3
志藤家に嫁いでからの日々は瞬く間に過ぎた。最初、結婚してしまったら本性を表すのではないか、急に意地悪になるのではないかと恐れていた家族への心配も杞憂《きゆう》に終わった。法子は家族の誰からも大切にされ、毎日賑やかに暮らしていた。そんな折、和人が「里帰りしてくれば」と言ってくれた。結婚して三ヵ月近くが過ぎ、志藤家の生活にも慣れたつもりだったが、やはり法子は嬉《うれ》しくて飛び上がりそうになった。
「ゆっくりしておいで」
実家に戻る日の朝、和人はそう言って手を振って店に出かけていった。公恵は法子の両親への土産《みやげ》を用意しておいてくれたし、駅までは義妹の綾乃が知恵遅れの健晴《たけはる》の手を引いて見送りにきてくれた。
「楽しんで来てね」
「ばいばーい」
電車がホームを滑り出すまで、義理の妹弟に手を振られて、法子はほんの少しの後ろめたさを感じなければならない程だった。けれど、彼らの姿が見えなくなると、法子の気持ちはすぐに実家に向かった。
「どうして、うちの塀の上に空き缶をのせて行く奴がいるのかな」
それが、父が法子を見て最初に言った言葉だった。それが父の照れ隠しであることくらい、すぐに分かる。法子は「本当にねえ」と答え、つい笑ってしまった。久しぶりに帰った実家は、法子が寝起きしていた頃と何一つ変わっておらず、母も兄も、つい昨日も会ったようなさりげない表情で法子を迎えた。
「やっぱり、ほっとするわね」
法子は母と並んで台所に立ちながら、深々と深呼吸をした。「そうでしょう」と、母も嬉しそうに笑った。第一、この家は静かだった。九人家族の、しかも時折奇声を張り上げる健晴のような存在のいる家から比べれば、実家はほとんど静寂に包まれているといって良いくらいだ。
法子はつい、自分がもはや橋本という姓ではなくなっていること、今は志藤の家の一員として暮らしていることなどが信じられない気持ちになった。もしかすると、この数ヵ月のこと、和人と結婚して新婚旅行はヨーロッパに行き、それから東京の和人の家族と一緒に暮らし始めた、それらのすべてが夢か幻だったのではないかと、そんな気さえしてしまった。
数日の間に、法子は家族で食事に出かけ、兄と映画を観にいき、母とも買い物にいった。そうこうするうち、予定の日数は瞬く間に過ぎてしまった。
「何だか、帰るのが面倒になったな」
明日はもう志藤の家に帰らなければならないという日、法子は短い午睡から目覚めた後、縁側に立って大きく伸びをしながら呟《つぶや》いた。初夏の午後の庭先には、目映《まばゆ》い木漏れ日が溢《あふ》れていた。背後から、「そりゃあ、ここにいれば三食昼寝つきだものね」という母の声がする。
「いいわよ、帰ってきたって」
母の冗談に法子はにやりと笑いながら「まさか」と答えた。
「帰ってなんかくるものですか。幸せいっぱいの新婚生活を捨てて」
「あらあら、そうですか。薄情な娘だこと」
「そうですとも。お母さんはあれこれ心配してくれたけど、全部、取り越し苦労だったわね。私、和人さんの家の人達、皆のこと、大好きだもの」
母が複雑な表情で頷《うなず》き、法子が志藤の家族の誰彼のエピソードを披露《ひろう》しようとしていたその時、リビングのテレビからニュースの声が耳に飛び込んできた。
〈──今日午前十一時頃、東京都小金井市でプロパンガスが爆発し、店舗兼住宅一棟が大破、炎上して、火は二時間後に消し止められましたが、焼け跡からその家に住む家族四人とみられる焼死体が発見されました──〉
小金井市と聞いただけで、法子は思わず耳をそばだてた。
「爆発炎上したのは、小金井市中町二丁目の、無職・岩井英志さん方で、今日午前十一時頃、どかん、という大きな音が響き、炎を吹き上げたということです」
中町二丁目と聞いたところで、法子はぎくりとなった。慌ててテレビの前に駆け寄るのと、母が「ちょっと、ちょっと法ちゃん」と言いながらテレビをのぞき込んだのとが同時になった。
「──岩井さんは妻の雛子《ひなこ》さん、長男の友孝さん、長女の美里さんの四人暮らしですが、四人の行方が分からなくなっていることから、焼け跡から発見された四人の遺体が岩井さんと家族ではないかとみられています。小金井警察署の調べによりますと、岩井さん宅は以前は製氷業を営んでおり、その店舗部分に引かれていたガス栓が開かれており──」
「この家って──」
法子はテレビの画面に映し出された映像を食い入るように見つめながら、思わず絶句しそうになった。
「近所の家?」
「近所なんていうものじゃないわ──志藤の家が貸してるところよ」
テレビには、確かに見覚えのある風景が映し出されている。法子は実家に戻ってくるつい数日前の夕方、あの辺りを和人と散歩した時のことを思い出した。あてもなくぶらぶらと歩き回るうち、今は営業していない様子の、古い商店の前を通った。
──前はさ、氷屋をやってたんだ。今の主人の親父さんの代からの縁で、ずっとうちが貸してるんだけどね。
和人の話を聞きながら、法子はいつだったか、庭の繁みに立っていた男を思い出していた。ここが、あの男の家だったのかと、改めて家を見回した。
間口三間程の、総二階建ての小さな家だった。ペンキも剥《は》げ落ちて、すっかり色のさめてしまった木の窓枠と、埃《ほこり》だらけのガラス戸を眺めながら、法子は「ここが」とため息をついた記憶がある。あの貧相な男が息をひそめて暮らすには、あまりにも似合っている気がした。
志藤家は、他にも数ヶ所の地所を持ち、アパートを経営したり、人に貸したりしていた。財産家の家に嫁いだとは思っていたが、徐々に明らかになってくるその財力は、法子の想像を越えるものがあった。それまで、それらの土地家屋のうちの、どこにあの男が住んでいるのかは知らなかった。
──そうはいっても、ただ同然で貸してるんだと思うよ。もう何年も家賃は据置のはずなんだ。
和人は苦笑混じりに言って、「すっかり古ぼけちゃって」とその家を眺めていた。戸の上には、やはり色あせた看板が出ていた。本庄屋という文字は比較的明確に読めたけれど、「氷」というブルーのペンキで書かれた文字は「ヽ」の部分が剥げ落ちていて、しかも輪郭が曖昧《あいまい》に残っている程度で、ようやく「水」と読めただけだった。ガラス戸の向こうに白ちゃけたカーテンを引いている店は、ひっそりと静まり返っていた。
「恐いわねえ、ガスは本当に」
母は深刻そうにため息をつき、片方の手を頬《ほお》に添えたままの姿勢でテレビを見ている。
「──雛子さんと二人の子どもはいずれも布団に入ったままの状態で死亡したものと見られ、周囲の状況などから、警察では英志さんがガス栓をひねり、無理心中をはかったところ、何らかの火が引火して爆発・炎上した疑いが強いとみて、今後捜査する方針です。また、爆発の際の爆風で、付近の家数棟に窓ガラスが割れるなどの被害が出ており──」
あの男の仕業だろうか、病魔に取り憑《つ》かれた結果、こんな凶行に及んだのかと思うと、薄気味悪くて全身に鳥肌がたつ。まさか、自分の知っている場所でこんなに悲惨な事故が起こるなんて、その報道を実家のテレビで見るなんて、信じられない思いだった。
「法ちゃん、志藤のお家に電話してみたら?」
母に促されて初めて、法子はそうだったと思い出した。ガス爆発ということならば、志藤の家にだって、当然その音は聞こえただろう。何しろ年寄りのいる家だ、その音にショックを受けている可能性だってある。法子はあたふたと電話に飛びつき、婚家の電話番号をダイヤルした。
「志藤のお宅で貸している家だったら、色々と面倒になるかも知れないわねえ。あんた、今日のうちに帰った方がいいかしら」
コール音を聞いている間、母は、そんな法子を見上げながら心配そうな顔をしている。やがて、受話器の向こうから義母の声が聞こえてきた。
「あら、法子さん。どうしたの?」
公恵は、いつものおっとりとした口調のままで「明日だったわね、帰ってくるの」と続けた。法子は半ば拍子抜けした気分でテレビを観たことを言った。
「あら、ニュースでやってた? そうなのよ、すごい音だったの、どっかぁんって」
もう少し慌てているだろうかと思ったのに、彼女の声は相変わらずだ。
「あの、私、何だったら今日中に帰りますけれど。おばあちゃん達は、大丈夫でしたか?」
本当は帰りたくはなかったが、こんな事故が起これば仕方がない。法子は、部屋の時計をちらりと見上げながら、「最終になら乗れると思うんです」と続けた。
「あら、いいわよ。せっかくお里帰りしたんだもの、ゆっくりしていらっしゃい。そんなに大変なこともないから、大丈夫よ。うちは相変わらず、皆元気にしてるから」
法子は、自分の中に野次馬根性が芽生えているのを感じながら、半ば不満気に「そうですか?」と聞き返した。
「どうせ、明日には帰ってこなきゃならないんでしょう? 法子さんの気持ちは嬉《うれ》しいけどね、お父さん達が動いてくれてるから、大丈夫よ。こういうことはね、男の人達に任せていれば、いいんだから」
「でも、お店の方は──」
「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。でもね、和人はやっぱり淋《さび》しいみたいよ。法子さんに早く帰ってきて欲しいみたい」
その言葉を聞いて、法子は何だか肩すかしを食わされたような気分になりながらも、思わず笑顔になった。ふだんは無口な和人が、自分を思って淋しがってくれていると聞くと、やはり嬉しい。
「まあね、顔には出さないようにしてるつもりらしいけど。隠してるつもりなのは本人だけで、皆、気がついてるのよね」
受話器を通して、義母の明るい笑い声がころころと聞こえてくる。とてもではないが、半日前に近所でガス爆発が起こり、しかも縁のある人が死亡したなどとは思えない落ち着きようだ。ただの顔見知りではない、店子《たなこ》ではないかと思うと、法子の中に小さな引っかかりが出来た。
「とにかく、法子さんはそんなこと気にしないで。せっかくお里帰りしてるんだもの、何の気兼ねもしなくていいんだから。それで、明日になったら、元気に帰ってきてちょうだいね」
それから公恵は法子の母と話したいと言った。法子は受話器を母に回しながら、テレビに映し出されていた映像のことを思い出していた。母は「あらあら」とか「まあ」とかを繰り返して、受話器を握ったまま会釈《えしやく》している。結婚以来、母は野菜などをこまめに送ってくれている。志藤の家からは新潟米をいつも送っていたから、母は結婚当初よりも随分態度を軟化させていた。
──本庄屋。氷屋。
再び縁側に出て、法子はぼんやりと風鈴を見上げていた。繁みの奥から、「奥さん」と声をかけられた時のことが蘇《よみがえ》る。あの時、彼は何を言いたかったのだろう。
「お葬式は、志藤の家で出すことになるかも知れないって」
電話を切った母の声が背後から聞こえた。法子は頭の片隅に、本庄屋の貧相な顔を思い浮かべたまま、わずかに口を尖《とが》らせた。
「だったら、大変じゃないねえ。ゆっくり帰ってくればいいなんて、お義母《かあ》さん、遠慮なさったのかしら」
母はわずかに小首を傾《かし》げて「どっちみち、今日明日は無理なんですって」と言った。
「解剖とか、そんなのがあるらしいのよ。早くて明後日だろうから、今日は何もすることはないらしいわ。まあ、葬儀屋さんの手配くらいはあるんだろうけど、手は足りてるんだものね」
法子は、後ろ手を組んだまま身体を捻《ひね》り、母に向かって小さく頷《うなず》いた。早く帰ってこいと言われれば、意地悪されている気分にもなるのだろうが、あまりゆっくりしてこいとばかり言われるのも、まったくあてにされていないようで情けない気持ちになる。
「まあ、私がいたって、することもないだろうしね」
心の中に浮かんだ小さな不満を自分自身で宥《なだ》めるつもりでそう言うと、母は「まあね」と答えただけで、もう他のことに気を奪われている様子だった。
「迷惑な話ねえ、無理心中なんて。そんな家、爆発しなかったとしても、もう借り手もつかないじゃない」
法子は台所に行き、母と二人分の水|羊羹《ようかん》を取り出してきて、再び母の横に座った。
「でも、どうしてうちがお葬式を出さなきゃならないんだろう」
「五十年近いお付き合いなんですって。親戚《しんせき》同様だったから、それくらいはしてあげなきゃって、そう仰《おつしや》ってたけど」
母の言葉を聞きながら、法子は何となく割り切れない気持ちになっていた。本庄屋が親戚同様の付き合いだったなどという話は、和人からも聞いたことはないはずだ。それどころか本庄屋の話題自体、家族の間では出た記憶がない。公恵は「相手になるな」とまで言っていた。
──あの人、何を言いたかったんだろう。
「お葬式のことはね、大おばあさんの、ご指示だそうよ」
「──大ばばちゃんの」
法子は母の瞳をじっとのぞき込み、それから小さく頷いて見せた。母もそれに合わせて、「ね?」と言うように頷く。
「大ばばちゃんの、ね」
それならば、それがいちばん良いということだ。ヱイがそう言うのならば、そのようにする。それが、何かの問題が生じた時の志藤家の解決方法だということを、法子はこの三ヵ月の間に学んでいた。つまり、ヱイは未だに志藤家に君臨し、もっとも重要なことを決定する権利を持っているということだ。そして、家族の意見がどんなに乱れても、ヱイの一言が最終決定を下し、家族は見事なほどに落ち着きとまとまりを取り戻す。
「それなら、それがいいんでしょ」
それが、法子も加えて九人にもなる大所帯が常に円満に暮らしていかれる秘訣《ひけつ》なのだろうと、母にも話して聞かせたばかりだった。
「大した方なのねえ、だから、ご近所でも頼りにされるんでしょうね」
母に言われて、法子は何となくくすぐったい気持ちになった。自分の曾祖母《そうそぼ》ではないが、それでも一つ屋根の下に暮らし、今は家族となっている老人のことを実の母に褒《ほ》められるというのも不思議なものだ。
「私の目から見れば、ごく普通の可愛いお婆ちゃんなんだけどね。神通力でもあるのかしら」
水羊羹を喉《のど》に滑り込ませながら、法子は何となく判然としない気持ちのまま、ため息をついた。
「近所からだって、色々な人が『大ばばちゃん』『大ばばちゃん』って逢《あ》いに来るんだもの。そうやって、色々な人の話を聞いてやって、あれこれと考えてるから惚《ぼ》けないのかしらね──でも、それにしたって、どうしてお葬式まで出してやる必要があるんだろう」
その時、玄関の開く音がして、近所の顔見知りの声が聞こえてきた。「はあい」と返事をしながら、母はいそいそと玄関に向かった。法子は、ぼんやりとあの男のことを考えていた。家賃も滞納していたらしい、体調もすぐれなかった様子だ。人生に絶望して無理心中しなければならない理由がないとは言えない。それなのに、何となく気持ちに引っかかりが残った。
「ゆっくりしておいで」
実家に戻る日の朝、和人はそう言って手を振って店に出かけていった。公恵は法子の両親への土産《みやげ》を用意しておいてくれたし、駅までは義妹の綾乃が知恵遅れの健晴《たけはる》の手を引いて見送りにきてくれた。
「楽しんで来てね」
「ばいばーい」
電車がホームを滑り出すまで、義理の妹弟に手を振られて、法子はほんの少しの後ろめたさを感じなければならない程だった。けれど、彼らの姿が見えなくなると、法子の気持ちはすぐに実家に向かった。
「どうして、うちの塀の上に空き缶をのせて行く奴がいるのかな」
それが、父が法子を見て最初に言った言葉だった。それが父の照れ隠しであることくらい、すぐに分かる。法子は「本当にねえ」と答え、つい笑ってしまった。久しぶりに帰った実家は、法子が寝起きしていた頃と何一つ変わっておらず、母も兄も、つい昨日も会ったようなさりげない表情で法子を迎えた。
「やっぱり、ほっとするわね」
法子は母と並んで台所に立ちながら、深々と深呼吸をした。「そうでしょう」と、母も嬉しそうに笑った。第一、この家は静かだった。九人家族の、しかも時折奇声を張り上げる健晴のような存在のいる家から比べれば、実家はほとんど静寂に包まれているといって良いくらいだ。
法子はつい、自分がもはや橋本という姓ではなくなっていること、今は志藤の家の一員として暮らしていることなどが信じられない気持ちになった。もしかすると、この数ヵ月のこと、和人と結婚して新婚旅行はヨーロッパに行き、それから東京の和人の家族と一緒に暮らし始めた、それらのすべてが夢か幻だったのではないかと、そんな気さえしてしまった。
数日の間に、法子は家族で食事に出かけ、兄と映画を観にいき、母とも買い物にいった。そうこうするうち、予定の日数は瞬く間に過ぎてしまった。
「何だか、帰るのが面倒になったな」
明日はもう志藤の家に帰らなければならないという日、法子は短い午睡から目覚めた後、縁側に立って大きく伸びをしながら呟《つぶや》いた。初夏の午後の庭先には、目映《まばゆ》い木漏れ日が溢《あふ》れていた。背後から、「そりゃあ、ここにいれば三食昼寝つきだものね」という母の声がする。
「いいわよ、帰ってきたって」
母の冗談に法子はにやりと笑いながら「まさか」と答えた。
「帰ってなんかくるものですか。幸せいっぱいの新婚生活を捨てて」
「あらあら、そうですか。薄情な娘だこと」
「そうですとも。お母さんはあれこれ心配してくれたけど、全部、取り越し苦労だったわね。私、和人さんの家の人達、皆のこと、大好きだもの」
母が複雑な表情で頷《うなず》き、法子が志藤の家族の誰彼のエピソードを披露《ひろう》しようとしていたその時、リビングのテレビからニュースの声が耳に飛び込んできた。
〈──今日午前十一時頃、東京都小金井市でプロパンガスが爆発し、店舗兼住宅一棟が大破、炎上して、火は二時間後に消し止められましたが、焼け跡からその家に住む家族四人とみられる焼死体が発見されました──〉
小金井市と聞いただけで、法子は思わず耳をそばだてた。
「爆発炎上したのは、小金井市中町二丁目の、無職・岩井英志さん方で、今日午前十一時頃、どかん、という大きな音が響き、炎を吹き上げたということです」
中町二丁目と聞いたところで、法子はぎくりとなった。慌ててテレビの前に駆け寄るのと、母が「ちょっと、ちょっと法ちゃん」と言いながらテレビをのぞき込んだのとが同時になった。
「──岩井さんは妻の雛子《ひなこ》さん、長男の友孝さん、長女の美里さんの四人暮らしですが、四人の行方が分からなくなっていることから、焼け跡から発見された四人の遺体が岩井さんと家族ではないかとみられています。小金井警察署の調べによりますと、岩井さん宅は以前は製氷業を営んでおり、その店舗部分に引かれていたガス栓が開かれており──」
「この家って──」
法子はテレビの画面に映し出された映像を食い入るように見つめながら、思わず絶句しそうになった。
「近所の家?」
「近所なんていうものじゃないわ──志藤の家が貸してるところよ」
テレビには、確かに見覚えのある風景が映し出されている。法子は実家に戻ってくるつい数日前の夕方、あの辺りを和人と散歩した時のことを思い出した。あてもなくぶらぶらと歩き回るうち、今は営業していない様子の、古い商店の前を通った。
──前はさ、氷屋をやってたんだ。今の主人の親父さんの代からの縁で、ずっとうちが貸してるんだけどね。
和人の話を聞きながら、法子はいつだったか、庭の繁みに立っていた男を思い出していた。ここが、あの男の家だったのかと、改めて家を見回した。
間口三間程の、総二階建ての小さな家だった。ペンキも剥《は》げ落ちて、すっかり色のさめてしまった木の窓枠と、埃《ほこり》だらけのガラス戸を眺めながら、法子は「ここが」とため息をついた記憶がある。あの貧相な男が息をひそめて暮らすには、あまりにも似合っている気がした。
志藤家は、他にも数ヶ所の地所を持ち、アパートを経営したり、人に貸したりしていた。財産家の家に嫁いだとは思っていたが、徐々に明らかになってくるその財力は、法子の想像を越えるものがあった。それまで、それらの土地家屋のうちの、どこにあの男が住んでいるのかは知らなかった。
──そうはいっても、ただ同然で貸してるんだと思うよ。もう何年も家賃は据置のはずなんだ。
和人は苦笑混じりに言って、「すっかり古ぼけちゃって」とその家を眺めていた。戸の上には、やはり色あせた看板が出ていた。本庄屋という文字は比較的明確に読めたけれど、「氷」というブルーのペンキで書かれた文字は「ヽ」の部分が剥げ落ちていて、しかも輪郭が曖昧《あいまい》に残っている程度で、ようやく「水」と読めただけだった。ガラス戸の向こうに白ちゃけたカーテンを引いている店は、ひっそりと静まり返っていた。
「恐いわねえ、ガスは本当に」
母は深刻そうにため息をつき、片方の手を頬《ほお》に添えたままの姿勢でテレビを見ている。
「──雛子さんと二人の子どもはいずれも布団に入ったままの状態で死亡したものと見られ、周囲の状況などから、警察では英志さんがガス栓をひねり、無理心中をはかったところ、何らかの火が引火して爆発・炎上した疑いが強いとみて、今後捜査する方針です。また、爆発の際の爆風で、付近の家数棟に窓ガラスが割れるなどの被害が出ており──」
あの男の仕業だろうか、病魔に取り憑《つ》かれた結果、こんな凶行に及んだのかと思うと、薄気味悪くて全身に鳥肌がたつ。まさか、自分の知っている場所でこんなに悲惨な事故が起こるなんて、その報道を実家のテレビで見るなんて、信じられない思いだった。
「法ちゃん、志藤のお家に電話してみたら?」
母に促されて初めて、法子はそうだったと思い出した。ガス爆発ということならば、志藤の家にだって、当然その音は聞こえただろう。何しろ年寄りのいる家だ、その音にショックを受けている可能性だってある。法子はあたふたと電話に飛びつき、婚家の電話番号をダイヤルした。
「志藤のお宅で貸している家だったら、色々と面倒になるかも知れないわねえ。あんた、今日のうちに帰った方がいいかしら」
コール音を聞いている間、母は、そんな法子を見上げながら心配そうな顔をしている。やがて、受話器の向こうから義母の声が聞こえてきた。
「あら、法子さん。どうしたの?」
公恵は、いつものおっとりとした口調のままで「明日だったわね、帰ってくるの」と続けた。法子は半ば拍子抜けした気分でテレビを観たことを言った。
「あら、ニュースでやってた? そうなのよ、すごい音だったの、どっかぁんって」
もう少し慌てているだろうかと思ったのに、彼女の声は相変わらずだ。
「あの、私、何だったら今日中に帰りますけれど。おばあちゃん達は、大丈夫でしたか?」
本当は帰りたくはなかったが、こんな事故が起これば仕方がない。法子は、部屋の時計をちらりと見上げながら、「最終になら乗れると思うんです」と続けた。
「あら、いいわよ。せっかくお里帰りしたんだもの、ゆっくりしていらっしゃい。そんなに大変なこともないから、大丈夫よ。うちは相変わらず、皆元気にしてるから」
法子は、自分の中に野次馬根性が芽生えているのを感じながら、半ば不満気に「そうですか?」と聞き返した。
「どうせ、明日には帰ってこなきゃならないんでしょう? 法子さんの気持ちは嬉《うれ》しいけどね、お父さん達が動いてくれてるから、大丈夫よ。こういうことはね、男の人達に任せていれば、いいんだから」
「でも、お店の方は──」
「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。でもね、和人はやっぱり淋《さび》しいみたいよ。法子さんに早く帰ってきて欲しいみたい」
その言葉を聞いて、法子は何だか肩すかしを食わされたような気分になりながらも、思わず笑顔になった。ふだんは無口な和人が、自分を思って淋しがってくれていると聞くと、やはり嬉しい。
「まあね、顔には出さないようにしてるつもりらしいけど。隠してるつもりなのは本人だけで、皆、気がついてるのよね」
受話器を通して、義母の明るい笑い声がころころと聞こえてくる。とてもではないが、半日前に近所でガス爆発が起こり、しかも縁のある人が死亡したなどとは思えない落ち着きようだ。ただの顔見知りではない、店子《たなこ》ではないかと思うと、法子の中に小さな引っかかりが出来た。
「とにかく、法子さんはそんなこと気にしないで。せっかくお里帰りしてるんだもの、何の気兼ねもしなくていいんだから。それで、明日になったら、元気に帰ってきてちょうだいね」
それから公恵は法子の母と話したいと言った。法子は受話器を母に回しながら、テレビに映し出されていた映像のことを思い出していた。母は「あらあら」とか「まあ」とかを繰り返して、受話器を握ったまま会釈《えしやく》している。結婚以来、母は野菜などをこまめに送ってくれている。志藤の家からは新潟米をいつも送っていたから、母は結婚当初よりも随分態度を軟化させていた。
──本庄屋。氷屋。
再び縁側に出て、法子はぼんやりと風鈴を見上げていた。繁みの奥から、「奥さん」と声をかけられた時のことが蘇《よみがえ》る。あの時、彼は何を言いたかったのだろう。
「お葬式は、志藤の家で出すことになるかも知れないって」
電話を切った母の声が背後から聞こえた。法子は頭の片隅に、本庄屋の貧相な顔を思い浮かべたまま、わずかに口を尖《とが》らせた。
「だったら、大変じゃないねえ。ゆっくり帰ってくればいいなんて、お義母《かあ》さん、遠慮なさったのかしら」
母はわずかに小首を傾《かし》げて「どっちみち、今日明日は無理なんですって」と言った。
「解剖とか、そんなのがあるらしいのよ。早くて明後日だろうから、今日は何もすることはないらしいわ。まあ、葬儀屋さんの手配くらいはあるんだろうけど、手は足りてるんだものね」
法子は、後ろ手を組んだまま身体を捻《ひね》り、母に向かって小さく頷《うなず》いた。早く帰ってこいと言われれば、意地悪されている気分にもなるのだろうが、あまりゆっくりしてこいとばかり言われるのも、まったくあてにされていないようで情けない気持ちになる。
「まあ、私がいたって、することもないだろうしね」
心の中に浮かんだ小さな不満を自分自身で宥《なだ》めるつもりでそう言うと、母は「まあね」と答えただけで、もう他のことに気を奪われている様子だった。
「迷惑な話ねえ、無理心中なんて。そんな家、爆発しなかったとしても、もう借り手もつかないじゃない」
法子は台所に行き、母と二人分の水|羊羹《ようかん》を取り出してきて、再び母の横に座った。
「でも、どうしてうちがお葬式を出さなきゃならないんだろう」
「五十年近いお付き合いなんですって。親戚《しんせき》同様だったから、それくらいはしてあげなきゃって、そう仰《おつしや》ってたけど」
母の言葉を聞きながら、法子は何となく割り切れない気持ちになっていた。本庄屋が親戚同様の付き合いだったなどという話は、和人からも聞いたことはないはずだ。それどころか本庄屋の話題自体、家族の間では出た記憶がない。公恵は「相手になるな」とまで言っていた。
──あの人、何を言いたかったんだろう。
「お葬式のことはね、大おばあさんの、ご指示だそうよ」
「──大ばばちゃんの」
法子は母の瞳をじっとのぞき込み、それから小さく頷いて見せた。母もそれに合わせて、「ね?」と言うように頷く。
「大ばばちゃんの、ね」
それならば、それがいちばん良いということだ。ヱイがそう言うのならば、そのようにする。それが、何かの問題が生じた時の志藤家の解決方法だということを、法子はこの三ヵ月の間に学んでいた。つまり、ヱイは未だに志藤家に君臨し、もっとも重要なことを決定する権利を持っているということだ。そして、家族の意見がどんなに乱れても、ヱイの一言が最終決定を下し、家族は見事なほどに落ち着きとまとまりを取り戻す。
「それなら、それがいいんでしょ」
それが、法子も加えて九人にもなる大所帯が常に円満に暮らしていかれる秘訣《ひけつ》なのだろうと、母にも話して聞かせたばかりだった。
「大した方なのねえ、だから、ご近所でも頼りにされるんでしょうね」
母に言われて、法子は何となくくすぐったい気持ちになった。自分の曾祖母《そうそぼ》ではないが、それでも一つ屋根の下に暮らし、今は家族となっている老人のことを実の母に褒《ほ》められるというのも不思議なものだ。
「私の目から見れば、ごく普通の可愛いお婆ちゃんなんだけどね。神通力でもあるのかしら」
水羊羹を喉《のど》に滑り込ませながら、法子は何となく判然としない気持ちのまま、ため息をついた。
「近所からだって、色々な人が『大ばばちゃん』『大ばばちゃん』って逢《あ》いに来るんだもの。そうやって、色々な人の話を聞いてやって、あれこれと考えてるから惚《ぼ》けないのかしらね──でも、それにしたって、どうしてお葬式まで出してやる必要があるんだろう」
その時、玄関の開く音がして、近所の顔見知りの声が聞こえてきた。「はあい」と返事をしながら、母はいそいそと玄関に向かった。法子は、ぼんやりとあの男のことを考えていた。家賃も滞納していたらしい、体調もすぐれなかった様子だ。人生に絶望して無理心中しなければならない理由がないとは言えない。それなのに、何となく気持ちに引っかかりが残った。