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ムッソリーニの処刑01

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:プロローグ「イタリアという国は、二千年来の先進国と言ってよい。二十世紀にもわたって人類の文化向上に貢献し続けて来た国が世
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プロローグ
「イタリアという国は、“二千年来の先進国”と言ってよい。二十世紀にもわたって人類の文化向上に貢献し続けて来た国が世界のどこにあろうか」
このような文章を最近、目にして、なるほどと思った。確かに世界史を彩った古代ローマや、くだって近代の誕生を告げたルネッサンス以来、イタリアの文化は古くから世界各地に深く根をおろしている。とりわけ最近は、身近な衣食住を見ても分るように、その先駆的なファッション、モード、ハードやソフトのデザイン、加えて料理にいたるまで、イタリアはわれわれの日常生活の一部にさえなっている。
このため日本でも、かつてのように単なる芸術的側面だけでなく、トータルとしてのイタリアへの関心が高まっているが、これはかなり前から世界的な流れともなっている。その秘密について、数年前、イタリアのジャーナリスト達と話した時、彼らが一致して強調した点は、「イタリア人は良くも悪くもとても人間的であり、かつ個性豊かな創造力と活力に富んでいることが、多くの国の人々の共感を得ているからではないか」ということであった。
さらにまた「イタリア人はよその国の人より人一倍コンフォルミズモ(画一主義)が嫌いだから、イタリア人の造り出す独創的なものはかえって幅広く受け入れられる素地がある。それがジワジワと“イタリアの波”を巻き起しているのかも知れない」とも述べていた。
長年イタリアと関ってきた私から見ても、この国の人々の思惟、思考、感覚、行動様式などは他のヨーロッパ人や日本人と比べてもその波長がどことなく違い、かつ広く大きいのではと感じることが少くない。そのうえ彼らは多様な個性を自由奔放に発揮させることに無上の喜びを見出してやまない。一人ひとりの個性と人間性を尊重することは、“天才の輩出”を見たルネッサンスを持ち出すまでもなく、この国の強固な伝統ともなっている。それは古代ローマ以来培われた長い文化的所産と、人間の知恵なのであろう。
 そうしたイタリアについて、わが国でも年々、関心を寄せる人々が増えているが、まだ知られざる側面も多々ある。その重要な一つが、本書で述べようとしている現在のイタリア共和国成立の原動力となった第二次世界大戦末期の、パルティザンによる反ナチ・反ファシズムの闘争である。これは最終的にはファシズムの統帥ベニト・ムッソリーニの処刑によって総括されると同時に、この反ナチ・ファシズムのパルティザン精神こそがイタリア共和国の新憲法として結実することになるからである。その意味でも、この闘争は現代イタリアを知るための大きなポイントと言うことができる。
この戦争秘史とも言うべきパルティザン闘争の全貌がようやく具体的な姿を現わしたのは、厳密には戦後約三十年を経た一九七〇年代後半に入ってからであり、八〇年代になって一挙に加速した。八〇年の参戦四十周年、八三年のムッソリーニ生誕百年、八五年のムッソリーニ処刑、イタリア解放のそれぞれ四十周年などを節目に、それまでの事実の発掘、研究などが相次いで発表され、ジャーナリズムや学界、出版界がそれらをまとめるなど、文字通りブーム現象を呈したのである。そのさなかイタリアに暮していた私は、イタリア現代史研究者の一人として、この国の研究者達と共に、貴重な月日を送ることができたのは幸いであった。
 第二次大戦中、日独伊三国枢軸の一翼を担って連合軍と戦っていたイタリアは、大戦なかばの四三年九月、突如として戦列を離脱した。当時の日本政府は「イタリアは弱いから負けた」などと宣伝したものである。しかし事実は逆で、「この戦争はムッソリーニが始めた戦争」と醒めた目で見ていたイタリアは、国土と国民を戦禍から守るためには速やかな戦線離脱が必要だとして極秘裏に連合軍と休戦協定を結び、戦争を中止したのである。「決死抗戦」の当時の日本とは対照的ないかにも人間的なこの休戦秘史は、第十二回講談社ノンフィクション賞を受賞した拙著『ムッソリーニを逮捕せよ』(講談社文庫)にまとめたので参照されたい。
その休戦後のイタリアは、連合軍との協定のあいまいさのためもあって、大半の国土をナチ・ドイツ軍に占領され、不幸な支配下に置かれてしまう。占領ドイツ軍の総数は二十万人にも上った。その結果、地下に潜っていた反ナチ・ファシズムの政治家や市民が蜂起、パルティザンとして果敢な抵抗運動に入った。休戦とともにイタリアは内戦の舞台に暗転してしまったのである。
これらパルティザンは当初はテロなどを繰り返しながら漸次その規模を拡大し、北進する連合軍の前衛的役割を果すまでに成長する。一九四五年四月二十八日にムッソリーニを処刑した段階で、パルティザンの総数は約三十万人(イタリアの最大時の正規兵力数は約三百万人)にも達していた。
戦後の一九四六年、イタリア外務省は「ドイツからの解放戦争へのイタリアの貢献」と題して、パルティザン戦死者三万五千八百二十八名、戦傷者二万一千百六十八名という数字を発表した。同時にナチ・ファシストへの非協力、ないしテロ活動への報復として無辜(むこ)の一般市民九千九百八十名が処刑されたことも明らかにした。
この数字はその後の調査でさらに増えるのだが、これほど多くの市民がパルティザンとして敢然と死んでいった事実や現場をこの目で確かめた私は、ナチ・ファシズムから自らを解放したイタリアという国と国民にあらためて畏敬の念を禁じ得なかった。
この国の都市、農村を問わず、中心の広場や公共施設には大抵パルティザン戦死者を祀る記念碑や記念塔が建てられている。これら大理石で作られた記念碑の壁面には、ボローニャ、フィレンツェなどでは数千、数百人もの姓名が刻まれ、顔写真も陶板としてはめ込まれている。まだあどけない少年や若い女性のものも数え切れない。多くの自治体では記念館も設け、町の生んだパルティザン戦士の遺品、記録などを展示し、いまもなお顕彰し続けている。そこにはいつも献花が絶えることがない。
「ムッソリーニの戦争」に反対するイタリア国民は、さまざまな反応の仕方をした。兵士達の中には出来得れば戦わずして捕虜になる道を選んだ者も多かった。四三年九月の休戦前に、すでに六十二万二千百七十六人もの大量のイタリア兵士が連合軍の捕虜になっていたことでもそれは分る。また国内の軍需品工場ではサボタージュも少くなかった。軍に納入する軍靴の底を、わざとボール紙で作ったり、空爆で投下する爆弾につめ込む爆薬の代りに、オガ屑を入れた例もあったほどである。そして反ナチ・ファシズムのパルティザン達は、積極果敢にドイツ軍、ファシスト軍に体当りした。女性パルティザンも万の単位で参加していた。それほど反ナチ・ファシズムに対する戦闘精神は高揚していたのである。
当時のパルティザン達に聞くと、きまって「実はあの戦争を止めさせるには、ファシズムを倒し、ドイツ軍を放逐するため戦うしか道はなかったのです。そうしてはじめて戦争がなくなり、自分達の自由と独立が保障出来るのだと確信してパルティザンになったのです」と語る。彼らはドイツ軍やファシスト軍に捕まれば、銃殺や絞首刑は免れられなかった。それだけに必死で挑戦したのである。涙ぐましいエピソードにはこと欠かない。それだけに一方で、「勇み足」とか「やり過ぎ」とも言える過剰反応の例も稀ではない。本書中に述べる日本人三人(海軍武官と商社員二人)が悲運の最期を遂げた事件もそれに近いと言ってよかろう。
 専門的な観点からすれば、年を経るごとに数々の事実がさまざまな光を照射され、事実の襞(ひだ)の部分まで明るみに出されるのは結構なことだが、その一方で研究が深く進むにつれて、事実とされていたことへの矛盾や疑問が生じ、かえって不透明になるものも出ている。本書の核心であるムッソリーニを処刑したパルティザンが特定しにくくなってしまったことなどがその一例である。
また第二次大戦終結から半世紀近くも経ってしまったいま、証人ともなるべき人々も一人ひとり他界し、これ以上の解明も困難になっているのが現状である。そういった意味も含め、日本がハワイの真珠湾を奇襲して無謀な太平洋戦争に突入した五十周年を機に、あの第二次大戦の末期、同じ枢軸国でありながら反ナチ・ファシズムの戦いに転じたイタリアのパルティザンが、最後にはファシズムの指導者ベニト・ムッソリーニを処刑するに到ったドキュメントを本書にまとめた。当時の日本では到底、考えも及ばなかったイタリアの戦中秘史である。「イタリアはあの戦争にこのように関ったのか」と、読者諸賢が何か感得するところがあれば何よりも幸いである。
 なお本書中、ムッソリーニのことを当時の呼び名のまま「ドゥチェ(DUCE)」とかその訳語「統帥」を使った。「DUCE」はラテン語の「DUX」から来たイタリア語の指導者の意味で、「統帥」は当時の日本語訳である。ヒットラーは総統、ムッソリーニは統帥、スペインのフランコ将軍を統領と呼称して区別していたのでそれに準じた。また登場する日本人を含め、敬称は略させていただいた。
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