15
長い夢を見ていた。その夢が溶け出して色とりどりの糸になり、現実に流れ込んできた時、法子はようやく意識を取り戻した。夢の糸は四方に広がり、やがて霧になって薄れていった。意識が戻ったことは分かるのに、それでもまだ夢を見ている気がする。瞼《まぶた》を押し上げるだけのことに、渾身《こんしん》の力を込めなければならない、その理由が分からない。
法子は、ぼんやりと周囲を見回していた。
畳、柱、襖《ふすま》、天井──見えているものの意味は分かっている。けれど、それはひどく現実離れしたものにしか思えず、畳が畳である理由も、天井が天井でなければならない意味も分からなかった。
──どこにいるんだろう。
重力の向かう方向も、上下左右の区分も分からなかった。やがて、もう少し意識がはっきりとしてくると、法子は自分が横たわっているのではなく、壁に寄りかかって座っているのだということが分かってきた。だから、目を開いて真っ先に畳が見えたのだ。
「さあ、顔を上げて」
声が聞こえた。スピーカーを通して聴くような、鮮明でよく響く声だ。法子は小さく咳《せき》をした。その咳も、自分がしたとも思えないくらいにやはり大きく、はっきりと聞き取れる。法子は重たい頭を時間をかけて持ち上げ、やっとの思いで前を見た。その途端に、再び口に何かをあてがわれた。
「飲んで。気分が楽になる」
法子は、その液体を喉《のど》を鳴らして飲んだ。ひどく喉が渇いていたし、それはほんのりと甘くて美味《おい》しかった。
「──よかった。だいぶ、落ち着いたみたいだ」
聞いたことのある声が呟いた。
「ああ、それはよかった」
「法子さん、分かるわね?」
「心配したよ」
法子は、時間をかけて自分に声をかける人々を見回した。人なつこい笑顔。愛敬のある丸い瞳《め》。日焼けした肌に、白くこぼれる歯。それは、法子を新しい家族として受け入れた人達、この四ヵ月間、共に暮らしてきた人達だ。
「気分は? どう」
和人が、法子の肩に手をかけた。法子は、徐々にはっきりとしてきた意識の中で、ただ一言、「疲れた」と言った。事実、ひどく疲れていた。身体中の関節がきしむような感じがしたし、指先一本ですら、動かす力も出なかった。
「無理もないよ。だって、このところ、君はまるで眠っていなかったんだから」
和人は悲しそうな顔で法子の顔をのぞき込んでくる。それに対しても、法子は表情を動かすのですら大儀で、ただむっつりとし続けるしかなかった。和人の横から公恵が顔を出した。
「ごめんなさいね、法子さんがこんなに悩んでいたなんて、気がつかなかったの。のんきに構えすぎてたのよね」
「僕が悪かったね。あんな夕立が来そうな時に温室になんか連れていったから、法子さんをすっかり慌てさせてしまった」
そう言ったのは武雄だった。彼は、ひどく恐縮した顔で、ずんぐりとした背中を丸めて正座していた。
「家族だと思って、つい言葉を省略していたのがいけなかったのね。きちんと話さなきゃならなかったのは、私達の方なのよ。やっぱり、お互いに妙な遠慮をしていたんだわ」
今度はふみ江が言った。法子は、何か感じるよりも前に、喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを抑えることが出来なかった。健晴が「法子ねえちゃん」と言った時には、涙が頬を伝って落ちた。
「ほら。だから、夜中に家族会議なんかよくないって言ったのよ。かえって、お義姉《ねえ》さんを傷つけることになっちゃったじゃない」
綾乃もそう言った。それから、彼らは口々に法子に対して謝罪の言葉を述べ始めた。そんなつもりではなかったのだ、いらぬ心配をさせまいと思ったのがいけなかった。家族として扱っていなかったのはこちらの方かも知れない、などなど、誰もが法子の孤独を哀れみ、自分達の罪の深さを悔いる言葉を口にした。法子は、ひたすらしゃくりあげながら、彼らの言葉の雨に打たれていた。淋《さび》しかったのだ、この数日の自分は、とにかく淋しかったのだと気づいた。
「分からないことや、不安に思うことがあったら、何でも僕らに聞いて欲しいんだ。一人で悩まないで欲しいんだよ」
和人が切なそうな顔で言った。その頃には、法子は、畳は畳でなければならないと思えるようになっていた。天井は天井、襖《ふすま》は襖、何も変わったところはない。しかも、そこは夜中に家族が集まっていた部屋、離れの仏間だということもはっきりと分かった。
「きっかけは何だい? 何が君を不安に陥れた?」
法子は手の甲で頬の涙を拭《ぬぐ》いながら、和人を見つめた。
「──氷屋さんのこと」
和人はゆっくりと頷《うなず》く。他の家族も同様に、真剣な表情で法子を見つめていた。生唾《なまつば》を飲み込んで、それから法子はおずおずと口を開いた。
「この家の人達が──その──殺したんじゃないかと」
家族は一瞬息を呑んだ表情になり、数秒間、沈黙が流れた。次の瞬間、部屋には笑い声が爆発した。怒号が飛ぶか、驚愕《きようがく》の悲鳴が上がるかと予測していた法子は、波が弾けるような豪快な笑いの渦にしばし呆然《ぼうぜん》となり、やがてそれが笑い声だと分かると、互いの身体を叩《たた》きながら笑いころげている人々を、ぽかんとして眺めていた。
「殺したって、うちが、かい」
「氷屋さんの一家を、ですって?」
彼らは涙を流さんばかりに腹を抱えて笑っていた。部屋の空気は大きなうねりになり、温かくて柔らかい波が法子を包み込んだ。
「ねえ、法子。いくら何でも──まあ、いいや。僕らが氷屋を殺したのかと思ったんだね?」
和人は息をつぐのでさえ苦しそうに笑い、途中で咳《せき》こみながら「それで、どうして、殺す必要があると思ったの」と言った。法子は家族の顔色をうかがい、もはや嘘《うそ》をつくことも出来ない気分でおずおずと口を開いた。
「チョウセンアサガオのことで、あの人達に脅されてたんじゃないかって──」
ようやく笑いがおさまってきて、家族は、今度は一転してしんみりした顔になった。武雄が深々とため息をついて、「それは、私達の責任だね」と呟《つぶや》いた。
「大ばばちゃんが怒るのも、無理もない」
彼は淋しそうな、困惑した表情で言った。さっきまで笑いころげていた家族は悄然《しようぜん》となり、うなだれてしまった。法子は、彼らの突然の変化に戸惑いながら、自分がひどく気の毒なことをしている気分になった。普段は底抜けに明るい人達を、ここまでしょんぼりとさせてしまったのは、自分の責任に違いないと思った。
「法子さんは、この家の宝なんだって、あれほど言われていたのに、こんなに心配をさせてしまって──下手をすれば、この家を出ていくようなことになるところだったんだ。大ばばちゃんが歩いたとか、おじいちゃんが喋《しやべ》ったとか、そんなことを言い出してると和人から聞かされた時に、もっと真剣に考えるべきだったんだ。法子さんが、どんなに精神的に疲れていたか、何に怯《おび》えていたか」
家族一同が力なく頷いた。法子は、わずかに頭が混乱しそうになるのを感じたが、敢《あ》えて混乱の原因を探ろうとは思わなかった。なにしろ、今の状態が心地良く感じられてならないのだ。
武雄はしんみりとした口調で言葉を続けた。
「大ばばちゃんからは、言われていたんだよ。法子さんは、そんじょそこらにいるような、普通の娘さんじゃない。敏感で、特別な人だって。だから、大切にするように、和人の嫁さんとしてだけでなく、この家の宝として、決して傷つけたり不安にさせたりしないようにって、くどいほどに、言われてたんだ」
かつて、これ程までに特別扱いされたことなど、あっただろうか。法子は内心で驚きつつも、自分がガラス細工で出来ているような、繊細で気高い空気をまとっている気分になっていた。そして、以前、どこかで見た聖母像のように、彼らよりも一段高いところから、慈《いつく》しみに満ちた表情で微笑む姿さえが思い浮かんだ。
「まったく、その通りだった。その繊細さや純粋さを、私達はまるで理解していなかったんだ」
法子は、自分を鈍感とは思わないが、人から敏感などと言われたこともない。神経質だと思ったこともないし、普通の娘と違うと思ったこともない。ましてや繊細とか純粋とか、そんな言葉を面と向かって言われたことも初めてだった。それなのに、家族は今、法子を宝として扱わなかったことを畏《おそ》れ、法子を敬おうとさえしている。義父の顔は本当に悲しそうで、心の底から悔いている様子がありありと見て取れるのだ。
「でも、分かって欲しい。僕たちは、そうしてるつもりだったんだよ。大切にしている、つもりだったんだ。それが、裏目に出てしまった」
「夜中にね、相談していたのは──法子さんに聞かせたくない話だったことは確かなのよ。要らない心配をさせたくなかったばっかりに」
今度は公恵が口を開いた。彼女も武雄と同様、ひどく沈痛な表情をしている。歌が好きで愛敬があって、いつも楽し気に見える姑とは別人のように、彼女は唇を噛みしめ、その口調さえも不安におののいていた。
「でも、一つ聞いてもいいかしら。法子さんの言う、そのチョウセンアサガオっていうのは、どういうことなの?」
法子は必死で頭を働かせようとした。
「それは、どういう種類の草なの?」
今度はふみ江が言った。法子は混乱しながら「トリップするんでしょう」と呟《つぶや》いた。
「麻薬みたいに? そういう草を、家が育ててると思ったのかい」
和人が心底驚いた顔をした。法子は、大人にたしなめられる幼い子どもに戻った気分で、ただ上目遣いに彼らを眺め、小さく頷《うなず》いた。
「誰から、そんな話を聞いたの?」
「知美──高校の時の友達なんですけど」
「悪いけど──それは困ったお友達ねえ。よく確かめもしないで、そんないい加減なことを吹き込むなんて」
公恵の話すことがよく分からなかった。いや、言葉そのものは分かるのに、意味が入って来ないのだ。何を吹き込まれたというのだろう。何かが違っている。公恵は、小さく深呼吸をすると、ひたと法子の顔を見つめて「あのね」と言った。
「おいおい分かってくれればいいと思っていたから、法子さんには、これまで話さなかったことがあるの。それは、確かなのよ。こんな誤解が生まれるとは思わなかったから、そのうち、少しずつ分かってくれればいいと思っていたんだけどね」
法子は思わず生唾《なまつば》を飲み込んだ。だが、公恵の表情はとても穏やかで、余裕に満ちていた。彼女は、一度顔を巡らして家族を見渡し、それから呼吸を整えて法子を見た。
「この志藤の家は、昔からお米を扱ってきているけれど、もう一つ、他の仕事をしてきたの」
「他の仕事──」
誰もが真剣な表情で法子を見つめていた。法子は、壁に寄りかかったまま、全く力の抜けてしまっている背中に、わずかに力をこめ、姿勢をただした。
「戦前から──大ばばちゃんの、その前の代から。薬草を育てて、ご近所の方々を助ける仕事」
法子は曖昧《あいまい》に頷いたが、まだその意味はよく分からなかった。言葉が上滑りしているようで、まるで頭に入って来ない。
「お腹が痛い時も、風邪《かぜ》をひいた時も、神経痛にも中風にも、それから子どもを産んだ母親のお乳の出が悪い時にもね、色々な薬草を使って、なおしてきたの」
今度は少し分かってきた。法子は改めて、真剣な表情の公恵を見つめ返した。公恵の方でも法子の表情の変化を見取ったのかも知れない。急に晴れ晴れとした笑顔になって、「分かるでしょう?」と言った。
「植物には、それぞれ色々な力があるでしょう。それを、私達は用途別に育てて、必要があれば、ご近所の方々に分けてきたの。そして、喜ばれてきたのよ。でも、それは本当に、大ばばちゃんの前の代からの、いわば、ボランティアみたいなものなの」
公恵には悪びれた様子など欠片《かけら》もなく、嬉しそうに見えた。理想に燃える人の、清らかな微笑み──少なくとも、法子にはそう見えた。
「鎮痛作用のある草というのならば、あるわ。もう助からない病人のいる家では、そんなものも必要になる時があるのね。身内の方にしてみれば、病院ではなく、自宅のお布団で、畳の上で最期を迎えさせてあげたい、でも、苦しむのは見るに耐えない、そういう状況になることがあるの」
「────」
「でも、そんな草花を作っているからって、家はよそ様に恨まれたり、または脅されたりするような覚えは、ただの一度だってありはしないわ。勿論《もちろん》、本庄屋さんにしてもよ。あの人も、法子さんも見かけた時に気がついただろうけど、本当に身体の具合が悪そうだったの。だから、うちはいつでもお薬をあげていたわ」
法子は、ぽかんとしたまま、公恵の話を聞いていた。そのうち、胃の底の方から恥ずかしさが湧《わ》き起こってくるのを感じた。全く、自分は何と見当違いなことを考えていたことだろう。何という誤解をしていたのだろう。そう思うと、すぐにでも謝らなければならない気がした。
法子は、ぼんやりと周囲を見回していた。
畳、柱、襖《ふすま》、天井──見えているものの意味は分かっている。けれど、それはひどく現実離れしたものにしか思えず、畳が畳である理由も、天井が天井でなければならない意味も分からなかった。
──どこにいるんだろう。
重力の向かう方向も、上下左右の区分も分からなかった。やがて、もう少し意識がはっきりとしてくると、法子は自分が横たわっているのではなく、壁に寄りかかって座っているのだということが分かってきた。だから、目を開いて真っ先に畳が見えたのだ。
「さあ、顔を上げて」
声が聞こえた。スピーカーを通して聴くような、鮮明でよく響く声だ。法子は小さく咳《せき》をした。その咳も、自分がしたとも思えないくらいにやはり大きく、はっきりと聞き取れる。法子は重たい頭を時間をかけて持ち上げ、やっとの思いで前を見た。その途端に、再び口に何かをあてがわれた。
「飲んで。気分が楽になる」
法子は、その液体を喉《のど》を鳴らして飲んだ。ひどく喉が渇いていたし、それはほんのりと甘くて美味《おい》しかった。
「──よかった。だいぶ、落ち着いたみたいだ」
聞いたことのある声が呟いた。
「ああ、それはよかった」
「法子さん、分かるわね?」
「心配したよ」
法子は、時間をかけて自分に声をかける人々を見回した。人なつこい笑顔。愛敬のある丸い瞳《め》。日焼けした肌に、白くこぼれる歯。それは、法子を新しい家族として受け入れた人達、この四ヵ月間、共に暮らしてきた人達だ。
「気分は? どう」
和人が、法子の肩に手をかけた。法子は、徐々にはっきりとしてきた意識の中で、ただ一言、「疲れた」と言った。事実、ひどく疲れていた。身体中の関節がきしむような感じがしたし、指先一本ですら、動かす力も出なかった。
「無理もないよ。だって、このところ、君はまるで眠っていなかったんだから」
和人は悲しそうな顔で法子の顔をのぞき込んでくる。それに対しても、法子は表情を動かすのですら大儀で、ただむっつりとし続けるしかなかった。和人の横から公恵が顔を出した。
「ごめんなさいね、法子さんがこんなに悩んでいたなんて、気がつかなかったの。のんきに構えすぎてたのよね」
「僕が悪かったね。あんな夕立が来そうな時に温室になんか連れていったから、法子さんをすっかり慌てさせてしまった」
そう言ったのは武雄だった。彼は、ひどく恐縮した顔で、ずんぐりとした背中を丸めて正座していた。
「家族だと思って、つい言葉を省略していたのがいけなかったのね。きちんと話さなきゃならなかったのは、私達の方なのよ。やっぱり、お互いに妙な遠慮をしていたんだわ」
今度はふみ江が言った。法子は、何か感じるよりも前に、喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを抑えることが出来なかった。健晴が「法子ねえちゃん」と言った時には、涙が頬を伝って落ちた。
「ほら。だから、夜中に家族会議なんかよくないって言ったのよ。かえって、お義姉《ねえ》さんを傷つけることになっちゃったじゃない」
綾乃もそう言った。それから、彼らは口々に法子に対して謝罪の言葉を述べ始めた。そんなつもりではなかったのだ、いらぬ心配をさせまいと思ったのがいけなかった。家族として扱っていなかったのはこちらの方かも知れない、などなど、誰もが法子の孤独を哀れみ、自分達の罪の深さを悔いる言葉を口にした。法子は、ひたすらしゃくりあげながら、彼らの言葉の雨に打たれていた。淋《さび》しかったのだ、この数日の自分は、とにかく淋しかったのだと気づいた。
「分からないことや、不安に思うことがあったら、何でも僕らに聞いて欲しいんだ。一人で悩まないで欲しいんだよ」
和人が切なそうな顔で言った。その頃には、法子は、畳は畳でなければならないと思えるようになっていた。天井は天井、襖《ふすま》は襖、何も変わったところはない。しかも、そこは夜中に家族が集まっていた部屋、離れの仏間だということもはっきりと分かった。
「きっかけは何だい? 何が君を不安に陥れた?」
法子は手の甲で頬の涙を拭《ぬぐ》いながら、和人を見つめた。
「──氷屋さんのこと」
和人はゆっくりと頷《うなず》く。他の家族も同様に、真剣な表情で法子を見つめていた。生唾《なまつば》を飲み込んで、それから法子はおずおずと口を開いた。
「この家の人達が──その──殺したんじゃないかと」
家族は一瞬息を呑んだ表情になり、数秒間、沈黙が流れた。次の瞬間、部屋には笑い声が爆発した。怒号が飛ぶか、驚愕《きようがく》の悲鳴が上がるかと予測していた法子は、波が弾けるような豪快な笑いの渦にしばし呆然《ぼうぜん》となり、やがてそれが笑い声だと分かると、互いの身体を叩《たた》きながら笑いころげている人々を、ぽかんとして眺めていた。
「殺したって、うちが、かい」
「氷屋さんの一家を、ですって?」
彼らは涙を流さんばかりに腹を抱えて笑っていた。部屋の空気は大きなうねりになり、温かくて柔らかい波が法子を包み込んだ。
「ねえ、法子。いくら何でも──まあ、いいや。僕らが氷屋を殺したのかと思ったんだね?」
和人は息をつぐのでさえ苦しそうに笑い、途中で咳《せき》こみながら「それで、どうして、殺す必要があると思ったの」と言った。法子は家族の顔色をうかがい、もはや嘘《うそ》をつくことも出来ない気分でおずおずと口を開いた。
「チョウセンアサガオのことで、あの人達に脅されてたんじゃないかって──」
ようやく笑いがおさまってきて、家族は、今度は一転してしんみりした顔になった。武雄が深々とため息をついて、「それは、私達の責任だね」と呟《つぶや》いた。
「大ばばちゃんが怒るのも、無理もない」
彼は淋しそうな、困惑した表情で言った。さっきまで笑いころげていた家族は悄然《しようぜん》となり、うなだれてしまった。法子は、彼らの突然の変化に戸惑いながら、自分がひどく気の毒なことをしている気分になった。普段は底抜けに明るい人達を、ここまでしょんぼりとさせてしまったのは、自分の責任に違いないと思った。
「法子さんは、この家の宝なんだって、あれほど言われていたのに、こんなに心配をさせてしまって──下手をすれば、この家を出ていくようなことになるところだったんだ。大ばばちゃんが歩いたとか、おじいちゃんが喋《しやべ》ったとか、そんなことを言い出してると和人から聞かされた時に、もっと真剣に考えるべきだったんだ。法子さんが、どんなに精神的に疲れていたか、何に怯《おび》えていたか」
家族一同が力なく頷いた。法子は、わずかに頭が混乱しそうになるのを感じたが、敢《あ》えて混乱の原因を探ろうとは思わなかった。なにしろ、今の状態が心地良く感じられてならないのだ。
武雄はしんみりとした口調で言葉を続けた。
「大ばばちゃんからは、言われていたんだよ。法子さんは、そんじょそこらにいるような、普通の娘さんじゃない。敏感で、特別な人だって。だから、大切にするように、和人の嫁さんとしてだけでなく、この家の宝として、決して傷つけたり不安にさせたりしないようにって、くどいほどに、言われてたんだ」
かつて、これ程までに特別扱いされたことなど、あっただろうか。法子は内心で驚きつつも、自分がガラス細工で出来ているような、繊細で気高い空気をまとっている気分になっていた。そして、以前、どこかで見た聖母像のように、彼らよりも一段高いところから、慈《いつく》しみに満ちた表情で微笑む姿さえが思い浮かんだ。
「まったく、その通りだった。その繊細さや純粋さを、私達はまるで理解していなかったんだ」
法子は、自分を鈍感とは思わないが、人から敏感などと言われたこともない。神経質だと思ったこともないし、普通の娘と違うと思ったこともない。ましてや繊細とか純粋とか、そんな言葉を面と向かって言われたことも初めてだった。それなのに、家族は今、法子を宝として扱わなかったことを畏《おそ》れ、法子を敬おうとさえしている。義父の顔は本当に悲しそうで、心の底から悔いている様子がありありと見て取れるのだ。
「でも、分かって欲しい。僕たちは、そうしてるつもりだったんだよ。大切にしている、つもりだったんだ。それが、裏目に出てしまった」
「夜中にね、相談していたのは──法子さんに聞かせたくない話だったことは確かなのよ。要らない心配をさせたくなかったばっかりに」
今度は公恵が口を開いた。彼女も武雄と同様、ひどく沈痛な表情をしている。歌が好きで愛敬があって、いつも楽し気に見える姑とは別人のように、彼女は唇を噛みしめ、その口調さえも不安におののいていた。
「でも、一つ聞いてもいいかしら。法子さんの言う、そのチョウセンアサガオっていうのは、どういうことなの?」
法子は必死で頭を働かせようとした。
「それは、どういう種類の草なの?」
今度はふみ江が言った。法子は混乱しながら「トリップするんでしょう」と呟《つぶや》いた。
「麻薬みたいに? そういう草を、家が育ててると思ったのかい」
和人が心底驚いた顔をした。法子は、大人にたしなめられる幼い子どもに戻った気分で、ただ上目遣いに彼らを眺め、小さく頷《うなず》いた。
「誰から、そんな話を聞いたの?」
「知美──高校の時の友達なんですけど」
「悪いけど──それは困ったお友達ねえ。よく確かめもしないで、そんないい加減なことを吹き込むなんて」
公恵の話すことがよく分からなかった。いや、言葉そのものは分かるのに、意味が入って来ないのだ。何を吹き込まれたというのだろう。何かが違っている。公恵は、小さく深呼吸をすると、ひたと法子の顔を見つめて「あのね」と言った。
「おいおい分かってくれればいいと思っていたから、法子さんには、これまで話さなかったことがあるの。それは、確かなのよ。こんな誤解が生まれるとは思わなかったから、そのうち、少しずつ分かってくれればいいと思っていたんだけどね」
法子は思わず生唾《なまつば》を飲み込んだ。だが、公恵の表情はとても穏やかで、余裕に満ちていた。彼女は、一度顔を巡らして家族を見渡し、それから呼吸を整えて法子を見た。
「この志藤の家は、昔からお米を扱ってきているけれど、もう一つ、他の仕事をしてきたの」
「他の仕事──」
誰もが真剣な表情で法子を見つめていた。法子は、壁に寄りかかったまま、全く力の抜けてしまっている背中に、わずかに力をこめ、姿勢をただした。
「戦前から──大ばばちゃんの、その前の代から。薬草を育てて、ご近所の方々を助ける仕事」
法子は曖昧《あいまい》に頷いたが、まだその意味はよく分からなかった。言葉が上滑りしているようで、まるで頭に入って来ない。
「お腹が痛い時も、風邪《かぜ》をひいた時も、神経痛にも中風にも、それから子どもを産んだ母親のお乳の出が悪い時にもね、色々な薬草を使って、なおしてきたの」
今度は少し分かってきた。法子は改めて、真剣な表情の公恵を見つめ返した。公恵の方でも法子の表情の変化を見取ったのかも知れない。急に晴れ晴れとした笑顔になって、「分かるでしょう?」と言った。
「植物には、それぞれ色々な力があるでしょう。それを、私達は用途別に育てて、必要があれば、ご近所の方々に分けてきたの。そして、喜ばれてきたのよ。でも、それは本当に、大ばばちゃんの前の代からの、いわば、ボランティアみたいなものなの」
公恵には悪びれた様子など欠片《かけら》もなく、嬉しそうに見えた。理想に燃える人の、清らかな微笑み──少なくとも、法子にはそう見えた。
「鎮痛作用のある草というのならば、あるわ。もう助からない病人のいる家では、そんなものも必要になる時があるのね。身内の方にしてみれば、病院ではなく、自宅のお布団で、畳の上で最期を迎えさせてあげたい、でも、苦しむのは見るに耐えない、そういう状況になることがあるの」
「────」
「でも、そんな草花を作っているからって、家はよそ様に恨まれたり、または脅されたりするような覚えは、ただの一度だってありはしないわ。勿論《もちろん》、本庄屋さんにしてもよ。あの人も、法子さんも見かけた時に気がついただろうけど、本当に身体の具合が悪そうだったの。だから、うちはいつでもお薬をあげていたわ」
法子は、ぽかんとしたまま、公恵の話を聞いていた。そのうち、胃の底の方から恥ずかしさが湧《わ》き起こってくるのを感じた。全く、自分は何と見当違いなことを考えていたことだろう。何という誤解をしていたのだろう。そう思うと、すぐにでも謝らなければならない気がした。