4
法子が志藤の家に戻ったのは、翌日の夕方だった。昨日のことがあるから、家はさぞかし慌ただしくなっているだろうと覚悟していたのに、小金井の家は、いつもと変わらない落ち着いた佇まいを見せていた。ふと、ガス爆発の現場に立ち寄ってみようかとも思ったが、やはり気味が悪い気がして、それはやめにした。
「淋しかったわ、法子さんがいなくて」
「家族が一人でも欠けると、やっぱり変なものよねえ」
玄関に入るなり、まず迎えに出てきた公恵とふみ江が声を揃《そろ》えて言った。法子は、いつもながら満面の笑みを浮かべている二人に軽く頭を下げながら、「ああ、帰ってきてしまった」と思った。嫌というのではないが、そう思った。それにしても、彼女たちは嫁と姑とは言いながら驚くほど仲が良い。少しの間でも離れていたせいか、二人並んで、いそいそと法子の荷物を運んでくれる後ろを、わずかな疎外感を覚えながらついて居間に行くと、和人を除く家族全員が待ちかまえていた。
「和人はきっと今ごろやきもきしてるわね」
「そりゃあ、そうでしょう。結婚して初めて、こんなに離れてたんだものねえ」
「お兄ちゃん、お昼頃からそわそわしてたわね」
綾乃まで加わって、にこにこと笑われて、法子は思わず頬《ほお》を赤らめた。
「あ、私、大ばばちゃんにご挨拶《あいさつ》しないと」
いくらざっくばらんな家庭でも、やはり夫の家族に冷やかされるのは照れくさい。法子はそわそわと腰を浮かそうとした。まずは離れに行って曾祖母のヱイに帰宅の挨拶をし、それから祖父の松造にも声をかける。それが、外出から戻った時のしきたりのようなものだった。ところが、公恵が「あ」と言った。
「大ばばちゃん、今、お客様なの」
綾乃がわずかばかり早口で言った。とにかくヱイの元には来客が多い。百歳に近い老婆の知恵を借りようというのだろうか、多い時には一日に数人の来客があった。
「じゃあ、おじいちゃんに」
法子が頷《うなず》きながら言うと、ふみ江が「はいはい、おじいちゃんにね」と言って一緒に立ち上がった。寝たきりの祖父に用事があることなど滅多になかったが、ふみ江は家族の誰かが松造に近付こうとすると必ず同行する癖があった。
松造は、数年前に脳梗塞《のうこうそく》の発作を起こして、右半身が不随の状態だった。ふみ江も共に寝起きしている部屋は、南向きの日当たりの良い位置にあって、松造が発作を起こした時に改装して部屋の半分が板張りになっている。病人の為の介護用ベッドを置く為だったが、その大きなベッドがかなりのスペースを占めても、部屋にはまだまだゆとりがあった。
「おじいちゃん、法子さんが戻ってきたのよ」
ふみ江が声をかけると、松造はゆっくりと法子の方を見る。白く光る髭《ひげ》に囲まれた口元がゆっくりと「おかえり」と動いた。明確とは言い難い発音だったが、ふみ江は嬉しそうな顔で何度も頷いている。世話の行き届いている病人は、ほんの少し薬臭かったけれど、鮮やかなバラの模様のタオルケットをかけられ、襟元には水色のタオルもかかっていて、とても明るく、清潔に見えた。
「明日ね」
ふみ江はベッドに近付き、松造の手をゆっくりとさすりながら柔らかく微笑《ほほえ》んでいる。
「お帽子を買いにいこうと思ってるのよ。おじいちゃん、お帽子好きでしょう?」
うう、とも、ああ、ともつかない曖昧《あいまい》な返事。それでもふみ江は嬉しそうに笑って法子を見上げた。
「昔っからね、お洒落《しやれ》な人だったの。だから、夏になる度に、新しいお帽子を買ってくるの。ねえ、おじいちゃん」
ああ、うう──。法子は、看病疲れも見せずに微笑んでいるふみ江に頷き返しながら、どうして彼女はこんなにいつも幸福そうなのだろうと思った。夫が寝たきりの状態になっているのに、七十歳を迎えた彼女は、いつでもとても満ち足りた表情をしている。
居間に戻ると、さっそく義父が「ところで」と声をかけてきた。
「どう、橋本のお宅は変わりはなかったかい」
法子としては、少しでも早く本庄屋のことを聞きたいと思っているのに、家族は誰も、そんな事件には何の興味もないように見えた。法子は内心ではやきもきしながらも、取りあえずはにっこりと笑い、鞄《かばん》から土産《みやげ》物を出した。健晴が「お土産、お土産!」と騒いでいたからだ。慣れてきたとはいえ、彼の不鮮明な声が大きく響くたびに、法子はどきりとさせられる。
「はい、たぁくんにも、お土産ね」
幼児に見せるのと同じ類《たぐい》の笑みを浮かべながら包みを取り出すと、健晴はまた大きな声を出してはしゃぐ。
「お土産、お土産! 僕の!」
家族からたぁくんと呼ばれている義弟は、法子が心配していた程の重度の知恵遅れではなかった。一応の会話も出来るし、排便や洋服を着ることなどは自分で出来る。言うなれば四、五歳程度で止まっている、という感じだ。本当ならば、高校三年生の年齢だったが、彼は今は養護学校へも行かず、ずっと家にいる。
「嫌だ、たぁくん、お行儀悪いなあ、もう」
隣で綾乃がにこにこと笑いながら、懸命に包みを解こうとする彼を手伝ってやっている。法子は、柔らかい微笑みを浮かべたまま、少しの間、姉と弟を眺めた。幼い頃から、この二人はずっとこうして寄り添ってきたのに違いない。駄々っ子でわがままな部分のある健晴は、家族の誰よりも綾乃に対して、一番素直だった。
「それで、本庄屋さんのことですけど」
「お父さんやお母さんは、お変わりはなかった?」
「あ──はい」
夕食前だというのに、健晴はすぐに土産物の菓子を頬張《ほおば》り始めた。
「昨日のテレビも母と観ていたんですけど──」
「久しぶりに会って、安心なさったんじゃないのかね」
どうもタイミングを逸《そ》らされている気分になる。それでも、気遣ってくれているのは有難いのだ。法子は問われるままに実家の近況を報告した。父のこと、母のこと、兄のこと。にこにこと笑いながら嫁の実家の話を聞いてくれているという点では、法子は彼らに感謝しなければならないと思う。だが、とにかく本庄屋の話を聞きたかった。
「母も心配していたんですけど」
「お母さんが? 何を」
やっとタイミングが掴《つか》めた。法子は身を乗り出さんばかりにして「本庄屋さんのこと」と言った。
「お葬式をうちで出すって、本当なんですか?」
だが、家族は誰も特に表情も変えることなく、誰もが一様に頷《うなず》いただけだった。
「他に身寄りもないみたいだったから、仕方がないっていうことになってね。大したことはしてあげられないだろうけど、そうでもしないと──」
義父の武雄は、そこまで言ってくるりと公恵を見る。
「一応はご縁のあった人達なんだし、な」
公恵はそこで大きく頷いて「寝覚めが悪いでしょう、そうでもしないと」と言った。それは、そうかも知れない。五十年近くも付き合いがあったのならば、その気持ちも分からないではなかった。
「どうして無理心中なんかしたんでしょう」
「さあ。よその家のことは、よく分からないからねえ」
武雄の口調は曖昧《あいまい》なものだった。そして、また公恵の方を見る。公恵は武雄に目で頷いてから、小さくため息をついた。
「あんなにめちゃめちゃになっちゃったんだから、遺書を遺《のこ》していたって、見つからないでしょうしね」
法子は昨日のニュースで見た映像を思い出した。あれから夜まで、法子はテレビのチャンネルを換え続け、少しでも多くの情報を得ようとした。少なくとも四、五回は同じ映像を見たし、今朝の新聞にも大きな記事が出ていた。
「気の毒ですねえ。何も無理心中なんか」
「仕方がないんじゃない? そういう運命だったんでしょう」
案外淡々とした口調で呟《つぶや》いたのは松造の部屋から戻ってきたふみ江だった。松造に話しかける時とも、家族の誰と話す時とも全く雰囲気の違う、それはひどくよそよそしい口調に聞こえた。
──だって、親戚づきあいしてたんじゃないの? だから、お葬式まで出してあげるんじゃないの?
法子の中に、昨日と同じような小さなひっかかりが出来た。それに、いつも朗らかで善良そのものの彼らにしては、どうも雰囲気が違う気がする。
「あの、今夜は──仮通夜《かりつや》、ですか?」
「一応はそういうことになるんだろうけど。今夜のところはね、まだ病院で預かってもらってるの。明日、葬儀屋さんが受け取りにいくんじゃないかしらね」
公恵の声は相変わらず高く陽気で、まるでペットでも預かってもらっているような口ぶりに聞こえる。法子は彼らの誰一人として、店子《たなこ》にあたる本庄屋の不幸を悲しんでなどいないのだと確信した。おそらくヱイの一言で、取りあえず葬式だけは出してやることにしたのだろうが、心がこもっているわけではない。義理か見栄か、そんなところだ。
「でもね、お寺さんを頼もうにも、宗派のことだって、うちのお父さんが何となく聞いたことがあるような気がするっていうだけで、うろ覚え。はっきりしないのよ。困っちゃうわ」
その声は、ちっとも困って聞こえない。法子は、具体的な葬儀の相談をしているとも思えない雰囲気の中で彼らの会話を聞いていた。
「お父さん、やっぱり、無宗教にしてもらった方がいいわよ。ね、そうしましょう」
「だって、もう葬儀屋に頼んだろう?」
「お父さんの記憶が違ってたら、後々大変なことになるでしょう? 親戚だって見つかるか分からないんだもの。無宗教で頼みましょう、ね」
「じゃあ──電話しておくか」
「そうして。お父さんは、どこか抜けてるところがあるんだから。その方が安全だわ」
公恵が言ってのけると、家族はころころと声を合わせて笑った。
この数ヵ月の間に、法子も学んでいた。義父の武雄という人は、恰幅《かつぷく》の良い外見からはとても想像出来ないのだが、たいへんに気の弱いところがあった。何をするにも公恵に判断を仰ぎ、よくよく相談した上で実行に移さなければいられないようなところがあるのだ。その気の弱さや小心さを、家族はよくからかって笑った。
「もしも、後でとやかく言われるとしたら、矢面にたたなきゃならないのはお父さんなんだからね。そんなの、嫌でしょう?」
公恵に言われると、義父は顔を赤らめたまま「まあね」と言う。法子は、そんな義父の素直なところにも、いつも驚かされていた。法子の父など、母や兄などにそんなことを言われたら「馬鹿にするな!」と怒鳴るところだ。だが武雄は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、すごすごと電話をかけにいった。
やがて、居間の前の廊下を人の通る音がして「お邪魔しました」という控え目な声が聞こえてきた。ヱイの元を訪れていた客が帰るのだ。彼らは、大抵、ヱイ以外の家族とはそれほど話をしようとはせず、何かの用件が終わると静かに帰っていく。法子が、それではヱイに挨拶《あいさつ》にいこうかと考えている時、客と入れ代わりに和人が帰ってきた。玄関まで迎えに出ると、彼はわずかに眩《まぶ》しそうな顔で法子を見上げ「やあ」と言った。
「嬉《うれ》しいくせに、格好つけちゃって」
後ろからついて来ていた綾乃がにやにやと笑いながらからかった。健晴だけは、知能が低いせいだろうか、表情が薄い感じがして雰囲気が異なるが、和人と綾乃はよく似ている。
「嬉しいに決まってるだろう? 大事な嫁さんが帰ってきたんだから」
靴を脱ぎながら、涼しい顔で妹に言ってのける和人を、法子は心の底から愛《いと》しいと思った。実家から離れるのは、やはり少し淋《さび》しいが、それでも和人と暮らせる嬉しさの方が、申し訳ないけれど、ずっと勝っている。
「たいへんだったわね。実家でも心配してたのよ」
彼に近付いてそっと囁《ささや》くと、和人は小さく頷《うなず》いた。その瞳に沈痛な表情を読みとることが出来て、法子はようやく少し安心することができた。他の家族はけろりとしているが、和人はやはり心を痛めている。家を貸していた人々の不幸な死を、敏感な心で受け止めているに違いない。
「近所が建て込んでなかったのが不幸中の幸いだよね。あれで隣近所まで火が移ってたら、もっと大変なことになった」
彼の言葉に、法子は深く頷いた。和人は、少しの間しみじみとした表情で法子の顔を見つめ、それからにこりと笑って「後でね」と囁いた。とにかく、夫婦の部屋に戻るまでは、法子達は手を触れあうことすらなかなか出来なかった。
数日ぶりの大家族の食卓は、やはり賑《にぎ》やかなものだった。健晴は時折奇声を上げるし、あちこちで違う会話が飛び交って、収拾がつかない感じがする。
「アサガオの種が、そろそろ出来てきたわね」
公恵がにこにこと笑いながら言った。
「じゃあ、明日からでも少しずつとっておこうかしらね」
頷きながら答えたのはふみ江だった。「ヒルガオも、もう終わりよ」と綾乃が口を挟む。
「ゲンノショウコが、そろそろ咲きそうね」
「じゃあ、センブリもそろそろかしらね」
何日かに一度は、こういう会話が聞かれる。その度に、法子は家族が雑然と生やしているように見える庭の植物に注意を払い、その名前をよく知っていることに驚かされる。
けれど、とにかく今夜の主人公は法子だった。
「お友達とは会えた?」
「お父様の腰痛は、どうだった?」
「車を買い替えるって、お父さんは、何に乗ってらしたんだったかな」
「ねえ、お兄さんは、縁談はまだないんですって?」
ありとあらゆる質問が飛んできて、それに答えている間にも話題はどんどんと流れていく。世代の違う人々は声のトーンも口調も様々で、法子は食べるのと喋《しやべ》るのとで精一杯だった。その間も、いつもの通り、ふみ江は途中で何度か席を立ち、松造の様子を見にいっていた。
狭い家ならば、食堂の隣の部屋に病人を寝かせておいて、食卓の風景を見せてやることも可能なのだろうが、この家は逆に広くて、ふみ江達の寝室からは幾分離れていた。
「大ばばちゃんのお部屋、もう電気が消えてるわね」
何度目かに席を立って戻ってきたときにふみ江が言った。それから、にっこりと笑いながら法子を見る。
「ご挨拶《あいさつ》は、明日でいいわよ。昨日みたいなことがあって、大ばばちゃんも疲れてるのかも知れないから」
法子は、ヱイに帰宅の挨拶が出来なかったことを申し訳なく思いながら小さく頷いた。葬式を出してやれとまで言うからには、ヱイにはヱイなりの色々な思いがあるのに違いない。あの小さな身体を横たえて、浅い眠りの中で何を思っているのだろうと思うと、気の毒な気がした。
夜も更《ふ》けて、ようやく家族が各々の部屋に戻ると、法子と和人も二階の夫婦の部屋に引き上げた。
「ありがとう」
風呂《ふろ》上がりの彼からは石鹸《せつけん》の良い香りがする。そのパジャマの肩に頬《ほお》をつけて、法子はうっとりと目を閉じた。
「久しぶりに母たちに会えて、やっぱり嬉しかったわ」
和人のあたたかい手が法子の手を握ってくる。それから二人は長い口づけを交わした。
「君も、入ってくるといいよ。疲れてるだろう? 布団、敷いておくから」
法子はにっこりと笑って頷き、それからいそいそと着替えを用意した。早くも押入を開け、布団を敷き始めている和人に軽く手を振り、とんとんと階段を降りて浴室へ行く。今夜はもう、他の家族は全員風呂から上がっているはずだった。
何のためらいもなく脱衣所の扉を開けると、だが、湯を使う音が聞こえてきた。法子は目の前の脱衣|籠《かご》を見た。脱ぎ捨てた服のいちばん上に、木綿の小さな下着がのっていた。急いでそっと脱衣室から出ようとしたとき、浴室から微《かす》かな笑い声が聞こえてきた。媚《こ》びを含み、艶《なまめ》かしく聞こえるその声は、綾乃に違いなかった。
「駄目だったら、もう。いい子にして」
法子は振り返り、改めて脱衣籠を見た。綾乃の下着とパジャマの下に、確かにもう一組のパジャマがある。よく響く、くすくすという笑い声を聞きながら、法子はそれが健晴のものであることを認めた。
「淋しかったわ、法子さんがいなくて」
「家族が一人でも欠けると、やっぱり変なものよねえ」
玄関に入るなり、まず迎えに出てきた公恵とふみ江が声を揃《そろ》えて言った。法子は、いつもながら満面の笑みを浮かべている二人に軽く頭を下げながら、「ああ、帰ってきてしまった」と思った。嫌というのではないが、そう思った。それにしても、彼女たちは嫁と姑とは言いながら驚くほど仲が良い。少しの間でも離れていたせいか、二人並んで、いそいそと法子の荷物を運んでくれる後ろを、わずかな疎外感を覚えながらついて居間に行くと、和人を除く家族全員が待ちかまえていた。
「和人はきっと今ごろやきもきしてるわね」
「そりゃあ、そうでしょう。結婚して初めて、こんなに離れてたんだものねえ」
「お兄ちゃん、お昼頃からそわそわしてたわね」
綾乃まで加わって、にこにこと笑われて、法子は思わず頬《ほお》を赤らめた。
「あ、私、大ばばちゃんにご挨拶《あいさつ》しないと」
いくらざっくばらんな家庭でも、やはり夫の家族に冷やかされるのは照れくさい。法子はそわそわと腰を浮かそうとした。まずは離れに行って曾祖母のヱイに帰宅の挨拶をし、それから祖父の松造にも声をかける。それが、外出から戻った時のしきたりのようなものだった。ところが、公恵が「あ」と言った。
「大ばばちゃん、今、お客様なの」
綾乃がわずかばかり早口で言った。とにかくヱイの元には来客が多い。百歳に近い老婆の知恵を借りようというのだろうか、多い時には一日に数人の来客があった。
「じゃあ、おじいちゃんに」
法子が頷《うなず》きながら言うと、ふみ江が「はいはい、おじいちゃんにね」と言って一緒に立ち上がった。寝たきりの祖父に用事があることなど滅多になかったが、ふみ江は家族の誰かが松造に近付こうとすると必ず同行する癖があった。
松造は、数年前に脳梗塞《のうこうそく》の発作を起こして、右半身が不随の状態だった。ふみ江も共に寝起きしている部屋は、南向きの日当たりの良い位置にあって、松造が発作を起こした時に改装して部屋の半分が板張りになっている。病人の為の介護用ベッドを置く為だったが、その大きなベッドがかなりのスペースを占めても、部屋にはまだまだゆとりがあった。
「おじいちゃん、法子さんが戻ってきたのよ」
ふみ江が声をかけると、松造はゆっくりと法子の方を見る。白く光る髭《ひげ》に囲まれた口元がゆっくりと「おかえり」と動いた。明確とは言い難い発音だったが、ふみ江は嬉しそうな顔で何度も頷いている。世話の行き届いている病人は、ほんの少し薬臭かったけれど、鮮やかなバラの模様のタオルケットをかけられ、襟元には水色のタオルもかかっていて、とても明るく、清潔に見えた。
「明日ね」
ふみ江はベッドに近付き、松造の手をゆっくりとさすりながら柔らかく微笑《ほほえ》んでいる。
「お帽子を買いにいこうと思ってるのよ。おじいちゃん、お帽子好きでしょう?」
うう、とも、ああ、ともつかない曖昧《あいまい》な返事。それでもふみ江は嬉しそうに笑って法子を見上げた。
「昔っからね、お洒落《しやれ》な人だったの。だから、夏になる度に、新しいお帽子を買ってくるの。ねえ、おじいちゃん」
ああ、うう──。法子は、看病疲れも見せずに微笑んでいるふみ江に頷き返しながら、どうして彼女はこんなにいつも幸福そうなのだろうと思った。夫が寝たきりの状態になっているのに、七十歳を迎えた彼女は、いつでもとても満ち足りた表情をしている。
居間に戻ると、さっそく義父が「ところで」と声をかけてきた。
「どう、橋本のお宅は変わりはなかったかい」
法子としては、少しでも早く本庄屋のことを聞きたいと思っているのに、家族は誰も、そんな事件には何の興味もないように見えた。法子は内心ではやきもきしながらも、取りあえずはにっこりと笑い、鞄《かばん》から土産《みやげ》物を出した。健晴が「お土産、お土産!」と騒いでいたからだ。慣れてきたとはいえ、彼の不鮮明な声が大きく響くたびに、法子はどきりとさせられる。
「はい、たぁくんにも、お土産ね」
幼児に見せるのと同じ類《たぐい》の笑みを浮かべながら包みを取り出すと、健晴はまた大きな声を出してはしゃぐ。
「お土産、お土産! 僕の!」
家族からたぁくんと呼ばれている義弟は、法子が心配していた程の重度の知恵遅れではなかった。一応の会話も出来るし、排便や洋服を着ることなどは自分で出来る。言うなれば四、五歳程度で止まっている、という感じだ。本当ならば、高校三年生の年齢だったが、彼は今は養護学校へも行かず、ずっと家にいる。
「嫌だ、たぁくん、お行儀悪いなあ、もう」
隣で綾乃がにこにこと笑いながら、懸命に包みを解こうとする彼を手伝ってやっている。法子は、柔らかい微笑みを浮かべたまま、少しの間、姉と弟を眺めた。幼い頃から、この二人はずっとこうして寄り添ってきたのに違いない。駄々っ子でわがままな部分のある健晴は、家族の誰よりも綾乃に対して、一番素直だった。
「それで、本庄屋さんのことですけど」
「お父さんやお母さんは、お変わりはなかった?」
「あ──はい」
夕食前だというのに、健晴はすぐに土産物の菓子を頬張《ほおば》り始めた。
「昨日のテレビも母と観ていたんですけど──」
「久しぶりに会って、安心なさったんじゃないのかね」
どうもタイミングを逸《そ》らされている気分になる。それでも、気遣ってくれているのは有難いのだ。法子は問われるままに実家の近況を報告した。父のこと、母のこと、兄のこと。にこにこと笑いながら嫁の実家の話を聞いてくれているという点では、法子は彼らに感謝しなければならないと思う。だが、とにかく本庄屋の話を聞きたかった。
「母も心配していたんですけど」
「お母さんが? 何を」
やっとタイミングが掴《つか》めた。法子は身を乗り出さんばかりにして「本庄屋さんのこと」と言った。
「お葬式をうちで出すって、本当なんですか?」
だが、家族は誰も特に表情も変えることなく、誰もが一様に頷《うなず》いただけだった。
「他に身寄りもないみたいだったから、仕方がないっていうことになってね。大したことはしてあげられないだろうけど、そうでもしないと──」
義父の武雄は、そこまで言ってくるりと公恵を見る。
「一応はご縁のあった人達なんだし、な」
公恵はそこで大きく頷いて「寝覚めが悪いでしょう、そうでもしないと」と言った。それは、そうかも知れない。五十年近くも付き合いがあったのならば、その気持ちも分からないではなかった。
「どうして無理心中なんかしたんでしょう」
「さあ。よその家のことは、よく分からないからねえ」
武雄の口調は曖昧《あいまい》なものだった。そして、また公恵の方を見る。公恵は武雄に目で頷いてから、小さくため息をついた。
「あんなにめちゃめちゃになっちゃったんだから、遺書を遺《のこ》していたって、見つからないでしょうしね」
法子は昨日のニュースで見た映像を思い出した。あれから夜まで、法子はテレビのチャンネルを換え続け、少しでも多くの情報を得ようとした。少なくとも四、五回は同じ映像を見たし、今朝の新聞にも大きな記事が出ていた。
「気の毒ですねえ。何も無理心中なんか」
「仕方がないんじゃない? そういう運命だったんでしょう」
案外淡々とした口調で呟《つぶや》いたのは松造の部屋から戻ってきたふみ江だった。松造に話しかける時とも、家族の誰と話す時とも全く雰囲気の違う、それはひどくよそよそしい口調に聞こえた。
──だって、親戚づきあいしてたんじゃないの? だから、お葬式まで出してあげるんじゃないの?
法子の中に、昨日と同じような小さなひっかかりが出来た。それに、いつも朗らかで善良そのものの彼らにしては、どうも雰囲気が違う気がする。
「あの、今夜は──仮通夜《かりつや》、ですか?」
「一応はそういうことになるんだろうけど。今夜のところはね、まだ病院で預かってもらってるの。明日、葬儀屋さんが受け取りにいくんじゃないかしらね」
公恵の声は相変わらず高く陽気で、まるでペットでも預かってもらっているような口ぶりに聞こえる。法子は彼らの誰一人として、店子《たなこ》にあたる本庄屋の不幸を悲しんでなどいないのだと確信した。おそらくヱイの一言で、取りあえず葬式だけは出してやることにしたのだろうが、心がこもっているわけではない。義理か見栄か、そんなところだ。
「でもね、お寺さんを頼もうにも、宗派のことだって、うちのお父さんが何となく聞いたことがあるような気がするっていうだけで、うろ覚え。はっきりしないのよ。困っちゃうわ」
その声は、ちっとも困って聞こえない。法子は、具体的な葬儀の相談をしているとも思えない雰囲気の中で彼らの会話を聞いていた。
「お父さん、やっぱり、無宗教にしてもらった方がいいわよ。ね、そうしましょう」
「だって、もう葬儀屋に頼んだろう?」
「お父さんの記憶が違ってたら、後々大変なことになるでしょう? 親戚だって見つかるか分からないんだもの。無宗教で頼みましょう、ね」
「じゃあ──電話しておくか」
「そうして。お父さんは、どこか抜けてるところがあるんだから。その方が安全だわ」
公恵が言ってのけると、家族はころころと声を合わせて笑った。
この数ヵ月の間に、法子も学んでいた。義父の武雄という人は、恰幅《かつぷく》の良い外見からはとても想像出来ないのだが、たいへんに気の弱いところがあった。何をするにも公恵に判断を仰ぎ、よくよく相談した上で実行に移さなければいられないようなところがあるのだ。その気の弱さや小心さを、家族はよくからかって笑った。
「もしも、後でとやかく言われるとしたら、矢面にたたなきゃならないのはお父さんなんだからね。そんなの、嫌でしょう?」
公恵に言われると、義父は顔を赤らめたまま「まあね」と言う。法子は、そんな義父の素直なところにも、いつも驚かされていた。法子の父など、母や兄などにそんなことを言われたら「馬鹿にするな!」と怒鳴るところだ。だが武雄は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、すごすごと電話をかけにいった。
やがて、居間の前の廊下を人の通る音がして「お邪魔しました」という控え目な声が聞こえてきた。ヱイの元を訪れていた客が帰るのだ。彼らは、大抵、ヱイ以外の家族とはそれほど話をしようとはせず、何かの用件が終わると静かに帰っていく。法子が、それではヱイに挨拶《あいさつ》にいこうかと考えている時、客と入れ代わりに和人が帰ってきた。玄関まで迎えに出ると、彼はわずかに眩《まぶ》しそうな顔で法子を見上げ「やあ」と言った。
「嬉《うれ》しいくせに、格好つけちゃって」
後ろからついて来ていた綾乃がにやにやと笑いながらからかった。健晴だけは、知能が低いせいだろうか、表情が薄い感じがして雰囲気が異なるが、和人と綾乃はよく似ている。
「嬉しいに決まってるだろう? 大事な嫁さんが帰ってきたんだから」
靴を脱ぎながら、涼しい顔で妹に言ってのける和人を、法子は心の底から愛《いと》しいと思った。実家から離れるのは、やはり少し淋《さび》しいが、それでも和人と暮らせる嬉しさの方が、申し訳ないけれど、ずっと勝っている。
「たいへんだったわね。実家でも心配してたのよ」
彼に近付いてそっと囁《ささや》くと、和人は小さく頷《うなず》いた。その瞳に沈痛な表情を読みとることが出来て、法子はようやく少し安心することができた。他の家族はけろりとしているが、和人はやはり心を痛めている。家を貸していた人々の不幸な死を、敏感な心で受け止めているに違いない。
「近所が建て込んでなかったのが不幸中の幸いだよね。あれで隣近所まで火が移ってたら、もっと大変なことになった」
彼の言葉に、法子は深く頷いた。和人は、少しの間しみじみとした表情で法子の顔を見つめ、それからにこりと笑って「後でね」と囁いた。とにかく、夫婦の部屋に戻るまでは、法子達は手を触れあうことすらなかなか出来なかった。
数日ぶりの大家族の食卓は、やはり賑《にぎ》やかなものだった。健晴は時折奇声を上げるし、あちこちで違う会話が飛び交って、収拾がつかない感じがする。
「アサガオの種が、そろそろ出来てきたわね」
公恵がにこにこと笑いながら言った。
「じゃあ、明日からでも少しずつとっておこうかしらね」
頷きながら答えたのはふみ江だった。「ヒルガオも、もう終わりよ」と綾乃が口を挟む。
「ゲンノショウコが、そろそろ咲きそうね」
「じゃあ、センブリもそろそろかしらね」
何日かに一度は、こういう会話が聞かれる。その度に、法子は家族が雑然と生やしているように見える庭の植物に注意を払い、その名前をよく知っていることに驚かされる。
けれど、とにかく今夜の主人公は法子だった。
「お友達とは会えた?」
「お父様の腰痛は、どうだった?」
「車を買い替えるって、お父さんは、何に乗ってらしたんだったかな」
「ねえ、お兄さんは、縁談はまだないんですって?」
ありとあらゆる質問が飛んできて、それに答えている間にも話題はどんどんと流れていく。世代の違う人々は声のトーンも口調も様々で、法子は食べるのと喋《しやべ》るのとで精一杯だった。その間も、いつもの通り、ふみ江は途中で何度か席を立ち、松造の様子を見にいっていた。
狭い家ならば、食堂の隣の部屋に病人を寝かせておいて、食卓の風景を見せてやることも可能なのだろうが、この家は逆に広くて、ふみ江達の寝室からは幾分離れていた。
「大ばばちゃんのお部屋、もう電気が消えてるわね」
何度目かに席を立って戻ってきたときにふみ江が言った。それから、にっこりと笑いながら法子を見る。
「ご挨拶《あいさつ》は、明日でいいわよ。昨日みたいなことがあって、大ばばちゃんも疲れてるのかも知れないから」
法子は、ヱイに帰宅の挨拶が出来なかったことを申し訳なく思いながら小さく頷いた。葬式を出してやれとまで言うからには、ヱイにはヱイなりの色々な思いがあるのに違いない。あの小さな身体を横たえて、浅い眠りの中で何を思っているのだろうと思うと、気の毒な気がした。
夜も更《ふ》けて、ようやく家族が各々の部屋に戻ると、法子と和人も二階の夫婦の部屋に引き上げた。
「ありがとう」
風呂《ふろ》上がりの彼からは石鹸《せつけん》の良い香りがする。そのパジャマの肩に頬《ほお》をつけて、法子はうっとりと目を閉じた。
「久しぶりに母たちに会えて、やっぱり嬉しかったわ」
和人のあたたかい手が法子の手を握ってくる。それから二人は長い口づけを交わした。
「君も、入ってくるといいよ。疲れてるだろう? 布団、敷いておくから」
法子はにっこりと笑って頷き、それからいそいそと着替えを用意した。早くも押入を開け、布団を敷き始めている和人に軽く手を振り、とんとんと階段を降りて浴室へ行く。今夜はもう、他の家族は全員風呂から上がっているはずだった。
何のためらいもなく脱衣所の扉を開けると、だが、湯を使う音が聞こえてきた。法子は目の前の脱衣|籠《かご》を見た。脱ぎ捨てた服のいちばん上に、木綿の小さな下着がのっていた。急いでそっと脱衣室から出ようとしたとき、浴室から微《かす》かな笑い声が聞こえてきた。媚《こ》びを含み、艶《なまめ》かしく聞こえるその声は、綾乃に違いなかった。
「駄目だったら、もう。いい子にして」
法子は振り返り、改めて脱衣籠を見た。綾乃の下着とパジャマの下に、確かにもう一組のパジャマがある。よく響く、くすくすという笑い声を聞きながら、法子はそれが健晴のものであることを認めた。