18
翌日から自分が何をすべきかに、もう香苗は迷うことはなかった。誰に過去の話を問えばよいのか、そんなことを考える必要など既にない。香苗の手元には、過去の出来事を最もよく承知している当事者、いちのがいる。なすべきは、真穂とともに八木沢地区へ行くこと。二人して八木沢地区をまわって歩けば、誰に問わずとも真穂の中のいちのが、必ず香苗に何かを教えてくれる。
翌日、香苗はレンタカーを借りた。O町にいた頃は必要に迫られて軽自動車を運転していたが、東京に戻ってきてからというものハンドルを握っていない。東京の交通量の激しさ、主要道路をはずれた道の狭さ、わかりづらさ、人の多さ……茨城の田舎道を、わが道を行くとばかりに車を転がすのとは訳が違う。道を知らないぶん不安はある。が、N町から柚木温泉までは、前の日、修の車に乗せてもらって道は見ている。それに真穂を連れてまわるには、車のほうが人目につきづらいぶん都合がいい。作田が早速宿まで訪ねてきたことからもわかるように、田舎には目には見えない目と耳と口がある。それは香苗もO町で、いやというほど経験していた。
身分証明の代わりにと、免許証を持ってきていたのが幸いした。香苗は中でも小さい一・五リッターカーと地図を借り、N町八木沢地区へ向かって走りだした。車が走りだすと、真穂は食い入るように表の景色を眺めていた。この子には、懐かしいふるさとの風景なのかもしれない。昨日の晩は、正直香苗も容易に震えが止まらなかった。あの後、真穂はひとしきりおかしな声を立てて笑ったすえに、ようやく元に戻った。真穂は自分の喋ったことを覚えていない訳ではない。むしろこの子は無邪気に、自然と自分の口からこぼれ出る言葉に大人たちが戦々恐々となることを、面白がっている。
八木沢地区にはいり、あたりを車でぐるぐるめぐる。やはり真穂には、首藤の家のあるあたりが一番懐かしく、心揺さぶられる場所のようだった。その近くへくると、真穂はほとんど窓ガラスにへばりつくようにして見入っている。敷地の後ろにある裏山の方へと車をまわす。恐らくは、ここも首藤の土地になるのだろう。
「とめて。ここ、とめてちょうだい」
傍らで、不意に真穂の嗄れた声がした。ぎくっとなってブレーキを踏む。シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキまで引いてから、おもむろに真穂の方を見やる。声から察していたように、案の定、真穂は真穂の顔をしていなかった。まるで助手席に真穂によく似た小さな老婆を乗せているよう……慄然となりながらも、香苗は次の言葉を待つ。が、真穂は、黙って車の外へと滑り出た。香苗も慌ててそれに続く。裏山を感慨深げに見上げると、やおら真穂は呻き声を漏らした。見ると頬を涙が伝わっている。苦しげな真穂の顔。真穂のからだが、おこりのように小さく波打ち始めていた。
「真穂、大丈夫?」思わず香苗は声をかけた。
「ここ、私の山……」真穂が、いや、いちのが呟いた。
遠目には、田んぼに突き出たぼた山のように見える。しかし間近に見てみると思いのほか大きな山で、これに登るとなると、結構な骨折り仕事かもしれない。今は一面濃い緑に覆われていて美しい。
「痛かったよぉ」不意に真穂は顔を歪めてそう言うと、いきなり自分のからだを、ゴムまりみたいに地面に叩きつけた。
「真穂!」驚いて、真穂に駆け寄り手を伸ばす。
「こんなものじゃない。もっともっと痛かったよぉ」真穂は香苗の手を撥ねのけて、再び自分のからだを投げ出すように大地に叩きつけた。
「痛くて痛くてたまらなかったよぉ」
「真穂、もうやめて!」
その様子を目にして、香苗にもようやく大久保のマンションの部屋で何が起こっていたかが見えた。玄関から真穂がサッカーボールのように転げ出てきたという悦子の話は、まさに今の姿と重なる。真穂には指一本触れていないという時枝の言葉もまた真実。真穂は自分で自分のからだを、壁や家具に打ちつけていたのだ。
「真穂……」
香苗は真穂がこれ以上自分を痛めつけないようにと、両腕で抱え込むようにそのからだを抱き締めた。そのうちに、真穂は徐々に落ち着いてきた。すると今度は香苗の腕の中で、何事かを呟くようにぼそぼそ語り始めた。
昔話だった。三十二年前の昔話。
今、香苗が目の前にしているぼた山に、いつもいちのは人には姿を見られぬよう、一人でこっそりはいっていた。この山はいわば宝の山、春先にはわらびだのぜんまいだのの山菜が採れ、秋口にはよい舞茸が採れる。ここは首藤家所有の山だが、誰かがそれを狙って勝手にはいらないとも限らない。常に姿を見られぬように気を配ったのは、後を尾けられ、舞茸や山菜の群生地を知られてしまわないための用心だった。茸や山菜の採取場所は秘密にしておくもの、でないと人に根こそぎ持っていかれて翌年以降生えなくなってしまう。またよい場所を見つけるのはその人の腕、山から得たものは得た人の財産、山の幸とはそういうものだ。
春先のこと、いちのはいつものように一人で密かに山にはいった。ちょうどよい頃合いのぜんまいがたくさん出ていたことに気をよくし、ついつい山菜摘みに精を出す。ふと人の気配がして振り返ると、嫁の時枝が立っていた。二人きりで話したいことがあって追ってきたのだと、怖い顔をして時枝は言った。話はすぐに言い争いとなり、やがて激しい罵り合いにと変わっていった。挙げ句に時枝はいきなりいちのに掴みかかってくると、その身を崖下へと突き落とした。
険しい斜面から転げ落ち、いちのは胸と腹を強打した。内臓が破裂したような熱い痛みが身の内で弾けた。しかし時枝は苦しむいちのを上から冷たい目をして眺めたあと、置き去りにしたまま行ってしまった。いったいどのぐらいの間痛みに悶えていただろう。助けを呼ぼうにも声が出ない。しかも山の中の秘密の場所、仮に誰かが探しにきても、容易に見つかるところではない。だんだんと遠のいていく意識の中で、いちのは時枝を呪った。たとえ時枝が地の果てまで逃げようとも、この恨み晴らさでおくものかと心に誓った。
翌日、香苗はレンタカーを借りた。O町にいた頃は必要に迫られて軽自動車を運転していたが、東京に戻ってきてからというものハンドルを握っていない。東京の交通量の激しさ、主要道路をはずれた道の狭さ、わかりづらさ、人の多さ……茨城の田舎道を、わが道を行くとばかりに車を転がすのとは訳が違う。道を知らないぶん不安はある。が、N町から柚木温泉までは、前の日、修の車に乗せてもらって道は見ている。それに真穂を連れてまわるには、車のほうが人目につきづらいぶん都合がいい。作田が早速宿まで訪ねてきたことからもわかるように、田舎には目には見えない目と耳と口がある。それは香苗もO町で、いやというほど経験していた。
身分証明の代わりにと、免許証を持ってきていたのが幸いした。香苗は中でも小さい一・五リッターカーと地図を借り、N町八木沢地区へ向かって走りだした。車が走りだすと、真穂は食い入るように表の景色を眺めていた。この子には、懐かしいふるさとの風景なのかもしれない。昨日の晩は、正直香苗も容易に震えが止まらなかった。あの後、真穂はひとしきりおかしな声を立てて笑ったすえに、ようやく元に戻った。真穂は自分の喋ったことを覚えていない訳ではない。むしろこの子は無邪気に、自然と自分の口からこぼれ出る言葉に大人たちが戦々恐々となることを、面白がっている。
八木沢地区にはいり、あたりを車でぐるぐるめぐる。やはり真穂には、首藤の家のあるあたりが一番懐かしく、心揺さぶられる場所のようだった。その近くへくると、真穂はほとんど窓ガラスにへばりつくようにして見入っている。敷地の後ろにある裏山の方へと車をまわす。恐らくは、ここも首藤の土地になるのだろう。
「とめて。ここ、とめてちょうだい」
傍らで、不意に真穂の嗄れた声がした。ぎくっとなってブレーキを踏む。シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキまで引いてから、おもむろに真穂の方を見やる。声から察していたように、案の定、真穂は真穂の顔をしていなかった。まるで助手席に真穂によく似た小さな老婆を乗せているよう……慄然となりながらも、香苗は次の言葉を待つ。が、真穂は、黙って車の外へと滑り出た。香苗も慌ててそれに続く。裏山を感慨深げに見上げると、やおら真穂は呻き声を漏らした。見ると頬を涙が伝わっている。苦しげな真穂の顔。真穂のからだが、おこりのように小さく波打ち始めていた。
「真穂、大丈夫?」思わず香苗は声をかけた。
「ここ、私の山……」真穂が、いや、いちのが呟いた。
遠目には、田んぼに突き出たぼた山のように見える。しかし間近に見てみると思いのほか大きな山で、これに登るとなると、結構な骨折り仕事かもしれない。今は一面濃い緑に覆われていて美しい。
「痛かったよぉ」不意に真穂は顔を歪めてそう言うと、いきなり自分のからだを、ゴムまりみたいに地面に叩きつけた。
「真穂!」驚いて、真穂に駆け寄り手を伸ばす。
「こんなものじゃない。もっともっと痛かったよぉ」真穂は香苗の手を撥ねのけて、再び自分のからだを投げ出すように大地に叩きつけた。
「痛くて痛くてたまらなかったよぉ」
「真穂、もうやめて!」
その様子を目にして、香苗にもようやく大久保のマンションの部屋で何が起こっていたかが見えた。玄関から真穂がサッカーボールのように転げ出てきたという悦子の話は、まさに今の姿と重なる。真穂には指一本触れていないという時枝の言葉もまた真実。真穂は自分で自分のからだを、壁や家具に打ちつけていたのだ。
「真穂……」
香苗は真穂がこれ以上自分を痛めつけないようにと、両腕で抱え込むようにそのからだを抱き締めた。そのうちに、真穂は徐々に落ち着いてきた。すると今度は香苗の腕の中で、何事かを呟くようにぼそぼそ語り始めた。
昔話だった。三十二年前の昔話。
今、香苗が目の前にしているぼた山に、いつもいちのは人には姿を見られぬよう、一人でこっそりはいっていた。この山はいわば宝の山、春先にはわらびだのぜんまいだのの山菜が採れ、秋口にはよい舞茸が採れる。ここは首藤家所有の山だが、誰かがそれを狙って勝手にはいらないとも限らない。常に姿を見られぬように気を配ったのは、後を尾けられ、舞茸や山菜の群生地を知られてしまわないための用心だった。茸や山菜の採取場所は秘密にしておくもの、でないと人に根こそぎ持っていかれて翌年以降生えなくなってしまう。またよい場所を見つけるのはその人の腕、山から得たものは得た人の財産、山の幸とはそういうものだ。
春先のこと、いちのはいつものように一人で密かに山にはいった。ちょうどよい頃合いのぜんまいがたくさん出ていたことに気をよくし、ついつい山菜摘みに精を出す。ふと人の気配がして振り返ると、嫁の時枝が立っていた。二人きりで話したいことがあって追ってきたのだと、怖い顔をして時枝は言った。話はすぐに言い争いとなり、やがて激しい罵り合いにと変わっていった。挙げ句に時枝はいきなりいちのに掴みかかってくると、その身を崖下へと突き落とした。
険しい斜面から転げ落ち、いちのは胸と腹を強打した。内臓が破裂したような熱い痛みが身の内で弾けた。しかし時枝は苦しむいちのを上から冷たい目をして眺めたあと、置き去りにしたまま行ってしまった。いったいどのぐらいの間痛みに悶えていただろう。助けを呼ぼうにも声が出ない。しかも山の中の秘密の場所、仮に誰かが探しにきても、容易に見つかるところではない。だんだんと遠のいていく意識の中で、いちのは時枝を呪った。たとえ時枝が地の果てまで逃げようとも、この恨み晴らさでおくものかと心に誓った。
悪い予感が、見事に的中したという感じだった。やはり過去に、時枝は人を殺していた。それも姑、香苗にとっては祖母に当たる人間だ。時枝はそれがゆえに故郷を捨て、香苗を抱えて東京へと逃げてきたのだ。
時枝が人を殺したという衝撃と、胸締めつけられるような思いに香苗はわなないた。山の中、たった一人で苦痛に喘ぎながら死を迎えたいちののことは哀れに思う。さぞやつらかったろうと同情もする。だが、それ以上に香苗はそこまでせざるを得なかった時枝に漠とした共感を覚え、心揺さぶられていた。西納の家にいた時、香苗も姑のちずのあまりの仕打ちに、頭にのぼった血がなかなか冷めやらず、いっそちずを殺してしまいたいと、本気で思いつめた瞬間が幾度かあった。田舎の旧家、その息苦しさと目には見えない圧力。加えてわが身が貶《おとし》められたような屈辱に、神経がどうかなっていたのだと思う。時枝の苦しさは、香苗の苦しさと通じる。
「痛かったよぉ……」不意に当時の痛みを思い出したというように、また真穂が呻いた。
「わかった、もうわかったから」香苗は、宥《なだ》めるように真穂の背をさすった。「あなたの痛みはよくわかったから」
真穂が痛かったと呪いの言葉を吐きながら身を打ちつける様は、時枝には見るに堪えない光景だったろう。あまりのことに時枝は声を上げ、止めようと手を伸ばし、自分の耳を手で覆う。孫に過去の罪を暴きたてられ、時枝は身を苛《さいな》まれるような思いを味わっていたのに相違ない。虐待はあった。ただし、加害者は時枝ではなく真穂。
「さあ、もう行きましょう」
香苗は真穂の頭と背中とを撫で、車へと誘った。その真穂の口から、嗄れた憎々しげな呟きが漏れる。「時枝……あの女……」
この子はいったい誰なのか、香苗にもふとわからなくなりかける。この子はわが子、娘の真穂──、自分自身に言い聞かせる。時にいちのが身を乗っ取り、道具のように扱い痛めつける、そういうことなのだ。真穂もまた被害者。しかし、生まれながらにいちのに生き写しというのはどういうことか。誠治の血を無視し、香苗や時枝の血も飛び越え、いちのの血だけがまざまざと真穂に甦った。これが因縁、因果応報ということか。
目には見えない因縁の糸が、罠のように自分の周りに張り巡《めぐ》らされていたということに、香苗は初めて気がついた。修は、過去など知っても仕方がないし、知らないほうがいいこともある、と言った。時枝はあくまでも過去に口を閉ざそうとした。確かにこうして追い求めてみると、謎は解けても重たさばかりが募り、悔いに近い想いが気持ちを翳らせる。半ば自分を慰めるように、だけどそうするより仕方がなかったのだと、胸の内で香苗は呟く。真穂の中にいちのという人間がいる以上、過去を無視することなどできはしない。
香苗は気を取り直すように姿勢を正し、ハンドルを握り直した。けれども、行く手に光は見出せなかった。
時枝が人を殺したという衝撃と、胸締めつけられるような思いに香苗はわなないた。山の中、たった一人で苦痛に喘ぎながら死を迎えたいちののことは哀れに思う。さぞやつらかったろうと同情もする。だが、それ以上に香苗はそこまでせざるを得なかった時枝に漠とした共感を覚え、心揺さぶられていた。西納の家にいた時、香苗も姑のちずのあまりの仕打ちに、頭にのぼった血がなかなか冷めやらず、いっそちずを殺してしまいたいと、本気で思いつめた瞬間が幾度かあった。田舎の旧家、その息苦しさと目には見えない圧力。加えてわが身が貶《おとし》められたような屈辱に、神経がどうかなっていたのだと思う。時枝の苦しさは、香苗の苦しさと通じる。
「痛かったよぉ……」不意に当時の痛みを思い出したというように、また真穂が呻いた。
「わかった、もうわかったから」香苗は、宥《なだ》めるように真穂の背をさすった。「あなたの痛みはよくわかったから」
真穂が痛かったと呪いの言葉を吐きながら身を打ちつける様は、時枝には見るに堪えない光景だったろう。あまりのことに時枝は声を上げ、止めようと手を伸ばし、自分の耳を手で覆う。孫に過去の罪を暴きたてられ、時枝は身を苛《さいな》まれるような思いを味わっていたのに相違ない。虐待はあった。ただし、加害者は時枝ではなく真穂。
「さあ、もう行きましょう」
香苗は真穂の頭と背中とを撫で、車へと誘った。その真穂の口から、嗄れた憎々しげな呟きが漏れる。「時枝……あの女……」
この子はいったい誰なのか、香苗にもふとわからなくなりかける。この子はわが子、娘の真穂──、自分自身に言い聞かせる。時にいちのが身を乗っ取り、道具のように扱い痛めつける、そういうことなのだ。真穂もまた被害者。しかし、生まれながらにいちのに生き写しというのはどういうことか。誠治の血を無視し、香苗や時枝の血も飛び越え、いちのの血だけがまざまざと真穂に甦った。これが因縁、因果応報ということか。
目には見えない因縁の糸が、罠のように自分の周りに張り巡《めぐ》らされていたということに、香苗は初めて気がついた。修は、過去など知っても仕方がないし、知らないほうがいいこともある、と言った。時枝はあくまでも過去に口を閉ざそうとした。確かにこうして追い求めてみると、謎は解けても重たさばかりが募り、悔いに近い想いが気持ちを翳らせる。半ば自分を慰めるように、だけどそうするより仕方がなかったのだと、胸の内で香苗は呟く。真穂の中にいちのという人間がいる以上、過去を無視することなどできはしない。
香苗は気を取り直すように姿勢を正し、ハンドルを握り直した。けれども、行く手に光は見出せなかった。