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「珍しいな、勉強か?」
背後から城下の声がして、同時に彼の身の気配と体温とが、香苗の背中に伝わってきた。城下は、生徒のノートを見る教師みたいに後ろから半分覆いかぶさるようにして、デスクの上の香苗の手もとを覗き込んだ。
「何だ、広辞苑か」
渋谷のこの事務所の書棚に並んでいるのは、「会社四季報」だの「投資レーダー」だの、開く気にさえなれないものがほとんどだ。その中で、香苗がかろうじて開くことがあるのが広辞苑だった。
「広辞苑で何を調べているんだ?」
「サモワール」で真穂を見た作田が、驚いた後に口にした言葉が気にかかっていた。かさね……広辞苑にはこうある。
背後から城下の声がして、同時に彼の身の気配と体温とが、香苗の背中に伝わってきた。城下は、生徒のノートを見る教師みたいに後ろから半分覆いかぶさるようにして、デスクの上の香苗の手もとを覗き込んだ。
「何だ、広辞苑か」
渋谷のこの事務所の書棚に並んでいるのは、「会社四季報」だの「投資レーダー」だの、開く気にさえなれないものがほとんどだ。その中で、香苗がかろうじて開くことがあるのが広辞苑だった。
「広辞苑で何を調べているんだ?」
「サモワール」で真穂を見た作田が、驚いた後に口にした言葉が気にかかっていた。かさね……広辞苑にはこうある。
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かさね【累】下総国|羽生《はにゅう》村の醜婦累は嫉妬深く、夫与右衛門に殺され、その怨念が仇《あだ》をしたという伝説を脚色した怪談。歌舞伎脚本「伊達競阿国戯場《だてくらべおくにかぶき》」「法懸松成田利剣《けさかけまつなりたのりけん》」、浄瑠璃「薫樹《めいぼく》累物語」、清元「色彩間苅豆《いろもようちょっとかりまめ》」で有名。
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かさね【累】下総国|羽生《はにゅう》村の醜婦累は嫉妬深く、夫与右衛門に殺され、その怨念が仇《あだ》をしたという伝説を脚色した怪談。歌舞伎脚本「伊達競阿国戯場《だてくらべおくにかぶき》」「法懸松成田利剣《けさかけまつなりたのりけん》」、浄瑠璃「薫樹《めいぼく》累物語」、清元「色彩間苅豆《いろもようちょっとかりまめ》」で有名。
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「累──。何だよ、歌舞伎でも見に行こうっていう訳か?」城下が言った。
「いえ、そういう訳じゃ。──この話、有名ですか?」
「有名だと思うよ。歌舞伎の怪談の演目としては、東海道四谷怪談に並ぶものじゃないかな。円朝の落語にもあったよな、『真景累ヶ淵』って。……あれはまた別の話か。歌舞伎だ落語だ清元だで、もとの話をそれぞれ勝手に脚色しちゃってるから、俺もちょっと混乱してるかもな」
「社長、結構詳しいですか?」
二人きりの事務所で「社長」というのもおかしな気がする時がある。けれどもほかに呼びようもないので、事務所では彼を「社長」と呼ぶことに決めていた。城下のほうは「香苗ちゃん」と呼んでいる。三十過ぎた女の職場での呼ばれ方としては不適切かもしれない。香苗も当初は抵抗があったが、今ではもう慣れてしまってどうでもいい。
「詳しかないよ」香苗に答えて城下は言った。「歌舞伎なんて見に行かないし。ま、常識的な教養の範囲だな」
「これ、怪談なんですね」
怪談というだけでなく、累が醜婦ということに、香苗は軽い衝撃を受けていた。どう見たところで、真穂は美少女であって醜女《しこめ》ではない。なのにどうして作田は真穂を「かさね」と言ったのか。
「四谷怪談によく似た怨霊話だったと思ったけどな。財産に釣られて結婚したはいいが、結局亭主は女房が疎ましくなって殺しちまう。女房殺し、亭主殺し、太古の昔から現代に至るまで世によくある普遍のテーマだな」
普遍のテーマではあっても、香苗にも真穂にもまったく関わりのない話。やはりあれは香苗の聞き間違いか。
「ん、待てよ」城下が両の眉尻を下げるような恰好で眉間に薄い皺を作って言った。「この話、確か続きがあったんだよな」
「続き?」
「続きっていうか、これ、因縁話だったんじゃなかったかな。累の母親が何か罪を犯していて……親の因果が子に祟《たた》り、ってことになって、累の娘もまたややこしいことになるんじゃなかったかな。──調べてみろよ。図書館か本屋に行ったら、何か本があるはずだから。しかし、何だってそんなことに関心持ったりしたんだ?」
「いえ、別に……」
「いえ、別に、ね」城下は、にやっと片頬だけに歪んだ笑みを浮かべてみせた。「香苗ちゃん、けっこう秘密主義なんだよな」
秘密主義ではないが、朧げながらにも物語を知ったからにはなおのこと、娘が人から「累」と言われたなどとは言いたくなかった。真穂を見たことがあるならともかくも、そうでなければ人はきっと、真穂がとりわけ醜い女の子だと誤解する。
城下がいくらか言葉をつけ足したことで、聞き違いに傾きかけていた気持ちが逆転した。罪を犯した母親がいて、娘がいて、そのまた娘が出てくる──。女三代にわたる因縁に、何か自分たちとの共通点を見た思いがしたのだ。
昼休み、香苗は書店に足を運んで資料を探した。近頃、本や資料を探すなどということはとんとしていなかったから、思いがけず時間も喰ったし骨も折れた。それでも何とか一冊本を見つけだし、帰りがけに買ったハンバーガーと一緒に事務所に持ち帰った。いつもならば時間を持て余してしまうような事務所での午後も、今日ばかりは退屈せずに済みそうだった。香苗はハンバーガーにかぶりつきながら、本のページを繰った。
「いえ、そういう訳じゃ。──この話、有名ですか?」
「有名だと思うよ。歌舞伎の怪談の演目としては、東海道四谷怪談に並ぶものじゃないかな。円朝の落語にもあったよな、『真景累ヶ淵』って。……あれはまた別の話か。歌舞伎だ落語だ清元だで、もとの話をそれぞれ勝手に脚色しちゃってるから、俺もちょっと混乱してるかもな」
「社長、結構詳しいですか?」
二人きりの事務所で「社長」というのもおかしな気がする時がある。けれどもほかに呼びようもないので、事務所では彼を「社長」と呼ぶことに決めていた。城下のほうは「香苗ちゃん」と呼んでいる。三十過ぎた女の職場での呼ばれ方としては不適切かもしれない。香苗も当初は抵抗があったが、今ではもう慣れてしまってどうでもいい。
「詳しかないよ」香苗に答えて城下は言った。「歌舞伎なんて見に行かないし。ま、常識的な教養の範囲だな」
「これ、怪談なんですね」
怪談というだけでなく、累が醜婦ということに、香苗は軽い衝撃を受けていた。どう見たところで、真穂は美少女であって醜女《しこめ》ではない。なのにどうして作田は真穂を「かさね」と言ったのか。
「四谷怪談によく似た怨霊話だったと思ったけどな。財産に釣られて結婚したはいいが、結局亭主は女房が疎ましくなって殺しちまう。女房殺し、亭主殺し、太古の昔から現代に至るまで世によくある普遍のテーマだな」
普遍のテーマではあっても、香苗にも真穂にもまったく関わりのない話。やはりあれは香苗の聞き間違いか。
「ん、待てよ」城下が両の眉尻を下げるような恰好で眉間に薄い皺を作って言った。「この話、確か続きがあったんだよな」
「続き?」
「続きっていうか、これ、因縁話だったんじゃなかったかな。累の母親が何か罪を犯していて……親の因果が子に祟《たた》り、ってことになって、累の娘もまたややこしいことになるんじゃなかったかな。──調べてみろよ。図書館か本屋に行ったら、何か本があるはずだから。しかし、何だってそんなことに関心持ったりしたんだ?」
「いえ、別に……」
「いえ、別に、ね」城下は、にやっと片頬だけに歪んだ笑みを浮かべてみせた。「香苗ちゃん、けっこう秘密主義なんだよな」
秘密主義ではないが、朧げながらにも物語を知ったからにはなおのこと、娘が人から「累」と言われたなどとは言いたくなかった。真穂を見たことがあるならともかくも、そうでなければ人はきっと、真穂がとりわけ醜い女の子だと誤解する。
城下がいくらか言葉をつけ足したことで、聞き違いに傾きかけていた気持ちが逆転した。罪を犯した母親がいて、娘がいて、そのまた娘が出てくる──。女三代にわたる因縁に、何か自分たちとの共通点を見た思いがしたのだ。
昼休み、香苗は書店に足を運んで資料を探した。近頃、本や資料を探すなどということはとんとしていなかったから、思いがけず時間も喰ったし骨も折れた。それでも何とか一冊本を見つけだし、帰りがけに買ったハンバーガーと一緒に事務所に持ち帰った。いつもならば時間を持て余してしまうような事務所での午後も、今日ばかりは退屈せずに済みそうだった。香苗はハンバーガーにかぶりつきながら、本のページを繰った。