない……そんな友部の話だった。
「ひょっとすると、ほかの子にくらべてちょっと精神年齢が高いのかもしれませんね」友部は言った。「時々びっくりするぐらいに大人びた表情を見せることがありますから。醒めた目、とでもいうか」
早く大人になってしまうのは不幸だった。大人になればなおのこと、世界が灰色に曇っていることを思い知らされるだけだ。もはや夢見ることも許されない。
「サモワール」で作田を待ちながら、香苗は真穂のことを想って爪を噛んだ。何とかしてやらなければと思うのだが、今は暮らしていくことだけで精一杯。そんな自分が口惜しい。
入口のドアから、作田がはいってくるのが見えた。最後に作田に会ったのは、確か香苗が高校三年の時ではなかったか。それから十五年もの月日が流れている。そのぶん作田も歳をとった。とはいえ、面変わりしてしまうほどではなかった。頭がずいぶん白くなり、ひとまわりからだが小さくなったようには見えるものの、彼の穏やかな中級紳士ぶりには変わるところがない。急に心臓がどきどきした。作田に会うのに緊張するというのもおかしな話だ。それは恐らく緊張ではなく、香苗の自信のなさを源とした胸の高鳴りだった。香苗も歳をとった。所帯やつれもした。今も幸せとはいえない日々の中にある。人の目に、香苗がかつてよりも見栄《みば》えよく映る道理がない。作田に驚いた顔をされるのが、少し怖かった。
作田はぐるっと店の中を見まわした。もしも彼が香苗を認識できないようならば、半分立ち上がって自ら指し示すよりほかあるまい。そう考えた矢先、彼は香苗に気がついた。はっと幾分目を見開いた後、作田の顔の上に以前に何度も目にしたことのある柔らかな笑みがゆっくりとひろがっていった。幸いにして作田の顔には、驚きの色も憐れみの色も見当たらなかった。そのことに、香苗は幾許《いくばく》かの安堵を得た。
「やあ、本当に香苗ちゃんだ」作田は瞳を輝かせて言った。顔にはビロードの手触りを思わせる滑らかな笑みを浮かべている。「久し振りだねぇ。何年振りになるんだろう。香苗ちゃんもすっかり大人になっちゃって。それじゃこっちが歳をとる訳だ」
久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》する、とでも言うのだろうか、しばしありきたりの挨拶に似た会話を交わした。
「で、私に会いたいって香苗ちゃん、何か話でもあったの?」挨拶の後の短い沈黙を切り上げるように、先に作田が話の口火を切った。「まさかお母さんの具合がよくないとか、そういうことじゃないよね?」
「母は、お蔭様で元気にしています。やっぱり歳はとりましたけど。作田さん、母とは全然?」
「そうだね、もう何年も会っていないね。ずいぶん世話になっておいてご無沙汰ばかり、本当に申し訳ないと思っているよ」
「いえ、そんなことは。──あの、今頃になってこんなことをお伺いするのも失礼とは思うのですが、作田さんとうちの母とは、どういうお知り合いなんでしょうか?」
作田はよれた箱から、ゆっくりと煙草を一本抜き出した。ピース。そう言えば、作田は昔からこの煙草だった。ひとつひとつ記憶が甦る。
「オーナーと従業員、それは香苗ちゃんも前から知っていたと思うけど」作田は煙草に火を点け、少し煙たそうな目をして香苗を見た。
「そういう間柄だと、ずっと思っていました。でも、ついこの間春山君から作田さんも新潟のご出身だと聞いて、もしかして作田さんとうちの母とは、東京に出てくる以前からの知り合いではなかったかと思うようになったんです。考えてみれば、母が信用して長いことそばで働いてもらっていたのは作田さんのほかいませんでしたし。だから作田さんに訊けば、母のことやふるさとのことが、いろいろわかるような気がして」
作田はまだいくぶん煙たそうに目をしばたかせ、あえてその視線を香苗の顔からはずしてテーブルのコーヒーカップの上に落とした。それから持ち前のゆったりとして奥行きのある柔らかな声で言った。
「香苗ちゃん、あんたそういうこと、一度でもママに直接尋ねたことあるの?」
「……いいえ」
「基本的に私は、過去のことは気にしない。だってすべて過ぎてしまったことだもの。だけど人はそれぞれ気にするところが違う。私にしてみれば過去の些細な出来事に過ぎなくても、ママにとってはそうじゃないかもしれない。私自身のことならばともかく、ママに関することは私の口から話すべきではないと思うんだよ」
「………」
「親子なんだ。訊けばママだって、きっと答えてくれると思うけどね」
「そうでしょうか。父のことも私には、『もともとお前に父親なんてものはいないんだよ』と言い続けた人ですから」
ママらしいなと、作田は苦笑に近い笑みを目の下あたりに滲ませた。
「私自身、これまでそんなことはどうでもいいと思っていました。母がどういう家の人間であろうが、父がどういう家のどういう人間であろうが、私は私、関係のないことだと。でも、自分が子供を持ってみて、考えが少し変わりました。真穂のためにも──、あ、真穂というのは私の娘ですが、やはりそういうことはきちんと知っておいたほうがいいと思うようになったんです。ですから……」
「だから、そういうことを、ママにちゃんと話したらいいじゃない? そうしたらママだって話してくれるさ。ひいてはかわいい孫のためなんだもの」
かわいい孫──、作田の言葉が、逆に香苗の顔と心を曇らせる。
「母は私の娘のことを、別にかわいいとは思っていないと思うんです」顔をやや俯けたまま、翳った声で香苗は言った。
「え?」
「いえ、娘のことをというよりも、母はたぶん子供が嫌いなんだと思います。いい歳をして僻みっぽいとお思いになるかもしれませんが、子供の頃、私もとくに大事にされた記憶はありませんし」
「まあママは、確かに特別子供好きではないだろうね。だけどあんた、自分の孫はまた別だよ。子供が嫌いな母親はいても、孫が嫌いなおばあちゃんはいない」
やはり他人には理解できない、そんな気持ちが香苗のからだの中にひろがっていく。その気持ちの重たさは、絶望感によく似ていた。
作田は煙草の煙を吐き出し、ついでに小さく息をついた。「それじゃあ、私に関することを少しだけ話すよ」
作田は、新潟はN町の、今は八木沢地区と呼ばれている地域の出身だという。八木沢地区は昔から農業を主体としてきた村落だが、作田の家も例外ではなく、彼は農家の三男坊だった。
「貧しい農家の三男坊なんてどうにもならない。田畑はどうせ兄貴のものになる訳だし。それに、朝どっかの溝に落っこちたら、昼には村中の人がそれを知っているような田舎の狭い暮らしにも、私はほとほとうんざりしていた。それである時、東京に出てきてしまったんだよ」
それは作田が三十をいくつか出た頃のこと、彼には既に新潟に、妻もいれば子供もいた。東京には、ひと足先に村を出た八木沢出身の人間がいた。作田はその人物を探し出し、頼った。お蔭で作田は東京で職にありつくこともでき、自分の口を糊《のり》するばかりでなく、故郷に残してきた妻子にも、金を仕送りしてやることができた。その人物とは、その後長年にわたり一緒に仕事をした。
「それが母、だったんですね?」
「香苗ちゃん、私は自分に関することだけを話すと言ったはずだよ」
言いながらも、作田は続けた。
「その人は、もとは首藤という家の一人息子の嫁さんだった。首藤というのは八木沢では昔からの庄屋、いわゆる豪農だが、何かとしきたりのうるさい家でね。またそこの大奥さんというのが、とにかく気のきつい人だった。どうにも堪えがたいことがきっと何かあったんだろう、その人は赤ん坊を抱えて首藤の家を出てしまった。その人も気の強い頑張り屋の嫁さんだったからね、私が予想していたとおり、東京で子供を育てながら立派に暮らしていたよ。お蔭で私も救われた。その人には、今でも感謝しているよ。私が話せるのはそれぐらいかな」
香苗は黙って頷いた。わずかとはいえ、作田と会った収穫はあった。新潟県N町八木沢地区、自分が生まれた土地、父親の家のある土地だけははっきりとした。
「あとはやっぱり自分の口から、お母さんに尋ねてみることだね」作田は言った。
「すみませんでした。こんなことでお呼びたてしてしまって」
「いや、久し振りに顔が見られただけで嬉しかったよ」
「あの、もうひとつだけお尋ねしてもいいですか?」
「何だろう?」
「母と同じぐらいの年齢の女の人に、作田さん、何か心当たりはありませんか?」
「どういう意味?」
「私の留守中、時々母のところを訪ねてくる、六十ぐらいの女の人がいるみたいなんです。その人がくると母は精神状態が悪くなるというか、ひどいヒステリーを起こしたりするらしくて」
「ママがヒステリー? 信じられないな」
「癇に障《さわ》るような相手なら家に上げなければいいと思うんですが、それでも母は家に上げているみたいで。だからもしかして昔からの知り合いなのかしら、と」
「ママと同じぐらいの年頃の女の人ねえ……」作田は首を傾げた。「残念ながら心当たりはないな。若い子の面倒はよく見たけど、ママは昔っから友だちだの何だのはいっさい作らない人だったもんな。人をあんまり信用しない性質《たち》なんだな。ことに女は。──その人、最近できた知り合いじゃないの?」
「かもしれません。でも、その人、言葉に北の方の訛りがあるらしいんです。だから、もしかしたら新潟にいた頃からの知り合いじゃないかと思ったりもして」
作田は眉を寄せた。その日初めて見せる、少し険しく黒ずんだ表情だった。
「そんなはずはないな」作田は言った。「ママは新潟の人間、ふるさとの人間とはまず絶対につき合わないはずだ」
確信に満ちた作田の声と言葉に、今度は香苗が眉を寄せる。ふるさとの人間とはつき合わない──、自信を持って絶対と言い切れるだけの根拠は何なのか。
だが作田は、すぐに顔をもとの穏やかな色に戻し、香苗に向かって得意の柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「まあ私も、もう何年もママとは会っていないから近頃のことはわからないけれどね」
根拠を尋ねようとしたところを、うまいことかわされたような気がした。作田の笑みは、柔軟そうでいて思いがけず手強い。柔らかに拒絶して立ち入らせることをしない。春山が言ったとおりの曲者だ。
ふと店の入口の方に泳いだ作田の視線が、宙に浮いたまま不意に止まった。作田ははっと目を見開いたきり、入口から目を離せずにいる。香苗もつられるようにドアの方に目を遣る。そこに真穂の姿があった。思わず香苗の唇が薄い笑みを形作る。真穂の可憐な容姿が思わず作田の目を瞠《みは》らせた、そう考えただけでくすぐったいような喜びが、自然と顔に滲み出す。
香苗は片手を上げて真穂に合図を送った。真穂はすぐに気がついて、香苗に向かってにっこり頬笑んだ。光に満ちた透明な笑顔。眩《まばゆ》いような肌の白。
真穂はテーブルへ歩み寄ってくると、「こんにちは」と作田に頭を下げ、香苗の隣の席に腰を下ろした。作田はまだ半分口を開けたまま、惚《ほう》けた顔で真穂を見ている。
「真穂です。さっきお話しした、私の娘の」香苗は、今日一番の笑顔で言った。
「……驚いたな」
魂が、思わず口から漏れ出たようなその声のあまりの深さに、香苗は改めて作田の顔を見つめた。真穂の見てくれの美しさに、ただ驚いたという顔とは違った。彼は何かに衝撃を受け、肝を潰したといった様子でいる。心なしか、その顔色が青白い。香苗は心持ち訝しげな面持ちを作り、どうかしましたかと問いかけるかわりに、黙って作田の目を覗き込んだ。
その視線に促されるように、作田は言った。「いや、何だか私、びっくりしちゃって……。血っていうのは面白いものだねぇ。今日香苗ちゃんを見た時にも、ああやっぱりすごく似てきたな、と思ったけど、これはまた」
香苗は思わず眉根を強く寄せ、二、三度瞼をしばたかせた。三十を過ぎた頃から徐々に顔が変わり始めたことは自分でも感じていた。しかしそれも歳のせいだと思ってきた。鏡の中に時とともに変わりゆく自分の顔を見出しても、時枝に似てきたと感じたことは一度もない。昔から、実の母子とは思えぬほどに似たところのない母子、今もそのことに変わりないと思っていたのだ。それも他人の目からすれば、違った見え方をしているのだろうか。加えて、香苗の目から見るなら真穂もまた、自分にも時枝にも少しも似たところのない娘だ。作田は自分たち三人のどこに血の面白さを見ているのか。
「このお嬢ちゃんが香苗ちゃんの娘さん……」作田は感慨深げに呟いた。「なるほど、これはかさねだな」
「え?」思わず目を見開いた顔を近づけて、香苗は作田に問い返した。「かさね?」
「あ、いや。私のひとり言」
そう言って頷いた時には、いったん青白くなった作田の顔には血の気が戻り、同時に笑みも戻っていた。香苗の目には、作田の笑みの質が、少し前とは些《いささ》か変質しているように映った。穏やかな中級紳士の顔は変わらない。しかしその眸の奥に、ほくそ笑むような光が見える。思いがけず価値あるものを拾った時の、噛み殺すような喜びの色。いったい作田は何を見つけたのか。
「あの……」
香苗が口を開きかけた途端、それを察したように素早く作田は席から立ち上がった。
「ごめん、香苗ちゃん。この後、人と会う約束をしていて……。よかったらまた連絡して。今度は一緒に飯でも喰おう。真穂ちゃんも一緒に三人で」
「あ……」
引き止める間もなく作田は伝票を手に、さっさとレジまで歩いていく。浮きかけた香苗の腰がソファに沈む。肩透かしを喰わされたような心地がした。置き去りにされた香苗の中に、「かさね」という言葉がひとつ残った。