チアーノ処刑
年が明けた四四年一月、ファシスト政府は八日から三日間、「反逆者」を裁くための特別法廷をヴェローナのヴェッキォ城で開くと発表した。党大会と同じ場所である。そのことはこの法廷が党大会の「延長」、ないしは「続篇」であることを意味した。当然、「反逆者に復讐を!」の声に応えた舞台になるはずである。
あの党大会後、党・政府は周到にこの裁判を準備し、年明けとともに開廷を発表したのである。ヴェローナを取り巻く丘陵地帯は、すっかり雪化粧し、ヴェッキォ城も裁判の厳しさを予告するかのように凍てついていた。
ドイツから戻されていたチアーノの妻エッダは、それからというもの父ムッソリーニの許を訪ねては、夫の助命を死にもの狂いで嘆願した。ムッソリーニは娘に会わない日もあった。すべてはナチ親衛隊の監視するところだったからである。だがエッダはそれには目もくれず、ひたすら父に面会を求めた。彼女は夫を助命してもらえると信ずる“切り札”を持っていた。チアーノの日記である。
日記には一九三七年以来、つまりチアーノが外相になってからの日々のことが克明に書き留められていた。ヒットラーはじめドイツ首脳との会談のことや、岳父ムッソリーニとの会話、外交団や外国民間使節団との会話などを含め、政局、戦局などを冷徹に見据えた感想、意見も書かれていた(日本についての記述もあり、天皇裕仁、近衛文麿、松岡洋右、重光葵(まもる)、広田弘毅、堀切善兵衛、大倉喜八郎、中野正剛らも登場している)。
実はヒットラーがこのチアーノの日記の存在を知り、これを何とかしてドイツに奪取しようと計っていた。ヒットラーが外に知られては困ることを知っている外国人が、チアーノだったからである。そのため彼はヴェローナの獄中にいるチアーノの許へ、ナチ親衛隊の美貌の隊員で通称ビーツ夫人、本名フェリシタス・フォン・ヴェデルという女性を派遣し、特別の面倒を見させていた。健康を尋ね、希望の食事を用意するなどして、チアーノの日記がどこにあるかを探らせるのが目的であった。
チアーノは一般に、社交的なうえ女好きだとの評判が高かった。そうした認識から美貌のビーツ夫人をチアーノの許に派遣したのだが、賢明なチアーノは巧みにあしらい、適当に会話を楽しみ、肝心なことはすべてはぐらかした。ビーツ夫人は結局、チアーノの人柄に惚れ込み、自分の使命を放棄してしまうのである。
チアーノはムッソリーニの御曹子としてちやほやされ、そのため軽薄とも思われるひょうきんな行動もあったが、ひと度、自宅に帰ってからは、打って変ったように冷徹に世の中を眺めては、それを日記に書きつけていた。“確かな目”を持つ人物であった。肝胆相照らす同志には常に真実を打ち明け、喜ぶべきことは喜び、憂うべきことは共に憂えて真剣にモノを考える人物であった。世評とは裏腹のなかなかの人物だったのである。
エッダは夫の日記をいつも、背中や腰、あるいは足などにベルトでとめ、肌身離さずにいた。狙われていることを知ってもいた。これと引換えに、夫の生命が救えるものなら、これを父に渡そうとも思った。だが父ムッソリーニは、それを欲しいとも言わなかった。ヒットラーへの当てつけであった。エッダとしては、助命の保証のない限り渡せなかった。そうしているうちに、一月八日となってしまった。
あの党大会後、党・政府は周到にこの裁判を準備し、年明けとともに開廷を発表したのである。ヴェローナを取り巻く丘陵地帯は、すっかり雪化粧し、ヴェッキォ城も裁判の厳しさを予告するかのように凍てついていた。
ドイツから戻されていたチアーノの妻エッダは、それからというもの父ムッソリーニの許を訪ねては、夫の助命を死にもの狂いで嘆願した。ムッソリーニは娘に会わない日もあった。すべてはナチ親衛隊の監視するところだったからである。だがエッダはそれには目もくれず、ひたすら父に面会を求めた。彼女は夫を助命してもらえると信ずる“切り札”を持っていた。チアーノの日記である。
日記には一九三七年以来、つまりチアーノが外相になってからの日々のことが克明に書き留められていた。ヒットラーはじめドイツ首脳との会談のことや、岳父ムッソリーニとの会話、外交団や外国民間使節団との会話などを含め、政局、戦局などを冷徹に見据えた感想、意見も書かれていた(日本についての記述もあり、天皇裕仁、近衛文麿、松岡洋右、重光葵(まもる)、広田弘毅、堀切善兵衛、大倉喜八郎、中野正剛らも登場している)。
実はヒットラーがこのチアーノの日記の存在を知り、これを何とかしてドイツに奪取しようと計っていた。ヒットラーが外に知られては困ることを知っている外国人が、チアーノだったからである。そのため彼はヴェローナの獄中にいるチアーノの許へ、ナチ親衛隊の美貌の隊員で通称ビーツ夫人、本名フェリシタス・フォン・ヴェデルという女性を派遣し、特別の面倒を見させていた。健康を尋ね、希望の食事を用意するなどして、チアーノの日記がどこにあるかを探らせるのが目的であった。
チアーノは一般に、社交的なうえ女好きだとの評判が高かった。そうした認識から美貌のビーツ夫人をチアーノの許に派遣したのだが、賢明なチアーノは巧みにあしらい、適当に会話を楽しみ、肝心なことはすべてはぐらかした。ビーツ夫人は結局、チアーノの人柄に惚れ込み、自分の使命を放棄してしまうのである。
チアーノはムッソリーニの御曹子としてちやほやされ、そのため軽薄とも思われるひょうきんな行動もあったが、ひと度、自宅に帰ってからは、打って変ったように冷徹に世の中を眺めては、それを日記に書きつけていた。“確かな目”を持つ人物であった。肝胆相照らす同志には常に真実を打ち明け、喜ぶべきことは喜び、憂うべきことは共に憂えて真剣にモノを考える人物であった。世評とは裏腹のなかなかの人物だったのである。
エッダは夫の日記をいつも、背中や腰、あるいは足などにベルトでとめ、肌身離さずにいた。狙われていることを知ってもいた。これと引換えに、夫の生命が救えるものなら、これを父に渡そうとも思った。だが父ムッソリーニは、それを欲しいとも言わなかった。ヒットラーへの当てつけであった。エッダとしては、助命の保証のない限り渡せなかった。そうしているうちに、一月八日となってしまった。
ヴェッキォの城門前では、黒シャツ軍団が警備に当っていた。彼らの吐く息が白く流れては消えた。城内の一階大広間は通常、音楽会などが開かれているため、正面にはオーケストラの位置する舞台があった。その壇上に、裁判長アルド・ヴェッキーニら九人の裁判官が並ぶ。検事席にはファシスト党員のほかナチ親衛隊の私服もいた。弁護人席には被告六人がそれぞれ選んだ弁護士が一応、席を占めていた。
それに先立って、市内の丘の上にある刑務所から、チアーノら六人のファシスト首脳は、大型バスで警備兵に囲まれて、ヴェッキォ城に向った。身のこごむような寒い朝であった。チアーノはレインコートの襟を立てていた。老齢のデ・ボーノは襟巻を首に巻きつけていた。
約十分後、チアーノ、デ・ボーノ、パレスキ、マリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの六被告は、傍聴席を満席にしたファシスト党員の野次の中を入廷した。「この連中に死を!」「生きて帰すな!」などの怒号が傍聴席から飛びかった。
午前九時十五分、裁判長ヴェッキーニは、厳かに開廷を宣した。
「ただいまから、特別法廷を開く。去年七月二十五日のクーデタは、イタリアの歴史における最大の反逆行為を記録したものである……」
初めから反逆と断じていた。
被告席の六人以外のグランディら国外亡命者や身を隠した十三人は欠席裁判とのことであった。初日は検察側、弁護側の主張などが延々と続き、二日目には被告六人の弁明も許された。
法廷記録によると、多くの被告は「自分達は現在も統帥に忠実なファシストである。大評議会での賛成票投票は、あくまでも体制内での政権の改善を求めたに過ぎない」ことを強調した。党元老のデ・ボーノはこのほか、「余は生粋の軍人であり、統帥と共に党の創建に当った。しかも統帥に大将の地位を贈ったのはほかならぬ余である」と述べて胸を張った。
チアネッティは「私は確かに大評議会の席上、グランディ決議案に賛成票を投じたが、帰宅してそれが誤りであったと考え直し、朝早くトッローニア荘(ムッソリーニの私邸)に電話で『あの投票は撤回する』旨を告げました」と、主張した。これは事実であった。あの二十五日朝九時、ムッソリーニが私邸の執務室に入るとすぐ、チアネッティは党書記長スコルツァに電話で「撤回」を伝え、それはムッソリーニにも伝えられていた。
弁明の最後に立ったのはチアーノであった。最も注目された人物である。廷内は凍ったように静まり返った。
チアーノは裁判長らを見回しながら口を開いた。
「……私は国もドゥチェも裏切るなどという意志は毛頭持っていなかったし、今でも持っていない。あの当時、王室は身をもって戦争には関与していなかった。全責任をドゥチェに負わせていた。そういう体制はよくないという信念から、統帥権を国王に返還し、王室が積極的に戦争に関与すべきだとしたのである。
……検察官によれば、私がドゥチェの地位に取って代ろうとしたというが、それはまったくの邪推である。私は外相をやめて一介の大使であったに過ぎない。しかも私はすべてドゥチェに相談し協議していた。そのことはドゥチェ御自身が御存知のはずである……」
法廷内にざわめきが流れた。裁判長は「明日、判決を申し渡す」と閉廷を宣した。
それに先立って、市内の丘の上にある刑務所から、チアーノら六人のファシスト首脳は、大型バスで警備兵に囲まれて、ヴェッキォ城に向った。身のこごむような寒い朝であった。チアーノはレインコートの襟を立てていた。老齢のデ・ボーノは襟巻を首に巻きつけていた。
約十分後、チアーノ、デ・ボーノ、パレスキ、マリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの六被告は、傍聴席を満席にしたファシスト党員の野次の中を入廷した。「この連中に死を!」「生きて帰すな!」などの怒号が傍聴席から飛びかった。
午前九時十五分、裁判長ヴェッキーニは、厳かに開廷を宣した。
「ただいまから、特別法廷を開く。去年七月二十五日のクーデタは、イタリアの歴史における最大の反逆行為を記録したものである……」
初めから反逆と断じていた。
被告席の六人以外のグランディら国外亡命者や身を隠した十三人は欠席裁判とのことであった。初日は検察側、弁護側の主張などが延々と続き、二日目には被告六人の弁明も許された。
法廷記録によると、多くの被告は「自分達は現在も統帥に忠実なファシストである。大評議会での賛成票投票は、あくまでも体制内での政権の改善を求めたに過ぎない」ことを強調した。党元老のデ・ボーノはこのほか、「余は生粋の軍人であり、統帥と共に党の創建に当った。しかも統帥に大将の地位を贈ったのはほかならぬ余である」と述べて胸を張った。
チアネッティは「私は確かに大評議会の席上、グランディ決議案に賛成票を投じたが、帰宅してそれが誤りであったと考え直し、朝早くトッローニア荘(ムッソリーニの私邸)に電話で『あの投票は撤回する』旨を告げました」と、主張した。これは事実であった。あの二十五日朝九時、ムッソリーニが私邸の執務室に入るとすぐ、チアネッティは党書記長スコルツァに電話で「撤回」を伝え、それはムッソリーニにも伝えられていた。
弁明の最後に立ったのはチアーノであった。最も注目された人物である。廷内は凍ったように静まり返った。
チアーノは裁判長らを見回しながら口を開いた。
「……私は国もドゥチェも裏切るなどという意志は毛頭持っていなかったし、今でも持っていない。あの当時、王室は身をもって戦争には関与していなかった。全責任をドゥチェに負わせていた。そういう体制はよくないという信念から、統帥権を国王に返還し、王室が積極的に戦争に関与すべきだとしたのである。
……検察官によれば、私がドゥチェの地位に取って代ろうとしたというが、それはまったくの邪推である。私は外相をやめて一介の大使であったに過ぎない。しかも私はすべてドゥチェに相談し協議していた。そのことはドゥチェ御自身が御存知のはずである……」
法廷内にざわめきが流れた。裁判長は「明日、判決を申し渡す」と閉廷を宣した。