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夜半まで屋根を叩《たた》いていた雨は、明け方には止んだらしかった。日が昇る頃には、この数日間というもの、つねに低く垂れ籠めていた鬱陶《うつとう》しい雲はようやく流れ去り、久しぶりに透明な青い空が広がった。庭の木々や草花は、つやつやと緑色に輝き、辺りには初夏の匂《にお》いが満ちた。
目の前をみつばちが飛び交うのをよけながら、法子《のりこ》は鼻歌混じりで庭の物干し場に洗濯物を干していた。
「奥さん」
大きなシーツを広げて干しているとき、ふいに声が聞こえた。
「悪いね、奥さん。家賃なんだけどさ、もう少しね、待ってくれませんかね」
法子は最初、自分に話しかけられているとも思わず、知らん顔をしていた。奥さんと呼ばれることに、まだ慣れていないのだ。
「今日は、やっと、ほら、晴れたから。洗濯物もよく乾くだろうよねえ。ねえ、奥さん。奥さん」
何度も呼ばれて、ようやく自分が話しかけられているらしいと気付き、法子はあわててシーツの横から顔を出した。植え込みの陰に、カーキ色の作業ズボンをはいて、白いよれよれのポロシャツを着た、貧相な男が立っていた。
「あれ──奥さんじゃないの」
すると、相手の方でも驚いた顔になった。歳の頃は六十過ぎといったところだろうか。全体の半分ほど白髪《しらが》になっている髪は、元々は五分刈りのようなスタイルだったのかも知れない。それが中途半端に伸びて、全部の髪が立って見えた。面長の顔は色つやも良くなく、頬《ほお》から顎《あご》にかけて深い縦じわが入っている。法子はその男に見覚えはなかった。男も怪訝《けげん》そうな顔で、じっと法子を見る。
「あんた──今度、来た人?」
法子は笑顔を浮かべて良いものかどうかも分からず、警戒する気持ちで「はあ」とだけ答えた。客ならば、玄関に回ってくれれば良いではないか、何故《なぜ》、こんな庭の片隅に立っているのか、それが分からなかった。
「あの、義母《はは》でしたら──」
「あんた、和人《かずひと》さんの嫁さん?」
「──そうですけど」
法子は不審を前面に出した表情で、わずかに眉《まゆ》をしかめた。見知らぬ男に「あんた」などと呼ばれる筋合いはない。だが男はまじまじと法子を見つめ、「はあ、あんたが」と呟《つぶや》いている。
「ご用件でしたら、母屋の方に行っていただけません? 義母もおばあちゃんもいますから」
かなり嫌悪感を出した言い方をしたつもりだったが、男はまるで意に介していない様子で「いや、いや」と手を振る。それから「あのさ」と言って近付いてきた。暗い瞳《ひとみ》の、貧相な顔つきの男は、口元に手を添えて、もう一度「あのさ」と囁《ささや》く。法子は、すっかり怖《お》じ気づいてしまって、思わず数歩後ずさった。素足につっかけたサンダルが小石を踏み損ねて、がくりと体勢を崩しそうになる。
「聞いてくれよ、あんたに言っておかなきゃならないことがあるんだから」
「ですから、御用でしたら母屋に」
「違う、あんたにさ。あんたに、言っておきたいんだよ。聞いて欲しいんだ」
男は真剣な表情でおずおずと近付いてきた。その足にはほとんど力が入っていない様子で、真っ直ぐに歩くことさえおぼつかない感じがする。法子は、この男はどこか悪いのだろうかと思った。
「聞いておかなきゃ、ならないことなんだって。あんたが知っておかなきゃならないことなんだって」
相手が病気なのなら、それほど恐れることもないかも知れない。だが、男の表情には病から来るとも思えない、異様な雰囲気が漂っていた。
「何ですか、言いたいことって。私、あなたのことなんか知りませんけど」
「いいんだ、知らなくていいんだよ。とにかく、言っておかなきゃ──」
男はシーツのすぐ前まで来て、そこではっと表情を強《こわ》ばらせた。どろりとしていた虚《うつ》ろな目に驚愕《きようがく》とも恐怖ともつかない光が宿った。そして、一点を見つめたまま、よろよろと進めていた足を止める。法子は、彼の視線をたどって振り返った。
「ああ、お義母《かあ》さん──」
「困るわ、こんな場所に勝手に入って来られたら」
公恵《きみえ》は、いつもの静かな表情のまま、男を見つめて極めて穏やかな口調でそう言うと、法子の肩にそっと手をかけてくれた。そして「ねえ」と言うように微笑《ほほえ》みかけてくる。その目は法子を気遣い、いたわり、慈《いつく》しんで見えた。法子はその目に励まされて、改めて男を盗み見た。
「この方──家賃が、どうのって、仰《おつしや》ってるんですけど」
男はひどく怯《おび》えたような表情になり、今や唇さえも震わしている。そして「ああ、ああ」としわがれた声を出した。
「うちのお嫁さんを脅かさないでくださいな。お家賃のこと? おくれるのね?」
公恵の声は高く澄んでいて、発音もとても明快なものだった。相手を詰問しているという口調でもなく、たしなめるように柔らかい。それでも男は、怯えた目でしばらくの間、公恵と法子を見比べていたが、やがて数回口をぱくぱくとさせた後で、ようやくがっくりとうなだれた。
「──すいませんがね。来月には必ず、まとめて払いますんで」
法子の耳元で、公恵が微《かす》かにため息をつくのが聞こえた。
「分かったわ、じゃあ、来月ね」
法子はそっと男を見ていた。男は、顔を上げようともせず、うなだれたまま「すいません」を繰り返していた。
「それより、お身体の方は? 最近は、少しは調子はよろしいの?」
公恵の声はあくまで落ち着いて柔かった。男は全身をぴくりと震わして、下からのぞき込むような顔で公恵を見た。
「きみ──ああ、奥さん。あの──」
「早く、お元気にならなきゃね。美里さんを大学に行かせてあげたいんでしょう?」
「──ええ、すんません。じゃあ」
法子は、いかにも余裕のある表情の公恵と、よろよろと繁みの向こうに消えていく男とを不思議な気持ちで見比べていた。目映《まばゆ》い陽射《ひざ》しはくっきりとした樹陰を作り、その中に消えていく男の後ろ姿は肩の骨も浮き上がって、波打つポロシャツの裾《すそ》も頼りなく、まるで幽霊のように見えた。
「あの人──裏木戸の方から入ってきたんですね」
ようやくため息混じりで囁《ささや》くと、隣の公恵は諦《あきら》めたような笑みを作ってゆっくりと頷《うなず》いた。それから何事もなかったかのような涼しい顔で、足元の洗濯|籠《かご》をのぞき込み、すっと腰を屈《かが》ませる。
「さあ、手伝うわね、さっさと干してしまいましょう」
法子は慌てて自分も手を動かしながら、公恵の横顔を眺めていた。さっき、男は公恵に向かって「きみ」と言いかけた。あの風貌《ふうぼう》からして「君は」などという言葉を使うとも思えない。彼は、義母を名前で呼ぼうとしていたのだろうかと、ふと思った。
「どなたなんですか?」
公恵は心持ち眉《まゆ》を上げて、晴れやかな顔で「え?」と言い、「初めて会ったんだった?」と意外そうな表情になった。
「じゃあ、驚いたでしょう」
公恵はそこでくすりと笑い、「本庄屋さん」と答えた。
「本庄屋さん?」
「氷屋さんなのよ。今は、お店は閉めてるんだけど」
さすがに公恵は手際が良い。法子がのんびりと手を動かしていたときとはまるで違うスピードで、雨の間に山ほどたまっていた洗濯物はまたたくまに竿《さお》にかかって、多少湿気を含んでいる風にはためき始めた。
「あの、うちが貸してるんですか?」
「もう、長いお付き合いなのよね」
そこで、公恵はふいに手を休め「ねえ」と言った。
「あの人、法子さんにおかしなことを言わなかった?」
「おかしなこと?」
法子はつい今し方聞いた男の声を思い出した。陰気くさい、力のこもっていない声。彼は、何を言いたかったのだろうかと思う。
「家賃のことだけ? 言ったのは」
法子は咄嗟《とつさ》に「ええ」と答えていた。余計な心配をかけたくはなかったし、結局、なにも聞いてはいない。
「お義母さんと私を間違えたみたいで、急に『奥さん』なんて呼ばれたものだから、もう、それだけでびっくりしちゃって」
法子が答えると、公恵は丸い瞳をくるりと動かして「そう」と言った。それからややあって、にっこりと笑う。そんな仕草や表情を見る度、娘時代の義母はさぞかし可愛らしい少女だったに違いない、と法子は思う。今年で五十歳になるはずだったが、未だに女学生のような雰囲気をまとって、彼女は実に若々しく見えた。
「これからもね、あんまりまともに相手にしない方がいいわ。ご本人には気の毒だけど、病気してから、どうもおかしいのよ。昔は、そんな人じゃなかったんだけど。働き者で、陽気でね」
彼女が説明してくれている間、法子はひたすら頷《うなず》いていた。それなりに長い付き合いならば、公恵を名前で呼んでもおかしくはないのかも知れないと思った。あまりに真剣に相槌《あいづち》を繰り返していたせいか、公恵は「怖がらなくて大丈夫よ」と、くすくすと笑った。
「無理もないわね、家に来て、まだ二ヵ月ですものね」
小物かけに色とりどりの靴下を干しながら、法子もにっこりと笑った。そう、二ヵ月だ。桜が終わった頃に嫁いできた法子は、ようやくこの家で初めての新しい季節を迎えようとしている。
「嫌でもそのうちに覚えていくわ。特にご近所のことなんか、急いで覚えることなんか、一つもないんだからね」
鼻歌混じりに洗濯物を干し続ける姑《しゆうとめ》は、法子にとっては理想的な姑だった。明るく、優しく、まるで意地悪なところがない。法子は和人と結婚して以来、彼女に褒《ほ》められたり慰められたりすることはあっても、嫌みを言われたことも小言を言われたことも、ただの一度もありはしなかった。
「お義母さんは、どれくらいで全部に慣れました?」
一度母屋に戻り、もう一つの洗濯籠を抱えて戻ってくると、公恵は近くの花壇に屈《かが》み込んで、アサガオの伸び具合を眺めていた。その後ろ姿に話しかけると、姑は振り返りもせずに「何が?」と言った。
「この家のしきたりとか、家風とか、ご近所とのこととか──それから、お店のこととか。志藤《しとう》の家の嫁っていう立場に」
公恵は背中を向けたままで「そうねえ」と言う。それから、屈んだ格好のままで横に移動して、丹念に他のアサガオも眺めている。
「すぐ、だったわよ」
法子の視界からは、庭の木立や青空が徐々になくなり、綺麗《きれい》に洗いあげられた洗濯物ばかりが広がっていく。なにしろ九人分だ。二、三日も雨が続けば、山のようにたまってしまう。乾燥機もあるにはあるのだが、やはり洗濯物は「殺菌消毒の意味もあって」太陽の光の下で乾かしたいというのが公恵と、そして公恵の姑にあたるふみ江の考えだった。お日様はありがたい、何よりもありがたい、というのが、ふみ江の口癖だ。
「すぐ、か──」
広々とした庭には、四季折々の草花が植えられ、様々な樹木が繁っている。こうしているだけで、うっすらと汗ばむ季節だったが、木立を抜けてくる風は、ひんやりとして心地良かった。雨に洗われた葉の緑も、いつになく瑞々《みずみず》しくて、法子は故郷のことを思い出した。東京に嫁入りするとなると、まず自然環境が悪くなるだけでも、馴染《なじ》むのに時間がかかると思ったのに、予想に反して故郷が恋しくならないのは、この庭に緑が満ちているからに違いなかった。
「そうよ、すぐ、すぐ」
公恵の返答はいかにものんびりとしていて、気楽なものだった。法子は、固く絞った雑巾《ぞうきん》で次の物干し竿《ざお》を拭《ふ》きながら、改めて家族との同居も悪くはないと思っていた。一人で夫の帰りを待つよりも、こうして賑《にぎ》やかに過ごせる方が楽しいし、退屈もしない。
「心配なんか、いらないわ。だぁれも法子さんを一人になんかしないから。私達は、みぃんな、家族なんだからねえ」
歌うような口調で言われて、法子はくすくすと笑ってしまった。朗らかで無邪気な姑は、こちらに丸いお尻を見せて、とにかく懸命に花壇を眺めている。洗濯物を干し終えると、法子は義母と並んでしゃがみ込んだ。彼女からアサガオと教わった植物は、法子の知っているアサガオとは葉の形が違っていた。
「変わってますね、これもアサガオ?」
公恵はにこにこと笑いながら、その葉をそっと撫《な》でる。
「アサガオとは言うけど、ナス科らしいのね」
法子は「ふうん」と頷きながら、花壇を一通り眺め渡した。数メートル先には五十センチ程に伸びて青々と繁っている雑草みたいなものが生えていた。
「あれも、育ててるんですか?」
法子が指さすと、公恵は顔を上げてその草の方を見て、「そうよ」と言った。
「あれはね、ハシリドコロっていうの。法子さん、気が付かなかったかしらね。あなたがお嫁に来た頃には、綺麗に咲いてたんだけどな」
「そうなんですか?」
「地味なお花だけど、私は好き。来年、見られるわ」
午前中の陽射しの中で、つい半年前まではその存在さえも知らなかった人と並んで花壇を眺めるのは、考えてみれば不思議なことだった。嬉《うれ》しそうな顔で花々を眺める公恵の横顔は、若々しくて美しかった。
「お義母さん、お肌が綺麗ですよねえ」
思わず言うと、公恵は「そう?」と瞳を輝かせた。
「ヘチマ水のお陰かしら。毎年ね、作ってるから。法子さんも試してみる?」
志藤家の人達は、花をめでるばかりでなく、ミョウガや紫蘇《しそ》、ナス、トマトなどの食用になるものも育てている。本当の意味でこの家に馴染むためには、自分も少しでも植物に詳しくならなければならないと、法子は心|秘《ひそ》かに思いながら「ぜひ」と頷いた。
目の前をみつばちが飛び交うのをよけながら、法子《のりこ》は鼻歌混じりで庭の物干し場に洗濯物を干していた。
「奥さん」
大きなシーツを広げて干しているとき、ふいに声が聞こえた。
「悪いね、奥さん。家賃なんだけどさ、もう少しね、待ってくれませんかね」
法子は最初、自分に話しかけられているとも思わず、知らん顔をしていた。奥さんと呼ばれることに、まだ慣れていないのだ。
「今日は、やっと、ほら、晴れたから。洗濯物もよく乾くだろうよねえ。ねえ、奥さん。奥さん」
何度も呼ばれて、ようやく自分が話しかけられているらしいと気付き、法子はあわててシーツの横から顔を出した。植え込みの陰に、カーキ色の作業ズボンをはいて、白いよれよれのポロシャツを着た、貧相な男が立っていた。
「あれ──奥さんじゃないの」
すると、相手の方でも驚いた顔になった。歳の頃は六十過ぎといったところだろうか。全体の半分ほど白髪《しらが》になっている髪は、元々は五分刈りのようなスタイルだったのかも知れない。それが中途半端に伸びて、全部の髪が立って見えた。面長の顔は色つやも良くなく、頬《ほお》から顎《あご》にかけて深い縦じわが入っている。法子はその男に見覚えはなかった。男も怪訝《けげん》そうな顔で、じっと法子を見る。
「あんた──今度、来た人?」
法子は笑顔を浮かべて良いものかどうかも分からず、警戒する気持ちで「はあ」とだけ答えた。客ならば、玄関に回ってくれれば良いではないか、何故《なぜ》、こんな庭の片隅に立っているのか、それが分からなかった。
「あの、義母《はは》でしたら──」
「あんた、和人《かずひと》さんの嫁さん?」
「──そうですけど」
法子は不審を前面に出した表情で、わずかに眉《まゆ》をしかめた。見知らぬ男に「あんた」などと呼ばれる筋合いはない。だが男はまじまじと法子を見つめ、「はあ、あんたが」と呟《つぶや》いている。
「ご用件でしたら、母屋の方に行っていただけません? 義母もおばあちゃんもいますから」
かなり嫌悪感を出した言い方をしたつもりだったが、男はまるで意に介していない様子で「いや、いや」と手を振る。それから「あのさ」と言って近付いてきた。暗い瞳《ひとみ》の、貧相な顔つきの男は、口元に手を添えて、もう一度「あのさ」と囁《ささや》く。法子は、すっかり怖《お》じ気づいてしまって、思わず数歩後ずさった。素足につっかけたサンダルが小石を踏み損ねて、がくりと体勢を崩しそうになる。
「聞いてくれよ、あんたに言っておかなきゃならないことがあるんだから」
「ですから、御用でしたら母屋に」
「違う、あんたにさ。あんたに、言っておきたいんだよ。聞いて欲しいんだ」
男は真剣な表情でおずおずと近付いてきた。その足にはほとんど力が入っていない様子で、真っ直ぐに歩くことさえおぼつかない感じがする。法子は、この男はどこか悪いのだろうかと思った。
「聞いておかなきゃ、ならないことなんだって。あんたが知っておかなきゃならないことなんだって」
相手が病気なのなら、それほど恐れることもないかも知れない。だが、男の表情には病から来るとも思えない、異様な雰囲気が漂っていた。
「何ですか、言いたいことって。私、あなたのことなんか知りませんけど」
「いいんだ、知らなくていいんだよ。とにかく、言っておかなきゃ──」
男はシーツのすぐ前まで来て、そこではっと表情を強《こわ》ばらせた。どろりとしていた虚《うつ》ろな目に驚愕《きようがく》とも恐怖ともつかない光が宿った。そして、一点を見つめたまま、よろよろと進めていた足を止める。法子は、彼の視線をたどって振り返った。
「ああ、お義母《かあ》さん──」
「困るわ、こんな場所に勝手に入って来られたら」
公恵《きみえ》は、いつもの静かな表情のまま、男を見つめて極めて穏やかな口調でそう言うと、法子の肩にそっと手をかけてくれた。そして「ねえ」と言うように微笑《ほほえ》みかけてくる。その目は法子を気遣い、いたわり、慈《いつく》しんで見えた。法子はその目に励まされて、改めて男を盗み見た。
「この方──家賃が、どうのって、仰《おつしや》ってるんですけど」
男はひどく怯《おび》えたような表情になり、今や唇さえも震わしている。そして「ああ、ああ」としわがれた声を出した。
「うちのお嫁さんを脅かさないでくださいな。お家賃のこと? おくれるのね?」
公恵の声は高く澄んでいて、発音もとても明快なものだった。相手を詰問しているという口調でもなく、たしなめるように柔らかい。それでも男は、怯えた目でしばらくの間、公恵と法子を見比べていたが、やがて数回口をぱくぱくとさせた後で、ようやくがっくりとうなだれた。
「──すいませんがね。来月には必ず、まとめて払いますんで」
法子の耳元で、公恵が微《かす》かにため息をつくのが聞こえた。
「分かったわ、じゃあ、来月ね」
法子はそっと男を見ていた。男は、顔を上げようともせず、うなだれたまま「すいません」を繰り返していた。
「それより、お身体の方は? 最近は、少しは調子はよろしいの?」
公恵の声はあくまで落ち着いて柔かった。男は全身をぴくりと震わして、下からのぞき込むような顔で公恵を見た。
「きみ──ああ、奥さん。あの──」
「早く、お元気にならなきゃね。美里さんを大学に行かせてあげたいんでしょう?」
「──ええ、すんません。じゃあ」
法子は、いかにも余裕のある表情の公恵と、よろよろと繁みの向こうに消えていく男とを不思議な気持ちで見比べていた。目映《まばゆ》い陽射《ひざ》しはくっきりとした樹陰を作り、その中に消えていく男の後ろ姿は肩の骨も浮き上がって、波打つポロシャツの裾《すそ》も頼りなく、まるで幽霊のように見えた。
「あの人──裏木戸の方から入ってきたんですね」
ようやくため息混じりで囁《ささや》くと、隣の公恵は諦《あきら》めたような笑みを作ってゆっくりと頷《うなず》いた。それから何事もなかったかのような涼しい顔で、足元の洗濯|籠《かご》をのぞき込み、すっと腰を屈《かが》ませる。
「さあ、手伝うわね、さっさと干してしまいましょう」
法子は慌てて自分も手を動かしながら、公恵の横顔を眺めていた。さっき、男は公恵に向かって「きみ」と言いかけた。あの風貌《ふうぼう》からして「君は」などという言葉を使うとも思えない。彼は、義母を名前で呼ぼうとしていたのだろうかと、ふと思った。
「どなたなんですか?」
公恵は心持ち眉《まゆ》を上げて、晴れやかな顔で「え?」と言い、「初めて会ったんだった?」と意外そうな表情になった。
「じゃあ、驚いたでしょう」
公恵はそこでくすりと笑い、「本庄屋さん」と答えた。
「本庄屋さん?」
「氷屋さんなのよ。今は、お店は閉めてるんだけど」
さすがに公恵は手際が良い。法子がのんびりと手を動かしていたときとはまるで違うスピードで、雨の間に山ほどたまっていた洗濯物はまたたくまに竿《さお》にかかって、多少湿気を含んでいる風にはためき始めた。
「あの、うちが貸してるんですか?」
「もう、長いお付き合いなのよね」
そこで、公恵はふいに手を休め「ねえ」と言った。
「あの人、法子さんにおかしなことを言わなかった?」
「おかしなこと?」
法子はつい今し方聞いた男の声を思い出した。陰気くさい、力のこもっていない声。彼は、何を言いたかったのだろうかと思う。
「家賃のことだけ? 言ったのは」
法子は咄嗟《とつさ》に「ええ」と答えていた。余計な心配をかけたくはなかったし、結局、なにも聞いてはいない。
「お義母さんと私を間違えたみたいで、急に『奥さん』なんて呼ばれたものだから、もう、それだけでびっくりしちゃって」
法子が答えると、公恵は丸い瞳をくるりと動かして「そう」と言った。それからややあって、にっこりと笑う。そんな仕草や表情を見る度、娘時代の義母はさぞかし可愛らしい少女だったに違いない、と法子は思う。今年で五十歳になるはずだったが、未だに女学生のような雰囲気をまとって、彼女は実に若々しく見えた。
「これからもね、あんまりまともに相手にしない方がいいわ。ご本人には気の毒だけど、病気してから、どうもおかしいのよ。昔は、そんな人じゃなかったんだけど。働き者で、陽気でね」
彼女が説明してくれている間、法子はひたすら頷《うなず》いていた。それなりに長い付き合いならば、公恵を名前で呼んでもおかしくはないのかも知れないと思った。あまりに真剣に相槌《あいづち》を繰り返していたせいか、公恵は「怖がらなくて大丈夫よ」と、くすくすと笑った。
「無理もないわね、家に来て、まだ二ヵ月ですものね」
小物かけに色とりどりの靴下を干しながら、法子もにっこりと笑った。そう、二ヵ月だ。桜が終わった頃に嫁いできた法子は、ようやくこの家で初めての新しい季節を迎えようとしている。
「嫌でもそのうちに覚えていくわ。特にご近所のことなんか、急いで覚えることなんか、一つもないんだからね」
鼻歌混じりに洗濯物を干し続ける姑《しゆうとめ》は、法子にとっては理想的な姑だった。明るく、優しく、まるで意地悪なところがない。法子は和人と結婚して以来、彼女に褒《ほ》められたり慰められたりすることはあっても、嫌みを言われたことも小言を言われたことも、ただの一度もありはしなかった。
「お義母さんは、どれくらいで全部に慣れました?」
一度母屋に戻り、もう一つの洗濯籠を抱えて戻ってくると、公恵は近くの花壇に屈《かが》み込んで、アサガオの伸び具合を眺めていた。その後ろ姿に話しかけると、姑は振り返りもせずに「何が?」と言った。
「この家のしきたりとか、家風とか、ご近所とのこととか──それから、お店のこととか。志藤《しとう》の家の嫁っていう立場に」
公恵は背中を向けたままで「そうねえ」と言う。それから、屈んだ格好のままで横に移動して、丹念に他のアサガオも眺めている。
「すぐ、だったわよ」
法子の視界からは、庭の木立や青空が徐々になくなり、綺麗《きれい》に洗いあげられた洗濯物ばかりが広がっていく。なにしろ九人分だ。二、三日も雨が続けば、山のようにたまってしまう。乾燥機もあるにはあるのだが、やはり洗濯物は「殺菌消毒の意味もあって」太陽の光の下で乾かしたいというのが公恵と、そして公恵の姑にあたるふみ江の考えだった。お日様はありがたい、何よりもありがたい、というのが、ふみ江の口癖だ。
「すぐ、か──」
広々とした庭には、四季折々の草花が植えられ、様々な樹木が繁っている。こうしているだけで、うっすらと汗ばむ季節だったが、木立を抜けてくる風は、ひんやりとして心地良かった。雨に洗われた葉の緑も、いつになく瑞々《みずみず》しくて、法子は故郷のことを思い出した。東京に嫁入りするとなると、まず自然環境が悪くなるだけでも、馴染《なじ》むのに時間がかかると思ったのに、予想に反して故郷が恋しくならないのは、この庭に緑が満ちているからに違いなかった。
「そうよ、すぐ、すぐ」
公恵の返答はいかにものんびりとしていて、気楽なものだった。法子は、固く絞った雑巾《ぞうきん》で次の物干し竿《ざお》を拭《ふ》きながら、改めて家族との同居も悪くはないと思っていた。一人で夫の帰りを待つよりも、こうして賑《にぎ》やかに過ごせる方が楽しいし、退屈もしない。
「心配なんか、いらないわ。だぁれも法子さんを一人になんかしないから。私達は、みぃんな、家族なんだからねえ」
歌うような口調で言われて、法子はくすくすと笑ってしまった。朗らかで無邪気な姑は、こちらに丸いお尻を見せて、とにかく懸命に花壇を眺めている。洗濯物を干し終えると、法子は義母と並んでしゃがみ込んだ。彼女からアサガオと教わった植物は、法子の知っているアサガオとは葉の形が違っていた。
「変わってますね、これもアサガオ?」
公恵はにこにこと笑いながら、その葉をそっと撫《な》でる。
「アサガオとは言うけど、ナス科らしいのね」
法子は「ふうん」と頷きながら、花壇を一通り眺め渡した。数メートル先には五十センチ程に伸びて青々と繁っている雑草みたいなものが生えていた。
「あれも、育ててるんですか?」
法子が指さすと、公恵は顔を上げてその草の方を見て、「そうよ」と言った。
「あれはね、ハシリドコロっていうの。法子さん、気が付かなかったかしらね。あなたがお嫁に来た頃には、綺麗に咲いてたんだけどな」
「そうなんですか?」
「地味なお花だけど、私は好き。来年、見られるわ」
午前中の陽射しの中で、つい半年前まではその存在さえも知らなかった人と並んで花壇を眺めるのは、考えてみれば不思議なことだった。嬉《うれ》しそうな顔で花々を眺める公恵の横顔は、若々しくて美しかった。
「お義母さん、お肌が綺麗ですよねえ」
思わず言うと、公恵は「そう?」と瞳を輝かせた。
「ヘチマ水のお陰かしら。毎年ね、作ってるから。法子さんも試してみる?」
志藤家の人達は、花をめでるばかりでなく、ミョウガや紫蘇《しそ》、ナス、トマトなどの食用になるものも育てている。本当の意味でこの家に馴染むためには、自分も少しでも植物に詳しくならなければならないと、法子は心|秘《ひそ》かに思いながら「ぜひ」と頷いた。