──新宿・大久保 午前二時──
その女の客が店にはいってきたのは、深夜の二時をまわった時分のことだった。香苗の店は、喫茶店だが朝方まで店を開けている。歌舞伎町から流れてくる塵のような客を拾う土地柄、この近辺の飲食店で、十二時前に店を閉めてしまうところなど稀だった。
女は水商売のようだった。けれども、顔に施した濃い化粧を透かして、女のまた別の顔が香苗の目には見えていた。
「コロンビアを」
カウンター席に座り、女は言った。その目が、カウンターの内側の、香苗の姿を追っている。
「ママ、私のこと、覚えています?」
「覚えているわよ」香苗は水のはいったグラスを差し出しながら、素っ気ない調子で頷いた。「二、三ヵ月ぐらい前、風に煽られたみたいに、夜中にふらっとうちの店にはいってきた人でしょ? ボストンバッグひとつ持って。その時座ったのもその席だったわね」
香苗が自分を覚えていたことに、女ははにかんだような笑みをうっすら顔に浮かべてみせた。あれから、そう時は流れていない。けれども化粧の威力ばかりでなしに、女はすぐにそれとはわからないほど、あの時とは面変《おもが》わりしてしまっていた。早くも彼女は、このあたりの水に馴染み始めている。
「あの晩ママさんに会えたことで、私、肚が坐ったみたいになって……。今、新宿で働きながら、大久保で暮らしているんです」
そう、という香苗の愛想のない声が、豆をグラインドするけたたましい音に半分掻き消される。
「私ね、歌舞伎町の『ハモニカ』という店で働いているんです」
ハモニカ、その名前に記憶の糸を引っ張られ、香苗はかすかに眉根を寄せた。
「『ハモニカ』のママにこの店の話をしたら、『25時』のママさんには、昔ずいぶん世話になったって。うちのママ、波恵っていうんですけど」
波恵という名前を耳にして、今度はしっかりと記憶の糸が繋がった。昔時枝がスナックをやっていた時、店で一時期使っていたことのある女。相性がよかったのか、中でも時枝が一番かわいがっていた女。
「それなら」香苗は言った。「私じゃない。私の母のことだわ」
「そうなんですか。──そうですよね。うちのママを世話するにしては、ママさんはちょっと若過ぎますよね」
波恵は、因縁かしらねぇ、と彼女に言ったのだという。文字通り五万もの店がひしめく新宿に来て、最初に「25時」に飛び込むとはねぇ……。
それがまた縁になって、「ハモニカ」で使ってもらえるようになったのだと女は話す。
「でも、落ち着いたら別の店を探すつもりです」
「どうして?」
「小さな店なんです。本当はあの店、私なんか雇う必要も余裕もないんですよ。私が困っていたから、ママさんとの因縁に免じて、仕方なしに働かせてくれただけで」
因縁。女に淹れたての熱いコーヒーを出しながら、香苗は頭の中でその言葉を反芻する。この街で三十年あまり暮らした時枝。彼女はここで、血の因縁とはまた別の因縁を紡いでいたということか。あの晩この女にも話したように、大久保の街自体が、ある種の因縁を持った土地でもある。まだ私は因縁の網目の中にいる、そう思うと香苗は、手枷足枷をはめられているような鬱陶しさを覚えた。もうどんな因縁もたくさんだ。けれども香苗もあの晩この女に声をかけたことで、知らず知らずに自ら新たな因縁の糸を紡いでしまっていたのかもしれない。
「ちょっと落ち着いたので、私、ママさんにお礼を言おうと思って、それで今晩ここに寄らせていただいたんです」
「律儀なのね」褒めてもいない口調で香苗は言った。
「私、しばらくここで頑張ろうと思います。お店にも時々寄らせていただこうかと思って。──いいでしょうか?」
「もちろんよ」疲れた顔で、香苗は笑った。「うちは客商売なのよ。きてくれるという人を拒んでいたら、店は成り立っていかないじゃないの」
よかった、と女はまたはにかんだ笑顔を見せた。その顔を見ながら、この女はまた顔が変わるだろうと香苗は思った。あと二、三ヵ月もしたら、今度はこんな素朴な笑みも消えてしまい、きっと作った笑みを顔に浮かべるようになっているだろう。その果てに、心をまったく映さぬ顔を持つようになる。この街には、心の中では金のことばかり、そのためには平気で人も騙すし踏みつけにするくせに、表面それとは裏腹に、日溜まりみたいな顔をした作田の如き人間もいる。だから香苗は言うのだ。人に心は許せない。ここは昏い海の底。棲息しているのはグロテスクな深海魚。香苗自身も含めてだ。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」女が言った。「お店の名前、『25時』って、どういう理由でつけたんですか? それは、喜怒哀楽を超越した無の時間ということですか?」
「はずれてはいないけれどちょっと違う」そう言って、香苗は煙草に火を点けた。
「25時」という店の名前自体は、以前時枝がつけたものだ。「二十五時」というのは、小説のタイトル。確かルーマニアのゲオルギウという名の作家が書いた小説ではなかったか。いつまで経っても二十五時、永遠に夜が明けることはない。
香苗は、ちずが死んだ晩、がたがたと震えながら、生涯で最も長い夜を過ごした。一分一分がそれぞれ一時間の長さをもっているかのようで、このまま永遠に朝が来ないのではないかと思った。あの時香苗の中にあったのは、恐れ、不安、絶望……。そして今あるのは、それを通り越した虚ろな諦め。香苗にとっての「二十五時」は、虚無と諦念の時刻だった。決して明るくはない。かといって闇ほどの漆黒もまたない。だが、これよりも明るい朝がくるとは思えない。いつまでもこの時、二十五時。
「二十五時は、人それぞれ違うんじゃないのかな。私にとっての二十五時は、いわば諦めの境地よ。出口のない暗いトンネルの中で、もう出口を探すのなんかやめよう、死ぬまでトンネルの中でいいじゃないか、っていうような」
「開き直り、ですか?」
「開き直り……」
女の言葉を、口の中で呟き、繰り返してみる。当たっているかもしれない、と思った。それから思った。時枝もずっと、二十五時にいたのだと。
「失礼な言い方かもしれませんけど、ママさんにふさわしい感じのする名前ですね」
「どうして?」香苗は、心持ち首を傾げて言った。
「──顔がないから」
女は、あれから何度かこの店のことを思い出し、香苗の顔を思い浮かべようとしたらしい。けれども、香苗がどんな顔をしていたか、それをはっきり心に描くことはできなかった。輪郭、顔かたちはわかっているのだが、脳裏に父や母の顔の像を結ぶようにはうまくいかない。どう試みたところで、それは目鼻のはっきりとしない、顔のぼやけた人形でしかない。そのうちに、女は香苗には顔がなかったことに気がついた。顔というより、人間としての、表情というものがなかった。
香苗は、頷くように視線を落とした。作田のように、心や性根とは裏腹の、餌を誘《おび》き寄せんがためのよい顔を作るのもいや。歯を食いしばって、いかにも頑張っていますと言わんばかりの顔もいや。かといって、心を顔にさらけ出すのも堪らない。だから香苗は表情のない面を顔につけた。無表情という表情。それも、諦めという香苗の心を映した仮面なのかもしれない。
「ママ、お名前、何とおっしゃるんですか?」
「時枝」
女の問いに、ほとんど反射的に香苗は答えていた。「山上時枝」
「時枝──、やっぱりお店の名前と通じるところがあるんですね」
そんなことは、考えてもみないことだった。
またきますと、女が店を出ていった。入れ違いにドアが開き、「25時」はまた新たな客を一人迎え入れた。いらっしゃいませ、香苗は言う。見たことのない顔、女の客。病人のように痩せていて、顔色がひどく悪い。目の下の隈、思いつめたような昏い眼差し。しかし香苗はそんなことには気づきもしないように、「何になさいますか?」と事務的に尋ねた。
「あ、コーヒー……。アメリカンを」
香苗の声で、はじめて我に返ったように彼女は言った。言葉に、いくぶん訛りが感じられた。けれども、もう香苗は何も言わない。話さない。自分からは、どんな糸も紡がない。
今夜もまた、何かを身に抱え込んだ人間が、何かに誘き寄せられるように、この街へと流れてくる。逆に、風に舞い飛ばされるように出ていく人間もいる。ここはそんな街。そういうことの繰り返し。
自分では自分の力で人生を、懸命に生きているつもりかもしれない。けれども香苗には、誰も彼もが人形に見えた。からだについたたくさんの糸。誰しもが、身を縛る糸にがんじがらめにされている。操られているとは気づかぬままに、操られている気の毒な操り人形。香苗はただ見ているだけ。まるで余生を送る老婆が、ひがな寄せては返す海の波をぼんやり眺めているように。
次、どんなものすごいものを背負った客がどんな酷い顔をしてそのドアからはいってきたとしても、自分はもう驚くことがないような気がした。たとえ時枝が、あるいはちずが、黄泉《よみ》の国から甦ってそのドアを開けてはいってきたとしても。香苗は怯まない、動じない。
ここはいつもが二十五時。恐れ戦《おのの》きも通り越した、諦念の時刻。闇の昏さを突き抜けた、色のない闇。