12
薄い敷布団の上に座ってぼんやりしていると、うーん、という声がして、和人が大きく寝返りを打った。その瞬間に目が覚めたらしく、薄暗がりの中で身を起こしている法子を認めると、柔らかく微笑《ほほえ》みながら手を伸ばしてくる。
「もう、起きる時間?」
法子は、太腿《ふともも》の上に置かれた大好きな手を、情けない思いで見下ろしながら、何も答えなかった。和人はまだまどろみの世界にいて、法子が答えないことは気にならないらしく、もう一度、うーん、と声を出すと、微笑みを浮かべたまま再び眠りに落ちようとする。
法子は、彼の手から、そっと身体を外そうとした。だが、意に反して和人の手には力がこもり、今度は布団から身を乗り出してきて、さらに法子を抱き寄せようとする。
「──まだ、早いわ」
法子はやっとの思いでそう囁《ささや》いた。和人は目を閉じたまま、手探りで法子にしがみつき、今度は頭を膝《ひざ》に乗せてきた。そして、いかにも幸福そうに「法子」と呟《つぶや》く。
「もう着替えてるの」
「──目が、覚めちゃったから」
彼は「そう」と言いながら寝返りを打ち、その顔を法子の腹部に向けた。片手が法子の背中を撫《な》でる。法子からは、彫りの深い横顔と、丸い可愛らしい耳が見下ろせた。
「──大ばばちゃんは、歩けるの」
そっと呟くように言ってみた。だが、和人の動きに変化はなかった。手の動きも、呼吸も、まるで乱れない。
「──ねえ、おじいちゃんは、普通に喋《しやべ》れるの」
それでも和人は反応しない。法子は苛立《いらだ》ちが膨れ上がるのを感じ、彼の頭を自分の膝の上から押し退けたい衝動に駆られた。
「皆、何を隠してるの。ねえ、キチガイナスビって、どういうこと? あなたの家族は、私に何を隠してるのっ」
語気を荒らげて言ってしまうと、法子は彼の頭に手を置き、その下から膝を外そうとした。和人の腕に力が入った。法子は背中と尻《しり》を抱き寄せられる形になり、身動きが出来なくなった。
「放してっ」
恐怖に引きつりそうになりながら、法子は和人の横顔を見おろした。法子の腹部に顔を埋めていた和人は、そこでやっと力を緩めて顔を上げた。まだ、少しとろりとした目をしている。けれど、その表情はいつもと同じように穏やかで柔らかい。
「どうしたの、法子。寝ぼけたのかい」
法子は、心細さに涙さえ浮かびそうになりながら、その瞳をのぞき込んだ。子どものように澄み渡って、まるで陰りのない瞳をしている。
「──答えて。大ばばちゃんは、歩けるんでしょう? おじいちゃんだって、話せるのよね?」
和人はまじまじと法子を見ている。法子は、頭の芯《しん》が眠ったままのような、緊張しているのか弛緩《しかん》しているのか分からない状態で、その顔を見つめ返した。エアコンの風が周期的に顔を撫でる。
「大ばばちゃんは、歩けない。君だって知ってるだろう? それに、キチガイナスビって?」
「見たのよ! 歩いてたわ。歩いて、おじいちゃんの部屋に行った。庭で作ってるのは、キチガイナスビっていうんでしょう?」
和人はそこで身を起こし、法子の前にあぐらをかいた。法子はうつむいたまま、彼のパジャマの膝が自分の膝に触れそうな程に近づくのを見た。
「キチガイナスビなんて、僕は知らない。それから、大ばばちゃんが歩くっていうのも、知らない」
「でも、見たのよ!」
「じゃあ──」
そこで和人は大きく息を吐き出した。
「大ばばちゃんは歩いて、じいちゃんの部屋に行って、それで、どうした?」
「──喋ってたわ。何か」
両肩に手が置かれた。それからあくびを噛《か》み殺した声で「五時、か」と言うのが聞こえた。法子は自分もつられて枕元《まくらもと》の時計を見た。五時七分。ふだん起きる時間までには、まだ二時間以上もある。
「君は、それを見たのかい。大ばばちゃんが、じいちゃんと話してるところを」
法子は肩を掴《つか》まれたまま、力なくかぶりを振った。
「話してるところは──見てはいないわ」
絶望的な気分で前を見れば、そこには、まるで憐《あわ》れむような表情の和人の顔があった。その視線に出逢《であ》っただけで、法子は、自分がとてもいけないことをしてしまった気分にさせられた。
「大ばばちゃんの足は、もう十年以上も前から自由にならないんだ。それに、息子のじいちゃんが自分よりも先にあんなふうになったことを、大ばばちゃんは何よりも悲しんでる。せめて、普通に話せればいいのにって、いつも言ってるのは、君だって知ってるだろう?」
「でも──!」
「じゃあ、大ばばちゃんは君を見て、何て言った?」
法子は再びかぶりを振らなければならなかった。
「私──隠れたから。大ばばちゃんからは私は見えなかった」
「どうして隠れたの」
「だって──びっくりしたのよ。歩いてるのよ、杖《つえ》もつかわないで、しっかりと!」
急に抱き寄せられて、法子は抵抗も出来ず、彼の胸に顔を埋める形になった。
「夢でも見たんだ。そうとしか考えられないよ」
和人の押し殺した声は、いつになく深刻で、切なく苦しそうに聞こえた。
「君は見た、聞いたって言う。でも、昔のことはともかく、僕は大ばばちゃんが歩けることも、じいちゃんが喋れることも知らない。生まれた時から、ずっと一緒に暮らしてきてる僕がだよ」
「────」
抱きしめられたまま、法子は頭の混乱をどうすることも出来ず、ただ不安でたまらなくて、目を閉じていた。
「もしも、君が見たり聞いたりしたものが本当だとしたら、どうして僕にまで秘密にする必要がある? もしも、君が見かけたんだとしたら、どうして、大ばばちゃんもおじいちゃんも、君と話さなかった?」
「だから、私は隠れて──」
「家族じゃないか。隠れることなんか、何もないじゃないか。大ばばちゃんだって、じいちゃんだって、君が今朝、自分達の姿を見たとは言わない。だって、見てないんだ」
「見たのっ。見たのよ!」
和人の胸の中で、法子は苛立《いらだ》った声を上げた。和人は法子を抱きしめたまま、「落ち着くんだ」と囁いただけだった。
「──見たのよ、私、たった今。そして、お義母《かあ》さんに見つかったの。お義母さん、能面みたいな顔をして、まだ早いからって言ったわ。私をここへ押し返したの」
「おふくろが、そんなことするわけ、ないだろう? 寝ぼけたんだよ。そうじゃなかったら、夢を見たんだ」
「違うっ、夢なんかじゃないわっ!」
和人の手にますます力が入った。法子は、彼の大きな手が自分の頭をしっかりと抑えているのを感じた。その温もりこそは、法子の大好きなものだった。それなのに、今はその手にもっと力が加わって、法子を窒息させようとしている気がした。
「君のことだから、大ばばちゃんが歩けたらいいのに、じいちゃんは喋れたらいいのにって、そう考えてくれてたんだろう? だから、それが夢になって出てきたんだよ」
和人の声は、その手の力強さとは裏腹に、とても柔らかい。だが、そうではないと法子の心は叫んでいた。寝ぼけてなどいるはずがない。
「君が──心配だ。何だか、最近の君はおかしいよ」
おかしいのはあなた達でしょう、と言いたかった。けれど、その前に和人は大きなため息をつき、法子を抱き寄せる腕にはますます力がこもった。
「僕が気がついてないとでも思うのか? 実家で何かあったのかい」
法子は、彼の胸に顔を埋めたまま、弱々しく首を振ろうとした。けれど、額も頬《ほお》も、彼のパジャマに密着していて、ほとんど自由には動かない。
「帰ってきてからの君は、何だか本当におかしいよ。ねえ、何かあったんなら、話してくれよ。僕ら、夫婦じゃないか」
法子は自分の中に、急速に無力感が広がってくるのを感じていた。夫婦という言葉が、重くのしかかってくる。自分は絶対におかしくなどない。何かを隠し、策略を練っているのは、和人の家族に違いないのだ。だが、何を言っても無駄だ、彼らには通じないという思いの方が勝っていた。
「──寝ぼけた、のかしら」
投げやりな気持ちで呟《つぶや》くと、ようやく和人は法子から顔を放し、慈《いつく》しむような目で法子を見た。
「そうだよ。帰ってくるなり、通夜だ葬式だって引っ張り回されて、疲れたんだ。疲れ過ぎてる時には、よく眠れなくなるものだからね」
和人の腕から力が抜けた。法子は彼から身体を離し、小さくため息をついた。帰れるものならば、実家に帰ってしまいたい。母だって、いつでも戻っていらっしゃいと言ってくれていた。けれど、法子は絶対にこの結婚を失敗に終わらせたくないと心に誓った。意地でも、泣いて戻ったりしたくはなかった。
「ちょうど、疲れが出る頃だろうって、おふくろも言ってたんだ。結婚したての緊張が少しは解けて、その代わりに疲れが出るって」
和人の指が、法子の額にかかった髪をかきあげてくれる。その乾いた感触や柔らかい声は、法子の大好きなものだった。
「当たり前だよね、これまでの君の人生とはまるで違う世界に、一人で乗り込んできたんだ。疲れて当然だ」
「──そんなこと」
「君は、後悔してるの?」
唐突に質問されて、法子はぼんやりと顔を上げた。和人の真剣な顔が目の前にある。
「────」
「ねえ、そうなのかい? 久しぶりに橋本のお家に帰って、気持ちが変わったのかい?」
両親、兄、親戚《しんせき》の顔がちらついた。たった四ヵ月足らずで、この結婚が破綻《はたん》するとなったら、彼らはどれほど心を痛めることだろう。そんなことは、絶対に許されない。誰が許さないのでもなく、法子自身がそう思っていた。
いっそ、全てが妄想であってくれれば、疲れからくる悪夢だったのなら、それに越したことはないのだと、そういう気にもなる。とにかく、法子は和人からは離れたくないのだ。その思いだけは変わらない。
「──してないわ、後悔なんて」
結局、自分に言い聞かせるように、法子はゆっくりと呟いた。和人の安堵《あんど》のため息は、深々と長く、それに次いで「良かった」と聞こえた囁きは、心の底から言っていると信じられた。
「前にも言ったろう? 直すところがあるんだったら、それは僕の家族の役目だ。君を不安に陥れたんだとしたら、それは僕の家族の責任だ。何が、そんなに君を──」
「──私、二人だけで暮らしたい」
思いきって言うと、和人の瞳に絶望的な色が溢《あふ》れた。けれど、法子は彼にしがみつきながら「お願いよ」と言った。
「そんなに離れていなくてもいいの。とにかく、二人だけで暮らしたいのよ。誰にも邪魔されないで、二人だけで」
和人は呻《うめ》くような声を唇から洩《も》らし、法子の背を柔らかく撫《な》でた。
「僕の家族が、君に何かしたのかい。意地悪を言った? 嫌みなことでもした? それとも、口うるさく干渉したのかい」
法子は激しくかぶりを振り、必死で「違うの!」と言った。
「違うの! でも、二人になりたいのよ!」
「理由もなしにかっ」
それは、初めて耳にする和人の怒鳴り声だった。法子は大きく目を見開き、唇を震わして和人を見つめた。
「──頼むよ。分かってくれよ。君に嫌われたくない一心で、おふくろ達だって一生懸命なんだよ」
思わず涙がこみ上げてきて、法子は唇を噛みしめて俯《うつむ》いてしまった。和人のあたたかい手は、幼い子どもをあやすように、そっと法子をさすり続けている。
「──今度の休みに、少し遠出しようか。そうすれば、気分も変わる」
それから法子は和人の温かい唇を受けた。頭のいちばん奥で、もうこの家からは逃げ出せないのだろうかと思っていた。
「もう、起きる時間?」
法子は、太腿《ふともも》の上に置かれた大好きな手を、情けない思いで見下ろしながら、何も答えなかった。和人はまだまどろみの世界にいて、法子が答えないことは気にならないらしく、もう一度、うーん、と声を出すと、微笑みを浮かべたまま再び眠りに落ちようとする。
法子は、彼の手から、そっと身体を外そうとした。だが、意に反して和人の手には力がこもり、今度は布団から身を乗り出してきて、さらに法子を抱き寄せようとする。
「──まだ、早いわ」
法子はやっとの思いでそう囁《ささや》いた。和人は目を閉じたまま、手探りで法子にしがみつき、今度は頭を膝《ひざ》に乗せてきた。そして、いかにも幸福そうに「法子」と呟《つぶや》く。
「もう着替えてるの」
「──目が、覚めちゃったから」
彼は「そう」と言いながら寝返りを打ち、その顔を法子の腹部に向けた。片手が法子の背中を撫《な》でる。法子からは、彫りの深い横顔と、丸い可愛らしい耳が見下ろせた。
「──大ばばちゃんは、歩けるの」
そっと呟くように言ってみた。だが、和人の動きに変化はなかった。手の動きも、呼吸も、まるで乱れない。
「──ねえ、おじいちゃんは、普通に喋《しやべ》れるの」
それでも和人は反応しない。法子は苛立《いらだ》ちが膨れ上がるのを感じ、彼の頭を自分の膝の上から押し退けたい衝動に駆られた。
「皆、何を隠してるの。ねえ、キチガイナスビって、どういうこと? あなたの家族は、私に何を隠してるのっ」
語気を荒らげて言ってしまうと、法子は彼の頭に手を置き、その下から膝を外そうとした。和人の腕に力が入った。法子は背中と尻《しり》を抱き寄せられる形になり、身動きが出来なくなった。
「放してっ」
恐怖に引きつりそうになりながら、法子は和人の横顔を見おろした。法子の腹部に顔を埋めていた和人は、そこでやっと力を緩めて顔を上げた。まだ、少しとろりとした目をしている。けれど、その表情はいつもと同じように穏やかで柔らかい。
「どうしたの、法子。寝ぼけたのかい」
法子は、心細さに涙さえ浮かびそうになりながら、その瞳をのぞき込んだ。子どものように澄み渡って、まるで陰りのない瞳をしている。
「──答えて。大ばばちゃんは、歩けるんでしょう? おじいちゃんだって、話せるのよね?」
和人はまじまじと法子を見ている。法子は、頭の芯《しん》が眠ったままのような、緊張しているのか弛緩《しかん》しているのか分からない状態で、その顔を見つめ返した。エアコンの風が周期的に顔を撫でる。
「大ばばちゃんは、歩けない。君だって知ってるだろう? それに、キチガイナスビって?」
「見たのよ! 歩いてたわ。歩いて、おじいちゃんの部屋に行った。庭で作ってるのは、キチガイナスビっていうんでしょう?」
和人はそこで身を起こし、法子の前にあぐらをかいた。法子はうつむいたまま、彼のパジャマの膝が自分の膝に触れそうな程に近づくのを見た。
「キチガイナスビなんて、僕は知らない。それから、大ばばちゃんが歩くっていうのも、知らない」
「でも、見たのよ!」
「じゃあ──」
そこで和人は大きく息を吐き出した。
「大ばばちゃんは歩いて、じいちゃんの部屋に行って、それで、どうした?」
「──喋ってたわ。何か」
両肩に手が置かれた。それからあくびを噛《か》み殺した声で「五時、か」と言うのが聞こえた。法子は自分もつられて枕元《まくらもと》の時計を見た。五時七分。ふだん起きる時間までには、まだ二時間以上もある。
「君は、それを見たのかい。大ばばちゃんが、じいちゃんと話してるところを」
法子は肩を掴《つか》まれたまま、力なくかぶりを振った。
「話してるところは──見てはいないわ」
絶望的な気分で前を見れば、そこには、まるで憐《あわ》れむような表情の和人の顔があった。その視線に出逢《であ》っただけで、法子は、自分がとてもいけないことをしてしまった気分にさせられた。
「大ばばちゃんの足は、もう十年以上も前から自由にならないんだ。それに、息子のじいちゃんが自分よりも先にあんなふうになったことを、大ばばちゃんは何よりも悲しんでる。せめて、普通に話せればいいのにって、いつも言ってるのは、君だって知ってるだろう?」
「でも──!」
「じゃあ、大ばばちゃんは君を見て、何て言った?」
法子は再びかぶりを振らなければならなかった。
「私──隠れたから。大ばばちゃんからは私は見えなかった」
「どうして隠れたの」
「だって──びっくりしたのよ。歩いてるのよ、杖《つえ》もつかわないで、しっかりと!」
急に抱き寄せられて、法子は抵抗も出来ず、彼の胸に顔を埋める形になった。
「夢でも見たんだ。そうとしか考えられないよ」
和人の押し殺した声は、いつになく深刻で、切なく苦しそうに聞こえた。
「君は見た、聞いたって言う。でも、昔のことはともかく、僕は大ばばちゃんが歩けることも、じいちゃんが喋れることも知らない。生まれた時から、ずっと一緒に暮らしてきてる僕がだよ」
「────」
抱きしめられたまま、法子は頭の混乱をどうすることも出来ず、ただ不安でたまらなくて、目を閉じていた。
「もしも、君が見たり聞いたりしたものが本当だとしたら、どうして僕にまで秘密にする必要がある? もしも、君が見かけたんだとしたら、どうして、大ばばちゃんもおじいちゃんも、君と話さなかった?」
「だから、私は隠れて──」
「家族じゃないか。隠れることなんか、何もないじゃないか。大ばばちゃんだって、じいちゃんだって、君が今朝、自分達の姿を見たとは言わない。だって、見てないんだ」
「見たのっ。見たのよ!」
和人の胸の中で、法子は苛立《いらだ》った声を上げた。和人は法子を抱きしめたまま、「落ち着くんだ」と囁いただけだった。
「──見たのよ、私、たった今。そして、お義母《かあ》さんに見つかったの。お義母さん、能面みたいな顔をして、まだ早いからって言ったわ。私をここへ押し返したの」
「おふくろが、そんなことするわけ、ないだろう? 寝ぼけたんだよ。そうじゃなかったら、夢を見たんだ」
「違うっ、夢なんかじゃないわっ!」
和人の手にますます力が入った。法子は、彼の大きな手が自分の頭をしっかりと抑えているのを感じた。その温もりこそは、法子の大好きなものだった。それなのに、今はその手にもっと力が加わって、法子を窒息させようとしている気がした。
「君のことだから、大ばばちゃんが歩けたらいいのに、じいちゃんは喋れたらいいのにって、そう考えてくれてたんだろう? だから、それが夢になって出てきたんだよ」
和人の声は、その手の力強さとは裏腹に、とても柔らかい。だが、そうではないと法子の心は叫んでいた。寝ぼけてなどいるはずがない。
「君が──心配だ。何だか、最近の君はおかしいよ」
おかしいのはあなた達でしょう、と言いたかった。けれど、その前に和人は大きなため息をつき、法子を抱き寄せる腕にはますます力がこもった。
「僕が気がついてないとでも思うのか? 実家で何かあったのかい」
法子は、彼の胸に顔を埋めたまま、弱々しく首を振ろうとした。けれど、額も頬《ほお》も、彼のパジャマに密着していて、ほとんど自由には動かない。
「帰ってきてからの君は、何だか本当におかしいよ。ねえ、何かあったんなら、話してくれよ。僕ら、夫婦じゃないか」
法子は自分の中に、急速に無力感が広がってくるのを感じていた。夫婦という言葉が、重くのしかかってくる。自分は絶対におかしくなどない。何かを隠し、策略を練っているのは、和人の家族に違いないのだ。だが、何を言っても無駄だ、彼らには通じないという思いの方が勝っていた。
「──寝ぼけた、のかしら」
投げやりな気持ちで呟《つぶや》くと、ようやく和人は法子から顔を放し、慈《いつく》しむような目で法子を見た。
「そうだよ。帰ってくるなり、通夜だ葬式だって引っ張り回されて、疲れたんだ。疲れ過ぎてる時には、よく眠れなくなるものだからね」
和人の腕から力が抜けた。法子は彼から身体を離し、小さくため息をついた。帰れるものならば、実家に帰ってしまいたい。母だって、いつでも戻っていらっしゃいと言ってくれていた。けれど、法子は絶対にこの結婚を失敗に終わらせたくないと心に誓った。意地でも、泣いて戻ったりしたくはなかった。
「ちょうど、疲れが出る頃だろうって、おふくろも言ってたんだ。結婚したての緊張が少しは解けて、その代わりに疲れが出るって」
和人の指が、法子の額にかかった髪をかきあげてくれる。その乾いた感触や柔らかい声は、法子の大好きなものだった。
「当たり前だよね、これまでの君の人生とはまるで違う世界に、一人で乗り込んできたんだ。疲れて当然だ」
「──そんなこと」
「君は、後悔してるの?」
唐突に質問されて、法子はぼんやりと顔を上げた。和人の真剣な顔が目の前にある。
「────」
「ねえ、そうなのかい? 久しぶりに橋本のお家に帰って、気持ちが変わったのかい?」
両親、兄、親戚《しんせき》の顔がちらついた。たった四ヵ月足らずで、この結婚が破綻《はたん》するとなったら、彼らはどれほど心を痛めることだろう。そんなことは、絶対に許されない。誰が許さないのでもなく、法子自身がそう思っていた。
いっそ、全てが妄想であってくれれば、疲れからくる悪夢だったのなら、それに越したことはないのだと、そういう気にもなる。とにかく、法子は和人からは離れたくないのだ。その思いだけは変わらない。
「──してないわ、後悔なんて」
結局、自分に言い聞かせるように、法子はゆっくりと呟いた。和人の安堵《あんど》のため息は、深々と長く、それに次いで「良かった」と聞こえた囁きは、心の底から言っていると信じられた。
「前にも言ったろう? 直すところがあるんだったら、それは僕の家族の役目だ。君を不安に陥れたんだとしたら、それは僕の家族の責任だ。何が、そんなに君を──」
「──私、二人だけで暮らしたい」
思いきって言うと、和人の瞳に絶望的な色が溢《あふ》れた。けれど、法子は彼にしがみつきながら「お願いよ」と言った。
「そんなに離れていなくてもいいの。とにかく、二人だけで暮らしたいのよ。誰にも邪魔されないで、二人だけで」
和人は呻《うめ》くような声を唇から洩《も》らし、法子の背を柔らかく撫《な》でた。
「僕の家族が、君に何かしたのかい。意地悪を言った? 嫌みなことでもした? それとも、口うるさく干渉したのかい」
法子は激しくかぶりを振り、必死で「違うの!」と言った。
「違うの! でも、二人になりたいのよ!」
「理由もなしにかっ」
それは、初めて耳にする和人の怒鳴り声だった。法子は大きく目を見開き、唇を震わして和人を見つめた。
「──頼むよ。分かってくれよ。君に嫌われたくない一心で、おふくろ達だって一生懸命なんだよ」
思わず涙がこみ上げてきて、法子は唇を噛みしめて俯《うつむ》いてしまった。和人のあたたかい手は、幼い子どもをあやすように、そっと法子をさすり続けている。
「──今度の休みに、少し遠出しようか。そうすれば、気分も変わる」
それから法子は和人の温かい唇を受けた。頭のいちばん奥で、もうこの家からは逃げ出せないのだろうかと思っていた。