20
旅を終えて小金井の家に戻る頃には、法子は骨の髄まで疲労|困憊《こんぱい》していた。歩けるのが不思議なくらい、それこそ自分の手足の運び方から視線の移し方、それに感情すら満足にコントロール出来ない状態になっていた。
──ここが、私の暮らす家。私の世界。
永年住み慣れたという程でもないのに、車が路地を曲がり、やがて志藤の家の屋根が見えただけで、つい熱いものがこみ上げてきそうになった。そして、車を降りると真っ先に、つまずいて転びそうになりながら、庭に向かって駆け出した。
──私達の庭、私が守る庭。
草花の一つ一つにでさえ、愛《いとお》しさに頬《ほお》ずりしたい衝動に駆られる。見慣れた庭のはずなのに、法子の目には、葉の一枚、茎の一本までが鮮やかに光り輝くように見えた。
家に入って雨戸を開ける時には、こもっていた匂《にお》いに胸を衝《つ》かれ、柱時計の音にさえ甘美な響きを感じずにはいられなかった。法子は、自分のそんな感覚に戸惑いながらも、今度は郵便受けにたまった新聞に気づき、奇妙な悲しさに襲われた。疲れているだけでなく、すっかり心のバランスを崩している。それだけは何となく分かった。
──世界は動いている。私とは関係ないところで、私とは縁のない人達が。
新聞は三日分たまっていた。その日付を一つずつ確かめるだけのことが、何かの意味を持っている気がしてならなかった。何よりもまず法子には、あの夜中に出かけた日から、まだ三日しか過ぎていないということからして、信じられなかった。てっきり、もう一週間くらいが過ぎていると思い込んでいたのだ。
「間違いないのよね? 二晩、家をあけただけよねえ?」
法子は幾度となく和人に聞いた。
「そうだよ。もっとゆっくり出来れば良かったんだけどね」
和人はその度に穏やかに笑い、辛抱強く同じ言葉を繰り返してくれた。その都度、法子は安心して良いのか落胆するべきなのか分からない気分で、ただ力なく頷《うなず》いた。とにかく、法子の上だけ時の流れが間延びしてしまったようで、普通の一日が、二日にも三日にも感じられてならなかったのだ。時空の歪《ゆが》みにはまり込んだような不安は拭《ぬぐ》いようもなく、疲労ばかりが背中にへばり付いていて、現実感は完璧《かんぺき》に薄らいでしまっていた。
「法子さん、お茶が入ったわよ」
普段は配達に使っている大型のワゴン車から荷物を運び出していると、もう普段着にエプロンという姿に戻っている公恵が笑顔で呼びにきた。
──いや。お茶なんかいらない。
疲れ果て、支離滅裂になりそうな頭の奥底で、小さな叫びが起こった。もう一人にして、少し休ませてと、法子の中の、もはや蟻《あり》んこ程度にしか感じられない、以前の法子が訴えようとしている。それに気づいただけで、法子は狼狽《うろた》え、落ち着きを失っておどおどとなった。
「もっともっと、あなたに色々な話をしたいのよ。だから、いらっしゃいな」
しかし、気がつくと、法子は素直に頷いて、いそいそと公恵に従っていた。自分自身の内の叫びは、耳を傾けても聞こえない程に小さかったのだ。それを敢《あ》えて聞こうというつもりにはなれなかった。面倒だったし、集中力が持続できそうにない。第一、こんなに優しい人達が、法子に話しかけようとしてくれる。誠実に、真剣に話そうとするのを、断る理由など何もなかった。
「──それでね、その時のおじいちゃんの活躍ときたら、もうたいへんな評判になったくらいなの」
武雄と和人は、明日の準備があるからと店へ行っていた。ヱイはいつもの通りに離れへ引っ込み、松造は自室のベッドに落ち着いた。綾乃は健晴と風呂《ふろ》に入っていて、法子は夕食の準備をしながら、ふみ江と公恵の話を聞き続けた。
「『そんなことじゃ、駄目だっ!』ってねえ、おじいちゃん、まわりにいる人達を怒鳴りつけてね。最初、皆は呆気《あつけ》に取られてたわ。でも、『何、してるんだ!』って、また怒鳴ったのよ。そうしたら、自然に皆、おじいちゃんの指図通りに動き始めたの」
戦後の混乱期を松造がどう乗り切ってきたか、ふみ江はほとんど手を動かすのも忘れて、ただ夢中で話し続けた。法子は熱っぽく語るふみ江に細かく相槌《あいづち》を打ち続け、いつしか感動に涙を流していた。とにかく、今となっては喋《しやべ》ることさえ出来ない老人が、かつては全身に生命力を漲《みなぎ》らせて輝いていた、その手で戦火から家族を守り、この家を守り抜いたという、それだけで涙が溢《あふ》れた。
「おじいちゃんて、すごい方だったんですねえ」
「機転のきく人だったのね。それに、時代の先を読む才にも長《た》けてたんでしょう」
「だから、おばあちゃんは、そんなおじいちゃんを今も大切になさってるんですね」
気がついたら口が勝手に動いていた。ふみ江はとろけそうな程に嬉しそうな顔をして、しつこいくらいに頷いている。そんな彼女まで、一途《いちず》に夫を愛し続ける妻の鑑《かがみ》に見えて、法子は心のどこかで戸惑いは抱きながら、ただ感動していた。身体は疲れきっているはずなのに、そんなことが出来るのも不思議なことだった。
「自分でお話しなさりたいでしょうねえ。私、おじいちゃんの口から、もっと色々なお話をうかがってみたいわ」
自分がそんなことを考えているかどうかも分からなかった。けれど、そういう受け答えが適しているのだ。だから自然に口が動いている。
「法子さんは、優しい子だわ、本当に」
「それに、もう分かってくれたんだわね。この家を継いで、守っていく本当の意味と、責任とを」
公恵にも言われて、法子はひきつった笑いを浮かべていた。
「法子さんは純粋な人だもの。うち以外の家に、こんな人がいたなんて、奇跡みたいなものよ」
意味とか責任とか、そんなことはよくは分からない。その上、純粋だなどと言われると、法子はまた頭がくらくらしそうになる。ただ、そんな状態の中で、一つだけ分かっていることがあった。自分はこの三日間、人生の中で最大の経験をしたのだということだ。混乱しているのは、寝不足のせい、単に疲れているせいだ。
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
ふみ江に聞かれて、法子は慌てて首を振った。彼女の表情は柔らかく、精一杯に慈《いつく》しむように法子の目をのぞき込んでいる。法子の中で何かの信号が点滅し始めている。心配させてはならない、混乱させてはならない。文句は言わない、批判はしない。笑いを、常に、笑いを──。
「だって。おしゃべりに夢中になっちゃって、これじゃあ、ご飯の支度が全然出来ないじゃないですか」
両手を腰にあて、わざと眉《まゆ》をひそめて姑《しゆうとめ》達を見比べる。この家に嫁いで来て、法子がそんな格好を見せたのは初めてのことだった。
「あら、本当だ」
「あらあら、つい夢中になっちゃって、ねえ」
穏やかな笑い声が起きた。法子はほっと胸をなで下ろし、自分も声を出して笑った。点滅していた信号が静まる。これで良いのだ、こうして日々を過ごしていくのだと、法子は漬物《つけもの》を切りながら、幾度も幾度も呟《つぶや》き続けていた。
結局その夜も、和人と共に部屋に戻ったのは、やはり深夜になってからだった。ハンドルを握り続けだった和人は、すぐに健康そうな寝息をたて始めたが、法子はまるで眠ることが出来なかった。疲れているに決まっているのに、神経が異様にたかぶっている。背中に自分の鼓動が響き、全身が揺すられている気がしてくる。意味もなく涙が出て仕方がなかった。どこかが違っている、自分の中に新たな法子が生まれ、以前までの法子を駆逐しようとしているのが分かった。
──最初はどうだった? 普通の家族旅行だと思ってたんじゃなかった? あの時の私、何を考えていた?
ようやく久しぶりに静寂に包まれ、一人で考えられる状態になって、法子は改めて考えてみた。こうしていても、つい昨日のことが三日も十日も前の出来事のような気さえしている。何とか頭を整理したい、この混乱から抜け出したかった。
出かけたのは夜明け前だった。わけも分からず家族に褒《ほ》めちぎられ、思わず夢見心地になった夜、ほんの数時間仮眠をしただけで、もう起こされたのだ。あの夜、法子はふらふらした頭で、つい不機嫌になりながら、とにかく和人に急かされて着替えを鞄《かばん》に詰め込んだ。
走り始めたワゴン車は菓子の匂《にお》いや煙草、膏薬《こうやく》の匂いなどが混ざりあい、もうそれだけで気分が悪くなりそうだった。しかも大人が九人も乗り込めば、相当に窮屈だ。いくら寝不足でも、とても眠いなどと言っていられる状況ではなかった。法子は終始無言だったと思う。健晴は時折|素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げるし、公恵は突然歌を歌い始める、車内には異様な熱気が満ちていた。そして、法子が幾度あくびをしていても、誰も「眠ったら」とか「静かにしましょうね」などとは言ってくれなかった。
──何だか、皆が違う人みたいな気がした。何時間か前に、あんなに私を褒めたたえて、大切にしてくれた人達が、急によそよそしく感じられた。
和人が運転する車は闇《やみ》をつき抜け、夜明けを滑り抜けて、幾度か短い休憩をとりながら西へ向かった。そして驚いたことに、日も高くなった頃にようやく着いた先は、蓼科《たてしな》の志藤家の別荘だった。法子はその時まで、志藤の家が別荘まで構えているという事実を知らされていなかった。
「ここで九人が寝泊まりするの?」
けれど、別荘の前に立つなり、法子は和人にそっと囁《ささや》いたと思う。夫婦二人だけで来るには最高の場所に思えたが、九人もの大人が過ごすには、そこはあまりにも狭かったのだ。
「僕たちはここで、もっともっと、もっともっと話し合うんだよ」
あの時、和人はにっこりと笑ってそう答えた。その笑顔は、いつになく作り物めいて見えた。
「素晴らしい時が過ごせるさ」
彼は、さらにそうも言った。法子の寝不足の頭は、すっかり集中力を欠いていて、彼の言葉の意味を考える力さえ残ってはいなかった。ただ、どうせ素晴らしい時というのならば、取りあえずは静かな空間でぐっすり眠りたいと思っただけだ。
来る途中で買い込んだ食料を運び込んでしまうと、家族は少しの間、建物の傷みを探したり、周囲の雑草を払ったりして過ごした。法子は、綾乃に誘われて裏の雑木林に入り、そこで義妹に教えられるままに野草やキノコを採《と》った。
昼過ぎになると、家族は一部屋に集まった。そこは八畳程の洋間で、建物には台所を除けば、同じような広さの和室がもう一つあるだけだった。そして、皆でふみ江と公恵が用意した食事を食べた。法子が綾乃と採ってきたキノコと野菜が入っている鍋物《なべもの》だった。栄養があるからと、法子は最後の汁まで飲まされた。えぐみのある、決して美味とは言い難い味だった。
「ご苦労だったね、私の子ども達」
食事が済むと、それまで黙っていたヱイがゆっくりと口を開いた。法子は、なおさら眠気が襲ってきて、出来ることならばその場でも横になりたいくらいに全身がだるくなっていた。それなのに、全身がぴりぴりとしている感じで、隣に座っていた和人と腕が触れあうだけでも、電気が走るような感覚を覚えた。
「こうして、家族で過ごせること以上の幸せなんか、ない。私達は、ついにここまできたねえ」
家族は誰もが幸福そうな顔でヱイを見守っていた。全員、一言も発することなくヱイの小さな姿を見守っているのだ。法子は、その芝居じみた雰囲気に子どもっぽい滑稽《こつけい》さを感じ、笑いをこらえながら、とりあえず自分も彼女を見つめていた。気持ちをしっかりとさせていないと、すぐに周囲がぼやけて全ての物から色彩が滲《にじ》み出しそうな感じがした。
「私達の家は、特別な家だ。崇高で純粋で、選び抜かれた家なんだよ」
ヱイは小さく頷《うなず》きながら、一人で言葉を続けていた。小さな呟《つぶや》きのようでありながら、言葉は妙にはっきりと聞き取ることが出来、一字一句が生き物のように法子の耳に飛び込んできて躍るように感じられた。
「私達は、たくさんの悲しみを見てきた。たくさんの涙を流した。意味のない迫害にあって苦しんだ時代もあった。それが、ようやっと、ここまできたんだ。長い、長い間をかけてねえ」
その辺りまでは、はっきりと思い出すことが出来る。
「心を開く時がきた。家族の歴史を見つめなおして、初めて明日が見えてくる」
ヱイがそう言ったのも、きちんと覚えている。老婆の声はひどく厳かで、神秘的な色彩を帯び、自宅の離れなどで聞く時とは別人のように朗々と響いた。そして、彼女は滔々《とうとう》と家族の歴史を語り始めたのだ。
──ええ、ちゃんと覚えてる。大ばばちゃんは明治二十八年生まれ。十四の時に東京に出てきて、それから大おじいちゃんと結婚するまで、浅草橋《あさくさばし》で働いていた。生まれたのは──そう、宮城。
だが、それからのことが、どうも曖昧模糊《あいまいもこ》としているのだ。一つ一つをたどっていけば、家族の歴史もきちんと頭に入っているとは思う。なのに、妙に間延びした感覚ばかりが波のように襲ってきた。
──迫害を受けたって言ってた。それからたくさんの涙を流したとも。あれは、どういう意味だったんだろう。何故《なぜ》、この家の人達は迫害を受けなければならなかったの。
とにかく、法子の周囲には必ず家族の半分は集っていて、法子は一度として一人にさせてはもらえなかった。そして、彼らは口々に家族の歴史を語り、志藤の家が目指すものについて、彼らが守ろうとしてるものについてを語った。食事は常に山菜やきのこを利用したもので、法子は最初、幾度かキノコが身体に合わなくて嘔吐《おうと》した。そして、後は外へ出ることもせず、高原の空気を味わうことも許されずに、ひたすら彼らの話を聞き続けた。夜もほとんど眠ることが出来なかった。
──それが、この大きな家を守る人間になる為の、志藤家の嫁になるための修行なんだと思った。完璧《かんぺき》な家族になる為、断ち切れることのない絆《きずな》を築く為の。
そしてついに、法子は雷に打たれるように全身でそれを感じる時があった。
「分かるね、法子」
ヱイが、たった一言呟いただけだった。なのに、法子は涙がとめどもなく溢れ、もはや、彼らは和人の家族というだけではなく、自分にとっても欠かすことのできない大切な存在であることが、理屈ではなく全身で理解できたのだ。
──私は素晴らしい人々と出逢《であ》った。出逢うどころか、彼らの家族になった。
今、和人の軽いいびきを聞きながら、法子は一人で涙を流していた。その夜、久しぶりの我が家で、ようやく静かな眠りに落ちる直前に思ったことは、ただ、正しいことをしたい、ということだけだった。この家の為に、家族の為に、法子は自分の責任を果たさなければならない。彼らを守らなければならない。それだけが頭の中で渦巻いた。眠りは浅く、不安定で、法子は全身に寝汗をかき、ずっと夢を見続けた。
──ここが、私の暮らす家。私の世界。
永年住み慣れたという程でもないのに、車が路地を曲がり、やがて志藤の家の屋根が見えただけで、つい熱いものがこみ上げてきそうになった。そして、車を降りると真っ先に、つまずいて転びそうになりながら、庭に向かって駆け出した。
──私達の庭、私が守る庭。
草花の一つ一つにでさえ、愛《いとお》しさに頬《ほお》ずりしたい衝動に駆られる。見慣れた庭のはずなのに、法子の目には、葉の一枚、茎の一本までが鮮やかに光り輝くように見えた。
家に入って雨戸を開ける時には、こもっていた匂《にお》いに胸を衝《つ》かれ、柱時計の音にさえ甘美な響きを感じずにはいられなかった。法子は、自分のそんな感覚に戸惑いながらも、今度は郵便受けにたまった新聞に気づき、奇妙な悲しさに襲われた。疲れているだけでなく、すっかり心のバランスを崩している。それだけは何となく分かった。
──世界は動いている。私とは関係ないところで、私とは縁のない人達が。
新聞は三日分たまっていた。その日付を一つずつ確かめるだけのことが、何かの意味を持っている気がしてならなかった。何よりもまず法子には、あの夜中に出かけた日から、まだ三日しか過ぎていないということからして、信じられなかった。てっきり、もう一週間くらいが過ぎていると思い込んでいたのだ。
「間違いないのよね? 二晩、家をあけただけよねえ?」
法子は幾度となく和人に聞いた。
「そうだよ。もっとゆっくり出来れば良かったんだけどね」
和人はその度に穏やかに笑い、辛抱強く同じ言葉を繰り返してくれた。その都度、法子は安心して良いのか落胆するべきなのか分からない気分で、ただ力なく頷《うなず》いた。とにかく、法子の上だけ時の流れが間延びしてしまったようで、普通の一日が、二日にも三日にも感じられてならなかったのだ。時空の歪《ゆが》みにはまり込んだような不安は拭《ぬぐ》いようもなく、疲労ばかりが背中にへばり付いていて、現実感は完璧《かんぺき》に薄らいでしまっていた。
「法子さん、お茶が入ったわよ」
普段は配達に使っている大型のワゴン車から荷物を運び出していると、もう普段着にエプロンという姿に戻っている公恵が笑顔で呼びにきた。
──いや。お茶なんかいらない。
疲れ果て、支離滅裂になりそうな頭の奥底で、小さな叫びが起こった。もう一人にして、少し休ませてと、法子の中の、もはや蟻《あり》んこ程度にしか感じられない、以前の法子が訴えようとしている。それに気づいただけで、法子は狼狽《うろた》え、落ち着きを失っておどおどとなった。
「もっともっと、あなたに色々な話をしたいのよ。だから、いらっしゃいな」
しかし、気がつくと、法子は素直に頷いて、いそいそと公恵に従っていた。自分自身の内の叫びは、耳を傾けても聞こえない程に小さかったのだ。それを敢《あ》えて聞こうというつもりにはなれなかった。面倒だったし、集中力が持続できそうにない。第一、こんなに優しい人達が、法子に話しかけようとしてくれる。誠実に、真剣に話そうとするのを、断る理由など何もなかった。
「──それでね、その時のおじいちゃんの活躍ときたら、もうたいへんな評判になったくらいなの」
武雄と和人は、明日の準備があるからと店へ行っていた。ヱイはいつもの通りに離れへ引っ込み、松造は自室のベッドに落ち着いた。綾乃は健晴と風呂《ふろ》に入っていて、法子は夕食の準備をしながら、ふみ江と公恵の話を聞き続けた。
「『そんなことじゃ、駄目だっ!』ってねえ、おじいちゃん、まわりにいる人達を怒鳴りつけてね。最初、皆は呆気《あつけ》に取られてたわ。でも、『何、してるんだ!』って、また怒鳴ったのよ。そうしたら、自然に皆、おじいちゃんの指図通りに動き始めたの」
戦後の混乱期を松造がどう乗り切ってきたか、ふみ江はほとんど手を動かすのも忘れて、ただ夢中で話し続けた。法子は熱っぽく語るふみ江に細かく相槌《あいづち》を打ち続け、いつしか感動に涙を流していた。とにかく、今となっては喋《しやべ》ることさえ出来ない老人が、かつては全身に生命力を漲《みなぎ》らせて輝いていた、その手で戦火から家族を守り、この家を守り抜いたという、それだけで涙が溢《あふ》れた。
「おじいちゃんて、すごい方だったんですねえ」
「機転のきく人だったのね。それに、時代の先を読む才にも長《た》けてたんでしょう」
「だから、おばあちゃんは、そんなおじいちゃんを今も大切になさってるんですね」
気がついたら口が勝手に動いていた。ふみ江はとろけそうな程に嬉しそうな顔をして、しつこいくらいに頷いている。そんな彼女まで、一途《いちず》に夫を愛し続ける妻の鑑《かがみ》に見えて、法子は心のどこかで戸惑いは抱きながら、ただ感動していた。身体は疲れきっているはずなのに、そんなことが出来るのも不思議なことだった。
「自分でお話しなさりたいでしょうねえ。私、おじいちゃんの口から、もっと色々なお話をうかがってみたいわ」
自分がそんなことを考えているかどうかも分からなかった。けれど、そういう受け答えが適しているのだ。だから自然に口が動いている。
「法子さんは、優しい子だわ、本当に」
「それに、もう分かってくれたんだわね。この家を継いで、守っていく本当の意味と、責任とを」
公恵にも言われて、法子はひきつった笑いを浮かべていた。
「法子さんは純粋な人だもの。うち以外の家に、こんな人がいたなんて、奇跡みたいなものよ」
意味とか責任とか、そんなことはよくは分からない。その上、純粋だなどと言われると、法子はまた頭がくらくらしそうになる。ただ、そんな状態の中で、一つだけ分かっていることがあった。自分はこの三日間、人生の中で最大の経験をしたのだということだ。混乱しているのは、寝不足のせい、単に疲れているせいだ。
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
ふみ江に聞かれて、法子は慌てて首を振った。彼女の表情は柔らかく、精一杯に慈《いつく》しむように法子の目をのぞき込んでいる。法子の中で何かの信号が点滅し始めている。心配させてはならない、混乱させてはならない。文句は言わない、批判はしない。笑いを、常に、笑いを──。
「だって。おしゃべりに夢中になっちゃって、これじゃあ、ご飯の支度が全然出来ないじゃないですか」
両手を腰にあて、わざと眉《まゆ》をひそめて姑《しゆうとめ》達を見比べる。この家に嫁いで来て、法子がそんな格好を見せたのは初めてのことだった。
「あら、本当だ」
「あらあら、つい夢中になっちゃって、ねえ」
穏やかな笑い声が起きた。法子はほっと胸をなで下ろし、自分も声を出して笑った。点滅していた信号が静まる。これで良いのだ、こうして日々を過ごしていくのだと、法子は漬物《つけもの》を切りながら、幾度も幾度も呟《つぶや》き続けていた。
結局その夜も、和人と共に部屋に戻ったのは、やはり深夜になってからだった。ハンドルを握り続けだった和人は、すぐに健康そうな寝息をたて始めたが、法子はまるで眠ることが出来なかった。疲れているに決まっているのに、神経が異様にたかぶっている。背中に自分の鼓動が響き、全身が揺すられている気がしてくる。意味もなく涙が出て仕方がなかった。どこかが違っている、自分の中に新たな法子が生まれ、以前までの法子を駆逐しようとしているのが分かった。
──最初はどうだった? 普通の家族旅行だと思ってたんじゃなかった? あの時の私、何を考えていた?
ようやく久しぶりに静寂に包まれ、一人で考えられる状態になって、法子は改めて考えてみた。こうしていても、つい昨日のことが三日も十日も前の出来事のような気さえしている。何とか頭を整理したい、この混乱から抜け出したかった。
出かけたのは夜明け前だった。わけも分からず家族に褒《ほ》めちぎられ、思わず夢見心地になった夜、ほんの数時間仮眠をしただけで、もう起こされたのだ。あの夜、法子はふらふらした頭で、つい不機嫌になりながら、とにかく和人に急かされて着替えを鞄《かばん》に詰め込んだ。
走り始めたワゴン車は菓子の匂《にお》いや煙草、膏薬《こうやく》の匂いなどが混ざりあい、もうそれだけで気分が悪くなりそうだった。しかも大人が九人も乗り込めば、相当に窮屈だ。いくら寝不足でも、とても眠いなどと言っていられる状況ではなかった。法子は終始無言だったと思う。健晴は時折|素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げるし、公恵は突然歌を歌い始める、車内には異様な熱気が満ちていた。そして、法子が幾度あくびをしていても、誰も「眠ったら」とか「静かにしましょうね」などとは言ってくれなかった。
──何だか、皆が違う人みたいな気がした。何時間か前に、あんなに私を褒めたたえて、大切にしてくれた人達が、急によそよそしく感じられた。
和人が運転する車は闇《やみ》をつき抜け、夜明けを滑り抜けて、幾度か短い休憩をとりながら西へ向かった。そして驚いたことに、日も高くなった頃にようやく着いた先は、蓼科《たてしな》の志藤家の別荘だった。法子はその時まで、志藤の家が別荘まで構えているという事実を知らされていなかった。
「ここで九人が寝泊まりするの?」
けれど、別荘の前に立つなり、法子は和人にそっと囁《ささや》いたと思う。夫婦二人だけで来るには最高の場所に思えたが、九人もの大人が過ごすには、そこはあまりにも狭かったのだ。
「僕たちはここで、もっともっと、もっともっと話し合うんだよ」
あの時、和人はにっこりと笑ってそう答えた。その笑顔は、いつになく作り物めいて見えた。
「素晴らしい時が過ごせるさ」
彼は、さらにそうも言った。法子の寝不足の頭は、すっかり集中力を欠いていて、彼の言葉の意味を考える力さえ残ってはいなかった。ただ、どうせ素晴らしい時というのならば、取りあえずは静かな空間でぐっすり眠りたいと思っただけだ。
来る途中で買い込んだ食料を運び込んでしまうと、家族は少しの間、建物の傷みを探したり、周囲の雑草を払ったりして過ごした。法子は、綾乃に誘われて裏の雑木林に入り、そこで義妹に教えられるままに野草やキノコを採《と》った。
昼過ぎになると、家族は一部屋に集まった。そこは八畳程の洋間で、建物には台所を除けば、同じような広さの和室がもう一つあるだけだった。そして、皆でふみ江と公恵が用意した食事を食べた。法子が綾乃と採ってきたキノコと野菜が入っている鍋物《なべもの》だった。栄養があるからと、法子は最後の汁まで飲まされた。えぐみのある、決して美味とは言い難い味だった。
「ご苦労だったね、私の子ども達」
食事が済むと、それまで黙っていたヱイがゆっくりと口を開いた。法子は、なおさら眠気が襲ってきて、出来ることならばその場でも横になりたいくらいに全身がだるくなっていた。それなのに、全身がぴりぴりとしている感じで、隣に座っていた和人と腕が触れあうだけでも、電気が走るような感覚を覚えた。
「こうして、家族で過ごせること以上の幸せなんか、ない。私達は、ついにここまできたねえ」
家族は誰もが幸福そうな顔でヱイを見守っていた。全員、一言も発することなくヱイの小さな姿を見守っているのだ。法子は、その芝居じみた雰囲気に子どもっぽい滑稽《こつけい》さを感じ、笑いをこらえながら、とりあえず自分も彼女を見つめていた。気持ちをしっかりとさせていないと、すぐに周囲がぼやけて全ての物から色彩が滲《にじ》み出しそうな感じがした。
「私達の家は、特別な家だ。崇高で純粋で、選び抜かれた家なんだよ」
ヱイは小さく頷《うなず》きながら、一人で言葉を続けていた。小さな呟《つぶや》きのようでありながら、言葉は妙にはっきりと聞き取ることが出来、一字一句が生き物のように法子の耳に飛び込んできて躍るように感じられた。
「私達は、たくさんの悲しみを見てきた。たくさんの涙を流した。意味のない迫害にあって苦しんだ時代もあった。それが、ようやっと、ここまできたんだ。長い、長い間をかけてねえ」
その辺りまでは、はっきりと思い出すことが出来る。
「心を開く時がきた。家族の歴史を見つめなおして、初めて明日が見えてくる」
ヱイがそう言ったのも、きちんと覚えている。老婆の声はひどく厳かで、神秘的な色彩を帯び、自宅の離れなどで聞く時とは別人のように朗々と響いた。そして、彼女は滔々《とうとう》と家族の歴史を語り始めたのだ。
──ええ、ちゃんと覚えてる。大ばばちゃんは明治二十八年生まれ。十四の時に東京に出てきて、それから大おじいちゃんと結婚するまで、浅草橋《あさくさばし》で働いていた。生まれたのは──そう、宮城。
だが、それからのことが、どうも曖昧模糊《あいまいもこ》としているのだ。一つ一つをたどっていけば、家族の歴史もきちんと頭に入っているとは思う。なのに、妙に間延びした感覚ばかりが波のように襲ってきた。
──迫害を受けたって言ってた。それからたくさんの涙を流したとも。あれは、どういう意味だったんだろう。何故《なぜ》、この家の人達は迫害を受けなければならなかったの。
とにかく、法子の周囲には必ず家族の半分は集っていて、法子は一度として一人にさせてはもらえなかった。そして、彼らは口々に家族の歴史を語り、志藤の家が目指すものについて、彼らが守ろうとしてるものについてを語った。食事は常に山菜やきのこを利用したもので、法子は最初、幾度かキノコが身体に合わなくて嘔吐《おうと》した。そして、後は外へ出ることもせず、高原の空気を味わうことも許されずに、ひたすら彼らの話を聞き続けた。夜もほとんど眠ることが出来なかった。
──それが、この大きな家を守る人間になる為の、志藤家の嫁になるための修行なんだと思った。完璧《かんぺき》な家族になる為、断ち切れることのない絆《きずな》を築く為の。
そしてついに、法子は雷に打たれるように全身でそれを感じる時があった。
「分かるね、法子」
ヱイが、たった一言呟いただけだった。なのに、法子は涙がとめどもなく溢れ、もはや、彼らは和人の家族というだけではなく、自分にとっても欠かすことのできない大切な存在であることが、理屈ではなく全身で理解できたのだ。
──私は素晴らしい人々と出逢《であ》った。出逢うどころか、彼らの家族になった。
今、和人の軽いいびきを聞きながら、法子は一人で涙を流していた。その夜、久しぶりの我が家で、ようやく静かな眠りに落ちる直前に思ったことは、ただ、正しいことをしたい、ということだけだった。この家の為に、家族の為に、法子は自分の責任を果たさなければならない。彼らを守らなければならない。それだけが頭の中で渦巻いた。眠りは浅く、不安定で、法子は全身に寝汗をかき、ずっと夢を見続けた。