脳髄はアメリカに——
ロレート広場に曝されたムッソリーニらの遺体はやがて秘密裏に埋葬される。ところが問題のムッソリーニの墓が暴かれ、当の遺骸が何者かによって盗まれるという怪事件が起った。しかもそれに先立ち、統帥の脳髄が連合軍の手によって持ち去られるという出来事もあったのである。
ムッソリーニらの遺体は丸半日、ロレート広場に逆さ吊りのあと、パルティザンによって市内某所に運ばれた。埋葬のためである。しかし、遺体の奪還という事態も想定されたため、埋葬準備は慎重を極めた。
解放委員会がその協議を行っている最中、連合軍側からムッソリーニの脳髄を採取したいとの申入れがあり、軍医も急行してきた。「一人の政治家としてだけでなく、二十余年のファシスト体制を取りしきった人物の脳を検査したい」との理由であった。公式の要請かどうか、その時点ではまったく問題にもならなかった。「勝てば官軍」の連合軍からの要請とあれば、従わざるを得なかったのである。
ムッソリーニの遺体は、木々の新緑が萌え始めたミラノ大学病理学研究所の一室に運ばれ、アメリカ軍軍医が執刀して脳髄採取が行われた。この脳髄は直ちにアメリカに送られ、ワシントンのウォルター・リード陸軍病院病理学研究所で鑑定された。結果は「何の異常も認められず、正常かつ健康であった」。
脳髄はそのまま病院に保管され、いつの間にか忘れ去られる。だが忘れない人が一人いた。ムッソリーニ未亡人ラケーレである。彼女は六六年、つまり二十一年後に「夫の脳髄を返して欲しい」とアメリカ政府に要求した。そこであらためて、病院側が調査の末、その存在を確認した。だがその脳髄がムッソリーニ未亡人に返還されたのかどうかは追跡できなかった。
ムッソリーニらの遺体は丸半日、ロレート広場に逆さ吊りのあと、パルティザンによって市内某所に運ばれた。埋葬のためである。しかし、遺体の奪還という事態も想定されたため、埋葬準備は慎重を極めた。
解放委員会がその協議を行っている最中、連合軍側からムッソリーニの脳髄を採取したいとの申入れがあり、軍医も急行してきた。「一人の政治家としてだけでなく、二十余年のファシスト体制を取りしきった人物の脳を検査したい」との理由であった。公式の要請かどうか、その時点ではまったく問題にもならなかった。「勝てば官軍」の連合軍からの要請とあれば、従わざるを得なかったのである。
ムッソリーニの遺体は、木々の新緑が萌え始めたミラノ大学病理学研究所の一室に運ばれ、アメリカ軍軍医が執刀して脳髄採取が行われた。この脳髄は直ちにアメリカに送られ、ワシントンのウォルター・リード陸軍病院病理学研究所で鑑定された。結果は「何の異常も認められず、正常かつ健康であった」。
脳髄はそのまま病院に保管され、いつの間にか忘れ去られる。だが忘れない人が一人いた。ムッソリーニ未亡人ラケーレである。彼女は六六年、つまり二十一年後に「夫の脳髄を返して欲しい」とアメリカ政府に要求した。そこであらためて、病院側が調査の末、その存在を確認した。だがその脳髄がムッソリーニ未亡人に返還されたのかどうかは追跡できなかった。
ムッソリーニとクラレッタの二遺体は、他のファシスト幹部とは分けて特別に埋葬された。脳髄を取り去られた翌四月三十日午後六時半過ぎ、市内の墓地の一つマッジョーレ墓地の一角で、厳戒の中で埋葬は行われた。二人の棺は松の木製という粗末なもので、ムッソリーニの棺の蓋には「167」、クラレッタのそれには「168」の番号が書かれた。墓地では十五人の墓掘り人が十五の墓穴を掘った。うち二つだけにそれぞれ二人の棺が入れられ、目かくしをされた墓掘り人が上から土をかけた。どの墓に誰の棺が入っているのかまったく分らないようにするためであった。
ムッソリーニの墓地番号は384号であった。これは墓地監理責任者しか知らぬようになっていた。ナチ・ファシストの盗掘を防ぐための措置であったことは言うまでもない。もしそれが分ったら、残存するファシスト勢力にとり、その墓地が「ファシズムの聖地」になりかねなかったからであった。しかしこの厳重な対策にも拘らず、ムッソリーニの墓は人ぞ知るところとなってしまったのである。
ムッソリーニの墓地番号は384号であった。これは墓地監理責任者しか知らぬようになっていた。ナチ・ファシストの盗掘を防ぐための措置であったことは言うまでもない。もしそれが分ったら、残存するファシスト勢力にとり、その墓地が「ファシズムの聖地」になりかねなかったからであった。しかしこの厳重な対策にも拘らず、ムッソリーニの墓は人ぞ知るところとなってしまったのである。
一年後の四六年四月二十三日夜から翌朝にかけ、384号墓地が暴かれ、棺の中の遺体だけが消えてなくなっていた。墓穴のまわりにはシャベル、つるはし、釘抜きなどの道具が散乱し、棺の蓋が放り出されてあった。朝から大騒ぎとなった。
現場に急行した警官隊は、残された棺の中に一通のメッセージが置かれているのを見付けた。
「われらファシスト党は、われわれのベニト・ムッソリーニの遺骸を守護した」
犯行声明文であった。不敵な挑戦であった。墓地には常時、監視人や番犬が配置されていた。それをかいくぐっての仕事である。警察としては用意周到な計画的犯行と見た。ローマ政府も事態を重視せざるを得なかった。
当時の報道によると、犯人はドメニコ・レッチッシ、マリオ・ラーナ、アントニオ・パロッツィという三人の若いネオ・ファシストであった。「われらの統帥はおさまるべき場所に安置しなければならない」との考えから、三人はムッソリーニの墓地を捜し続け、とうとう突きとめることができた。次いで監視人と親しくなるため、また番犬を馴らすため頻繁に墓地を訪れた。こうして四月二十四日未明、ついに盗掘に成功したのであった。この恐ろしくも気味の悪い仕事は約一時間半で終ったという。
三人はムッソリーニの遺体を厚いゴムの袋に納め密閉すると、車で一路ローマに向った。目指すは古代ローマの建築物パンテオンであった。堂内にはイタリア統一の名君ヴィットリオ・エマヌエレ二世やルネッサンスの画家ラファエロなどの墓がある。ここに安置しようと彼らは考えていたからである。しかし警察の目が光り、遺体を持ち込むことは不可能であった。
考えあぐねた結果の次の候補地がヴェネツィア宮であった。かつてのムッソリーニの官邸である。しかしここも、ミラノからの手配があったためか、終戦直後とはいえ警戒厳重で、とりつく島はなかった。結局、あたら時日を浪費しただけで再びミラノに逆戻りせざるを得なかった。そして選んだのが、サンタンジェロ広場に面するフランチェスコ派の僧院である。ここは戦争中、ファシスト兵であれパルティザンであれ、助けを求めた者には分け隔てなく、その望みをかなえてくれた恩寵深い僧院であった。
遺体を盗み出してから二週間経った五月七日夜、小型運送車を頼んで、三人はムッソリーニの遺体をこの僧院に運んだ。雲が低くたれこめた深夜であった。応対にあらわれたのは、アルベルト・パリーニ神父であった。レッチッシは言った。
「恐れ入りますが、大事なものを預っていただけないでしょうか」
そのあと、小声で伝えた。
「これです……。彼……です」
パリーニ神父はすべてを了解した。ムッソリーニの遺体盗難はミラノ中に周知の事実であり、警察も日夜、捜査中の出来事だったからである。パリーニ神父は上司のエンリコ・ズッカ神父を呼び、事情を話した。二人の神父とも無言のまま引き受けた。大きなゴム袋は奥の礼拝堂に運ばれていった。
それから約三ヵ月後の七月三十日夜、犯人のファシスト三人がミラノ警察により一斉に逮捕された。
逮捕のきっかけは、三人のファシストには思いもかけぬ一人の若い女性の訴えからであった。その女性は、五月七日夜に遺体を僧院に運んだ貨物車運転手のフィアンセである。彼女は夫となるべきその運転手から数日後、「妙に気になったその夜の一部始終」を打ち明けられた。彼女は早速それを警察に報告した。警察はフランチェスコ派僧院に赴き、証拠を確保したのである。
ミラノ警察は八月八日に初めて、「ムッソリーニの遺体はすでに発見され、犯人三人も逮捕済みである」と発表した。犯人の三ファシストは裁判で懲役二年の判決を受けた。三人がどのようにムッソリーニの遺体の埋葬場所をつきとめたのかについては、当局は公開はしなかった。
現場に急行した警官隊は、残された棺の中に一通のメッセージが置かれているのを見付けた。
「われらファシスト党は、われわれのベニト・ムッソリーニの遺骸を守護した」
犯行声明文であった。不敵な挑戦であった。墓地には常時、監視人や番犬が配置されていた。それをかいくぐっての仕事である。警察としては用意周到な計画的犯行と見た。ローマ政府も事態を重視せざるを得なかった。
当時の報道によると、犯人はドメニコ・レッチッシ、マリオ・ラーナ、アントニオ・パロッツィという三人の若いネオ・ファシストであった。「われらの統帥はおさまるべき場所に安置しなければならない」との考えから、三人はムッソリーニの墓地を捜し続け、とうとう突きとめることができた。次いで監視人と親しくなるため、また番犬を馴らすため頻繁に墓地を訪れた。こうして四月二十四日未明、ついに盗掘に成功したのであった。この恐ろしくも気味の悪い仕事は約一時間半で終ったという。
三人はムッソリーニの遺体を厚いゴムの袋に納め密閉すると、車で一路ローマに向った。目指すは古代ローマの建築物パンテオンであった。堂内にはイタリア統一の名君ヴィットリオ・エマヌエレ二世やルネッサンスの画家ラファエロなどの墓がある。ここに安置しようと彼らは考えていたからである。しかし警察の目が光り、遺体を持ち込むことは不可能であった。
考えあぐねた結果の次の候補地がヴェネツィア宮であった。かつてのムッソリーニの官邸である。しかしここも、ミラノからの手配があったためか、終戦直後とはいえ警戒厳重で、とりつく島はなかった。結局、あたら時日を浪費しただけで再びミラノに逆戻りせざるを得なかった。そして選んだのが、サンタンジェロ広場に面するフランチェスコ派の僧院である。ここは戦争中、ファシスト兵であれパルティザンであれ、助けを求めた者には分け隔てなく、その望みをかなえてくれた恩寵深い僧院であった。
遺体を盗み出してから二週間経った五月七日夜、小型運送車を頼んで、三人はムッソリーニの遺体をこの僧院に運んだ。雲が低くたれこめた深夜であった。応対にあらわれたのは、アルベルト・パリーニ神父であった。レッチッシは言った。
「恐れ入りますが、大事なものを預っていただけないでしょうか」
そのあと、小声で伝えた。
「これです……。彼……です」
パリーニ神父はすべてを了解した。ムッソリーニの遺体盗難はミラノ中に周知の事実であり、警察も日夜、捜査中の出来事だったからである。パリーニ神父は上司のエンリコ・ズッカ神父を呼び、事情を話した。二人の神父とも無言のまま引き受けた。大きなゴム袋は奥の礼拝堂に運ばれていった。
それから約三ヵ月後の七月三十日夜、犯人のファシスト三人がミラノ警察により一斉に逮捕された。
逮捕のきっかけは、三人のファシストには思いもかけぬ一人の若い女性の訴えからであった。その女性は、五月七日夜に遺体を僧院に運んだ貨物車運転手のフィアンセである。彼女は夫となるべきその運転手から数日後、「妙に気になったその夜の一部始終」を打ち明けられた。彼女は早速それを警察に報告した。警察はフランチェスコ派僧院に赴き、証拠を確保したのである。
ミラノ警察は八月八日に初めて、「ムッソリーニの遺体はすでに発見され、犯人三人も逮捕済みである」と発表した。犯人の三ファシストは裁判で懲役二年の判決を受けた。三人がどのようにムッソリーニの遺体の埋葬場所をつきとめたのかについては、当局は公開はしなかった。
ムッソリーニの遺体につき、後日明らかにされたところによると、警察は遺体発見後に直ちにパヴィアのさる僧院に運び、さらにそこから北西七十キロにあるレニャーノの修道院に隠匿していた。ムッソリーニの遺体を狙う信奉者がいぜんイタリアに少くなかったことを物語る。
五七年八月になってやっと、ムッソリーニの遺骸は当局からはじめて未亡人ラケーレに渡され、郷里エミリア・ロマーニャ州プレダッピオ村のサン・カッシアーノにあるムッソリーニ家の墓廟に、安住の場所を得たのである。
ムッソリーニを慕い続けて運命を共にしたクラレッタの遺骸も、ムッソリーニの遺骸返還に先立つ五六年三月、両親に引き渡された。そして両親と妹に守られて、ローマのサン・ロレンツォ教会に隣接するカンポ・ヴェラーノ墓地の墓廟にあらためて埋葬された。
五七年八月になってやっと、ムッソリーニの遺骸は当局からはじめて未亡人ラケーレに渡され、郷里エミリア・ロマーニャ州プレダッピオ村のサン・カッシアーノにあるムッソリーニ家の墓廟に、安住の場所を得たのである。
ムッソリーニを慕い続けて運命を共にしたクラレッタの遺骸も、ムッソリーニの遺骸返還に先立つ五六年三月、両親に引き渡された。そして両親と妹に守られて、ローマのサン・ロレンツォ教会に隣接するカンポ・ヴェラーノ墓地の墓廟にあらためて埋葬された。