16
公恵は、それから庭の植物のあれこれについての説明をしてくれた。驚いたことに、法子が昔から知っている、例えばフクジュソウやスズランでさえ、特別な用法があるのだと知って、法子は疑惑とはまるで別の好奇心にとらわれそうになった。
──でも、忘れちゃ駄目。それと、これとは問題が別よ。騙《だま》されちゃ駄目。
気がつくと、身を乗り出さんばかりに草花の話を聞いてしまっていて、法子ははっと我にかえった。その頃には、意識はすっかり明確になっていた。
また、相手のペースに乗せられるところだったかも知れない。そう思った途端、法子は急に心を閉ざし、さっき、宝とまで言われた時の嬉しさも忘れて、また表情を固くしてしまった。その変化に真っ先に気づいたのは和人だった。彼は「ねえ」と法子の肩に手を置き、法子の顔をじっとのぞき込んだ。
「まだ分からないことがあるのかい? まだ、僕らを信じてはくれない? 疑問に思うことがあったら、言ってくれよ。僕たちは、どんなことをしても君の誤解を解くよ」
彼の目は誠実な光に満ち、ひたむきで、情熱的だった。法子は再び涙ぐみそうになりながら、ようやく普通に回転してきたらしい頭を働かせた。頭を整理して、疑問を明らかにしなければならないのだと、脳味噌《のうみそ》に命じた。
「じゃあ──何で皆さんが警察のことまで心配していたんですか」
言いながら、声が震えるのが分かった。とんでもないことを口にしている。退《の》っ引きならないところまで自分を追い込んでしまっている気がした。だが、もう後へはひけなかった。もしも、和人の穏やかな瞳《め》に、ほんの少しでも動揺の色が見てとれたら、今度こそ法子は、本当に裏切られたと思うだろう。そこから先は分からない。だが、とにかく騙されるものか、丸め込まれるものかと、法子は自分に言い聞かせた。
「私、聞いたのよ。『まさか、爆発までするとは』とか、『警察は間違いなく手をひいたんだろうな』とか、そんなことを言ってたでしょう?」
自分の生唾《なまつば》を飲み込む音が大きく頭の中で響いた。法子は瞬き一つせずに、和人を見つめ続けていた。彼は、そんな法子に負けないくらいの力を瞳に込めて法子を見つめ返してくる。そして、一つ深呼吸をすると、他の家族などいないかのように法子の肩を抱き寄せようとした。
「こんなことを言うべきじゃないかも知れないけど──悲しいよ、法子。誤解を生んだのは僕たちの方だけど」
法子は、またさっきの恥ずかしさがこみ上げて来そうになるのを感じた。
「君を責めることは出来ないけど、でも、信じて欲しいんだ。僕たちが、そんなことをする人間だと思うかい? 信じられないかい?」
顔がかっと熱くなった。自分が選んで結婚した相手を信じられないなんて、何と浅ましく情けない人間なのだと、つい身を捩《よじ》りそうにさえなった。
──でも、質問の答えにはなっていないのよ。駄目、情に流されたら。
法子は鼓動が速まるのを感じながら、頑《かたく》なに俯《うつむ》いていた。
「遺書がね、届いたんだ」
「──遺書?」
意外な言葉を耳にして、法子は小首を傾《かし》げながら夫の顔を見つめた。彼は大きく頷《うなず》き返し、「本庄屋のね」と続けた。
「わざわざ郵送にしたらしくてね。あの事故の後で、届いた。うちに迷惑をかけたことが詫《わ》びてあって──それから、どうして自分たちがあんなことをしなければならなかったのか、誰を恨んでるか、そんなことが長々と書いてあった。そして、最後には、うちがあそこの建物にかけていた火災保険のことまで気にして、色々と詫びてあったよ」
頭がぐらぐらしそうだった。けれど、法子は必死で彼の言葉を整理しようとした。
「保険会社ではね、ガス洩《も》れとガス爆発では、扱いが変わるらしいんだ。それに、どっちみち事故の原因が断定されるまでは動かないんだよ。そのためには、警察が現場検証をして、どういう決断を下すかを待たなきゃならない。あの夜は、正直に言うけれどね、保険金の相談をしていたんだよ──もしも、親戚《しんせき》も見つからなかったら、うちがその保険金からお墓くらいは建ててあげなきゃならないからね」
推測に推測を重ね、心を強《こわ》ばらせて築き上げた法子の妄想は、今や音をたてて崩れつつあった。何だ、そんなことだったのと言おうとして、だが法子はまだ納得しかねるように目を伏せ、最後にもう一度抵抗を試みようとした。
──それだけで納得出来るの? 何だったかしら、もっと聞くべきことがあったんじゃなかった?
蓋《ふた》を開けてみれば、そんなに簡単な理由だったなんて、出来すぎている気がする。第一、何か聞き忘れている気がしてならないのだ。だが、それらは全て、一つの疑惑が生みだした幻なのかも知れないという気もした。この数日間、法子は完全に妄想にとり憑《つ》かれて過ごしていたのかも知れない。
和人はさらに言った。
「そんな話を夜中にするのかって、君は言うかも知れないけどね──出来ることなら、恨み言ばかりが書いてある遺書なんか、君に見せたくはなかった。それに、四人もの人が亡くなって、すぐに保険金の話をしているのかなんて、それこそ君に誤解されたくなかったんだ」
随分長い間、和人は法子を見つめ続け、それからふっと笑みを浮かべた。その微笑みにつられて、法子もつい固い笑みを返していた。強ばっていた頬が緩み、心の中に柔らかい風が吹き込んできた。
「よかった、法子さんが笑ってくれた」
公恵が弾んだ声を上げた。
「分かってくれたかい?」
室内の空気は穏やかに揺れて、凪《なぎ》の海のような伸びやかなものになった。誰もが心の底からほっとした顔で、慈《いつく》しむように法子を見つめていた。
「本当に──誤解なんですか? 麻薬みたいなものなんか、作ってないんですか?」
すぐに承伏するのも不安で、法子はもう一度そんな家族を見回した。だが、彼らの笑顔は変わらず、穏やかでありながらも揺るぎない確信に満ちていた。
「もしも──考えたくもないことだけど、もしも、僕たちが氷屋を殺さなきゃならないんだとしたら、僕が君と結婚する前にやってたとは思わないかい? あの家とは、五十年近い付き合いがあったんだよ。君に知られないようにするためになら、結婚前に何とかしていたはずだよ」
その言葉が、最後の砦《とりで》を突き崩した。そうだ、誰も好きこのんで疑いを抱いていたわけではない。彼らがこれほどまでに熱心に法子に説明してくれるのは、法子を失いたくない、手放したくない一心なのだ。
結局、法子は自分の中の誤解を捨て去ることになった。和人と、彼の家族は一様に幸福に満ちた笑顔になり、法子の勇気──家族に不安をぶつけ、真実を望み、さらに明らかにされた事実を受け入れ、自らの誤解を捨て去るという勇気を讃《たた》えた。
「分かってくれると思ってたのよ」
「赤飯でも炊《た》きたいところだね」
「これでお義姉《ねえ》さんは、本当の意味で私達の家族になってくれたっていう感じ」
法子は、彼らの賑やかな声に包まれながら、何という人達なのだろうと思っていた。こんなにひどい疑いをかけられていたというのに、彼らはまるで法子を責めようともしていない。誤解が解けたことだけを喜んで、こんなにも幸福そうに笑っているのだ。
「──すみませんでした。勝手な誤解をしてしまって」
再び涙ぐみながら、がっくりとうなだれると、家族は誰もが慌てて法子を慰め始めた。無理もないのだ、説明が足りなかった自分達がいけなかったのだ、自分達の配慮が足りなかったのだと、口々に言われ、手を握られたり背中をさすられたりして、法子はまだ少しの間、泣き続けた。こんなに良い人達と会えた自分は、本当に幸運なのだと、改めて感じていた。
その時になって初めて、もう午前一時を回っているのだということに気づいた。
「また、真夜中の家族会議になっちゃったね」
和人が照れ臭そうに笑った。法子は恐縮しつつ、これで本当に自分も家族の一員になれたのだなと思った。もしかしたら、今ごろ法子自身の疑惑にとり憑《つ》かれた亡霊が、渡り廊下の途中で、また彼らの様子を探っているかもしれない。ふと、そんな奇妙な想像が頭をもたげてきて、一人で笑ってしまった。家族は誰もが満足そうに、そんな法子を見守ってくれていた。
翌朝、再び家族と同じ食卓についたヱイは、法子を見るなり「いいね」と言った。
「それが、本当の法子の顔だ。昨日までとは、別人のような顔をしている」
法子は、嬉しさと恥ずかしさが半々の笑みを浮かべてヱイを見、ついで家族を見回した。昨夜のドラマチックな一夜を過ごして、家族は誰もが満足そうに、そして、これまで以上に楽しげな表情で法子を見守っていた。
──でも、忘れちゃ駄目。それと、これとは問題が別よ。騙《だま》されちゃ駄目。
気がつくと、身を乗り出さんばかりに草花の話を聞いてしまっていて、法子ははっと我にかえった。その頃には、意識はすっかり明確になっていた。
また、相手のペースに乗せられるところだったかも知れない。そう思った途端、法子は急に心を閉ざし、さっき、宝とまで言われた時の嬉しさも忘れて、また表情を固くしてしまった。その変化に真っ先に気づいたのは和人だった。彼は「ねえ」と法子の肩に手を置き、法子の顔をじっとのぞき込んだ。
「まだ分からないことがあるのかい? まだ、僕らを信じてはくれない? 疑問に思うことがあったら、言ってくれよ。僕たちは、どんなことをしても君の誤解を解くよ」
彼の目は誠実な光に満ち、ひたむきで、情熱的だった。法子は再び涙ぐみそうになりながら、ようやく普通に回転してきたらしい頭を働かせた。頭を整理して、疑問を明らかにしなければならないのだと、脳味噌《のうみそ》に命じた。
「じゃあ──何で皆さんが警察のことまで心配していたんですか」
言いながら、声が震えるのが分かった。とんでもないことを口にしている。退《の》っ引きならないところまで自分を追い込んでしまっている気がした。だが、もう後へはひけなかった。もしも、和人の穏やかな瞳《め》に、ほんの少しでも動揺の色が見てとれたら、今度こそ法子は、本当に裏切られたと思うだろう。そこから先は分からない。だが、とにかく騙されるものか、丸め込まれるものかと、法子は自分に言い聞かせた。
「私、聞いたのよ。『まさか、爆発までするとは』とか、『警察は間違いなく手をひいたんだろうな』とか、そんなことを言ってたでしょう?」
自分の生唾《なまつば》を飲み込む音が大きく頭の中で響いた。法子は瞬き一つせずに、和人を見つめ続けていた。彼は、そんな法子に負けないくらいの力を瞳に込めて法子を見つめ返してくる。そして、一つ深呼吸をすると、他の家族などいないかのように法子の肩を抱き寄せようとした。
「こんなことを言うべきじゃないかも知れないけど──悲しいよ、法子。誤解を生んだのは僕たちの方だけど」
法子は、またさっきの恥ずかしさがこみ上げて来そうになるのを感じた。
「君を責めることは出来ないけど、でも、信じて欲しいんだ。僕たちが、そんなことをする人間だと思うかい? 信じられないかい?」
顔がかっと熱くなった。自分が選んで結婚した相手を信じられないなんて、何と浅ましく情けない人間なのだと、つい身を捩《よじ》りそうにさえなった。
──でも、質問の答えにはなっていないのよ。駄目、情に流されたら。
法子は鼓動が速まるのを感じながら、頑《かたく》なに俯《うつむ》いていた。
「遺書がね、届いたんだ」
「──遺書?」
意外な言葉を耳にして、法子は小首を傾《かし》げながら夫の顔を見つめた。彼は大きく頷《うなず》き返し、「本庄屋のね」と続けた。
「わざわざ郵送にしたらしくてね。あの事故の後で、届いた。うちに迷惑をかけたことが詫《わ》びてあって──それから、どうして自分たちがあんなことをしなければならなかったのか、誰を恨んでるか、そんなことが長々と書いてあった。そして、最後には、うちがあそこの建物にかけていた火災保険のことまで気にして、色々と詫びてあったよ」
頭がぐらぐらしそうだった。けれど、法子は必死で彼の言葉を整理しようとした。
「保険会社ではね、ガス洩《も》れとガス爆発では、扱いが変わるらしいんだ。それに、どっちみち事故の原因が断定されるまでは動かないんだよ。そのためには、警察が現場検証をして、どういう決断を下すかを待たなきゃならない。あの夜は、正直に言うけれどね、保険金の相談をしていたんだよ──もしも、親戚《しんせき》も見つからなかったら、うちがその保険金からお墓くらいは建ててあげなきゃならないからね」
推測に推測を重ね、心を強《こわ》ばらせて築き上げた法子の妄想は、今や音をたてて崩れつつあった。何だ、そんなことだったのと言おうとして、だが法子はまだ納得しかねるように目を伏せ、最後にもう一度抵抗を試みようとした。
──それだけで納得出来るの? 何だったかしら、もっと聞くべきことがあったんじゃなかった?
蓋《ふた》を開けてみれば、そんなに簡単な理由だったなんて、出来すぎている気がする。第一、何か聞き忘れている気がしてならないのだ。だが、それらは全て、一つの疑惑が生みだした幻なのかも知れないという気もした。この数日間、法子は完全に妄想にとり憑《つ》かれて過ごしていたのかも知れない。
和人はさらに言った。
「そんな話を夜中にするのかって、君は言うかも知れないけどね──出来ることなら、恨み言ばかりが書いてある遺書なんか、君に見せたくはなかった。それに、四人もの人が亡くなって、すぐに保険金の話をしているのかなんて、それこそ君に誤解されたくなかったんだ」
随分長い間、和人は法子を見つめ続け、それからふっと笑みを浮かべた。その微笑みにつられて、法子もつい固い笑みを返していた。強ばっていた頬が緩み、心の中に柔らかい風が吹き込んできた。
「よかった、法子さんが笑ってくれた」
公恵が弾んだ声を上げた。
「分かってくれたかい?」
室内の空気は穏やかに揺れて、凪《なぎ》の海のような伸びやかなものになった。誰もが心の底からほっとした顔で、慈《いつく》しむように法子を見つめていた。
「本当に──誤解なんですか? 麻薬みたいなものなんか、作ってないんですか?」
すぐに承伏するのも不安で、法子はもう一度そんな家族を見回した。だが、彼らの笑顔は変わらず、穏やかでありながらも揺るぎない確信に満ちていた。
「もしも──考えたくもないことだけど、もしも、僕たちが氷屋を殺さなきゃならないんだとしたら、僕が君と結婚する前にやってたとは思わないかい? あの家とは、五十年近い付き合いがあったんだよ。君に知られないようにするためになら、結婚前に何とかしていたはずだよ」
その言葉が、最後の砦《とりで》を突き崩した。そうだ、誰も好きこのんで疑いを抱いていたわけではない。彼らがこれほどまでに熱心に法子に説明してくれるのは、法子を失いたくない、手放したくない一心なのだ。
結局、法子は自分の中の誤解を捨て去ることになった。和人と、彼の家族は一様に幸福に満ちた笑顔になり、法子の勇気──家族に不安をぶつけ、真実を望み、さらに明らかにされた事実を受け入れ、自らの誤解を捨て去るという勇気を讃《たた》えた。
「分かってくれると思ってたのよ」
「赤飯でも炊《た》きたいところだね」
「これでお義姉《ねえ》さんは、本当の意味で私達の家族になってくれたっていう感じ」
法子は、彼らの賑やかな声に包まれながら、何という人達なのだろうと思っていた。こんなにひどい疑いをかけられていたというのに、彼らはまるで法子を責めようともしていない。誤解が解けたことだけを喜んで、こんなにも幸福そうに笑っているのだ。
「──すみませんでした。勝手な誤解をしてしまって」
再び涙ぐみながら、がっくりとうなだれると、家族は誰もが慌てて法子を慰め始めた。無理もないのだ、説明が足りなかった自分達がいけなかったのだ、自分達の配慮が足りなかったのだと、口々に言われ、手を握られたり背中をさすられたりして、法子はまだ少しの間、泣き続けた。こんなに良い人達と会えた自分は、本当に幸運なのだと、改めて感じていた。
その時になって初めて、もう午前一時を回っているのだということに気づいた。
「また、真夜中の家族会議になっちゃったね」
和人が照れ臭そうに笑った。法子は恐縮しつつ、これで本当に自分も家族の一員になれたのだなと思った。もしかしたら、今ごろ法子自身の疑惑にとり憑《つ》かれた亡霊が、渡り廊下の途中で、また彼らの様子を探っているかもしれない。ふと、そんな奇妙な想像が頭をもたげてきて、一人で笑ってしまった。家族は誰もが満足そうに、そんな法子を見守ってくれていた。
翌朝、再び家族と同じ食卓についたヱイは、法子を見るなり「いいね」と言った。
「それが、本当の法子の顔だ。昨日までとは、別人のような顔をしている」
法子は、嬉しさと恥ずかしさが半々の笑みを浮かべてヱイを見、ついで家族を見回した。昨夜のドラマチックな一夜を過ごして、家族は誰もが満足そうに、そして、これまで以上に楽しげな表情で法子を見守っていた。