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志藤家は都下の小金井《こがねい》市で、「イチフジ精米店」という、戦前から続いている古い米穀店を経営している。現在は当主の志藤|武雄《たけお》と、息子であり法子の夫の和人の二人が古い構えのどっしりとした店を守っていた。米屋とはいっても、扱う品は米ばかりではなく、洗剤や調味料、灯油などの燃料、ペットの飼料なども扱っており、営業品目はかなりの数になる。家族の花好きが高じてか、園芸用土や肥料、植物の苗まであって、店先はなかなか賑《にぎ》やかなものだった。
もともと法子と和人は見合いで知り合った。
法子の家は山梨県の、長野県境に近い小淵沢《こぶちざわ》から少し入ったところにあり、父は酒問屋を経営している。そんな父の元に、義理のある知人から縁談が持ち込まれたのだ。
本人の第一印象は悪くなかったが、法子は最初、和人があまりに大家族で暮らしていることに大きなためらいを感じた。両親と弟妹に加えて、祖父母と曾祖母《そうそぼ》までがいる、本人も含めると八人家族だというではないか。しかも、結婚後も家族と同居するのが条件だという。
「そんな家の長男なんかと結婚したら、それこそろくなことにはならないわよ」
母は言下に、こんな見合いは断るべきだと主張した。法子も同感だった。義理のあるところからの紹介とはいえ、今の時代に、そんな大家族に嫁ぐなど、考えも及ばないことだった。
「どうして好きこのんで苦労すると思う? お姑《しゆうとめ》さんがいるだけでも大変だと思うのに、小姑《こじゆうと》からお姑さんの、そのお母さんから、果ては九十幾つのお婆さんまでいるっていうんでしょう? 冗談じゃないわよねえ」
だが、口ではそんなことを言いながら、それでも何となく法子の気持ちをぐらつかせたのが、やはり、身上書と共に持ち込まれた和人の写真だった。写真を見る限りでは、彼は、まさしく法子の好みのタイプだったのだ。父の立場を考えなくとも、即座に断るにはどうしても惜しい、そんな気にさせる写真だった。
──会うくらいならば損はない。
これ程までに自分の心を惹《ひ》きつける人ならば、せめて一度くらいは会ってみたい、その上で「ああ、残念だったわね」と笑い話にするのでも構わないと、そんな気分だった。
だが、初めて和人に会った時、法子は本当に一目|惚《ぼ》れしてしまった。和人の声も、笑顔も、陽焼けした腕までも、すべてが好きになってしまった。だから、会ったばかりの彼から「ぜひ一度、家に来て欲しい」と言われた時にも、ほとんど夢見心地だった。たとえ多少、不利な条件であろうとも、彼を他の女性には渡したくない、このまま破談にしてしまうのは、あまりにももったいない気がした。
もしかすると、これまでにも家族のことが理由で破談になったことがあったのか、和人は短い雑談の後で言った。
「法子さんが考えているのと、絶対に違うはずなんです。何も見ないうちから結論を出そうなんて、しないで下さい。とにかく一度僕の家族を見て、その上で結論を下してくれませんか」
自分に向かって熱心に語りかける和人は真面目《まじめ》そうで爽《さわ》やかで、実に魅力的に見えた。法子は半分ぽうっとしていて、気がついた時には、思わず頷《うなず》いてしまっていた。
──まず家族に会ってくれと言うからには、彼の方でも私を気に入ってくれたっていうこと?
そう思っただけで、法子はもう嬉《うれ》しかった。早くも彼の言葉を信じたいと思い始めていた。
「あなたの不安は僕が解消します。もしも、気に入らない部分があれば、それを直していくのは僕と、僕の家族の役目ですから」
和人は続けてそう言った。その声は落ち着いた低音で、口調は穏やかそのものだった。法子は、ずっと彼の声を聞いていたいと思った。
──待って待って。すぐに飛びつくような真似《まね》をしちゃ駄目。第一、条件は最悪なのよ。向こうから頭を下げて来るようにしなきゃ。
「──お目にかかるだけなら、いいかなあと、思います。結論を急がないと言っていただけるのなら」
その段階で、実は法子は、早くも彼との人生を夢想し始めていた。彼との縁を、とにかく、たった一度会っただけで終わりにするなんて、彼を他の女に取られるなんて、絶対に嫌だという思いばかりが育ちつつあった。
「急ぎません。一生の問題ですから、法子さんの納得がいくまで、いくらでも努力するし、待ちます」
和人は、日本人離れしているほど彫りの深い顔だちで、肌は浅黒く日焼けしており、にこりと笑うと、その口元からは行儀良く並んでいる白い歯がこぼれた。真一文字の眉《まゆ》の下には、少し奥まったところに涼しげな瞳《ひとみ》があり、形の整った鼻は貧相でも猛々《たけだけ》しくもない。
──この人と結婚したら。
あの唇に触れることになるのだと思っただけで、法子の心臓は勝手に高鳴った。見合いはその時が初めてではなかったが、キスする時の自分、相手の下着を洗う自分を想像して、それが嫌悪感につながらなかったのは、初めてのことだった。
──それに、彼も私が気に入ってくれたのなら、いつか説得して別居出来るかも知れないじゃないの。今時、そんな大家族で暮らすよりも、若い夫婦でプライバシーを守りたいって、彼に納得させればいいんだわ。
「絶対に気に入ってもらえると思うんです。ぜひ一度、会ってみて下さい」
和人はそれほど長身ではなかったが、均整の取れた体躯《たいく》はよく引き締まっており、法子はその中でも、特に彼の手が好きだと思った。彼の手は、繊細さを残しながら貧弱ではなく、堅実そうな印象を与える。
──あの手にならば、触られても嫌ではない。
その時点で既に、法子の頭の中では、ありとあらゆる想像が広がっていった。交際が深まり、さらに今、共に暮らすようになってみると、和人は、あまり言葉の多い方ではないことがよく分かる。けれど、特に家族に対して語ったときには、彼は実に饒舌《じようぜつ》で熱心だった。そして、二回目に会った時には、法子は約束通り、小金井の家に連れていかれた。
あの時の不思議な感激は今も法子の中に鮮烈に残っている。和人の家は、東京とは思えない程の静かな場所にあって、広々とした土地の周囲には背の高い樹木が生い茂り、その木々の向こうに厳《おごそ》かとも思えるくらいに重厚な佇《たたず》まいを見せていた。
「前に建て直したのが、僕が生まれる少し前だったそうです」
和人は嬉しそうな顔でそう言った。門の脇《わき》には大きな欅《けやき》の木があって、家族がその土地に住み着いてから長い年月を経ていることを語っていた。広い庭には、沈丁花《じんちようげ》やつつじの植え込みが続き、大きな梅と椿《つばき》は花を咲かせていた。さらに松や木犀《もくせい》、泰山木などの木々の向こうに広い花壇があった。冬枯れの季節だったが、かなり広い範囲に、福寿草が黄色く愛らしい花を咲かせていた。その向こうには大きなビニール・ハウスさえもあった。
「皆、花が好きなんです。もうすぐ水仙《すいせん》が咲くはずですよ。それが終わる頃には、桜が咲く。うちのは山桜と枝垂《しだ》れ桜なんですが」
和人は人なつこい笑顔で説明してくれた。ここからは見えないが、庭を回ったところには美しい蓮《はす》を咲かせる池もある、裏手に回って座敷の方は、もう少し手入れの整った日本庭園になっているのだと聞かされて、法子はすっかり驚いてしまった。大家族なのだから、それなりに大きな家なのだろうとは思ってはいたが、和人の家の立派さは、法子の想像をはるかに越えていた。
さらにその直後、法子は今度は彼の家族の熱烈な歓迎にすっかり戸惑わされた。
「いらっしゃい!」
「まあ、お写真なんかよりも、ずっと綺麗《きれい》な方じゃないの!」
「待っていたのよ、さあさあ、疲れたでしょう。あら、細くて綺麗な指をして!」
「お兄ちゃん、緊張してる!」
和人の両親と妹、祖母の四人が玄関先に立ち、満面の笑みを浮かべて待っていたのだ。和人の言葉通り、彼らは実に朗らかで、一様に誠実そうな顔立ちだった。上品ぶることも高慢なところもなく、気さくであたたかく、そして控え目でさえある。彼らに迎え入れられて一時間もたたないうちに、法子は和人の家族が好きになり始めていた。そして、何よりも法子を感激させたのが曾祖母《そうそぼ》の存在だった。
「目も耳も達者なんだけど、足が少し不自由なものだから。食事は家族と一緒にすることもあるんですが、大ばばちゃん──僕らはそう呼んでるんですけど、やっぱり静かに暮らしていたいんでしょうね。ほら、僕らはいつもやかましいから」
曾祖母の部屋は、母屋から渡り廊下を伝っていく離れにあった。ヱイという名の老婆は、今年で九十八歳になるという話だった。和人に誘《いざな》われて離れに行くと、彼は障子の前で一度深呼吸し、控え目な声で「大ばばちゃん」と声をかけた。「はあい」という返事は、それほど弱々しくもなく、むしろ力強く聞こえてきた。
障子を開けると、水墨画の掛け軸をあしらわれている床の間のある広々とした和室の片隅に、ピンクのホットカーペットらしい物の敷かれている一角があり、その上に小さな老婆がちょこりと座っていた。法子は、地味な和服に身を包んだ、そのあまりにも小さな姿に一瞬戸惑い、どう声をかければ良いものかと迷った。
「大切なお客様なんだ。前に話しただろう? 橋本法子さん」
和人が言うと、無数の深い皺《しわ》に囲まれた小さな顔が動いた。そして法子を見上げ、くしゃりと笑う。真っ白い半襟が、目に鮮やかだった。身の回りの世話が行き届いているのだと、その清潔そのものの白さが語っていた。
「そう、来たの」
曾祖母はそう言うと、膝《ひざ》の上にのせていた、小さな身体とは不釣り合いな程大きく見える、実際は普通の大人と同じくらいの大きさの手をゆっくりと上げ、法子を手招きした。法子は素直に老婆の前に座り、慣れているとは言い難い姿勢で初めまして、と挨拶《あいさつ》をした。すると、老婆は骨と皮ばかりの乾いた手を伸ばしてきた。法子は反射的に心持ち頭を下げ、半ば身を乗り出して、薄い皮膚を通して血管の浮き上がっている彼女の手が頭の上にのるようにした。
曾祖母は柔らかく法子の頭を引き寄せた。法子は戸惑いながらも身体を傾かせ、やがて小さな頼りない膝の上に頭をのせる形になってしまった。自分よりも、よほど小さな老人の膝の上に頭を乗せる為には、法子は完全に寝転がらなければならなかった。
「ようく、来たね。ようく、来た」
ヱイの手は、柔らかく法子の髪を撫《な》で始めた。固く、節くれだっているはずの老婆の手は、法子の額にかかっていた前髪をかきあげ、ぽん、ぽん、と静かにリズムを刻んだ。
「いい子だ、いい子だ」
しわがれた低い声が呟《つぶや》く。香を焚《た》きしめているのか、不思議な香りが老婆を取り巻いていた。初めて会ったばかりの人の膝に頭を乗せたまま、法子はすっかり混乱しそうになっていた。心の奥底からは、泉のように感動が湧《わ》き出した。胸が震える気がする。この安らぎは何なのだ、この懐かしさは何なのだろうと思った。
「法子は、いい子だ。和人の宝物になる子だねえ」
「そうだよ、大ばばちゃん。彼女は、素晴らしい人なんだ」
横から和人の声がした。法子は当惑し、感動し、そして陶酔しかかっていた。何よりも、百歳に近い年齢の人が、自分の頭を撫でてくれているという、それだけでも不思議な感激があった。このまま甘えて、すうっと眠ってしまえそうな、あたたかい幸福感が心を満たしていった。
「和人の宝は、この家の宝。宝は、磨くとね、もっと光るよ。もっと光る。皆で、みぃんなでね」
子どものように小さな身体だったけれど、ヱイという人は、法子よりも七十年以上も生き続けていること、法子などが太刀打ちできるはずもないくらいに包容力があり、あたたかい瑞々《みずみず》しさを保ち続けている人であることが、直接伝わってきた。髪を撫でられながら、涙ぐみそうになる感激の中で、法子は出来ることなら、ずっとこの人の傍にいたいと思った。
そうして、縁談は前向きに進んでいった。最初、法子の気持ちが変わったことに困惑し、一時の気の迷いに惑わされてはならないと主張した母を説得するのには、多少の時間とエネルギーを要したが、結局は母も法子の希望を受け入れてくれた。とにかく和人に恋をしてしまったのだし、何より、玉の輿であることは間違いがない。「叩いて埃の出ない家はないものね」と母はため息をついた。
「じゃあ、八人家族の家に、嫁入りするわけ?」
そんな頃、法子は東京で働いている友人に久しぶりに会って、自分ももうすぐ東京に行くかも知れないと話した。大熊|知美《ともみ》という中学の時からの友人で、地元に残って山梨の短大に行った法子とは違って、彼女は大学の時から上京して、現在は外資系の企業で働いていた。
「いくら、いい人達だって、そんなの見せかけだけかも知れないじゃない。そんなにうまい話なんて、あるはずないわ、裏があるんじゃないの?」
久しぶりに会った友人にそう言われても、法子の決心は少しも鈍らなかった。
「でも、私が東京に行けば、知美とも、もっと頻繁《ひんぱん》に会えるようになるじゃない?」
法子は悪戯《いたずら》っぽい笑顔で知美を見た。東京の片隅で小さなアパート暮らしを続けている彼女と比べれば、同じ東京暮らしとはいっても、これからの法子の生活は、知美になど想像も出来ないくらい優雅なものになるに違いないのだ。しかも、妻の座という特等席を手にいれて。
「無理じゃないの? 今時、そんなに大きな家のお嫁さんなんかになったら、自由な時間なんか取れないに決まってるって」
知美は面白くもないといった表情で、まるで法子の夢を壊そうとでもするかのように、そんなことを言った。法子はふと、知美は自分の好運な縁談に嫉妬《しつと》しているのだろうかと思った。
「でも、和人さんは、私の自由は尊重するって言ってくれてるもん。知美にだって、そのうち分かるわよ、遊びにくれば」
「まあ、私が遊びにいかれるようなお家だといいんだけどね」
皮肉っぽく笑っている知美に対して、法子はむきになるように「大丈夫だったら」と繰り返した。心配性なのか嫉妬しているのかは知らないが、友人とはいっても各々の人生を歩む。
「そこまで言うんなら、私に反対する筋合いはないけどね。あとは、法子の幸せを祈るだけだわ」
結局最後には、知美は半ば諦《あきら》めた表情になって、そう言った。何に対してかは判然としなかったけれど、法子は「勝った」と思った。
交際が始まると、和人は店の休みの日には必ずといって良い程、自分の車を繰って法子のもとを訪れ、会えない時にはまめに電話を寄越した。法子は少しでも彼と彼の家族のこと、中でも曾祖母のことを知りたいと思うようになった。
「大ばばちゃんはね、もう九十八年も人を見てるから、誰のことでも一目で見抜く力を持ってるんだ。おかげで、近所でも大ばばちゃんに相談ごとを持ちかける人が多いんだ」
和人は、そんな曾祖母が法子を気に入ったことが、実は何よりも嬉しいのだと言った。自分の目に狂いはなかったということだし、家族に祝福される人と出会えたという、何よりの証拠にもなるということだ。ある時など、彼は「ああ」と天を仰ぐように深々と息を吐き出し、「僕は幸せ者だ」と呟いた。
「もしも、君が家に来てくれたら、僕はもう何もいらないくらいだ。大ばばちゃんも言っていた通り、君は僕の宝物なんだから。僕は、宝物を大切にするだけ、その宝を光らせるだけを生きがいにしたい」
二十六年間の人生で、こんなにも褒《ほ》めそやされ、熱望され、崇拝されたのは、まさに生まれて初めてのことだった。法子は自分も感動し、ここまで望まれて嫁いでいける自分こそ幸福だと思った。すべてがうまくいく。何と素敵な人生なのだろう。
正月早々に見合いをして、ほんの二ヵ月程の間に、法子は自分が見合いで和人と知り合ったことさえ忘れかかっていた。きっかけはどうであれ、彼とは出逢《であ》う運命だったのだ。彼の、そのひたむきな態度こそが、恋心の現れに違いないのだと確信した。そして、いつしか彼の家族さえも、法子にとっては大切な存在に思えるようになっていった。いつ訪れても常に笑い声が絶えず、法子を早くも家族の一員として迎えようとしている人達は、法子が知っている中でもっとも純朴で善良な家族に見えた。ましてや、彼らは和人の家族なのだ。自分の愛する人の家族を大切に思わないはずはないと、法子はごく自然に思えるようになっていった。
だが、結納の日取りが決まった頃に、小さな波乱があった。
それまで法子が訪れても、一度も姿を見せたことのなかった和人の弟に、実は少しばかり知能の障害があること、さらに祖父が、数年前から寝たきりの状態であることを告げられたのだ。
「そんな大切なこと──どうして話してくれなかったの?」
法子はショックを隠すことも出来ず、半ば呆然《ぼうぜん》となった。いつも笑っている家族の中で、弟と祖父の姿が見えないのは、それぞれに忙しいからに違いないと、その程度にしか考えていなかったのだ。頭の中を、一気に様々なことが駆け巡った。介護の問題。嫁の負担。肉体的重圧──。
「最初に言ってしまったら、君は僕とのことを今みたいに考えてくれていた?」
和人は、その時初めて見せる不安気な表情で言った。法子は腹の底から絶望と怒りがこみ上げて来そうなのを懸命にこらえながら、「無理だったと思う」と正直に答えた。当たり前ではないか。苦労するに決まっている。和人は深々とため息をつきながら、「そうだろう」と呟《つぶや》いた。だが、今となっては、そんな表情を見るのでさえ、法子には辛《つら》かった。何よりも、和人を傷つけたくなかった。
「誰だって、寝たきり老人の家になんか嫁入りしたくないと思うよね。おまけに、少し知恵の遅れている弟がいるなんて知ったら、あれこれと考えるに決まってる──いや、考える前から嫌になる──分かってるんだ」
そこは、甲府《こうふ》の先のレストランだった。いつものようにドライブをして、自宅まで送ってもらう途中でのことだった。法子は「そんなうまい話があるはずがない」と言った知美の言葉を思い出していた。やはり、彼女の言葉の方が正しかったのだろうか、自分はただの世間知らずだったのだろうかと、動揺と共に絶望感が広がっていった。
「でも、君の目で見て、どうだった? うちは、誰かが我慢していたり、介護で苦労していたり、何か無理をしているような、本当は疲れているような、そんな雰囲気があったかい?」
和人に言われて、法子は一瞬考え、弱々しくかぶりを振った。そういえば、皆で雑談している時にも、祖母のふみ江は一人でぱたぱたと動き回っていた、妹の綾乃《あやの》も、ちょこちょこと席を外すことが多かった。それは覚えている。だが、彼女達はいつでも明るく、朗らかだった。だから、法子は何の不審も抱かなかったのだ。
「そうなんだ。誰も、それを辛いことだとは思っていないんだよ。お祖母ちゃんも綾乃も、好きだから自分が動いているんだ」
「でも、一家に二人もそういう人がいたら、それだけで他の家事は大変になるわ──私は別に家事が嫌いで言ってるんじゃないの。でも──」
「君に面倒はかけないよ。約束する」
和人の顔には悲壮感さえ漂っていた。
「言ったろう? うちは、とにかく笑いの絶えない、明るくて楽しい家族でいることだけを望んでるって。うちは君の見た通りの、ああいう家族なんだ。分かってくれてるだろう?」
法子は、和人の真剣な表情を正面から見ているのでさえ辛かった。わがままを言っているのは自分の方なのだろうかとも思った。
「分かってるわ──皆、とてもいい方達だって、よく分かってる。でも──」
「誰か一人でも不満を抱く者がいたら、全員で考える。勿論《もちろん》、君についても、同じなんだよ。君に苦労させるために、嫁に来てくれって言ってる訳じゃないんだ。絶対に」
和人は真剣な表情で言った。それでも、絶望の淵《ふち》に立たされかかっている気分の法子が、はっきりとした返答を出来ずにいると、彼はその時初めて法子の手を握ってきた。法子の心臓はきゅん、と縮み上がった。
「言ったよね? 君は僕と、僕の家族の宝物になる人なんだ。誰も君を悲しませたり苦しませたりなんか、したくない。絶対に、そんなことはしない。実際、今でも月に一度ずつ、ハウスクリーニングの業者が来てくれているし、ヘルパーも来る。家政婦は使ってなくても、買い物だって、いつでも親父がおふくろを車に乗せて行ってる。自営業だからね、時間は案外自由に使えるんだよ」
それから和人は具体的な生活のことについて、細々と話し始めた。弟の世話は和人の妹が、祖父の世話は祖母が、それぞれ中心になっているのだから、むしろ法子は知らん顔で良いとさえ言われた。結局、法子は和人のその言葉を信じるより他になかった。いずれにせよ、貧しい家ではないのだ。必要ならば、業者を頼むことも、人手を何とかすることも不可能ではない。法子としては、それを期待するより他はなかった。それに、気分としては、もう嫁ぐつもりになっていた法子には、今さら後退すること自体が考えられなかった。前進するしかないのだ。この輝かしい人生を。第一、父や母にだって心配をかけたくない。
そして四月、法子は和人と結婚した。意外なことに、和人の方には他の親戚《しんせき》は全くいないのだそうで、結婚式に集まった親類縁者は法子の家の方ばかりだった。
もともと法子と和人は見合いで知り合った。
法子の家は山梨県の、長野県境に近い小淵沢《こぶちざわ》から少し入ったところにあり、父は酒問屋を経営している。そんな父の元に、義理のある知人から縁談が持ち込まれたのだ。
本人の第一印象は悪くなかったが、法子は最初、和人があまりに大家族で暮らしていることに大きなためらいを感じた。両親と弟妹に加えて、祖父母と曾祖母《そうそぼ》までがいる、本人も含めると八人家族だというではないか。しかも、結婚後も家族と同居するのが条件だという。
「そんな家の長男なんかと結婚したら、それこそろくなことにはならないわよ」
母は言下に、こんな見合いは断るべきだと主張した。法子も同感だった。義理のあるところからの紹介とはいえ、今の時代に、そんな大家族に嫁ぐなど、考えも及ばないことだった。
「どうして好きこのんで苦労すると思う? お姑《しゆうとめ》さんがいるだけでも大変だと思うのに、小姑《こじゆうと》からお姑さんの、そのお母さんから、果ては九十幾つのお婆さんまでいるっていうんでしょう? 冗談じゃないわよねえ」
だが、口ではそんなことを言いながら、それでも何となく法子の気持ちをぐらつかせたのが、やはり、身上書と共に持ち込まれた和人の写真だった。写真を見る限りでは、彼は、まさしく法子の好みのタイプだったのだ。父の立場を考えなくとも、即座に断るにはどうしても惜しい、そんな気にさせる写真だった。
──会うくらいならば損はない。
これ程までに自分の心を惹《ひ》きつける人ならば、せめて一度くらいは会ってみたい、その上で「ああ、残念だったわね」と笑い話にするのでも構わないと、そんな気分だった。
だが、初めて和人に会った時、法子は本当に一目|惚《ぼ》れしてしまった。和人の声も、笑顔も、陽焼けした腕までも、すべてが好きになってしまった。だから、会ったばかりの彼から「ぜひ一度、家に来て欲しい」と言われた時にも、ほとんど夢見心地だった。たとえ多少、不利な条件であろうとも、彼を他の女性には渡したくない、このまま破談にしてしまうのは、あまりにももったいない気がした。
もしかすると、これまでにも家族のことが理由で破談になったことがあったのか、和人は短い雑談の後で言った。
「法子さんが考えているのと、絶対に違うはずなんです。何も見ないうちから結論を出そうなんて、しないで下さい。とにかく一度僕の家族を見て、その上で結論を下してくれませんか」
自分に向かって熱心に語りかける和人は真面目《まじめ》そうで爽《さわ》やかで、実に魅力的に見えた。法子は半分ぽうっとしていて、気がついた時には、思わず頷《うなず》いてしまっていた。
──まず家族に会ってくれと言うからには、彼の方でも私を気に入ってくれたっていうこと?
そう思っただけで、法子はもう嬉《うれ》しかった。早くも彼の言葉を信じたいと思い始めていた。
「あなたの不安は僕が解消します。もしも、気に入らない部分があれば、それを直していくのは僕と、僕の家族の役目ですから」
和人は続けてそう言った。その声は落ち着いた低音で、口調は穏やかそのものだった。法子は、ずっと彼の声を聞いていたいと思った。
──待って待って。すぐに飛びつくような真似《まね》をしちゃ駄目。第一、条件は最悪なのよ。向こうから頭を下げて来るようにしなきゃ。
「──お目にかかるだけなら、いいかなあと、思います。結論を急がないと言っていただけるのなら」
その段階で、実は法子は、早くも彼との人生を夢想し始めていた。彼との縁を、とにかく、たった一度会っただけで終わりにするなんて、彼を他の女に取られるなんて、絶対に嫌だという思いばかりが育ちつつあった。
「急ぎません。一生の問題ですから、法子さんの納得がいくまで、いくらでも努力するし、待ちます」
和人は、日本人離れしているほど彫りの深い顔だちで、肌は浅黒く日焼けしており、にこりと笑うと、その口元からは行儀良く並んでいる白い歯がこぼれた。真一文字の眉《まゆ》の下には、少し奥まったところに涼しげな瞳《ひとみ》があり、形の整った鼻は貧相でも猛々《たけだけ》しくもない。
──この人と結婚したら。
あの唇に触れることになるのだと思っただけで、法子の心臓は勝手に高鳴った。見合いはその時が初めてではなかったが、キスする時の自分、相手の下着を洗う自分を想像して、それが嫌悪感につながらなかったのは、初めてのことだった。
──それに、彼も私が気に入ってくれたのなら、いつか説得して別居出来るかも知れないじゃないの。今時、そんな大家族で暮らすよりも、若い夫婦でプライバシーを守りたいって、彼に納得させればいいんだわ。
「絶対に気に入ってもらえると思うんです。ぜひ一度、会ってみて下さい」
和人はそれほど長身ではなかったが、均整の取れた体躯《たいく》はよく引き締まっており、法子はその中でも、特に彼の手が好きだと思った。彼の手は、繊細さを残しながら貧弱ではなく、堅実そうな印象を与える。
──あの手にならば、触られても嫌ではない。
その時点で既に、法子の頭の中では、ありとあらゆる想像が広がっていった。交際が深まり、さらに今、共に暮らすようになってみると、和人は、あまり言葉の多い方ではないことがよく分かる。けれど、特に家族に対して語ったときには、彼は実に饒舌《じようぜつ》で熱心だった。そして、二回目に会った時には、法子は約束通り、小金井の家に連れていかれた。
あの時の不思議な感激は今も法子の中に鮮烈に残っている。和人の家は、東京とは思えない程の静かな場所にあって、広々とした土地の周囲には背の高い樹木が生い茂り、その木々の向こうに厳《おごそ》かとも思えるくらいに重厚な佇《たたず》まいを見せていた。
「前に建て直したのが、僕が生まれる少し前だったそうです」
和人は嬉しそうな顔でそう言った。門の脇《わき》には大きな欅《けやき》の木があって、家族がその土地に住み着いてから長い年月を経ていることを語っていた。広い庭には、沈丁花《じんちようげ》やつつじの植え込みが続き、大きな梅と椿《つばき》は花を咲かせていた。さらに松や木犀《もくせい》、泰山木などの木々の向こうに広い花壇があった。冬枯れの季節だったが、かなり広い範囲に、福寿草が黄色く愛らしい花を咲かせていた。その向こうには大きなビニール・ハウスさえもあった。
「皆、花が好きなんです。もうすぐ水仙《すいせん》が咲くはずですよ。それが終わる頃には、桜が咲く。うちのは山桜と枝垂《しだ》れ桜なんですが」
和人は人なつこい笑顔で説明してくれた。ここからは見えないが、庭を回ったところには美しい蓮《はす》を咲かせる池もある、裏手に回って座敷の方は、もう少し手入れの整った日本庭園になっているのだと聞かされて、法子はすっかり驚いてしまった。大家族なのだから、それなりに大きな家なのだろうとは思ってはいたが、和人の家の立派さは、法子の想像をはるかに越えていた。
さらにその直後、法子は今度は彼の家族の熱烈な歓迎にすっかり戸惑わされた。
「いらっしゃい!」
「まあ、お写真なんかよりも、ずっと綺麗《きれい》な方じゃないの!」
「待っていたのよ、さあさあ、疲れたでしょう。あら、細くて綺麗な指をして!」
「お兄ちゃん、緊張してる!」
和人の両親と妹、祖母の四人が玄関先に立ち、満面の笑みを浮かべて待っていたのだ。和人の言葉通り、彼らは実に朗らかで、一様に誠実そうな顔立ちだった。上品ぶることも高慢なところもなく、気さくであたたかく、そして控え目でさえある。彼らに迎え入れられて一時間もたたないうちに、法子は和人の家族が好きになり始めていた。そして、何よりも法子を感激させたのが曾祖母《そうそぼ》の存在だった。
「目も耳も達者なんだけど、足が少し不自由なものだから。食事は家族と一緒にすることもあるんですが、大ばばちゃん──僕らはそう呼んでるんですけど、やっぱり静かに暮らしていたいんでしょうね。ほら、僕らはいつもやかましいから」
曾祖母の部屋は、母屋から渡り廊下を伝っていく離れにあった。ヱイという名の老婆は、今年で九十八歳になるという話だった。和人に誘《いざな》われて離れに行くと、彼は障子の前で一度深呼吸し、控え目な声で「大ばばちゃん」と声をかけた。「はあい」という返事は、それほど弱々しくもなく、むしろ力強く聞こえてきた。
障子を開けると、水墨画の掛け軸をあしらわれている床の間のある広々とした和室の片隅に、ピンクのホットカーペットらしい物の敷かれている一角があり、その上に小さな老婆がちょこりと座っていた。法子は、地味な和服に身を包んだ、そのあまりにも小さな姿に一瞬戸惑い、どう声をかければ良いものかと迷った。
「大切なお客様なんだ。前に話しただろう? 橋本法子さん」
和人が言うと、無数の深い皺《しわ》に囲まれた小さな顔が動いた。そして法子を見上げ、くしゃりと笑う。真っ白い半襟が、目に鮮やかだった。身の回りの世話が行き届いているのだと、その清潔そのものの白さが語っていた。
「そう、来たの」
曾祖母はそう言うと、膝《ひざ》の上にのせていた、小さな身体とは不釣り合いな程大きく見える、実際は普通の大人と同じくらいの大きさの手をゆっくりと上げ、法子を手招きした。法子は素直に老婆の前に座り、慣れているとは言い難い姿勢で初めまして、と挨拶《あいさつ》をした。すると、老婆は骨と皮ばかりの乾いた手を伸ばしてきた。法子は反射的に心持ち頭を下げ、半ば身を乗り出して、薄い皮膚を通して血管の浮き上がっている彼女の手が頭の上にのるようにした。
曾祖母は柔らかく法子の頭を引き寄せた。法子は戸惑いながらも身体を傾かせ、やがて小さな頼りない膝の上に頭をのせる形になってしまった。自分よりも、よほど小さな老人の膝の上に頭を乗せる為には、法子は完全に寝転がらなければならなかった。
「ようく、来たね。ようく、来た」
ヱイの手は、柔らかく法子の髪を撫《な》で始めた。固く、節くれだっているはずの老婆の手は、法子の額にかかっていた前髪をかきあげ、ぽん、ぽん、と静かにリズムを刻んだ。
「いい子だ、いい子だ」
しわがれた低い声が呟《つぶや》く。香を焚《た》きしめているのか、不思議な香りが老婆を取り巻いていた。初めて会ったばかりの人の膝に頭を乗せたまま、法子はすっかり混乱しそうになっていた。心の奥底からは、泉のように感動が湧《わ》き出した。胸が震える気がする。この安らぎは何なのだ、この懐かしさは何なのだろうと思った。
「法子は、いい子だ。和人の宝物になる子だねえ」
「そうだよ、大ばばちゃん。彼女は、素晴らしい人なんだ」
横から和人の声がした。法子は当惑し、感動し、そして陶酔しかかっていた。何よりも、百歳に近い年齢の人が、自分の頭を撫でてくれているという、それだけでも不思議な感激があった。このまま甘えて、すうっと眠ってしまえそうな、あたたかい幸福感が心を満たしていった。
「和人の宝は、この家の宝。宝は、磨くとね、もっと光るよ。もっと光る。皆で、みぃんなでね」
子どものように小さな身体だったけれど、ヱイという人は、法子よりも七十年以上も生き続けていること、法子などが太刀打ちできるはずもないくらいに包容力があり、あたたかい瑞々《みずみず》しさを保ち続けている人であることが、直接伝わってきた。髪を撫でられながら、涙ぐみそうになる感激の中で、法子は出来ることなら、ずっとこの人の傍にいたいと思った。
そうして、縁談は前向きに進んでいった。最初、法子の気持ちが変わったことに困惑し、一時の気の迷いに惑わされてはならないと主張した母を説得するのには、多少の時間とエネルギーを要したが、結局は母も法子の希望を受け入れてくれた。とにかく和人に恋をしてしまったのだし、何より、玉の輿であることは間違いがない。「叩いて埃の出ない家はないものね」と母はため息をついた。
「じゃあ、八人家族の家に、嫁入りするわけ?」
そんな頃、法子は東京で働いている友人に久しぶりに会って、自分ももうすぐ東京に行くかも知れないと話した。大熊|知美《ともみ》という中学の時からの友人で、地元に残って山梨の短大に行った法子とは違って、彼女は大学の時から上京して、現在は外資系の企業で働いていた。
「いくら、いい人達だって、そんなの見せかけだけかも知れないじゃない。そんなにうまい話なんて、あるはずないわ、裏があるんじゃないの?」
久しぶりに会った友人にそう言われても、法子の決心は少しも鈍らなかった。
「でも、私が東京に行けば、知美とも、もっと頻繁《ひんぱん》に会えるようになるじゃない?」
法子は悪戯《いたずら》っぽい笑顔で知美を見た。東京の片隅で小さなアパート暮らしを続けている彼女と比べれば、同じ東京暮らしとはいっても、これからの法子の生活は、知美になど想像も出来ないくらい優雅なものになるに違いないのだ。しかも、妻の座という特等席を手にいれて。
「無理じゃないの? 今時、そんなに大きな家のお嫁さんなんかになったら、自由な時間なんか取れないに決まってるって」
知美は面白くもないといった表情で、まるで法子の夢を壊そうとでもするかのように、そんなことを言った。法子はふと、知美は自分の好運な縁談に嫉妬《しつと》しているのだろうかと思った。
「でも、和人さんは、私の自由は尊重するって言ってくれてるもん。知美にだって、そのうち分かるわよ、遊びにくれば」
「まあ、私が遊びにいかれるようなお家だといいんだけどね」
皮肉っぽく笑っている知美に対して、法子はむきになるように「大丈夫だったら」と繰り返した。心配性なのか嫉妬しているのかは知らないが、友人とはいっても各々の人生を歩む。
「そこまで言うんなら、私に反対する筋合いはないけどね。あとは、法子の幸せを祈るだけだわ」
結局最後には、知美は半ば諦《あきら》めた表情になって、そう言った。何に対してかは判然としなかったけれど、法子は「勝った」と思った。
交際が始まると、和人は店の休みの日には必ずといって良い程、自分の車を繰って法子のもとを訪れ、会えない時にはまめに電話を寄越した。法子は少しでも彼と彼の家族のこと、中でも曾祖母のことを知りたいと思うようになった。
「大ばばちゃんはね、もう九十八年も人を見てるから、誰のことでも一目で見抜く力を持ってるんだ。おかげで、近所でも大ばばちゃんに相談ごとを持ちかける人が多いんだ」
和人は、そんな曾祖母が法子を気に入ったことが、実は何よりも嬉しいのだと言った。自分の目に狂いはなかったということだし、家族に祝福される人と出会えたという、何よりの証拠にもなるということだ。ある時など、彼は「ああ」と天を仰ぐように深々と息を吐き出し、「僕は幸せ者だ」と呟いた。
「もしも、君が家に来てくれたら、僕はもう何もいらないくらいだ。大ばばちゃんも言っていた通り、君は僕の宝物なんだから。僕は、宝物を大切にするだけ、その宝を光らせるだけを生きがいにしたい」
二十六年間の人生で、こんなにも褒《ほ》めそやされ、熱望され、崇拝されたのは、まさに生まれて初めてのことだった。法子は自分も感動し、ここまで望まれて嫁いでいける自分こそ幸福だと思った。すべてがうまくいく。何と素敵な人生なのだろう。
正月早々に見合いをして、ほんの二ヵ月程の間に、法子は自分が見合いで和人と知り合ったことさえ忘れかかっていた。きっかけはどうであれ、彼とは出逢《であ》う運命だったのだ。彼の、そのひたむきな態度こそが、恋心の現れに違いないのだと確信した。そして、いつしか彼の家族さえも、法子にとっては大切な存在に思えるようになっていった。いつ訪れても常に笑い声が絶えず、法子を早くも家族の一員として迎えようとしている人達は、法子が知っている中でもっとも純朴で善良な家族に見えた。ましてや、彼らは和人の家族なのだ。自分の愛する人の家族を大切に思わないはずはないと、法子はごく自然に思えるようになっていった。
だが、結納の日取りが決まった頃に、小さな波乱があった。
それまで法子が訪れても、一度も姿を見せたことのなかった和人の弟に、実は少しばかり知能の障害があること、さらに祖父が、数年前から寝たきりの状態であることを告げられたのだ。
「そんな大切なこと──どうして話してくれなかったの?」
法子はショックを隠すことも出来ず、半ば呆然《ぼうぜん》となった。いつも笑っている家族の中で、弟と祖父の姿が見えないのは、それぞれに忙しいからに違いないと、その程度にしか考えていなかったのだ。頭の中を、一気に様々なことが駆け巡った。介護の問題。嫁の負担。肉体的重圧──。
「最初に言ってしまったら、君は僕とのことを今みたいに考えてくれていた?」
和人は、その時初めて見せる不安気な表情で言った。法子は腹の底から絶望と怒りがこみ上げて来そうなのを懸命にこらえながら、「無理だったと思う」と正直に答えた。当たり前ではないか。苦労するに決まっている。和人は深々とため息をつきながら、「そうだろう」と呟《つぶや》いた。だが、今となっては、そんな表情を見るのでさえ、法子には辛《つら》かった。何よりも、和人を傷つけたくなかった。
「誰だって、寝たきり老人の家になんか嫁入りしたくないと思うよね。おまけに、少し知恵の遅れている弟がいるなんて知ったら、あれこれと考えるに決まってる──いや、考える前から嫌になる──分かってるんだ」
そこは、甲府《こうふ》の先のレストランだった。いつものようにドライブをして、自宅まで送ってもらう途中でのことだった。法子は「そんなうまい話があるはずがない」と言った知美の言葉を思い出していた。やはり、彼女の言葉の方が正しかったのだろうか、自分はただの世間知らずだったのだろうかと、動揺と共に絶望感が広がっていった。
「でも、君の目で見て、どうだった? うちは、誰かが我慢していたり、介護で苦労していたり、何か無理をしているような、本当は疲れているような、そんな雰囲気があったかい?」
和人に言われて、法子は一瞬考え、弱々しくかぶりを振った。そういえば、皆で雑談している時にも、祖母のふみ江は一人でぱたぱたと動き回っていた、妹の綾乃《あやの》も、ちょこちょこと席を外すことが多かった。それは覚えている。だが、彼女達はいつでも明るく、朗らかだった。だから、法子は何の不審も抱かなかったのだ。
「そうなんだ。誰も、それを辛いことだとは思っていないんだよ。お祖母ちゃんも綾乃も、好きだから自分が動いているんだ」
「でも、一家に二人もそういう人がいたら、それだけで他の家事は大変になるわ──私は別に家事が嫌いで言ってるんじゃないの。でも──」
「君に面倒はかけないよ。約束する」
和人の顔には悲壮感さえ漂っていた。
「言ったろう? うちは、とにかく笑いの絶えない、明るくて楽しい家族でいることだけを望んでるって。うちは君の見た通りの、ああいう家族なんだ。分かってくれてるだろう?」
法子は、和人の真剣な表情を正面から見ているのでさえ辛かった。わがままを言っているのは自分の方なのだろうかとも思った。
「分かってるわ──皆、とてもいい方達だって、よく分かってる。でも──」
「誰か一人でも不満を抱く者がいたら、全員で考える。勿論《もちろん》、君についても、同じなんだよ。君に苦労させるために、嫁に来てくれって言ってる訳じゃないんだ。絶対に」
和人は真剣な表情で言った。それでも、絶望の淵《ふち》に立たされかかっている気分の法子が、はっきりとした返答を出来ずにいると、彼はその時初めて法子の手を握ってきた。法子の心臓はきゅん、と縮み上がった。
「言ったよね? 君は僕と、僕の家族の宝物になる人なんだ。誰も君を悲しませたり苦しませたりなんか、したくない。絶対に、そんなことはしない。実際、今でも月に一度ずつ、ハウスクリーニングの業者が来てくれているし、ヘルパーも来る。家政婦は使ってなくても、買い物だって、いつでも親父がおふくろを車に乗せて行ってる。自営業だからね、時間は案外自由に使えるんだよ」
それから和人は具体的な生活のことについて、細々と話し始めた。弟の世話は和人の妹が、祖父の世話は祖母が、それぞれ中心になっているのだから、むしろ法子は知らん顔で良いとさえ言われた。結局、法子は和人のその言葉を信じるより他になかった。いずれにせよ、貧しい家ではないのだ。必要ならば、業者を頼むことも、人手を何とかすることも不可能ではない。法子としては、それを期待するより他はなかった。それに、気分としては、もう嫁ぐつもりになっていた法子には、今さら後退すること自体が考えられなかった。前進するしかないのだ。この輝かしい人生を。第一、父や母にだって心配をかけたくない。
そして四月、法子は和人と結婚した。意外なことに、和人の方には他の親戚《しんせき》は全くいないのだそうで、結婚式に集まった親類縁者は法子の家の方ばかりだった。