17
「それで、納得したわけ?」
知美は、視線だけを法子に残し、ふっと横を向いて煙草の煙を吐き出すと、苛立《いらだ》たし気に眉《まゆ》をひそめた。あの、半分夢を見ているような不思議な夜から、既に三日が過ぎていた。その間、法子は家族の愛情を、それこそ全身で体感しながら、平和で賑《にぎ》やかな日々を過ごしていた。知美から電話が入るまで、彼女の存在すら忘れていたくらいだ。
「全ては法子の誤解だったっていう、そういうことで?」
初めて知美を呼び出した時と同じ喫茶店だった。法子は、にっこりと微笑んで頷いた。今日は、以前のように彼女を羨ましいとも思わない。格好をつけて気取っているけれど、所詮《しよせん》は小さなアパートで暮らしている、ただのOLに過ぎないのだと、法子は改めて彼女を見ていてそう思った。
「色々、心配かけちゃって申し訳なかったけど、そういうことなのよ。ごめんなさいね、人騒がせな真似《まね》をして」
知美は「ふうん」と頷き、面白くなさそうな顔で口を尖《とが》らせている。法子は、やはり彼女は法子の不幸を望んでいたのかも知れないと思った。
──でも、悪いけど、そう簡単に、あなたが思うような悲劇なんか起こらない。人生なんて、そうそうドラマチックにはならないわ。
法子は、ほんのりと微笑みながら、まだ腑《ふ》に落ちない表情の知美を眺めていた。
「それよりもね、私、もっと不思議なことがあるのよね。今は」
法子は余裕のある表情で、まだ何か考えている顔をしている知美を見た。
「どうしてあの家の人達は、いつもあんなにも幸福そうにしていられるのかしら」
「──そう見えるわけ?」
「見えるわ。皆、不思議なくらいに純粋で、優しくて。私があんなにひどい誤解をしていたのに、それに腹を立てるどころか、反対に謝ったりしてくれるの」
そこで知美はぴくりと眉を動かし、それから短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「皆が言ってくれたわ。私は特別なんだって。あの家にとって、私は和人さんの妻っていうだけじゃなくて、宝なんだって」
「ねえ」
「私、そんなふうに言われたの、生まれて初めてよ。でも、百歳に手が届こうとしてるお婆さんから、そんなことを言われてごらんなさい? 不思議な気分になるのよねえ」
「ねえ」
「もう、大ばばちゃんたらね──え?」
知美は、少しの間考える顔をして、それから思いきったように法子を見た。
「ちょっと、出来すぎじゃないの?」
「──何が?」
「常識で考えてごらんなさいよ。ことがことなのよ。おやつをつまみ喰《ぐ》いしたとか、おねしょをしたとか、そんな子どもじみたことを言っているんじゃなくて、殺人よ」
瞬間、頭がくらりとした。法子は、それまで浮かべていた笑みが虚《うつ》ろになるのを感じ、吐き気さえしそうな程、頭の中がぐるぐると回るのを感じた。
「人殺しの疑いをかけられて、笑っていられる人間がどこにいると思う? 冗談じゃない、何を根拠にって、普通だったら顔色を変えて怒るところだと思わない?」
「でも──家族だから」
「家族だったら、よけいじゃない。一つ屋根の下に住んでて、そんな疑いをかけられたりしたら、それこそ激怒すると思うけど。何ていう嫁なんだっていうことになるのが普通だと思うわよ。それを、なぁに? 家の宝? そんなことを、ぬけぬけと口にするなんて、ちょっとおかしいとは思わないの? 第一、その、大ばばちゃん? その人が歩いてたっていう問題は、どうなったのよ。おじいさんが喋《しやべ》ってたっていうことは?」
この数日、思い切り羽ばたいていた翼を、一瞬のうちにもぎ取られた気分だった。法子は突然、額に冷たい汗が滲《にじ》むのを感じ、視線を虚ろに漂わせながら、夢中でバッグからハンカチを取り出した。知美は両手を組み合わせると、姿勢をただして身を乗り出してきた。
「法子──私はね、法子が不幸になればいいなんて、思ってやしないのよ。誤解だったら、それに越したことはないと思う。でも、何だか腑《ふ》に落ちないじゃない? その、氷屋さんの遺書っていうの、見せてもらったの?」
ますます汗が吹き出してくる。法子は、力なく首を振るしかなかった。そうだった、ヱイと松造のことがある。その問題は、全く解決されてはいなかったではないか。それに、遺書にしたって、確かに法子は実物を見せられてはいない。何故《なぜ》、そんなことを忘れていたのだろう。こんな、大切なことを。
「でも──じゃあ、どうしろっていうの? 他に出来ることなんか、もうないのよ──やっぱり私、また騙《だま》されてるっていうこと? あんなにいい人達に?」
法子は泣きそうになりながら知美を見つめた。知美は困った顔でため息をつくと、新しい煙草に手を伸ばした。
「それは分からない。分からないけど──これは、思ったよりも手ごわい人達なのかも知れないわね。まあ、皆で殺人を犯しているかも知れないような人達なんだから、田舎でのほほんと育ったような小娘の一人や二人、騙すくらい──」
「そんな言い方しないでよっ。いい人達なの! 誤解が解けるまで、徹夜したって話そうとしてくれる人達よっ!」
法子は、半ばむきになって声を荒らげ、ハンカチを握りしめた。知美は法子をちらりと見、それからテーブルに視線を落としてしまった。急速に、全身に疲れが襲ってきた。頭がすっかり混乱してしまって、もはや何から順に考えていけば良いのかも分からない。いや、考えたいことなど、何もないのだ。普通に平凡に、平和な日々を送れれば、それで良い。もう、何も考えたくなかった。
「落ち着きなさいって。誤解なら誤解で、それでいいんだから。結局、私には関係ないことなんだしね」
知美は煙草の煙と同時に諦観《ていかん》のため息を洩《も》らし、急によそよそしい顔になった。法子は恨めしい気持ちで彼女の横顔を眺め、やはり、こんな人になど相談したのがそもそもの間違いだったのかも知れないという気になった。大体、他人は人の不幸を喜ぶものなのだ。だから、あっさりと幸福になろうとしている法子の足を、知美は何とかして引っ張ろうとしているのに違いない、そう思いたかった。
「ねえ、法子」
「──いいわ。どっちみち、誤解であることは間違いないの」
「だから、その誤解っていうことだけどね。もう少し──」
「いいの!」
法子は、いつになく厳しい口調になると、きっぱりと知美をはねのけた。知美は半ば驚いた顔になったが、もう一度深々とため息をつくと、「法子がそう言うんなら」と呟《つぶや》いた。
「他人の私が、どうこう言う問題でもないのかも知れないけど」
「そうよ。やっと、順調にいき始めたところなんだもの。全ては誤解だった、それで、いいじゃない?」
努めて明るく、軽快に聞こえるように意識して笑ったつもりだった。だが、その声は上ずって、ひどく不自然に響いたのが自分でも分かった。法子は、ずず、と音をたててアイスティーを飲み干すと、「さて」と時計を見た。
「お昼休み、そろそろ終わりでしょう? 私も、買い物をして帰ろうかと思ってるから、そろそろ」
知美は、急にせかせかと動き始めた法子を静かな眼差《まなざ》しで見守っていた。その冷静ささえも、法子の癇《かん》を刺激する。冷たい額をハンカチで抑えながら、法子は、この混乱をどうすれば良いのかと考えていた。
「法子、あんた、もっと素直で、のんびりした性格だったじゃない? 何だか別人みたいに見えるわよ」
「そう? そりゃあ、高校を卒業して八年もたてば、少しは変わるんじゃない? 特に、ついこの間まで田舎《いなか》にいたから、余計にのろまに見えたんでしょう」
「もう──とにかく、何かあったら連絡してよ、ね?」
別れ際まで、知美は幾度もそう言っていた。法子は脳貧血でも起こしそうな気分のまま、硬い笑みを浮かべて彼女に手を振り、逃げるように地下鉄の階段を降りた。
──大ばばちゃんは歩いていた。おじいちゃんは喋《しやべ》った。
電車に揺られながら、法子は考え続けていた。その問題は、何も解決していない。そういえば、あの朝だって、確かにヱイとふみ江はキチガイナスビの話をしていたではないか。キチガイナスビ、すなわちチョウセンアサガオの話をしていたのだ。
──やっぱり、騙《だま》されてるの?
もう、何が何だか分からなくなりそうだった。これ以上、考えようとすると気分が悪くなる。あんなに優しい人達、あんなに懸命に誤解を解こうとしてくれた人達の、いったいどこに嘘《うそ》があるというのだろう。どこを疑えというのだ。
赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、さらに新宿で中央線に乗り換える間も、法子はぜんまい仕掛の人形のように、ただ機械的に動いただけだった。ふと、赤坂見附で綾乃に背を押された時のことまで思い出して、法子の頭は余計に混乱した。
──そんなはずがない。疑いは晴れている。あれは私の妄想だった──でも、妄想なんか抱くだろうか? ああ、分からない。
知らない間に涙が溢《あふ》れていた。昼下がりの電車は案外すいていて、法子はドアの脇《わき》にもたれながら、黙って涙を流していた。目の前の乗客がぎょっとした顔で自分を見ているのに気がついて、初めて頬《ほお》を涙が伝っていることを知ったような有り様だった。例えようもない不安に駆られていた。いったい、これから自分は何を頼りに、どう暮らしていけば良いのか、まるで分からなくなっていた。
「どうしたの? ひどい顔色」
玄関に迎えに出てくれた綾乃が、まず驚いた声をあげた。法子は小さな声で「何でもないの」と繰り返したが、綾乃はすっかり慌てた様子で、大声で公恵とふみ江を呼んだ。
「──一人になりたいんです。お願いですから」
哀願する口調で言っても、公恵たちは激しく首を振ってそれを制した。
「そんな状態で、一人でいたってろくなことはないわ。ねえ、どうしたのか、何があったのか話してちょうだい」
公恵はいつになく厳しい口調で言うと、ふみ江と綾乃とで法子を取り囲むようにして居間へと連れていった。法子は涙が止まらなくなってしまって、しばらくは何を話すことも出来ずに一人で泣きじゃくっていた。
「──可哀相に、可哀相に。そのお友達にまた何かを言われたのね?」
法子の髪を撫《な》でながら囁《ささや》いたのはふみ江だった。法子は、何を答えることも出来ず、ひたすら泣きじゃくっていた。やがて、誰かがきつく手を握ってきた。その感触から、綾乃だろうかと思って顔をあげれば、そこには健晴の心配そうな顔があった。
「どっか、痛い? おなか痛いの?」
健晴の息は、アイスクリームみたいな匂《にお》いがした。法子は余計に悲しくなってしまって、ついに声をあげて泣き始めた。
「大ばばちゃんに、聞いていただきましょう、ね? 大ばばちゃんになら、きっと分かっていただけるわ」
やがて、三十分以上もそうしていたかと思う頃、法子は公恵に言われて無理矢理立たされた。綾乃に腕を掴《つか》まれ、渡り廊下を歩きながらも、法子はただ「いいのよ」と繰り返したが、綾乃は有無を言わさぬ雰囲気で法子を引っ張った。今、ヱイになど会いたくない、ヱイの話など聞きたくないと言いたかった。けれど、心のどこかではヱイに救って欲しい気持ちもあった。
「また、悪い顔になってきた」
離れに行くと、ヱイは特に驚いた顔もせずに法子を見た。そして、ゆっくりと手招きをする。法子は泣きじゃくりながら、子どものようにいやいやをした。
「悪い空気を吸ってきたね。誰かに、毒を吹き込まれてきた」
ヱイの口調は、いつもと変わらない静かなものだった。その声を聞いただけで、法子は日常とは異なる空間に身を置いたことを感じ、早くも気持ちの静まるのを感じることができた。
「そんなことでは、奇跡は起きないよ」
ヱイは、浴衣《ゆかた》地の着物を着ていて、丸まった小さな背をますます丸めてゆっくりと法子に向けて団扇《うちわ》を扇いでくれた。
「──奇跡?」
法子は、エアコンも入っていないのに、不思議に涼しく感じる部屋で、汗と涙で化粧も崩れたまま、ヱイを見た。ヱイは、まるでお天気の話でもした後みたいに、開け放った障子から空の方を眺めていた。
「大ばばちゃん、奇跡って?」
「奇跡はね、奇跡。法子は奇跡を信じるかね」
「──分からない。でも、信じないわ。見たこともないし」
「見たことのないものは、信じないかね。奇跡は」
そんな話を聞きたいとは思わなかった。それよりも、もっと根本的な不安を解消してもらいたい。
「ねえ、大ばばちゃんは、本当に歩けないんですか」
「この前、法子はあたしが歩くのを見たと言ったね」
「──でも、本当はどうなのか──何が何だか、分からなくなって」
「法子が見たのなら、本当だと、言ったでしょう」
「でも──本当は、どうなんですか。私が見たのは、夢か幻だったんですか? ねえ、大ばばちゃん」
だが、ヱイはしょぼしょぼとした目を庭に向けているばかりで、それ以上のことは何も言おうとはしなかった。法子は苛立《いらだ》ち、焦《あせ》りを感じながら、ただ黙ってヱイの前に座っていなければならなかった。いくら考えても、彼女の言葉の真意をはかることなど出来そうにはなかった。
知美は、視線だけを法子に残し、ふっと横を向いて煙草の煙を吐き出すと、苛立《いらだ》たし気に眉《まゆ》をひそめた。あの、半分夢を見ているような不思議な夜から、既に三日が過ぎていた。その間、法子は家族の愛情を、それこそ全身で体感しながら、平和で賑《にぎ》やかな日々を過ごしていた。知美から電話が入るまで、彼女の存在すら忘れていたくらいだ。
「全ては法子の誤解だったっていう、そういうことで?」
初めて知美を呼び出した時と同じ喫茶店だった。法子は、にっこりと微笑んで頷いた。今日は、以前のように彼女を羨ましいとも思わない。格好をつけて気取っているけれど、所詮《しよせん》は小さなアパートで暮らしている、ただのOLに過ぎないのだと、法子は改めて彼女を見ていてそう思った。
「色々、心配かけちゃって申し訳なかったけど、そういうことなのよ。ごめんなさいね、人騒がせな真似《まね》をして」
知美は「ふうん」と頷き、面白くなさそうな顔で口を尖《とが》らせている。法子は、やはり彼女は法子の不幸を望んでいたのかも知れないと思った。
──でも、悪いけど、そう簡単に、あなたが思うような悲劇なんか起こらない。人生なんて、そうそうドラマチックにはならないわ。
法子は、ほんのりと微笑みながら、まだ腑《ふ》に落ちない表情の知美を眺めていた。
「それよりもね、私、もっと不思議なことがあるのよね。今は」
法子は余裕のある表情で、まだ何か考えている顔をしている知美を見た。
「どうしてあの家の人達は、いつもあんなにも幸福そうにしていられるのかしら」
「──そう見えるわけ?」
「見えるわ。皆、不思議なくらいに純粋で、優しくて。私があんなにひどい誤解をしていたのに、それに腹を立てるどころか、反対に謝ったりしてくれるの」
そこで知美はぴくりと眉を動かし、それから短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「皆が言ってくれたわ。私は特別なんだって。あの家にとって、私は和人さんの妻っていうだけじゃなくて、宝なんだって」
「ねえ」
「私、そんなふうに言われたの、生まれて初めてよ。でも、百歳に手が届こうとしてるお婆さんから、そんなことを言われてごらんなさい? 不思議な気分になるのよねえ」
「ねえ」
「もう、大ばばちゃんたらね──え?」
知美は、少しの間考える顔をして、それから思いきったように法子を見た。
「ちょっと、出来すぎじゃないの?」
「──何が?」
「常識で考えてごらんなさいよ。ことがことなのよ。おやつをつまみ喰《ぐ》いしたとか、おねしょをしたとか、そんな子どもじみたことを言っているんじゃなくて、殺人よ」
瞬間、頭がくらりとした。法子は、それまで浮かべていた笑みが虚《うつ》ろになるのを感じ、吐き気さえしそうな程、頭の中がぐるぐると回るのを感じた。
「人殺しの疑いをかけられて、笑っていられる人間がどこにいると思う? 冗談じゃない、何を根拠にって、普通だったら顔色を変えて怒るところだと思わない?」
「でも──家族だから」
「家族だったら、よけいじゃない。一つ屋根の下に住んでて、そんな疑いをかけられたりしたら、それこそ激怒すると思うけど。何ていう嫁なんだっていうことになるのが普通だと思うわよ。それを、なぁに? 家の宝? そんなことを、ぬけぬけと口にするなんて、ちょっとおかしいとは思わないの? 第一、その、大ばばちゃん? その人が歩いてたっていう問題は、どうなったのよ。おじいさんが喋《しやべ》ってたっていうことは?」
この数日、思い切り羽ばたいていた翼を、一瞬のうちにもぎ取られた気分だった。法子は突然、額に冷たい汗が滲《にじ》むのを感じ、視線を虚ろに漂わせながら、夢中でバッグからハンカチを取り出した。知美は両手を組み合わせると、姿勢をただして身を乗り出してきた。
「法子──私はね、法子が不幸になればいいなんて、思ってやしないのよ。誤解だったら、それに越したことはないと思う。でも、何だか腑《ふ》に落ちないじゃない? その、氷屋さんの遺書っていうの、見せてもらったの?」
ますます汗が吹き出してくる。法子は、力なく首を振るしかなかった。そうだった、ヱイと松造のことがある。その問題は、全く解決されてはいなかったではないか。それに、遺書にしたって、確かに法子は実物を見せられてはいない。何故《なぜ》、そんなことを忘れていたのだろう。こんな、大切なことを。
「でも──じゃあ、どうしろっていうの? 他に出来ることなんか、もうないのよ──やっぱり私、また騙《だま》されてるっていうこと? あんなにいい人達に?」
法子は泣きそうになりながら知美を見つめた。知美は困った顔でため息をつくと、新しい煙草に手を伸ばした。
「それは分からない。分からないけど──これは、思ったよりも手ごわい人達なのかも知れないわね。まあ、皆で殺人を犯しているかも知れないような人達なんだから、田舎でのほほんと育ったような小娘の一人や二人、騙すくらい──」
「そんな言い方しないでよっ。いい人達なの! 誤解が解けるまで、徹夜したって話そうとしてくれる人達よっ!」
法子は、半ばむきになって声を荒らげ、ハンカチを握りしめた。知美は法子をちらりと見、それからテーブルに視線を落としてしまった。急速に、全身に疲れが襲ってきた。頭がすっかり混乱してしまって、もはや何から順に考えていけば良いのかも分からない。いや、考えたいことなど、何もないのだ。普通に平凡に、平和な日々を送れれば、それで良い。もう、何も考えたくなかった。
「落ち着きなさいって。誤解なら誤解で、それでいいんだから。結局、私には関係ないことなんだしね」
知美は煙草の煙と同時に諦観《ていかん》のため息を洩《も》らし、急によそよそしい顔になった。法子は恨めしい気持ちで彼女の横顔を眺め、やはり、こんな人になど相談したのがそもそもの間違いだったのかも知れないという気になった。大体、他人は人の不幸を喜ぶものなのだ。だから、あっさりと幸福になろうとしている法子の足を、知美は何とかして引っ張ろうとしているのに違いない、そう思いたかった。
「ねえ、法子」
「──いいわ。どっちみち、誤解であることは間違いないの」
「だから、その誤解っていうことだけどね。もう少し──」
「いいの!」
法子は、いつになく厳しい口調になると、きっぱりと知美をはねのけた。知美は半ば驚いた顔になったが、もう一度深々とため息をつくと、「法子がそう言うんなら」と呟《つぶや》いた。
「他人の私が、どうこう言う問題でもないのかも知れないけど」
「そうよ。やっと、順調にいき始めたところなんだもの。全ては誤解だった、それで、いいじゃない?」
努めて明るく、軽快に聞こえるように意識して笑ったつもりだった。だが、その声は上ずって、ひどく不自然に響いたのが自分でも分かった。法子は、ずず、と音をたててアイスティーを飲み干すと、「さて」と時計を見た。
「お昼休み、そろそろ終わりでしょう? 私も、買い物をして帰ろうかと思ってるから、そろそろ」
知美は、急にせかせかと動き始めた法子を静かな眼差《まなざ》しで見守っていた。その冷静ささえも、法子の癇《かん》を刺激する。冷たい額をハンカチで抑えながら、法子は、この混乱をどうすれば良いのかと考えていた。
「法子、あんた、もっと素直で、のんびりした性格だったじゃない? 何だか別人みたいに見えるわよ」
「そう? そりゃあ、高校を卒業して八年もたてば、少しは変わるんじゃない? 特に、ついこの間まで田舎《いなか》にいたから、余計にのろまに見えたんでしょう」
「もう──とにかく、何かあったら連絡してよ、ね?」
別れ際まで、知美は幾度もそう言っていた。法子は脳貧血でも起こしそうな気分のまま、硬い笑みを浮かべて彼女に手を振り、逃げるように地下鉄の階段を降りた。
──大ばばちゃんは歩いていた。おじいちゃんは喋《しやべ》った。
電車に揺られながら、法子は考え続けていた。その問題は、何も解決していない。そういえば、あの朝だって、確かにヱイとふみ江はキチガイナスビの話をしていたではないか。キチガイナスビ、すなわちチョウセンアサガオの話をしていたのだ。
──やっぱり、騙《だま》されてるの?
もう、何が何だか分からなくなりそうだった。これ以上、考えようとすると気分が悪くなる。あんなに優しい人達、あんなに懸命に誤解を解こうとしてくれた人達の、いったいどこに嘘《うそ》があるというのだろう。どこを疑えというのだ。
赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、さらに新宿で中央線に乗り換える間も、法子はぜんまい仕掛の人形のように、ただ機械的に動いただけだった。ふと、赤坂見附で綾乃に背を押された時のことまで思い出して、法子の頭は余計に混乱した。
──そんなはずがない。疑いは晴れている。あれは私の妄想だった──でも、妄想なんか抱くだろうか? ああ、分からない。
知らない間に涙が溢《あふ》れていた。昼下がりの電車は案外すいていて、法子はドアの脇《わき》にもたれながら、黙って涙を流していた。目の前の乗客がぎょっとした顔で自分を見ているのに気がついて、初めて頬《ほお》を涙が伝っていることを知ったような有り様だった。例えようもない不安に駆られていた。いったい、これから自分は何を頼りに、どう暮らしていけば良いのか、まるで分からなくなっていた。
「どうしたの? ひどい顔色」
玄関に迎えに出てくれた綾乃が、まず驚いた声をあげた。法子は小さな声で「何でもないの」と繰り返したが、綾乃はすっかり慌てた様子で、大声で公恵とふみ江を呼んだ。
「──一人になりたいんです。お願いですから」
哀願する口調で言っても、公恵たちは激しく首を振ってそれを制した。
「そんな状態で、一人でいたってろくなことはないわ。ねえ、どうしたのか、何があったのか話してちょうだい」
公恵はいつになく厳しい口調で言うと、ふみ江と綾乃とで法子を取り囲むようにして居間へと連れていった。法子は涙が止まらなくなってしまって、しばらくは何を話すことも出来ずに一人で泣きじゃくっていた。
「──可哀相に、可哀相に。そのお友達にまた何かを言われたのね?」
法子の髪を撫《な》でながら囁《ささや》いたのはふみ江だった。法子は、何を答えることも出来ず、ひたすら泣きじゃくっていた。やがて、誰かがきつく手を握ってきた。その感触から、綾乃だろうかと思って顔をあげれば、そこには健晴の心配そうな顔があった。
「どっか、痛い? おなか痛いの?」
健晴の息は、アイスクリームみたいな匂《にお》いがした。法子は余計に悲しくなってしまって、ついに声をあげて泣き始めた。
「大ばばちゃんに、聞いていただきましょう、ね? 大ばばちゃんになら、きっと分かっていただけるわ」
やがて、三十分以上もそうしていたかと思う頃、法子は公恵に言われて無理矢理立たされた。綾乃に腕を掴《つか》まれ、渡り廊下を歩きながらも、法子はただ「いいのよ」と繰り返したが、綾乃は有無を言わさぬ雰囲気で法子を引っ張った。今、ヱイになど会いたくない、ヱイの話など聞きたくないと言いたかった。けれど、心のどこかではヱイに救って欲しい気持ちもあった。
「また、悪い顔になってきた」
離れに行くと、ヱイは特に驚いた顔もせずに法子を見た。そして、ゆっくりと手招きをする。法子は泣きじゃくりながら、子どものようにいやいやをした。
「悪い空気を吸ってきたね。誰かに、毒を吹き込まれてきた」
ヱイの口調は、いつもと変わらない静かなものだった。その声を聞いただけで、法子は日常とは異なる空間に身を置いたことを感じ、早くも気持ちの静まるのを感じることができた。
「そんなことでは、奇跡は起きないよ」
ヱイは、浴衣《ゆかた》地の着物を着ていて、丸まった小さな背をますます丸めてゆっくりと法子に向けて団扇《うちわ》を扇いでくれた。
「──奇跡?」
法子は、エアコンも入っていないのに、不思議に涼しく感じる部屋で、汗と涙で化粧も崩れたまま、ヱイを見た。ヱイは、まるでお天気の話でもした後みたいに、開け放った障子から空の方を眺めていた。
「大ばばちゃん、奇跡って?」
「奇跡はね、奇跡。法子は奇跡を信じるかね」
「──分からない。でも、信じないわ。見たこともないし」
「見たことのないものは、信じないかね。奇跡は」
そんな話を聞きたいとは思わなかった。それよりも、もっと根本的な不安を解消してもらいたい。
「ねえ、大ばばちゃんは、本当に歩けないんですか」
「この前、法子はあたしが歩くのを見たと言ったね」
「──でも、本当はどうなのか──何が何だか、分からなくなって」
「法子が見たのなら、本当だと、言ったでしょう」
「でも──本当は、どうなんですか。私が見たのは、夢か幻だったんですか? ねえ、大ばばちゃん」
だが、ヱイはしょぼしょぼとした目を庭に向けているばかりで、それ以上のことは何も言おうとはしなかった。法子は苛立《いらだ》ち、焦《あせ》りを感じながら、ただ黙ってヱイの前に座っていなければならなかった。いくら考えても、彼女の言葉の真意をはかることなど出来そうにはなかった。