25
いつの間にやら、夏が近づきつつあった。町が活気づきだすこの時期が、香苗は決して嫌いではなかった。漁獲の水揚げの量がふえて市場は賑わうし、田畑の緑もみずみずしく、夏野菜の収穫も盛んになる。そろそろ観光客も多くなってくるから、旅館やお土産屋といった町の観光業者も、忙しげに動き始めるようになる。加えて今年は県議改選の年に当たっていた。治一郎も、また候補者の一人として選挙に立つ。一時は中央政界に打って出るという野望を抱いたこともあったようだが、主に地盤と資金の問題からその夢は諦めた。県議再選、それもトップ当選、県議会議長というのが、今の治一郎の狙いだ。夏の選挙を睨んでの準備が、各陣営で既に始まっている。治一郎はもちろん、誠治もその後押しに動きだし、本業などそっちのけというありさまだ。香苗もここでの選挙は何度か経験している。まったく、田舎の選挙というのは町を挙げてのお祭りだ。よそのことは知らないが、ここO町は豊かな土地柄ということもあってか、地元の人間はお祭り騒ぎが大好きで、その種のことになると血が騒ぐ。自分が立っている訳でもないのに鉢巻きをして、炊き出しをし、頭を下げ、泣いたり笑ったり万歳をしたり……東京で育った香苗には、理解に苦しむところすらある。先々のことを考えたら、香苗さんももう少し土地の人間らしくなったほうがよかろうなと、いく日か前に香苗は治一郎から言われた。先々のことというのは、誠治が選挙に立つようになったら、ということだろう。そうなったら、香苗がいつまでも東京から来た澄ました奥様というのでは、地元のかみさん連中の受けが悪い。恥ずかしげもなくたすきをしたり鉢巻きをしたりして歩きまわり、いざという時には茨城弁で泣きを入れて、土下座するぐらいでなければ選挙は勝てない。そう言いたい訳だ。その時がくれば、きっと香苗もやると思う。誠治が政治に出る日まで、この家の若奥様でいられたならば。それはひとえにちずの回復如何にかかっていた。
だんだん陽気がよくなってきたせいか、ちずは香苗以外の人間からすれば、きわめて思わしい回復具合を見せていた。定期的に往診にやってくるかかりつけの桑原医師も、「奇跡的とも言いたくなるような目ざましい回復」と言っている。むろんまだ自由に歩きまわることはできない。言葉で意思の伝達ぐらいはできるようにはなったものの、相変わらず民枝以外の人間には、脈絡のある話として伝わらない。それが香苗にとっては幸いだった。体調のほうはすこぶるよく、当初はほぼ泊まり込む形で看護に当たっていた民枝も、この頃では就寝前に最後の排泄を済ませて大人用の紙おむつを当てがうと、自分の家へ帰っていく。完全に危機は脱し、また心配な状況も抜け出したということだろう。反比例して、香苗の抱える心配の度合は増していく。言いたいことが言えるようになったら、ちずは必ず香苗と真穂を追い出しにかかるだろう。追い出してしまわないまでも、前以上の苛烈な仕打ちに出るだろう。恨み百年だ。考えただけでも気が滅入る。ちずのやり口は、昔からねちっこくて敵《かな》わない。そうなったら、今度誠治はどう出るだろう。以前のように、母親には頭の上がらぬぼんぼんに戻ってしまうのか、それとも自分が楯になり、香苗と真穂を守ってくれるのか。本当のところは、その時になってみなければわからなかった。結局、物事なるようにしかならない。ただひとつ、何があっても時枝と同じ轍は踏むまい、そのことだけは肝に強く銘じていた。香苗はちずを絶対に殺さない。
選挙が近づくと、家の中の様子も変わる。連夜料亭か何かのように賑わって人でごった返している時もあれば、誰も彼もが外まわりに出払ってしまって、廃墟のように閑散としていることもある。今日がその極端な例で、いっとき支持者や選挙対策に当たる人で溢れ返っていたと思ったら、その波が引いてしまった途端に今度は誰もいなくなった。まさに嵐の後という感じ、治一郎も誠治もみんなと一緒に出てしまい、今夜は二人とも日立市のホテルに泊まることになるという。だだっ広い日本間に残されたのは、汚れた食器、食べ残し、吸殻を抱えた灰皿、煙草の匂いと酒の匂い……その片づけに当たる香苗だけ。
ふと時計に目をやる。時刻ははや十一時を回っている。あれこれと考えごとをしながら片づけをするうちに、滑り落ちるように夜の時は流れてしまったらしい。近頃、民枝には勝手口の鍵を預けてある。この時刻だと、彼女も家に帰ったはずだ。香苗が忙しげに立ち働いていたから、声をかけずに出たのだと思う。真穂はどうしただろうか。風呂にはいるように言うのをすっかり忘れていた。それどころか、いつもならば床についていてしかるべき時刻になってしまっている。
片づけの手を止めて、香苗は二階の真穂の部屋へ上がっていった。ドアを細く開けてみる。明かりが消えていて中は暗い。もう寝ちゃったの……口の中で小さく囁きながら、中へはいる。
真穂の姿はなかった。ベッドは整えたままの状態でぺたんとしていて、真穂が寝ていた様子もない。
「真穂」
名前を呼びながら、下へと降りる。風呂場を覗いたが、そこにも姿はない。思わず眉を寄せ、顔を曇らせる。
まさかと心で呟きながら、ちずの部屋へ足を向ける。部屋を覗いて見ると、戸の隙間から射し込む薄明かりの中、もつれるような黒い影が見えた。ぐぐっ、と咽喉をつまらせるような声が聞こえる。
「お義母さま」
目を凝らしてよく見ると、ベッドの上に身を起こしたちずが、真穂の首を絞め上げているのがわかった。まだスプーンを持つ手も覚束ないちずが、真穂が必死にもがいても逃げ出せないぐらいに、腕を絡めて真穂の首を絞め上げている。
「真穂!」香苗は思わず声を上げた。「お義母さま、何をなさるんですか」
真穂は苦しげに顔を歪めている。香苗は首に巻きついたちずの腕を、指で何とか引き剥がそうと試みた。けれども、いったいちずのどこからこんな力が出るのだろうかと呆れるぐらいに、それはしっかり真穂に喰い込んでいる。
「お義母さま、放してください!」
言いながら、腹に肘鉄を喰わせた。その拍子に、真穂に絡みついていた腕が緩む。真穂は腕を振り払うようにして飛び退《の》くと、床の上に身を投げ出すように座り込んだ。はあはあと、苦しそうな真穂の息が聞こえる。ちずもまた、腹に肘鉄を喰らって息がつまったようになったのか、半分咳込むみたいな息をしている。
「真穂、大丈夫?! どうしてこんなことになったの? 何だっておばあちゃまの部屋になんか──」
香苗が言ううちにも、呼吸を整え、息を吹き返したようになったちずが、ベッドから跳ね上がるようにして真穂に飛びかかってきた。ぎゃっ、と香苗の口から悲鳴が上がる。まだ立ち歩きもできない病人とはとうてい思えない。ちずはまるでむささびだった。真穂憎し、いや、いちの憎しの感情だけがちずの中で突き抜けて、動かぬからだを信じられない力で引っ張っている。
「お義母さま、やめてください!」
真穂とちずの間にはいるようにして、ちずの動きを止めようとした。しかしその手は香苗のからだを通り越し、真穂の襟首を掴んでいる。痛い、痛い、と真穂が叫ぶ。
「お義母さま!」
馬鹿力としか言いようがないちずの力に対抗しかねて、香苗はちずの腹を蹴ってから、両手で彼女を突き飛ばした。それほどものすごい力を入れたつもりはなかった。しかしちずはベッドのほうへ飛んでゆき、ゴンと音を立てて壁にぶち当たると、そのままずるりとベッドの上へずり落ちていった。
「お義母さま」
ゴンといった時の音が、あまり気持ちよいものではなかった。見るとちずは半分白目を剥いていた。後頭部を、したたか打ちつけたのかもしれない。急に恐ろしくなって、香苗はいかにも大事そうにちずのからだを抱えると、静かにベッドの上に横たわらせた。
「お義母さま……」
ちずは気を失っているのか、何も発しない、動かない。単に気を失っているにしては、息の気配らしきものが伝わってこないのがいやな感じだった。死んでしまったのでは、と考えるだけで、足の底から震えがこみ上げてくる。改めて口許に顔を近づけたり、手を取り脈や鼓動を確かめてみるだけの勇気は香苗になかった。震える手で、香苗はいつも民枝がしているのと同じように、ちずのからだの上に肌掛けをかけた。
「死に損ないの糞女が……」
その声に、はっとして振り返る。声は真穂の口から漏れたものだった。ただし真穂の声ではない。もっと嗄《しわが》れて粘っこい、歳をとった女の声。
背筋に悪寒が走った。久し振りのいちのとの再会。時枝が死んだ時、いちのもまた消えたのではなかったのか。しかしいちのは消えてはいなかった。眠りについてもいなかった。ただ真穂の中でなりを潜め、息を殺していただけのこと。真穂が何故この部屋にはいったのか、香苗は瞬時に理解した。二人の間にあったであろうやりとりも。
「真穂、お部屋に戻りましょう」香苗は波立った声で言い、真穂の手を取った。「これは夢よ、悪い夢。だから誰にも話しては駄目。上へ行って、もう寝ましょう」
「おばあちゃま、どうなった?」今度は真穂の声だった。
「──お寝みになったわ」
「死んだんじゃないの?」
「夢だって言ったでしょ。さあ早く」
真穂と一緒に二階に行き、香苗もそのまま床にはいった。むろん眠ろうにも眠れないが、起きて一人夜を過ごす気にはとてもなれない。ちずは生きているのか死んでいるのか……ふとんの中で身を丸めていても、がたがたと勝手にからだが震えてくる。生きているとすれば、いつか今夜のことを喋るだろう。死んでいるとすれば、それは香苗が殺したということ。どちらにしても未来が暗いことに変わりはない。が、後者のほうがより暗く恐ろしい。ベッドに寝かせる時に暗がりの中で見た、ちずの白目、白い顔。壁に当たった時の、ゴンという鈍くていやな感じのする音が、香苗の中に甦る。
どうしてこの家に帰ってきてしまったのかと、今さらながらのように唇を噛む。時枝のお骨に向かって相談した時、時枝がおやめと言った気がしたのに、その忠告に耳を塞いで出てきてしまった。一人東京で頑張っていくだけの強さがなかった。いや、頑張る前に逃げ出してしまった。
ふとんの中で身を震わせ、時にはっと起き上がってはまた横たわる。そんなことをいく度となく繰り返しながら、香苗はとにかく早く朝がきてくれることだけを願った。もう一度自分があの部屋にはいって、一番先にちずの様子を確かめることになるのはご免だった。朝、民枝か家政婦のトヨノが来て、早くちずの異変に気づいて騒いでほしかった。
O町の西納の家に帰ってきた時、ひょっとしたらそのうちに作田か春山が、難癖をつけにここまで追ってくるのではないかと危ぶむ気持ちがあった。彼らがここにやってきた夢を見たこともある。けれども、追ってきたのは人間ではなかった。いちのという化け物、蜘蛛の巣の網目のような悪い因縁。ある意味では、人間よりも性質《たち》が悪く、始末が悪い。いちのに対する憎しみが、香苗の中で頭をもたげる。
依然きわめて闇は深い。朝はまだ当分やってきそうにない。この夜は、これまでの生涯で一番長い夜になりそうだった。
だんだん陽気がよくなってきたせいか、ちずは香苗以外の人間からすれば、きわめて思わしい回復具合を見せていた。定期的に往診にやってくるかかりつけの桑原医師も、「奇跡的とも言いたくなるような目ざましい回復」と言っている。むろんまだ自由に歩きまわることはできない。言葉で意思の伝達ぐらいはできるようにはなったものの、相変わらず民枝以外の人間には、脈絡のある話として伝わらない。それが香苗にとっては幸いだった。体調のほうはすこぶるよく、当初はほぼ泊まり込む形で看護に当たっていた民枝も、この頃では就寝前に最後の排泄を済ませて大人用の紙おむつを当てがうと、自分の家へ帰っていく。完全に危機は脱し、また心配な状況も抜け出したということだろう。反比例して、香苗の抱える心配の度合は増していく。言いたいことが言えるようになったら、ちずは必ず香苗と真穂を追い出しにかかるだろう。追い出してしまわないまでも、前以上の苛烈な仕打ちに出るだろう。恨み百年だ。考えただけでも気が滅入る。ちずのやり口は、昔からねちっこくて敵《かな》わない。そうなったら、今度誠治はどう出るだろう。以前のように、母親には頭の上がらぬぼんぼんに戻ってしまうのか、それとも自分が楯になり、香苗と真穂を守ってくれるのか。本当のところは、その時になってみなければわからなかった。結局、物事なるようにしかならない。ただひとつ、何があっても時枝と同じ轍は踏むまい、そのことだけは肝に強く銘じていた。香苗はちずを絶対に殺さない。
選挙が近づくと、家の中の様子も変わる。連夜料亭か何かのように賑わって人でごった返している時もあれば、誰も彼もが外まわりに出払ってしまって、廃墟のように閑散としていることもある。今日がその極端な例で、いっとき支持者や選挙対策に当たる人で溢れ返っていたと思ったら、その波が引いてしまった途端に今度は誰もいなくなった。まさに嵐の後という感じ、治一郎も誠治もみんなと一緒に出てしまい、今夜は二人とも日立市のホテルに泊まることになるという。だだっ広い日本間に残されたのは、汚れた食器、食べ残し、吸殻を抱えた灰皿、煙草の匂いと酒の匂い……その片づけに当たる香苗だけ。
ふと時計に目をやる。時刻ははや十一時を回っている。あれこれと考えごとをしながら片づけをするうちに、滑り落ちるように夜の時は流れてしまったらしい。近頃、民枝には勝手口の鍵を預けてある。この時刻だと、彼女も家に帰ったはずだ。香苗が忙しげに立ち働いていたから、声をかけずに出たのだと思う。真穂はどうしただろうか。風呂にはいるように言うのをすっかり忘れていた。それどころか、いつもならば床についていてしかるべき時刻になってしまっている。
片づけの手を止めて、香苗は二階の真穂の部屋へ上がっていった。ドアを細く開けてみる。明かりが消えていて中は暗い。もう寝ちゃったの……口の中で小さく囁きながら、中へはいる。
真穂の姿はなかった。ベッドは整えたままの状態でぺたんとしていて、真穂が寝ていた様子もない。
「真穂」
名前を呼びながら、下へと降りる。風呂場を覗いたが、そこにも姿はない。思わず眉を寄せ、顔を曇らせる。
まさかと心で呟きながら、ちずの部屋へ足を向ける。部屋を覗いて見ると、戸の隙間から射し込む薄明かりの中、もつれるような黒い影が見えた。ぐぐっ、と咽喉をつまらせるような声が聞こえる。
「お義母さま」
目を凝らしてよく見ると、ベッドの上に身を起こしたちずが、真穂の首を絞め上げているのがわかった。まだスプーンを持つ手も覚束ないちずが、真穂が必死にもがいても逃げ出せないぐらいに、腕を絡めて真穂の首を絞め上げている。
「真穂!」香苗は思わず声を上げた。「お義母さま、何をなさるんですか」
真穂は苦しげに顔を歪めている。香苗は首に巻きついたちずの腕を、指で何とか引き剥がそうと試みた。けれども、いったいちずのどこからこんな力が出るのだろうかと呆れるぐらいに、それはしっかり真穂に喰い込んでいる。
「お義母さま、放してください!」
言いながら、腹に肘鉄を喰わせた。その拍子に、真穂に絡みついていた腕が緩む。真穂は腕を振り払うようにして飛び退《の》くと、床の上に身を投げ出すように座り込んだ。はあはあと、苦しそうな真穂の息が聞こえる。ちずもまた、腹に肘鉄を喰らって息がつまったようになったのか、半分咳込むみたいな息をしている。
「真穂、大丈夫?! どうしてこんなことになったの? 何だっておばあちゃまの部屋になんか──」
香苗が言ううちにも、呼吸を整え、息を吹き返したようになったちずが、ベッドから跳ね上がるようにして真穂に飛びかかってきた。ぎゃっ、と香苗の口から悲鳴が上がる。まだ立ち歩きもできない病人とはとうてい思えない。ちずはまるでむささびだった。真穂憎し、いや、いちの憎しの感情だけがちずの中で突き抜けて、動かぬからだを信じられない力で引っ張っている。
「お義母さま、やめてください!」
真穂とちずの間にはいるようにして、ちずの動きを止めようとした。しかしその手は香苗のからだを通り越し、真穂の襟首を掴んでいる。痛い、痛い、と真穂が叫ぶ。
「お義母さま!」
馬鹿力としか言いようがないちずの力に対抗しかねて、香苗はちずの腹を蹴ってから、両手で彼女を突き飛ばした。それほどものすごい力を入れたつもりはなかった。しかしちずはベッドのほうへ飛んでゆき、ゴンと音を立てて壁にぶち当たると、そのままずるりとベッドの上へずり落ちていった。
「お義母さま」
ゴンといった時の音が、あまり気持ちよいものではなかった。見るとちずは半分白目を剥いていた。後頭部を、したたか打ちつけたのかもしれない。急に恐ろしくなって、香苗はいかにも大事そうにちずのからだを抱えると、静かにベッドの上に横たわらせた。
「お義母さま……」
ちずは気を失っているのか、何も発しない、動かない。単に気を失っているにしては、息の気配らしきものが伝わってこないのがいやな感じだった。死んでしまったのでは、と考えるだけで、足の底から震えがこみ上げてくる。改めて口許に顔を近づけたり、手を取り脈や鼓動を確かめてみるだけの勇気は香苗になかった。震える手で、香苗はいつも民枝がしているのと同じように、ちずのからだの上に肌掛けをかけた。
「死に損ないの糞女が……」
その声に、はっとして振り返る。声は真穂の口から漏れたものだった。ただし真穂の声ではない。もっと嗄《しわが》れて粘っこい、歳をとった女の声。
背筋に悪寒が走った。久し振りのいちのとの再会。時枝が死んだ時、いちのもまた消えたのではなかったのか。しかしいちのは消えてはいなかった。眠りについてもいなかった。ただ真穂の中でなりを潜め、息を殺していただけのこと。真穂が何故この部屋にはいったのか、香苗は瞬時に理解した。二人の間にあったであろうやりとりも。
「真穂、お部屋に戻りましょう」香苗は波立った声で言い、真穂の手を取った。「これは夢よ、悪い夢。だから誰にも話しては駄目。上へ行って、もう寝ましょう」
「おばあちゃま、どうなった?」今度は真穂の声だった。
「──お寝みになったわ」
「死んだんじゃないの?」
「夢だって言ったでしょ。さあ早く」
真穂と一緒に二階に行き、香苗もそのまま床にはいった。むろん眠ろうにも眠れないが、起きて一人夜を過ごす気にはとてもなれない。ちずは生きているのか死んでいるのか……ふとんの中で身を丸めていても、がたがたと勝手にからだが震えてくる。生きているとすれば、いつか今夜のことを喋るだろう。死んでいるとすれば、それは香苗が殺したということ。どちらにしても未来が暗いことに変わりはない。が、後者のほうがより暗く恐ろしい。ベッドに寝かせる時に暗がりの中で見た、ちずの白目、白い顔。壁に当たった時の、ゴンという鈍くていやな感じのする音が、香苗の中に甦る。
どうしてこの家に帰ってきてしまったのかと、今さらながらのように唇を噛む。時枝のお骨に向かって相談した時、時枝がおやめと言った気がしたのに、その忠告に耳を塞いで出てきてしまった。一人東京で頑張っていくだけの強さがなかった。いや、頑張る前に逃げ出してしまった。
ふとんの中で身を震わせ、時にはっと起き上がってはまた横たわる。そんなことをいく度となく繰り返しながら、香苗はとにかく早く朝がきてくれることだけを願った。もう一度自分があの部屋にはいって、一番先にちずの様子を確かめることになるのはご免だった。朝、民枝か家政婦のトヨノが来て、早くちずの異変に気づいて騒いでほしかった。
O町の西納の家に帰ってきた時、ひょっとしたらそのうちに作田か春山が、難癖をつけにここまで追ってくるのではないかと危ぶむ気持ちがあった。彼らがここにやってきた夢を見たこともある。けれども、追ってきたのは人間ではなかった。いちのという化け物、蜘蛛の巣の網目のような悪い因縁。ある意味では、人間よりも性質《たち》が悪く、始末が悪い。いちのに対する憎しみが、香苗の中で頭をもたげる。
依然きわめて闇は深い。朝はまだ当分やってきそうにない。この夜は、これまでの生涯で一番長い夜になりそうだった。