24
翌日から、西納の家での日常がまわり始めた。まわり始めてみると、奇しくも真穂が言ったとおり、時間が前に進むのではなく、逆に過去へと巻き戻っているような心地がした。西納の家の中の仕事は、どれもこれもが香苗の身に馴染んだものばかり。そのひとつひとつをこなしていると、徐々に気持ちが落ち着いてくる。一日過ぎるごとに香苗は、あたかもジグソーパズルのピースがワンピースワンピース絵の中にはまっていくように、自分がこの家の風景に溶け込んでいっているような気がした。ちずが倒れて以来、なおざりになってしまったままの仕事もある。それらを片づけていると余計なことなど考える間もなく、一日一日が暮れていく。こうして家に帰ってきてみれば、忙しいことは忙しい。それでも東京の、無駄に気が急いて仕方がないような忙しさとは違った。ここでの時間はもっとゆっくりと流れている。時に日の当たる縁側に腰を下ろして、ぼんやりと広い庭の風景を眺める。十年間、香苗が毎日見続けてきた風景だ。そうすると、安らぎに似たものがおのずと内側から湧いてきて、香苗はささやかな幸せを覚えずにはいられない。やはりここが私の居場所。
当初、突然帰ってきた香苗の姿を目にして、土地の人間も驚いていた。あからさまに好奇の眼差しを向ける人もいれば、反対に自分のほうがバツが悪そうに、見て見ないふりとばかりに目を逸らしてしまう人もいた。それも二度、三度と顔を合わせるうち、互いにどうということもなくなっていく。人の噂も七十五日、あと半年もすれば「いて当たり前」、そんなふうになっていくことだろう。
香苗は、実家の母親の具合が大変に悪くて、看病に東京に帰って留守にしていた。その母親が先日亡くなったので、またO町へと戻ってきた……。表向きはそういうことになっていた。急遽拵えた作り話には矛盾があるだろう。けれども治一郎が話すことに、いちいち疑問を差し挟んでみせる人間は町にいない。治一郎は土地の実力者だ、誰も無駄に彼の機嫌を損ねたくはない。
真穂もまた地元の小学校に通い始めた。何もかも、元通りの日常。ちずが病気で寝ついていて、半ば住み込みのように、三村民枝が家の中にいること以外は。そのちずはといえば、近頃何かに力を得たように、回復の兆しを見せつつあった。
「やっぱり若奥さんが戻ってきたから安心したし、気持ちの張りだって違うんだろ」
「そうそう。若奥さんは家のことは何でもよくわかっていて、痒いところにも手が届くから」
西納の家に出入りする人間は、お世辞半分にそんなことを言う。だが、そうでないということは、香苗が一番よく承知している。香苗に西納の家の奥を任せたくないという一念が、ちずのからだを回復に向かわせている。
「近頃では、前よりずっとよくお召し上がりになりますし」民枝は香苗に言った。「少しずつですけれど言葉のほうも、戻りつつある感じなんです。先に希望の光が見えてきたみたいで、私も本当に嬉しくって」
香苗が西納の家に戻ってから、まだ二ヵ月と経っていない。それを考えると、確かにちずの回復には、目を瞠るものがある。誰かが手を貸してやっても起き上がることすら容易でなかったちずが、この頃では民枝に車椅子の背を押されて、庭を散歩したりもするようになった。
何か目には見えないものに射抜かれたようになってはっと振り返ると、そこに車椅子のちずがいて、香苗のことをじっと見ているということが時々ある。相変わらずちずの目には、香苗に対する根深い厭悪と憎悪の色が宿っている。ぞっと皮膚の内側に鳥肌を立てながらも、香苗は民枝の手前、ちずに向かって笑顔を作る。ちずは笑わない。顔の筋肉が思うように動かないのだから、それは仕方のないことかもしれない。けれども目から厭悪と憎悪の色が消えぬばかりか、冷たく燃える光は余計に強まる。
どうして? 香苗は心の中でちずに問いかける。どうして私をそんなに嫌うの? 私があなたに何をした? そんな目をして私を見るのはやめて。
時には両手でちずの肩を掴み、何がそんなに気に喰わないのと、揺さぶりながら問いつめてもみたくなる。香苗は十年ちずにおとなしく仕えてきた。ここまで嫌われる理由はない。だが、仮にちずの口が利けたとしても、その理由など彼女の口から聞きたくなかった。ちずの甲高いくせにねちねちとした独特の口調を思い出すだけで虫酸が走る。誠心誠意世話をしてくれている民枝には申し訳ないが、彼女の一所懸命さは、香苗には逆に迷惑だった。これ以上ちずを回復に導かないでもらいたい。ちずに言葉が戻りつつあるということは、民枝にとっては希望であっても、香苗にとっては絶望でしかない。けれども香苗が望めば望むほど、物事は思う方向とは逆に動いていくようだった。思えばこの西納の家で事が思いどおりに運んだことなど、過去にも一度としてありはしなかった。
当初、突然帰ってきた香苗の姿を目にして、土地の人間も驚いていた。あからさまに好奇の眼差しを向ける人もいれば、反対に自分のほうがバツが悪そうに、見て見ないふりとばかりに目を逸らしてしまう人もいた。それも二度、三度と顔を合わせるうち、互いにどうということもなくなっていく。人の噂も七十五日、あと半年もすれば「いて当たり前」、そんなふうになっていくことだろう。
香苗は、実家の母親の具合が大変に悪くて、看病に東京に帰って留守にしていた。その母親が先日亡くなったので、またO町へと戻ってきた……。表向きはそういうことになっていた。急遽拵えた作り話には矛盾があるだろう。けれども治一郎が話すことに、いちいち疑問を差し挟んでみせる人間は町にいない。治一郎は土地の実力者だ、誰も無駄に彼の機嫌を損ねたくはない。
真穂もまた地元の小学校に通い始めた。何もかも、元通りの日常。ちずが病気で寝ついていて、半ば住み込みのように、三村民枝が家の中にいること以外は。そのちずはといえば、近頃何かに力を得たように、回復の兆しを見せつつあった。
「やっぱり若奥さんが戻ってきたから安心したし、気持ちの張りだって違うんだろ」
「そうそう。若奥さんは家のことは何でもよくわかっていて、痒いところにも手が届くから」
西納の家に出入りする人間は、お世辞半分にそんなことを言う。だが、そうでないということは、香苗が一番よく承知している。香苗に西納の家の奥を任せたくないという一念が、ちずのからだを回復に向かわせている。
「近頃では、前よりずっとよくお召し上がりになりますし」民枝は香苗に言った。「少しずつですけれど言葉のほうも、戻りつつある感じなんです。先に希望の光が見えてきたみたいで、私も本当に嬉しくって」
香苗が西納の家に戻ってから、まだ二ヵ月と経っていない。それを考えると、確かにちずの回復には、目を瞠るものがある。誰かが手を貸してやっても起き上がることすら容易でなかったちずが、この頃では民枝に車椅子の背を押されて、庭を散歩したりもするようになった。
何か目には見えないものに射抜かれたようになってはっと振り返ると、そこに車椅子のちずがいて、香苗のことをじっと見ているということが時々ある。相変わらずちずの目には、香苗に対する根深い厭悪と憎悪の色が宿っている。ぞっと皮膚の内側に鳥肌を立てながらも、香苗は民枝の手前、ちずに向かって笑顔を作る。ちずは笑わない。顔の筋肉が思うように動かないのだから、それは仕方のないことかもしれない。けれども目から厭悪と憎悪の色が消えぬばかりか、冷たく燃える光は余計に強まる。
どうして? 香苗は心の中でちずに問いかける。どうして私をそんなに嫌うの? 私があなたに何をした? そんな目をして私を見るのはやめて。
時には両手でちずの肩を掴み、何がそんなに気に喰わないのと、揺さぶりながら問いつめてもみたくなる。香苗は十年ちずにおとなしく仕えてきた。ここまで嫌われる理由はない。だが、仮にちずの口が利けたとしても、その理由など彼女の口から聞きたくなかった。ちずの甲高いくせにねちねちとした独特の口調を思い出すだけで虫酸が走る。誠心誠意世話をしてくれている民枝には申し訳ないが、彼女の一所懸命さは、香苗には逆に迷惑だった。これ以上ちずを回復に導かないでもらいたい。ちずに言葉が戻りつつあるということは、民枝にとっては希望であっても、香苗にとっては絶望でしかない。けれども香苗が望めば望むほど、物事は思う方向とは逆に動いていくようだった。思えばこの西納の家で事が思いどおりに運んだことなど、過去にも一度としてありはしなかった。
久し振りに、夫婦で晩酌する時間が持てた晩だった。近頃は誠治も、漁協の仕事に、会社の仕事に、それに顔つなぎの地元の寄り合いにと、忙しい毎日を過ごしている。ブランデーグラスに琥珀色の酒を注ぎながら、思い出したように誠治が言った。
「そういえば、びっくりしたよ」
「何が?」
「さっきお袋の部屋を覗いた時に民枝さんから聞いたんだけど、お袋、今日、ちょっとまとまった話をしたらしい。当初はもう口を利くことなんか、絶対に無理だと思っていたんだけどな」
「えっ」取り繕う間もなく、額に翳が落ちて眉間が寄る。
「俺にはせいぜい単語が少しわかるぐらいで、何を言ってるやらさっぱりわからない。だけど民枝さんは慣れているせいか、よく聞き取れるんだな」
「まとまった話って、何の話をしたの?」ひとりでに尻込みしそうになる気持ちを前に押し出し、香苗は訊いた。
「昔の話。やっぱり頭の配線がどこか狂っているのかな。だから昔のことのほうが逆に現実味を帯びて感じられるのかもしれない」
昔の話。そのことに、軽い安堵を覚えてブランデーのグラスに手を伸ばす。掌の中で弄《もてあそ》ぶように揺らしていると、次第に甘い香りが鼻先に漂ってくる。
「いちの、って名前の人のことらしいんだけど」
全身がぎくりとなり、口からは心臓が、目からは眼球が飛び出しそうになった。安堵はたちまちのうちに消し飛び、刷毛《はけ》で白い絵の具をひと掃《は》きしたように、顔から血の気が退いていく。聞き違いではないかとわが耳を疑う。
「え。いち……何て?」
「いちの」はっきりと、誠治はその名を口にした。「新潟の、たいそう大きな家の人らしいんだけど」
いちの、新潟、大きな家……もう間違いはないと思った。気つけ薬の代わりにブランデーを口に含む。
「お袋、子供の頃に家の事情で、ひと夏新潟の知り合いの家に預けられたことがあったらしいんだ。いちのというのはそこの若奥さん。お袋、ずいぶんこの人に陰湿な苛められ方をしたようなんだな。そのことを、今になって初めて思い出したみたいに民枝さんに話したってわけ」
「新潟って、新潟のどこ?」
「そこまでは覚えていないらしい。何という家かも忘れてしまっている。ただ、いちのという名前が頭にあるだけで」
「だけどどうしてお義母さまが新潟なんかに……。知り合いって、遠縁だとか何だとか、何かその家と関係でもあるの?」
「よくはわからない。だけど、お袋の叔父貴の道太郎さんは書画骨董を扱う目利きだったっていうから、その関係で出入りしていた家じゃないかな。戦時中のことだから、疎開という意味合いでもあったのか、それともばあちゃんが具合でも悪くしていたのか……」
「あなた、今までその話をお義母さまから聞いたことはなかったの?」
ないよ、と誠治は笑った。「お袋だって忘れていたことなんだから。たぶんお袋にとっちゃ、よっぽどいやな体験だったんだな。だから意識の下に仕舞い込んで、今日まで忘れていたんだろうよ。人間って、無意識のうちにいやなことを忘れようとするところがあるじゃないか」
挨拶ができない、行儀が悪い、心根がよくない、床を汚した、ものを勝手に使う、ものがなくなった、子供のくせに大飯を喰らう……見知らぬ家にたった一人で預けられ、寄る辺ない思いをしている小さな子供を、いちのはひと夏かけていたぶり続けたらしい。ちずは家に帰ってきてからもしばらくは、その後遺症で萎縮したようになって、まともに人と口が利けなかったという。
「やってもいないことでまで折檻するような、強烈な人だったらしいんだよ。その人が左利きでさ。それを聞いて俺、ああなるほど、と思ったよ。ほら、真穂の左利きのこと」
「真穂の……」
「お袋、異様なぐらいにそれを嫌っていただろう? あれ、その頃の体験が原因しているんじゃないか? つまり、左利きはいちのって人の記憶に繋がる。お袋は、左利きがどうこうっていうことよりも、無意識のうちにいちのって人に対する嫌悪をぶつけていたんじゃないだろうか」
聞いているうち、手先に震えが走りだしそうになった。因縁の糸が、ここでも絡まってしまっていた。元凶はいちの。彼女はいったいどれだけ因縁の糸を張り巡らせたら気が済むのか。香苗は生まれてくる以前も生まれた後も、ずっとこの因縁の糸に搦め取られて生きてきたということを改めて思い知った。これから先も、この糸が断たれることはない気がする。誠治はちずが左利きを嫌った理由を見出して、別に真穂が気に入らなかった訳ではないのだと、自分なりに安堵を得た様子でいる。しかし、彼は知らない。真穂が顔かたちもまた、いちのに生き写しだということを。誠治の言うとおり、あまりにつらい体験だったから、ちずの心は記憶に封印をし、いちのという存在を消してしまったのだと香苗も思う。でなければ、もうとっくにいちのの名前が出ていてよいはずだった。誠治はもはや忘れているかもしれないが、誠治と香苗が結婚するということになった時、ちずは時枝が新潟の出身だということにまでいわれのない嫌悪を示して反対したものだった。今にして思えばあれも根は同じだった。ちずは新潟での一時期を、無意識のうちに心の箱の中に封じ込めた。ただ、いちのに通じるものへの強い嫌悪だけが残った。それがここにきて、どうした加減か病気が記憶の封印を解いてしまった。ちずが今よりもっと回復すれば、真穂がいちのに瓜二つだということに当然気づくだろうし、疑問を抱くようになるだろう。調べれば、香苗がいちのの孫であり、真穂がその曾孫に当たることは容易にわかる。それを知ったら、ちずはこれまで以上に香苗を、真穂を、嫌悪し憎むことだろう。ついに時枝が殺してしまったほどの女だ、幼いちずに対するいちのの仕打ちがどんなだったかも、だいたい想像がつく。
「どうした? 変な顔をして?」
「ううん」香苗は首を横に振った。「そうかもしれないと思って。子供の頃にあったいやな体験って、思いがけなく心に深い傷を残したりするものだっていうから」
無理もない。左利きを嫌うのも真穂を嫌うのも香苗を嫌うのも。二人は紛れもないいちのの血筋。ちずの本能的な嗅覚がそれを嗅ぎつけて、天敵の如くに二人を厭悪させた。
ようやく自分本来の居場所を見つけた気がし始めていたというのに、幸せというにふさわしいものさえ感じるようになりつつあったというのに、またも自分の未来に翳がさしたのを覚えざるを得なかった。
頼むからこれ以上よくならないで。ううん死んでくれていたらよかったのに……グラスを掌に包んだまま軽く唇を噛み、そんなことを考える。我ながら、恐ろしい女だと香苗は思った。
「さ、寝るか。ああ、やれやれ。明日からまた忙しくなるぞ」
何も知らない誠治が伸びをして、間の抜けたあくびをひとつした。今のところは平和な夜だ。今のところは……香苗は心の中でひとりごちた。
「そういえば、びっくりしたよ」
「何が?」
「さっきお袋の部屋を覗いた時に民枝さんから聞いたんだけど、お袋、今日、ちょっとまとまった話をしたらしい。当初はもう口を利くことなんか、絶対に無理だと思っていたんだけどな」
「えっ」取り繕う間もなく、額に翳が落ちて眉間が寄る。
「俺にはせいぜい単語が少しわかるぐらいで、何を言ってるやらさっぱりわからない。だけど民枝さんは慣れているせいか、よく聞き取れるんだな」
「まとまった話って、何の話をしたの?」ひとりでに尻込みしそうになる気持ちを前に押し出し、香苗は訊いた。
「昔の話。やっぱり頭の配線がどこか狂っているのかな。だから昔のことのほうが逆に現実味を帯びて感じられるのかもしれない」
昔の話。そのことに、軽い安堵を覚えてブランデーのグラスに手を伸ばす。掌の中で弄《もてあそ》ぶように揺らしていると、次第に甘い香りが鼻先に漂ってくる。
「いちの、って名前の人のことらしいんだけど」
全身がぎくりとなり、口からは心臓が、目からは眼球が飛び出しそうになった。安堵はたちまちのうちに消し飛び、刷毛《はけ》で白い絵の具をひと掃《は》きしたように、顔から血の気が退いていく。聞き違いではないかとわが耳を疑う。
「え。いち……何て?」
「いちの」はっきりと、誠治はその名を口にした。「新潟の、たいそう大きな家の人らしいんだけど」
いちの、新潟、大きな家……もう間違いはないと思った。気つけ薬の代わりにブランデーを口に含む。
「お袋、子供の頃に家の事情で、ひと夏新潟の知り合いの家に預けられたことがあったらしいんだ。いちのというのはそこの若奥さん。お袋、ずいぶんこの人に陰湿な苛められ方をしたようなんだな。そのことを、今になって初めて思い出したみたいに民枝さんに話したってわけ」
「新潟って、新潟のどこ?」
「そこまでは覚えていないらしい。何という家かも忘れてしまっている。ただ、いちのという名前が頭にあるだけで」
「だけどどうしてお義母さまが新潟なんかに……。知り合いって、遠縁だとか何だとか、何かその家と関係でもあるの?」
「よくはわからない。だけど、お袋の叔父貴の道太郎さんは書画骨董を扱う目利きだったっていうから、その関係で出入りしていた家じゃないかな。戦時中のことだから、疎開という意味合いでもあったのか、それともばあちゃんが具合でも悪くしていたのか……」
「あなた、今までその話をお義母さまから聞いたことはなかったの?」
ないよ、と誠治は笑った。「お袋だって忘れていたことなんだから。たぶんお袋にとっちゃ、よっぽどいやな体験だったんだな。だから意識の下に仕舞い込んで、今日まで忘れていたんだろうよ。人間って、無意識のうちにいやなことを忘れようとするところがあるじゃないか」
挨拶ができない、行儀が悪い、心根がよくない、床を汚した、ものを勝手に使う、ものがなくなった、子供のくせに大飯を喰らう……見知らぬ家にたった一人で預けられ、寄る辺ない思いをしている小さな子供を、いちのはひと夏かけていたぶり続けたらしい。ちずは家に帰ってきてからもしばらくは、その後遺症で萎縮したようになって、まともに人と口が利けなかったという。
「やってもいないことでまで折檻するような、強烈な人だったらしいんだよ。その人が左利きでさ。それを聞いて俺、ああなるほど、と思ったよ。ほら、真穂の左利きのこと」
「真穂の……」
「お袋、異様なぐらいにそれを嫌っていただろう? あれ、その頃の体験が原因しているんじゃないか? つまり、左利きはいちのって人の記憶に繋がる。お袋は、左利きがどうこうっていうことよりも、無意識のうちにいちのって人に対する嫌悪をぶつけていたんじゃないだろうか」
聞いているうち、手先に震えが走りだしそうになった。因縁の糸が、ここでも絡まってしまっていた。元凶はいちの。彼女はいったいどれだけ因縁の糸を張り巡らせたら気が済むのか。香苗は生まれてくる以前も生まれた後も、ずっとこの因縁の糸に搦め取られて生きてきたということを改めて思い知った。これから先も、この糸が断たれることはない気がする。誠治はちずが左利きを嫌った理由を見出して、別に真穂が気に入らなかった訳ではないのだと、自分なりに安堵を得た様子でいる。しかし、彼は知らない。真穂が顔かたちもまた、いちのに生き写しだということを。誠治の言うとおり、あまりにつらい体験だったから、ちずの心は記憶に封印をし、いちのという存在を消してしまったのだと香苗も思う。でなければ、もうとっくにいちのの名前が出ていてよいはずだった。誠治はもはや忘れているかもしれないが、誠治と香苗が結婚するということになった時、ちずは時枝が新潟の出身だということにまでいわれのない嫌悪を示して反対したものだった。今にして思えばあれも根は同じだった。ちずは新潟での一時期を、無意識のうちに心の箱の中に封じ込めた。ただ、いちのに通じるものへの強い嫌悪だけが残った。それがここにきて、どうした加減か病気が記憶の封印を解いてしまった。ちずが今よりもっと回復すれば、真穂がいちのに瓜二つだということに当然気づくだろうし、疑問を抱くようになるだろう。調べれば、香苗がいちのの孫であり、真穂がその曾孫に当たることは容易にわかる。それを知ったら、ちずはこれまで以上に香苗を、真穂を、嫌悪し憎むことだろう。ついに時枝が殺してしまったほどの女だ、幼いちずに対するいちのの仕打ちがどんなだったかも、だいたい想像がつく。
「どうした? 変な顔をして?」
「ううん」香苗は首を横に振った。「そうかもしれないと思って。子供の頃にあったいやな体験って、思いがけなく心に深い傷を残したりするものだっていうから」
無理もない。左利きを嫌うのも真穂を嫌うのも香苗を嫌うのも。二人は紛れもないいちのの血筋。ちずの本能的な嗅覚がそれを嗅ぎつけて、天敵の如くに二人を厭悪させた。
ようやく自分本来の居場所を見つけた気がし始めていたというのに、幸せというにふさわしいものさえ感じるようになりつつあったというのに、またも自分の未来に翳がさしたのを覚えざるを得なかった。
頼むからこれ以上よくならないで。ううん死んでくれていたらよかったのに……グラスを掌に包んだまま軽く唇を噛み、そんなことを考える。我ながら、恐ろしい女だと香苗は思った。
「さ、寝るか。ああ、やれやれ。明日からまた忙しくなるぞ」
何も知らない誠治が伸びをして、間の抜けたあくびをひとつした。今のところは平和な夜だ。今のところは……香苗は心の中でひとりごちた。