14
チャンスは、その二日後に訪れた。夕方、また雷が鳴り始めて、法子は一人で庭に出た。
「これでひと雨来れば、お庭も生き返るんだろうに」
誰が聞いているかも分からないから、わざと大きな声で独り言を言うと、法子はサンダルをひっかけ、出来るだけさりげなく、花壇の花々などを眺めるふりをしながら歩き始めた。ぶらぶらと庭を巡っていると、健晴がぱちん、と蚊《か》に喰《く》われたらしいところを掻《か》きながら、池の傍で遊んでいた。
「たぁくん、一緒に遊ぼうか」
法子は、出来る限り優しい声をかけて、その後ろ姿に近づいた。義弟は、細い木の枝を使って、蟻《あり》の巣を掘り返そうとしているところだった。
「じょーおーありを探すんだ」
健晴は、涎《よだれ》をすすり上げながら、法子に説明した。爪《つめ》を短く切りそろえられた指は、迫り来る闇《やみ》の中で、白いイモムシみたいに見えた。いくらすすり上げても、彼のしまりのない口元からは、涎が銀色の糸を引き、乾いた土の上に小さなしみを作った。
「ねえ、この前のナスなんだけどね」
「じょーおーありってね、飛べるんだって」
「たぁくん、あれがどこにあるか、知ってる?」
「冠、してるのかな」
「ねえ、たぁくん──」
「ハッチのお母さんみたいにさ」
健晴は、蟻の巣に夢中になっていて、まるで法子の話を聞く様子がなかった。法子は、何とかこちらに注意を向けさせたいと思い、少しの間は健晴の相手をして、ペースを変えなければいけないだろうかと考えた。
「ハッチって?」
「みなしごハッチ」
「あれは、蜂《はち》でしょう? これは蟻だから」
そこで初めて、健晴は顔を上げた。
「冠、してない?」
「していても、人間には見えないかも知れないわ」
健晴はぽかんとした顔で「ふうん」と言っただけだった。雷が鳴っている。早く聞き出さなければ、また夕立が来そうだった。
「ねえ、ナスね」
「ばかナス?」
法子は勢いこんで「そう!」と言った。
「どこにあるの? 生えてるのはね、花壇よね。それを、お母さん達はどこにしまう?」
健晴は少し考える顔をして、ずずっと一度涎をすすると、黙って離れを指さした。法子は「やっぱり」と呟いた。
「食べたらいけないんだぞ。ばかになるんだから」
「じゃあ、誰が食べるの?」
「神様が決めるんだ」
健晴は、妙に毅然《きぜん》とした表情でそう言った。法子は半ば呆気《あつけ》に取られ、健晴を見つめていた。
「こんなところにいたのかい」
その時、またもや武雄が近づいてきた。法子はうんざりしながら振り返り「おかえりなさい」とだけ言った。いつもそうだ。決して健晴を一人にさせまいとする。それは、今のように彼が何でも話してしまうからに違いなかった。
「法子さんを探してたんだよ。ちょっと来てくれないか」
だが、武雄は法子にそう言った。法子はわずかに痺《しび》れ始めていた足を伸ばして立ち上がり、小さく「はい」と言った。義父は、ゆっくりと頷《うなず》くと、法子を従えて歩き始めた。
「前にも言ったね。うちの温室を見せておこうと思ってね」
──温室!
その言葉を聞いただけで、法子の中で急速に緊張が膨れ上がっていった。数メートル前を歩いていく武雄の後ろ姿を見つめながら、法子は逃げ出したい衝動と必死で戦わなければならなかった。
「待ってね、鍵《かぎ》をあけるから」
温室の扉の前まで来ると、武雄は法子を自分の前に立たせたから、法子は温室と武雄に挟まれて、すぐには逃げ出せない形になった。彼は、ズボンのポケットから大きな鍵の束を取り出した。法子は、キーホルダー代わりに使っているのが、折り畳み式のナイフであることを見て取った。
──やっぱり。あの時もナイフを持っていた。
彼は、厳かな手つきで束の中から一つの鍵を選び出すと、改めて法子を見てから、厳重に施錠されている温室の扉を開ける。
「どうぞ」
低い声が響いた。日中の熱がこもって、温室内はむっとしていた。武雄は、法子を中に招き入れると、また丁寧に扉を閉めた。無数の鉢や大きなプランターの並ぶ空間は、不気味に静まり返っている。やおら、その屋根を叩《たた》いて大粒の雨が落ち始めた。
──ここなら、悲鳴も届かないっていうわけ。
法子は抗《あらが》うことも出来ず、黙ってついてきてしまったことを後悔した。頭の中で、自分の身体から流れ出た血が、どす黒い流れを作る様が浮かぶ。何故《なぜ》、こんなことになってしまったのか、何故、殺されなければならないのか、混乱した頭ではまともな言葉さえ吐き出せそうにない。
「いつか、話さなければならないことだったんだがね」
再び武雄の低い声が響いた。片手が法子の肩にかかる。それだけで、法子は失神するのではないかと思う程の恐怖におののいた。
「触らないで!」
硬直していた全身が感電したように動いた。
「私のことまで、殺そうっていうんですか」
ばらばら、ばらばらと雨が屋根を叩く。どんな叫び声を上げたところで外には聞こえそうもなかった。薄闇《うすやみ》の中で義父の表情がわずかに動いたと思う。
「殺されるものですか! そう簡単に、殺されるものですか!」
それでも法子は大声を張り上げた。
「何を──」
法子は肩で息をしながら、じわじわと温室の隅に逃げ込んでいった。
「今度は、うまくごまかせるとは限りませんよっ。私、全部、友人に話してあるんですから。あなた達が氷屋さんを殺したことも、チョウセンアサガオのことも! 警察はごまかせたけど、私は騙《だま》されないって、話してきたんですから!」
義父の目が大きく見開かれた。法子は震える声で乾いた笑い声を洩《も》らした。ヒステリックな、嗚咽《おえつ》のような笑い声は自分のものとも思えない程に異様な響き方をした。
「もしも、私の身に何か起これば、彼女はすぐに動き出します。そして、あなた達も捕まるわ! そうよ、今度こそ、一巻の終わりよ!」
「法子さん、落ち着いて──」
「落ち着いているわよ! 何よ、私が何も知らないとでも思ってるんですかっ。皆が夜中に集まって相談しているのも、私、知ってるんですから!」
法子は温室の中を手探りで動きまわり、必死で武雄から離れようとした。とにかく、温室から逃げ出すのだ、そして、この家からも、もう逃げ出さなければならない。頭の中では、そのことしか考えられなかった。
「法子さん、聞いてくれないか。君をここへ連れてきたのは、ヱイばばちゃんの希望があったからなんだよ。大ばばちゃんは、そろそろ──」
「騙されるもんですか!」
言うが早いか、法子は武雄を突き飛ばしていた。闇の中で、ガチャンと植木鉢の落ちる音がした。無我夢中で温室の扉を押し開けると、激しい雨が顔を叩いた。それでも、法子はサンダルのまま、ころげるように母屋に向かって走った。
とにかく一刻も早く、ここから逃げ出すのだ。髪を乱したまま階段を駆け上がり、法子は嗚咽を洩らしながら、とにかく手当たり次第に荷物をまとめ始めた。
「どこ行くの?」
背後から声がした。法子は全身をびくりと震わし、その声の主が健晴だと分かると、そのまま彼を無視して手を動かし始めた。
「ねえ、おでかけするの?」
どんどん、と床を踏みならして、健晴は、なおも大きな声を出す。法子は内心でうんざりしながら「そうよ!」と答えた。相手は子どもと同じなのだ。彼につれなくするのは正しくない。だが、そんな義弟さえ、今の法子には不気味に思えてならなかった。彼も、この家の一員、この粘りつくような仲の良さを守り続ける家族の一員なのだ。
「逃げるの?」
ところが、健晴はいつになく落ち着いた口調でそう言った。法子はぎょっとなって、ハンガーにかけられたワンピースを持ったまま、改めて振り返った。
「──どうして?」
健晴の目の奥に、一瞬だけ青年らしい輝きが見えた気がした。法子は息を呑み、真っ直ぐに自分を見おろしている大人子どもを凝視した。
──この子も、私を騙してる?
今、彼はまさしく焦点の合った目で、何かを訴えようとしているように見える。その目もとは確かに和人とよく似ていた。法子は思わず、二、三歩彼に歩み寄ろうとした。その途端、健晴の表情はいつものだらしない笑顔に戻ってしまい、濁声《だみごえ》が「わーい、わーい!」と響いた。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ、鬼さんこちら、手の鳴るほうへ!」
静脈の浮いた、筋ばった手をぱちぱちと叩いて、義弟は廊下を飛び跳ね始めた。口元にはしまりがなく、嬉しそうに笑う声と同時に涎《よだれ》が細い糸を引く。法子は途方に暮れて飛び跳ねる健晴を眺めていた。
「どうしたんだい、何ていう騒ぎなんだ」
階段の降り口のところに和人が現れた。法子は飛び跳ねる弟をちらりと見て、さらに感情のこもらない瞳を法子に向けている和人を、しばらくの間見つめていた。それは、まるで見知らぬ他人の顔に見えた。健晴は顎《あご》を涎で光らせながら、とろけそうな笑みを浮かべて「兄ちゃん、兄ちゃん」とまとわりつこうとする。その様子は、飼い主にじゃれつく仔犬のようなものだった。
「健晴、お姉ちゃんが呼んでるんじゃないのか? ちゃーんと夕御飯を食べたら、スイカをもらえるってよ」
和人に言われて健晴はびっくりした顔になった。そして「スイカ?」と聞き返すと、和人の返事も待たずに、どすどすと階段を駆け降りていった。階下から「スイカ! スイカ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。法子は、背中から力が抜けるような気持ちで、ぐらりと壁にもたれかかった。
「どうしたっていうんだ。何をしてるんだ」
和人は、なおも無表情のままで近づいてきた。法子は、もはや彼を見つめ返す気力も失せて、呆然《ぼうぜん》と涙を流していた。
「──一人になりたいのよ」
やっとの思いで呟《つぶや》くと、和人は大げさすぎる程のため息をついた。
「まずいよ。何、言ってるんだよ。皆がどれくらい君に気を遣って、心配してるか分からないのかい」
「何を心配してるっていうのっ! 私がこの家の秘密を握ってるからじゃないの? それを、私が誰かに喋《しやべ》るんじゃないかって、それを心配してるんでしょうっ!」
法子は涙を浮かべながら声を荒らげた。
「皆の言ってることは、嘘《うそ》だらけじゃないの。どうして、大ばばちゃんが歩けることまで隠そうとするの、おじいちゃんのことも。どうして、麻薬なんか作ってるのよっ! この家の人達は、どうかしてる! 皆、どうかしてるのよっ!」
言いながら、法子はその場に泣き崩れてしまった。頭は割れるように痛かったし、身体に力が入らない。ただ、涙が出て仕方がなかった。
「落ち着いてくれよ──君は、そんな人じゃないだろう? いつでも落ち着いて、優しい人じゃないか」
頭の上から和人の声がした。それから、法子は脇《わき》から抱きかかえられて立ち上がり、夫婦の部屋に連れ戻された。
「薬を持ってくるよ」
「やめてっ!」
涙と汗、そして夕立の雨で濡《ぬ》れている顔をきっと上げ、法子は和人を睨《にら》みつけた。心臓の鼓動は速まり、肩で息をしなければならない程だった。
「──私に何を飲ませようっていうの。皆で作ってる毒草? 冗談じゃないわ! 私に触らないで!」
和人の表情が大きく歪《ゆが》んだ。けれど、法子は言葉を押し止めることも出来ず、後は意味の分からないことまでも怒鳴り続けた。
「──騙《だま》されるものですか」
息を切らしながら、法子は大好きな和人の顔を睨み続けた。和人は今や何をどうすれば良いのかも分からない表情で、ぽつねんと立っているだけだった。
「ええ、騙されないわ。私は氷屋みたいなわけにいかない。絶対に、あなた達の好きなようになんか、させないから!」
最後にそう怒鳴ると、法子は和人の背を押して部屋から押し出してしまった。それから、畳に突っ伏して泣き始めた。
──騙されるものですか。思い通りになんか、なるものですか。
混乱した頭では何を考えることも出来ない。とにかく、宣戦布告してしまったことだけは、確かだった。やがて、どのくらい泣いたのか、気がつくと廊下を進んでくる足音がある。法子は畳に両手をついたまま、大きく目を見開いて廊下の方を窺《うかが》った。やがて、足音は法子達の部屋の前で止まる。
「──法子、開けるよ」
和人の控え目な声がした。法子が「いやっ!」と言うよりも早く戸が開けられ、和人と武雄が驚く程の素早さで滑り込んできた。法子が呆気《あつけ》に取られている間に、和人は背後にまわりこみ、法子の両腕を押さえつけた。
「乱暴にするつもりはない、薬を飲むだけだからね」
法子は抵抗する間もなく、大きな目を見開いたまま立ちはだかっている武雄を見ていた。武雄は、勝ち誇ったような奇妙な笑みを浮かべて立っていた。法子が突き飛ばした時についたのだろう、肩から腕にかけて、泥で汚れている。その手には、小さな湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》があった。
「──やめて」
やっとの思いでそれだけ言った時には、法子は既に茶碗を唇にあてがわれていた。頭と顎《あご》を押さえつけられ、奇妙な味のする液体が喉に流し込まれた。
「これで、気持ちが落ち着くから。元気も出るさ。だから、暴れないで、いい子にしてくれよ」
耳鳴りのする中に、和人の声が聞こえた。法子は涙を流しながら、結局のところ半分近くも、その液体を飲まされた。それから間もなく、法子は底なし沼に落ちるように意識が遠のくのを感じた。
──お母さん、お父さん。
遠のく意識の中で、法子は両親を呼んだ。兄も呼んだ。けれど、それはほんのわずかな間のことだった。後は、上下左右も分からない、真っ暗な空間に放り込まれたような気分になった。
「これでひと雨来れば、お庭も生き返るんだろうに」
誰が聞いているかも分からないから、わざと大きな声で独り言を言うと、法子はサンダルをひっかけ、出来るだけさりげなく、花壇の花々などを眺めるふりをしながら歩き始めた。ぶらぶらと庭を巡っていると、健晴がぱちん、と蚊《か》に喰《く》われたらしいところを掻《か》きながら、池の傍で遊んでいた。
「たぁくん、一緒に遊ぼうか」
法子は、出来る限り優しい声をかけて、その後ろ姿に近づいた。義弟は、細い木の枝を使って、蟻《あり》の巣を掘り返そうとしているところだった。
「じょーおーありを探すんだ」
健晴は、涎《よだれ》をすすり上げながら、法子に説明した。爪《つめ》を短く切りそろえられた指は、迫り来る闇《やみ》の中で、白いイモムシみたいに見えた。いくらすすり上げても、彼のしまりのない口元からは、涎が銀色の糸を引き、乾いた土の上に小さなしみを作った。
「ねえ、この前のナスなんだけどね」
「じょーおーありってね、飛べるんだって」
「たぁくん、あれがどこにあるか、知ってる?」
「冠、してるのかな」
「ねえ、たぁくん──」
「ハッチのお母さんみたいにさ」
健晴は、蟻の巣に夢中になっていて、まるで法子の話を聞く様子がなかった。法子は、何とかこちらに注意を向けさせたいと思い、少しの間は健晴の相手をして、ペースを変えなければいけないだろうかと考えた。
「ハッチって?」
「みなしごハッチ」
「あれは、蜂《はち》でしょう? これは蟻だから」
そこで初めて、健晴は顔を上げた。
「冠、してない?」
「していても、人間には見えないかも知れないわ」
健晴はぽかんとした顔で「ふうん」と言っただけだった。雷が鳴っている。早く聞き出さなければ、また夕立が来そうだった。
「ねえ、ナスね」
「ばかナス?」
法子は勢いこんで「そう!」と言った。
「どこにあるの? 生えてるのはね、花壇よね。それを、お母さん達はどこにしまう?」
健晴は少し考える顔をして、ずずっと一度涎をすすると、黙って離れを指さした。法子は「やっぱり」と呟いた。
「食べたらいけないんだぞ。ばかになるんだから」
「じゃあ、誰が食べるの?」
「神様が決めるんだ」
健晴は、妙に毅然《きぜん》とした表情でそう言った。法子は半ば呆気《あつけ》に取られ、健晴を見つめていた。
「こんなところにいたのかい」
その時、またもや武雄が近づいてきた。法子はうんざりしながら振り返り「おかえりなさい」とだけ言った。いつもそうだ。決して健晴を一人にさせまいとする。それは、今のように彼が何でも話してしまうからに違いなかった。
「法子さんを探してたんだよ。ちょっと来てくれないか」
だが、武雄は法子にそう言った。法子はわずかに痺《しび》れ始めていた足を伸ばして立ち上がり、小さく「はい」と言った。義父は、ゆっくりと頷《うなず》くと、法子を従えて歩き始めた。
「前にも言ったね。うちの温室を見せておこうと思ってね」
──温室!
その言葉を聞いただけで、法子の中で急速に緊張が膨れ上がっていった。数メートル前を歩いていく武雄の後ろ姿を見つめながら、法子は逃げ出したい衝動と必死で戦わなければならなかった。
「待ってね、鍵《かぎ》をあけるから」
温室の扉の前まで来ると、武雄は法子を自分の前に立たせたから、法子は温室と武雄に挟まれて、すぐには逃げ出せない形になった。彼は、ズボンのポケットから大きな鍵の束を取り出した。法子は、キーホルダー代わりに使っているのが、折り畳み式のナイフであることを見て取った。
──やっぱり。あの時もナイフを持っていた。
彼は、厳かな手つきで束の中から一つの鍵を選び出すと、改めて法子を見てから、厳重に施錠されている温室の扉を開ける。
「どうぞ」
低い声が響いた。日中の熱がこもって、温室内はむっとしていた。武雄は、法子を中に招き入れると、また丁寧に扉を閉めた。無数の鉢や大きなプランターの並ぶ空間は、不気味に静まり返っている。やおら、その屋根を叩《たた》いて大粒の雨が落ち始めた。
──ここなら、悲鳴も届かないっていうわけ。
法子は抗《あらが》うことも出来ず、黙ってついてきてしまったことを後悔した。頭の中で、自分の身体から流れ出た血が、どす黒い流れを作る様が浮かぶ。何故《なぜ》、こんなことになってしまったのか、何故、殺されなければならないのか、混乱した頭ではまともな言葉さえ吐き出せそうにない。
「いつか、話さなければならないことだったんだがね」
再び武雄の低い声が響いた。片手が法子の肩にかかる。それだけで、法子は失神するのではないかと思う程の恐怖におののいた。
「触らないで!」
硬直していた全身が感電したように動いた。
「私のことまで、殺そうっていうんですか」
ばらばら、ばらばらと雨が屋根を叩く。どんな叫び声を上げたところで外には聞こえそうもなかった。薄闇《うすやみ》の中で義父の表情がわずかに動いたと思う。
「殺されるものですか! そう簡単に、殺されるものですか!」
それでも法子は大声を張り上げた。
「何を──」
法子は肩で息をしながら、じわじわと温室の隅に逃げ込んでいった。
「今度は、うまくごまかせるとは限りませんよっ。私、全部、友人に話してあるんですから。あなた達が氷屋さんを殺したことも、チョウセンアサガオのことも! 警察はごまかせたけど、私は騙《だま》されないって、話してきたんですから!」
義父の目が大きく見開かれた。法子は震える声で乾いた笑い声を洩《も》らした。ヒステリックな、嗚咽《おえつ》のような笑い声は自分のものとも思えない程に異様な響き方をした。
「もしも、私の身に何か起これば、彼女はすぐに動き出します。そして、あなた達も捕まるわ! そうよ、今度こそ、一巻の終わりよ!」
「法子さん、落ち着いて──」
「落ち着いているわよ! 何よ、私が何も知らないとでも思ってるんですかっ。皆が夜中に集まって相談しているのも、私、知ってるんですから!」
法子は温室の中を手探りで動きまわり、必死で武雄から離れようとした。とにかく、温室から逃げ出すのだ、そして、この家からも、もう逃げ出さなければならない。頭の中では、そのことしか考えられなかった。
「法子さん、聞いてくれないか。君をここへ連れてきたのは、ヱイばばちゃんの希望があったからなんだよ。大ばばちゃんは、そろそろ──」
「騙されるもんですか!」
言うが早いか、法子は武雄を突き飛ばしていた。闇の中で、ガチャンと植木鉢の落ちる音がした。無我夢中で温室の扉を押し開けると、激しい雨が顔を叩いた。それでも、法子はサンダルのまま、ころげるように母屋に向かって走った。
とにかく一刻も早く、ここから逃げ出すのだ。髪を乱したまま階段を駆け上がり、法子は嗚咽を洩らしながら、とにかく手当たり次第に荷物をまとめ始めた。
「どこ行くの?」
背後から声がした。法子は全身をびくりと震わし、その声の主が健晴だと分かると、そのまま彼を無視して手を動かし始めた。
「ねえ、おでかけするの?」
どんどん、と床を踏みならして、健晴は、なおも大きな声を出す。法子は内心でうんざりしながら「そうよ!」と答えた。相手は子どもと同じなのだ。彼につれなくするのは正しくない。だが、そんな義弟さえ、今の法子には不気味に思えてならなかった。彼も、この家の一員、この粘りつくような仲の良さを守り続ける家族の一員なのだ。
「逃げるの?」
ところが、健晴はいつになく落ち着いた口調でそう言った。法子はぎょっとなって、ハンガーにかけられたワンピースを持ったまま、改めて振り返った。
「──どうして?」
健晴の目の奥に、一瞬だけ青年らしい輝きが見えた気がした。法子は息を呑み、真っ直ぐに自分を見おろしている大人子どもを凝視した。
──この子も、私を騙してる?
今、彼はまさしく焦点の合った目で、何かを訴えようとしているように見える。その目もとは確かに和人とよく似ていた。法子は思わず、二、三歩彼に歩み寄ろうとした。その途端、健晴の表情はいつものだらしない笑顔に戻ってしまい、濁声《だみごえ》が「わーい、わーい!」と響いた。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ、鬼さんこちら、手の鳴るほうへ!」
静脈の浮いた、筋ばった手をぱちぱちと叩いて、義弟は廊下を飛び跳ね始めた。口元にはしまりがなく、嬉しそうに笑う声と同時に涎《よだれ》が細い糸を引く。法子は途方に暮れて飛び跳ねる健晴を眺めていた。
「どうしたんだい、何ていう騒ぎなんだ」
階段の降り口のところに和人が現れた。法子は飛び跳ねる弟をちらりと見て、さらに感情のこもらない瞳を法子に向けている和人を、しばらくの間見つめていた。それは、まるで見知らぬ他人の顔に見えた。健晴は顎《あご》を涎で光らせながら、とろけそうな笑みを浮かべて「兄ちゃん、兄ちゃん」とまとわりつこうとする。その様子は、飼い主にじゃれつく仔犬のようなものだった。
「健晴、お姉ちゃんが呼んでるんじゃないのか? ちゃーんと夕御飯を食べたら、スイカをもらえるってよ」
和人に言われて健晴はびっくりした顔になった。そして「スイカ?」と聞き返すと、和人の返事も待たずに、どすどすと階段を駆け降りていった。階下から「スイカ! スイカ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。法子は、背中から力が抜けるような気持ちで、ぐらりと壁にもたれかかった。
「どうしたっていうんだ。何をしてるんだ」
和人は、なおも無表情のままで近づいてきた。法子は、もはや彼を見つめ返す気力も失せて、呆然《ぼうぜん》と涙を流していた。
「──一人になりたいのよ」
やっとの思いで呟《つぶや》くと、和人は大げさすぎる程のため息をついた。
「まずいよ。何、言ってるんだよ。皆がどれくらい君に気を遣って、心配してるか分からないのかい」
「何を心配してるっていうのっ! 私がこの家の秘密を握ってるからじゃないの? それを、私が誰かに喋《しやべ》るんじゃないかって、それを心配してるんでしょうっ!」
法子は涙を浮かべながら声を荒らげた。
「皆の言ってることは、嘘《うそ》だらけじゃないの。どうして、大ばばちゃんが歩けることまで隠そうとするの、おじいちゃんのことも。どうして、麻薬なんか作ってるのよっ! この家の人達は、どうかしてる! 皆、どうかしてるのよっ!」
言いながら、法子はその場に泣き崩れてしまった。頭は割れるように痛かったし、身体に力が入らない。ただ、涙が出て仕方がなかった。
「落ち着いてくれよ──君は、そんな人じゃないだろう? いつでも落ち着いて、優しい人じゃないか」
頭の上から和人の声がした。それから、法子は脇《わき》から抱きかかえられて立ち上がり、夫婦の部屋に連れ戻された。
「薬を持ってくるよ」
「やめてっ!」
涙と汗、そして夕立の雨で濡《ぬ》れている顔をきっと上げ、法子は和人を睨《にら》みつけた。心臓の鼓動は速まり、肩で息をしなければならない程だった。
「──私に何を飲ませようっていうの。皆で作ってる毒草? 冗談じゃないわ! 私に触らないで!」
和人の表情が大きく歪《ゆが》んだ。けれど、法子は言葉を押し止めることも出来ず、後は意味の分からないことまでも怒鳴り続けた。
「──騙《だま》されるものですか」
息を切らしながら、法子は大好きな和人の顔を睨み続けた。和人は今や何をどうすれば良いのかも分からない表情で、ぽつねんと立っているだけだった。
「ええ、騙されないわ。私は氷屋みたいなわけにいかない。絶対に、あなた達の好きなようになんか、させないから!」
最後にそう怒鳴ると、法子は和人の背を押して部屋から押し出してしまった。それから、畳に突っ伏して泣き始めた。
──騙されるものですか。思い通りになんか、なるものですか。
混乱した頭では何を考えることも出来ない。とにかく、宣戦布告してしまったことだけは、確かだった。やがて、どのくらい泣いたのか、気がつくと廊下を進んでくる足音がある。法子は畳に両手をついたまま、大きく目を見開いて廊下の方を窺《うかが》った。やがて、足音は法子達の部屋の前で止まる。
「──法子、開けるよ」
和人の控え目な声がした。法子が「いやっ!」と言うよりも早く戸が開けられ、和人と武雄が驚く程の素早さで滑り込んできた。法子が呆気《あつけ》に取られている間に、和人は背後にまわりこみ、法子の両腕を押さえつけた。
「乱暴にするつもりはない、薬を飲むだけだからね」
法子は抵抗する間もなく、大きな目を見開いたまま立ちはだかっている武雄を見ていた。武雄は、勝ち誇ったような奇妙な笑みを浮かべて立っていた。法子が突き飛ばした時についたのだろう、肩から腕にかけて、泥で汚れている。その手には、小さな湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》があった。
「──やめて」
やっとの思いでそれだけ言った時には、法子は既に茶碗を唇にあてがわれていた。頭と顎《あご》を押さえつけられ、奇妙な味のする液体が喉に流し込まれた。
「これで、気持ちが落ち着くから。元気も出るさ。だから、暴れないで、いい子にしてくれよ」
耳鳴りのする中に、和人の声が聞こえた。法子は涙を流しながら、結局のところ半分近くも、その液体を飲まされた。それから間もなく、法子は底なし沼に落ちるように意識が遠のくのを感じた。
──お母さん、お父さん。
遠のく意識の中で、法子は両親を呼んだ。兄も呼んだ。けれど、それはほんのわずかな間のことだった。後は、上下左右も分からない、真っ暗な空間に放り込まれたような気分になった。