21
翌日から、再び日常の生活が始まった。家は朝から笑い声に溢《あふ》れ、和人も武雄も、溌剌《はつらつ》とした表情で仕事に出かけていった。ふみ江も公恵も機嫌が良い。健晴だけは少しばかり風邪気味だったから、綾乃がヱイの部屋を訪れて何かの薬草をもらってきた。
法子は、そんな落ち着いた人々に混ざり、一人だけ疲れも取れないままに、ただ意味もなく笑顔を浮かべていた。
──私はこの家の人間。私は、皆の家族。皆を守り、この家を次の代につなぐ人間。
重たい瞼《まぶた》を押し上げながら、同じ言葉ばかりを心の中で繰り返し、法子はぼんやりと洗濯機の中で渦巻く水を眺めていた。洗濯機は小さな唸《うな》りを上げながら、涼しげな水を渦巻かせている。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がした。
「法子さん、橋本のお母様からお電話よ」
ふいに公恵が法子を呼んだ。さっきから居間の方で、公恵が誰かと話し込んでいると思ったら、母からの電話だったのだ。法子は、うっすらと微笑んで義母から受話器を受け取った。公恵も、うっすらと笑っていた。
「法子? あんた、元気にやってるの?」
久しぶりに聞く母の声は、まるでプラスチックみたいに安っぽく、硬く聞こえた。法子は、心の片隅にちくちくとする、苛立《いらだ》ちにも似た不快感を覚えながら、努めて穏やかな声を出した。
「当たり前じゃない、どうして?」
「大熊さんから電話をもらったのよ。ほら、知美ちゃんから。ずっと電話してるんだけど、誰も出ないって。あの子と会ってるんですって?」
法子は焦点の合わない目を庭の方へ向けながら「まあね」と答えた。
「知美ちゃん、心配してたわよ」
「昨日までね、皆で旅行に行ってたのよ」
「あら、和人さんと?」
「まさか。皆で」
「────」
何とも不思議な気分だった。無味乾燥な機械の声を聞いているのと同じくらい、懐かしささえもこみ上げては来なかった。電話の向こうにいる人は、確かに法子の母だ。だが、母でありながら、過去の人になってしまった。法子は既にあの家から出てしまった人間だった。今、法子が懐かしく思うのは、志藤の人々、ヱイを長として連なる善良で誠実な人々でなければならない。
「じゃあ、元気なのね? 和人さんの家族と、うまくやってるのね?」
受話器の向こうの母は、何か慌てている様子でふだんよりも早口に話してくる。法子は半ばうんざりした口調で、もう一度「当たり前じゃない」と答えた。
「何を心配してるのよ」
「だって──知美ちゃんがね、あんたの様子がおかしいって言うもんだから。何か思い詰めているみたいな雰囲気で、取り乱してるって」
「嘘《うそ》よ。あの子、会ってみて分かったけどね、嫉妬《しつと》してるの。私が先に結婚したのが気に入らないのよ」
「何だ、そうなの──まあ、そういうこともあるでしょうけど」
それから法子は少しの間、実家の父や兄の近況を聞き、志藤の家族の話題もさりげなく披露《ひろう》した。腹の底では、知美に対する怒りが膨れ上がっていた。あの子は悪だ、法子の幸せを壊そうとする、この家の平和を乱そうとするものは、全て悪だった。
「それで、旅行って? どこへ行ってきたの」
「別荘よ。蓼科にね、別荘があるの」
「へえっ、志藤さんのお宅の? 個人の?」
受話器の向こうで、母は歓声にも近い声を上げている。法子は急に吐き気にも近いものを感じて、その話題は出したくないと思った。もうこれ以上、母の声さえも聞きたくはなかった。
その日の午後、知美から電話があった時には、法子は居留守を使った。
「良かったの? 大切なお友達なんじゃないの?」
公恵は、貼《は》りつけたような笑顔で法子を見て首を傾《かし》げた。法子は必要以上に激しくかぶりを振り、「いいんです」と笑いを返した。彼女は悪だという声が、絶えることなく響いている。彼女には近づきたくない、話したくないと、法子はその度に心の中で呟《つぶや》き続けた。だが、知美からはその日の夜も、翌日も、しつこく毎日電話がかかってきた。
「いくら何でも、そんなに避けるとおかしいと思われるよ」
三日もそんな状態が続いた時、法子はついに和人から言われた。法子はぎくりとなり、助けを求める気持ちで彼の瞳をのぞき込んだ。
「向こうは、何かを心配して電話を寄越してるんだろう?」
和人の目は、大丈夫だと言っている。その瞳は確信に満ちて迷うこともなく、以前にはそれほど感じられなかった、ある種の自信に溢《あふ》れていた。
「君が避ける理由なんて、何もないじゃないか」
「──そうよね。そうだったわね」
結局、それから数日後、法子は知美と会うことになった。ようやく決心して彼女からの電話を受け取った瞬間、知美は受話器の向こうで「どうしてたのよ!」と怒鳴ったのだ。そして、曖昧《あいまい》な返事をしている法子に向かって、是が非でも出てきて欲しいと強い口調で言った。
あれこれと思い悩んだ挙げ句、和人や家族にも励まされて、法子はその日、待ち合わせの場所に向かった。既に法子を待ちかまえていた知美は、法子の顔を見るなり「ちょっと、あんた──」と絶句した。
「どうしたの、その顔色」
そう言われて初めて、法子は自分の顔色が最近すぐれないことを思い出した。このところ寝不足が続いたのだと言うと、知美は疑わしそうな顔つきで法子の腕を取り、すたすたと歩き始めた。
「とにかく、どこかで落ち着こう。その顔じゃ、貧血でも起こされそうだわ」
それは知美の言葉の通りかも知れなかった。炎天下の繁華街を、法子は腕をとられたまま、抵抗もせずにふらふらと歩いた。ヒールの高い靴を履《は》くのも久しぶりだったし、どうも地に足がついていないような感じがした。
「心配したんだからね。何かあったんじゃないかって」
喫茶店に入るなり、知美はすぐに切り出した。法子は、ウェイトレスが置いていった冷水を一息に飲んでしまうと、ようやく呼吸が楽になって微笑《ほほえ》んだ。
「心配することなんか、何もないわよ。家族で旅行してたんだってば。ちょっと蓼科に行ってたの」
だが、知美は「ふうん」と言ったまま、テーブルに両肘《りようひじ》をついて法子を見つめている。その視線さえも痛く感じられて、法子はしきりに汗を拭《ぬぐ》った。心の中では、自分を励ますように呟いていた。
──何とか、この場をやりすごすのよ、それに限る。どうせ、家族以外の者に、あの家のことを理解なんか出来るはずがないんだから。
「家族旅行で、寝不足? そんな顔色になるわけ?」
「──そういうわけでもないけど。色々と、ね、忙しかったの」
「何よ、薪割《まきわ》りでもやらされたの? ハイキングで遭難でもしたわけ?」
「まさか」
「あんたの顔色、そういう感じよ」
知美の口調は容赦なく法子に突き刺さってくる。法子は、「やましいところなどない、逃げる必要はない」と、心の中で呟き続け、ひたすら笑みを絶やさないようにしていた。とにかく、自分は幸せなのだ。志藤家の嫁になって、幸福な生活を送っている。それは断じて間違ってはいない。
「で、例の件は? 決着はついたわけ?」
知美に言われた時も、法子はひたすら自分に言い聞かせていた。大丈夫、心配はいらない。私には家族がいると。法子は出来るだけ落ち着いた声で「だからね」と彼女を見た。知美の瞳には、以前と変わらない、きらきらとした輝きが宿っている。それが、ひどく眩《まぶ》しく感じられた。
「誤解だったって、前にも言ったでしょう? 私の妄想だったの。疑心暗鬼にかかってたのよ」
心臓がどきどきする。自分の声が遠くに聞こえ、まるで芝居の台詞《せりふ》でも喋《しやべ》っているようだ。しかも、それは何年も前に覚えた、古い台詞のようだった。
「じゃあ、どうしてそんなに疲れてるわけ? 本当のところ、あんた、家族にどういう扱いを受けてるの」
知美はせわしない表情で苛々《いらいら》と法子を見ている。法子は一つ深呼吸をすると、右手をすっと差し出して見せた。
「見て。大ばばちゃん──ひいおばあちゃんがね、私が家族の一員として頑張ってる、よくやってくれるからって、くれたの」
そこには、大粒のエメラルドが輝いていた。知美は一瞬息を呑んだ様子だったが、それでも眉間《みけん》の皺《しわ》は取れず、以前の彼女のようにはしゃいだ声は上げなかった。
「口止め料か何かじゃないの?」
「やめてったら、もう。心配しすぎよ。言ったでしょう? 全部、私の誤解だったんだって」
「でも、違うっていう証拠も掴《つか》んではいないんでしょう? あんた、丸め込まれようとしてるだけなんじゃないの?」
ようやく汗もひいて、幾分開き直った落ち着きを取り戻すことが出来た。彼女は悪なのだ。耳を貸してはならない。法子は幾度となく自分に言い聞かせてきたことを思い出した。
「ひどいこと言わないでよ。まがりなりにも夫の家族よ。それもね、知美は知らないから、そんなことを言うけど、それはもう、素晴らしい人達なんだから」
知美は少しばかり驚いた顔になったが、それでも、その瞳から不審の色は消えなかった。焦《あせ》るな、相手にするな、聞いてはいけない。とにかくこれ以上、しつこく食い下がって来させない為には、少なくとも、自分が現在どれほど恵まれた環境に暮らしているか、どんな愛情に包まれているか、それだけを知らせるべきだ。法子は、今や自分だけでなく志藤の家全体にとって、最大の敵にさえ思えるようになってしまった旧友に、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて見せた。
「よその家に入ったことのない人には、この素晴らしさは分からないとは思うけど」
「当たり前よ、私はそんな結婚はしたくないもの。でもねえ、あんた。そんなに素晴らしい人達と暮らすと、そういう顔色になっちゃうわけ? 自分で気がついてないの? 紙みたいに白い顔して、おまけにげっそりやつれてるじゃない。その顔で、いくら幸せだ、素晴らしいって言われたって、誰も信じないわよ」
「だからね、旅行に行った疲れが残ってるんだったら」
「だって、別荘だったんでしょう? おばさんから聞いたけど、別荘を持ってるんでしょう?」
「そうよ」
「自分の別荘に行くだけで、どうしてそんな顔色になるのよ。リフレッシュしにいくんじゃないの? 普通だったら──」
「うるさいわねえ、もう」
「うるさくないわよ。あのねえ──」
「喋《しやべ》ってたからよ! ずっと、皆で喋ってたの!」
ついに堪えきれず、法子は声を荒らげていた。感情のコントロールがきかなくなりそうな予感がある。コーヒー・カップを持つ手は細かく震えていた。
──駄目よ、駄目。聞き流すの、適当にあしらうだけでいいんだから。
「──法子」
知美は眉《まゆ》をひそめ、今度は打って変わって不安そうな表情になった。法子は慌ててハンカチで汗をおさえ、ミルク・ピッチャーに残っていたミルクを残らずコーヒーに流しこんでしまった。それから、もう一度、今度は相当に落ち着いて見えるように微笑んで見せた。
「そうよ、喋ってたの。今までの和人さんの家の歴史をね、ずっと、ずっと聞かせてもらっていたのよ。大ばばちゃんが東京に出てきた時の話から始まって、いつ結婚をして、出産したか。おじいちゃんは、いくつの時におばあちゃんと一緒になったか。おばあちゃんが行儀見習いに出されていたのはどんなところだったか。そして、子どもを産んで戦争があって──迫害を受けた時代があって──涙を流さなければならない時もあって──」
「そんな話を、夜も寝ないでしてたっていうの? あんたがそんな顔色になるくらいに? 一体、何日間よ。一週間? 二週間?」
知美は半ば呆気《あつけ》に取られた表情で法子を見ている。三日とは、答えられなかった。
「第一、その迫害とか、涙とかって、何?」
心臓がひやりと冷たくなった。あの別荘で過ごした時間、法子からの質問は一切受け入れられなかったことが思い出された。だから、法子は未だにその意味を知らされていない。法子だって、心に引っかかっていたはずだ。確かに迫害も、涙も、今の志藤の家にはふさわしくない言葉だという気がする。それは分かる。
「──そういう時代を経てきたっていうことでしょう。どこの家にだって、歴史はあるわ。いつもいつもサザエさんみたいな一家なんて、ないわよ」
「だから、どういう時代だったっていうの? そりゃあ、叩《たた》いて埃《ほこり》の出ない家はないだろうけど、あんた、迫害なんていう言葉、そう滅多に使うものじゃないじゃないよ」
知美の表情には明らかに苛立ちが見てとれた。彼女は、「さあねえ」と答える法子の顔の隅々までを眺め回し、やがて煙草を取り出しながら「あのね」と呟《つぶや》いた。
「私なりに、調べてみたのよ、チョウセンアサガオのこと。法子は違うって言ってたけど、私はまだ疑ってるわけ」
「あれは、私の思い違いだったって言ったじゃない。それに、チョウセンアサガオを栽培してたからって、別に法律に触れるわけじゃないのよ」
知美の顔がぴくりと動いた。
「あら、法子も調べたの」
「だから、あれは──」
「まあ、いいわ。とにかく聞いて。そういう、合法的なドラッグって、案外たくさんあるのよね。日本だったら、キノコにも多いみたいだし、手近なところではバナナなんていうのも、そういう使い方が出来るらしいわ」
法子は耳鳴りがしそうな感覚の中で、ぼんやりとコーヒー・カップを覗《のぞ》いていた。出来るだけ耳を傾けるな、知美の言葉に神経を注ぐなと、法子の中で誰かが指図している。だが、キノコがドラッグになるなどという話は、初耳だった。蓼科に行っている間中、ずっと食べていたキノコを思い出す。昔から、色の美しいキノコには毒があると聞いていた。綾乃が教えてくれたキノコは、それは美しいピンク色をしていた。
「何で、私がそんなことを言うと思う?」
知美はなおも言葉を続けた。眉が濃くて、幼い頃には少年みたいな顔立ちだった知美は、今も髪を短くして、OLにしては妙に凛々《りり》しい雰囲気をまとっている。
「私、昔バンドをやってた奴で、中毒になったっていう奴、見たことがあるの。彼の場合はシャブだったと思うけど──あんた見た時にね、咄嗟にそいつのことを思い出したのよ」
法子はぎょっとなって知美を見た。知美の表情は真剣そのもので、瞳はさらに輝きを増していた。
「──馬鹿なこと、言わないでよ」
「そう、言いきれる? 馬鹿なことって? 何か食べさせられたり、飲まされたりしてない? 自分では知らない間に、幻覚みたいなのを見なかった?」
頭がぐらぐらとして、今度こそ本物の耳鳴りがしていた。温室から逃げ帰った夜のこと、家族に囲まれて誤解を解けと言われた時のこと、そして蓼科でのことなどが走馬燈のように駆け巡った。
──聞くんじゃない。聞いたら駄目よ。彼女は悪なんだから、私を不安に陥れようとしてるんだから!
「ねえ、どうなのよ、法子」
法子は、冷ややかに正面から知美を見据えると、わざとらしい程に深々とため息をついて見せた。
「悪いけど──帰るわ。用事があるの」
脳貧血を起こす手前のように、耳の中でごうごうという音がした。実際、目の焦点を合わせることも困難なくらいに、ふらふらとする。けれど、法子は蹶然《けつぜん》と立ち上がろうとした。
「私の家族をそこまで侮辱するなんて、知美の方がどうかしてるわ。どうして、人の家庭のことに首を突っ込もうとするの?」
知美は一瞬|呆気《あつけ》に取られた表情になり、ぽかんとして法子を見上げていた。
「待ちなさいって。どうしたの、ねえ」
テーブルの端に置かれていた伝票を、すっと引き寄せて、法子は改めて、知美の顔をじっと見据えた。
「心配しないで。私には私の幸せがあるわ。知美が心配してくれるのは嬉しいけど、でも、何度も言うけど、疑心暗鬼だったのよ」
すたすたと出口に向かおうとすると、知美は急いで後を追ってきた。取り越し苦労だったのなら、それに越したことはないのだと、彼女は半ば媚《こび》を売るような口調で言い、とにかく、そんなに怒らないでくれと言った。
「私は、ただ心配だっただけなのよ」
炎天下の街を人混みをかき分けて歩きながら、法子は固い笑みを浮かべて知美を見た。
「ご心配いただいて、ありがとう。でも、ほら、大丈夫だから」
「じゃあ、また会えるわね?」
知美は、なおもしつこく法子に追いすがってくる。法子は、内心で舌打ちをしたい気分で「いつでも」と答えた。何かの縁で、ずっと付き合いの続いている友人と、無理に絶交しようなどとは思わない。だが、それでも彼女は他人だった。法子の本当の事情など、どんなことをしたって分かろうはずもないのだ。
「電話するわ」
最後に、知美はそう言って、法子に小さく手を振った。法子は、その子どもじみたしぐさに奇妙な苛立ちを覚えながら、一人で駅への階段を上った。
法子は、そんな落ち着いた人々に混ざり、一人だけ疲れも取れないままに、ただ意味もなく笑顔を浮かべていた。
──私はこの家の人間。私は、皆の家族。皆を守り、この家を次の代につなぐ人間。
重たい瞼《まぶた》を押し上げながら、同じ言葉ばかりを心の中で繰り返し、法子はぼんやりと洗濯機の中で渦巻く水を眺めていた。洗濯機は小さな唸《うな》りを上げながら、涼しげな水を渦巻かせている。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がした。
「法子さん、橋本のお母様からお電話よ」
ふいに公恵が法子を呼んだ。さっきから居間の方で、公恵が誰かと話し込んでいると思ったら、母からの電話だったのだ。法子は、うっすらと微笑んで義母から受話器を受け取った。公恵も、うっすらと笑っていた。
「法子? あんた、元気にやってるの?」
久しぶりに聞く母の声は、まるでプラスチックみたいに安っぽく、硬く聞こえた。法子は、心の片隅にちくちくとする、苛立《いらだ》ちにも似た不快感を覚えながら、努めて穏やかな声を出した。
「当たり前じゃない、どうして?」
「大熊さんから電話をもらったのよ。ほら、知美ちゃんから。ずっと電話してるんだけど、誰も出ないって。あの子と会ってるんですって?」
法子は焦点の合わない目を庭の方へ向けながら「まあね」と答えた。
「知美ちゃん、心配してたわよ」
「昨日までね、皆で旅行に行ってたのよ」
「あら、和人さんと?」
「まさか。皆で」
「────」
何とも不思議な気分だった。無味乾燥な機械の声を聞いているのと同じくらい、懐かしささえもこみ上げては来なかった。電話の向こうにいる人は、確かに法子の母だ。だが、母でありながら、過去の人になってしまった。法子は既にあの家から出てしまった人間だった。今、法子が懐かしく思うのは、志藤の人々、ヱイを長として連なる善良で誠実な人々でなければならない。
「じゃあ、元気なのね? 和人さんの家族と、うまくやってるのね?」
受話器の向こうの母は、何か慌てている様子でふだんよりも早口に話してくる。法子は半ばうんざりした口調で、もう一度「当たり前じゃない」と答えた。
「何を心配してるのよ」
「だって──知美ちゃんがね、あんたの様子がおかしいって言うもんだから。何か思い詰めているみたいな雰囲気で、取り乱してるって」
「嘘《うそ》よ。あの子、会ってみて分かったけどね、嫉妬《しつと》してるの。私が先に結婚したのが気に入らないのよ」
「何だ、そうなの──まあ、そういうこともあるでしょうけど」
それから法子は少しの間、実家の父や兄の近況を聞き、志藤の家族の話題もさりげなく披露《ひろう》した。腹の底では、知美に対する怒りが膨れ上がっていた。あの子は悪だ、法子の幸せを壊そうとする、この家の平和を乱そうとするものは、全て悪だった。
「それで、旅行って? どこへ行ってきたの」
「別荘よ。蓼科にね、別荘があるの」
「へえっ、志藤さんのお宅の? 個人の?」
受話器の向こうで、母は歓声にも近い声を上げている。法子は急に吐き気にも近いものを感じて、その話題は出したくないと思った。もうこれ以上、母の声さえも聞きたくはなかった。
その日の午後、知美から電話があった時には、法子は居留守を使った。
「良かったの? 大切なお友達なんじゃないの?」
公恵は、貼《は》りつけたような笑顔で法子を見て首を傾《かし》げた。法子は必要以上に激しくかぶりを振り、「いいんです」と笑いを返した。彼女は悪だという声が、絶えることなく響いている。彼女には近づきたくない、話したくないと、法子はその度に心の中で呟《つぶや》き続けた。だが、知美からはその日の夜も、翌日も、しつこく毎日電話がかかってきた。
「いくら何でも、そんなに避けるとおかしいと思われるよ」
三日もそんな状態が続いた時、法子はついに和人から言われた。法子はぎくりとなり、助けを求める気持ちで彼の瞳をのぞき込んだ。
「向こうは、何かを心配して電話を寄越してるんだろう?」
和人の目は、大丈夫だと言っている。その瞳は確信に満ちて迷うこともなく、以前にはそれほど感じられなかった、ある種の自信に溢《あふ》れていた。
「君が避ける理由なんて、何もないじゃないか」
「──そうよね。そうだったわね」
結局、それから数日後、法子は知美と会うことになった。ようやく決心して彼女からの電話を受け取った瞬間、知美は受話器の向こうで「どうしてたのよ!」と怒鳴ったのだ。そして、曖昧《あいまい》な返事をしている法子に向かって、是が非でも出てきて欲しいと強い口調で言った。
あれこれと思い悩んだ挙げ句、和人や家族にも励まされて、法子はその日、待ち合わせの場所に向かった。既に法子を待ちかまえていた知美は、法子の顔を見るなり「ちょっと、あんた──」と絶句した。
「どうしたの、その顔色」
そう言われて初めて、法子は自分の顔色が最近すぐれないことを思い出した。このところ寝不足が続いたのだと言うと、知美は疑わしそうな顔つきで法子の腕を取り、すたすたと歩き始めた。
「とにかく、どこかで落ち着こう。その顔じゃ、貧血でも起こされそうだわ」
それは知美の言葉の通りかも知れなかった。炎天下の繁華街を、法子は腕をとられたまま、抵抗もせずにふらふらと歩いた。ヒールの高い靴を履《は》くのも久しぶりだったし、どうも地に足がついていないような感じがした。
「心配したんだからね。何かあったんじゃないかって」
喫茶店に入るなり、知美はすぐに切り出した。法子は、ウェイトレスが置いていった冷水を一息に飲んでしまうと、ようやく呼吸が楽になって微笑《ほほえ》んだ。
「心配することなんか、何もないわよ。家族で旅行してたんだってば。ちょっと蓼科に行ってたの」
だが、知美は「ふうん」と言ったまま、テーブルに両肘《りようひじ》をついて法子を見つめている。その視線さえも痛く感じられて、法子はしきりに汗を拭《ぬぐ》った。心の中では、自分を励ますように呟いていた。
──何とか、この場をやりすごすのよ、それに限る。どうせ、家族以外の者に、あの家のことを理解なんか出来るはずがないんだから。
「家族旅行で、寝不足? そんな顔色になるわけ?」
「──そういうわけでもないけど。色々と、ね、忙しかったの」
「何よ、薪割《まきわ》りでもやらされたの? ハイキングで遭難でもしたわけ?」
「まさか」
「あんたの顔色、そういう感じよ」
知美の口調は容赦なく法子に突き刺さってくる。法子は、「やましいところなどない、逃げる必要はない」と、心の中で呟き続け、ひたすら笑みを絶やさないようにしていた。とにかく、自分は幸せなのだ。志藤家の嫁になって、幸福な生活を送っている。それは断じて間違ってはいない。
「で、例の件は? 決着はついたわけ?」
知美に言われた時も、法子はひたすら自分に言い聞かせていた。大丈夫、心配はいらない。私には家族がいると。法子は出来るだけ落ち着いた声で「だからね」と彼女を見た。知美の瞳には、以前と変わらない、きらきらとした輝きが宿っている。それが、ひどく眩《まぶ》しく感じられた。
「誤解だったって、前にも言ったでしょう? 私の妄想だったの。疑心暗鬼にかかってたのよ」
心臓がどきどきする。自分の声が遠くに聞こえ、まるで芝居の台詞《せりふ》でも喋《しやべ》っているようだ。しかも、それは何年も前に覚えた、古い台詞のようだった。
「じゃあ、どうしてそんなに疲れてるわけ? 本当のところ、あんた、家族にどういう扱いを受けてるの」
知美はせわしない表情で苛々《いらいら》と法子を見ている。法子は一つ深呼吸をすると、右手をすっと差し出して見せた。
「見て。大ばばちゃん──ひいおばあちゃんがね、私が家族の一員として頑張ってる、よくやってくれるからって、くれたの」
そこには、大粒のエメラルドが輝いていた。知美は一瞬息を呑んだ様子だったが、それでも眉間《みけん》の皺《しわ》は取れず、以前の彼女のようにはしゃいだ声は上げなかった。
「口止め料か何かじゃないの?」
「やめてったら、もう。心配しすぎよ。言ったでしょう? 全部、私の誤解だったんだって」
「でも、違うっていう証拠も掴《つか》んではいないんでしょう? あんた、丸め込まれようとしてるだけなんじゃないの?」
ようやく汗もひいて、幾分開き直った落ち着きを取り戻すことが出来た。彼女は悪なのだ。耳を貸してはならない。法子は幾度となく自分に言い聞かせてきたことを思い出した。
「ひどいこと言わないでよ。まがりなりにも夫の家族よ。それもね、知美は知らないから、そんなことを言うけど、それはもう、素晴らしい人達なんだから」
知美は少しばかり驚いた顔になったが、それでも、その瞳から不審の色は消えなかった。焦《あせ》るな、相手にするな、聞いてはいけない。とにかくこれ以上、しつこく食い下がって来させない為には、少なくとも、自分が現在どれほど恵まれた環境に暮らしているか、どんな愛情に包まれているか、それだけを知らせるべきだ。法子は、今や自分だけでなく志藤の家全体にとって、最大の敵にさえ思えるようになってしまった旧友に、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて見せた。
「よその家に入ったことのない人には、この素晴らしさは分からないとは思うけど」
「当たり前よ、私はそんな結婚はしたくないもの。でもねえ、あんた。そんなに素晴らしい人達と暮らすと、そういう顔色になっちゃうわけ? 自分で気がついてないの? 紙みたいに白い顔して、おまけにげっそりやつれてるじゃない。その顔で、いくら幸せだ、素晴らしいって言われたって、誰も信じないわよ」
「だからね、旅行に行った疲れが残ってるんだったら」
「だって、別荘だったんでしょう? おばさんから聞いたけど、別荘を持ってるんでしょう?」
「そうよ」
「自分の別荘に行くだけで、どうしてそんな顔色になるのよ。リフレッシュしにいくんじゃないの? 普通だったら──」
「うるさいわねえ、もう」
「うるさくないわよ。あのねえ──」
「喋《しやべ》ってたからよ! ずっと、皆で喋ってたの!」
ついに堪えきれず、法子は声を荒らげていた。感情のコントロールがきかなくなりそうな予感がある。コーヒー・カップを持つ手は細かく震えていた。
──駄目よ、駄目。聞き流すの、適当にあしらうだけでいいんだから。
「──法子」
知美は眉《まゆ》をひそめ、今度は打って変わって不安そうな表情になった。法子は慌ててハンカチで汗をおさえ、ミルク・ピッチャーに残っていたミルクを残らずコーヒーに流しこんでしまった。それから、もう一度、今度は相当に落ち着いて見えるように微笑んで見せた。
「そうよ、喋ってたの。今までの和人さんの家の歴史をね、ずっと、ずっと聞かせてもらっていたのよ。大ばばちゃんが東京に出てきた時の話から始まって、いつ結婚をして、出産したか。おじいちゃんは、いくつの時におばあちゃんと一緒になったか。おばあちゃんが行儀見習いに出されていたのはどんなところだったか。そして、子どもを産んで戦争があって──迫害を受けた時代があって──涙を流さなければならない時もあって──」
「そんな話を、夜も寝ないでしてたっていうの? あんたがそんな顔色になるくらいに? 一体、何日間よ。一週間? 二週間?」
知美は半ば呆気《あつけ》に取られた表情で法子を見ている。三日とは、答えられなかった。
「第一、その迫害とか、涙とかって、何?」
心臓がひやりと冷たくなった。あの別荘で過ごした時間、法子からの質問は一切受け入れられなかったことが思い出された。だから、法子は未だにその意味を知らされていない。法子だって、心に引っかかっていたはずだ。確かに迫害も、涙も、今の志藤の家にはふさわしくない言葉だという気がする。それは分かる。
「──そういう時代を経てきたっていうことでしょう。どこの家にだって、歴史はあるわ。いつもいつもサザエさんみたいな一家なんて、ないわよ」
「だから、どういう時代だったっていうの? そりゃあ、叩《たた》いて埃《ほこり》の出ない家はないだろうけど、あんた、迫害なんていう言葉、そう滅多に使うものじゃないじゃないよ」
知美の表情には明らかに苛立ちが見てとれた。彼女は、「さあねえ」と答える法子の顔の隅々までを眺め回し、やがて煙草を取り出しながら「あのね」と呟《つぶや》いた。
「私なりに、調べてみたのよ、チョウセンアサガオのこと。法子は違うって言ってたけど、私はまだ疑ってるわけ」
「あれは、私の思い違いだったって言ったじゃない。それに、チョウセンアサガオを栽培してたからって、別に法律に触れるわけじゃないのよ」
知美の顔がぴくりと動いた。
「あら、法子も調べたの」
「だから、あれは──」
「まあ、いいわ。とにかく聞いて。そういう、合法的なドラッグって、案外たくさんあるのよね。日本だったら、キノコにも多いみたいだし、手近なところではバナナなんていうのも、そういう使い方が出来るらしいわ」
法子は耳鳴りがしそうな感覚の中で、ぼんやりとコーヒー・カップを覗《のぞ》いていた。出来るだけ耳を傾けるな、知美の言葉に神経を注ぐなと、法子の中で誰かが指図している。だが、キノコがドラッグになるなどという話は、初耳だった。蓼科に行っている間中、ずっと食べていたキノコを思い出す。昔から、色の美しいキノコには毒があると聞いていた。綾乃が教えてくれたキノコは、それは美しいピンク色をしていた。
「何で、私がそんなことを言うと思う?」
知美はなおも言葉を続けた。眉が濃くて、幼い頃には少年みたいな顔立ちだった知美は、今も髪を短くして、OLにしては妙に凛々《りり》しい雰囲気をまとっている。
「私、昔バンドをやってた奴で、中毒になったっていう奴、見たことがあるの。彼の場合はシャブだったと思うけど──あんた見た時にね、咄嗟にそいつのことを思い出したのよ」
法子はぎょっとなって知美を見た。知美の表情は真剣そのもので、瞳はさらに輝きを増していた。
「──馬鹿なこと、言わないでよ」
「そう、言いきれる? 馬鹿なことって? 何か食べさせられたり、飲まされたりしてない? 自分では知らない間に、幻覚みたいなのを見なかった?」
頭がぐらぐらとして、今度こそ本物の耳鳴りがしていた。温室から逃げ帰った夜のこと、家族に囲まれて誤解を解けと言われた時のこと、そして蓼科でのことなどが走馬燈のように駆け巡った。
──聞くんじゃない。聞いたら駄目よ。彼女は悪なんだから、私を不安に陥れようとしてるんだから!
「ねえ、どうなのよ、法子」
法子は、冷ややかに正面から知美を見据えると、わざとらしい程に深々とため息をついて見せた。
「悪いけど──帰るわ。用事があるの」
脳貧血を起こす手前のように、耳の中でごうごうという音がした。実際、目の焦点を合わせることも困難なくらいに、ふらふらとする。けれど、法子は蹶然《けつぜん》と立ち上がろうとした。
「私の家族をそこまで侮辱するなんて、知美の方がどうかしてるわ。どうして、人の家庭のことに首を突っ込もうとするの?」
知美は一瞬|呆気《あつけ》に取られた表情になり、ぽかんとして法子を見上げていた。
「待ちなさいって。どうしたの、ねえ」
テーブルの端に置かれていた伝票を、すっと引き寄せて、法子は改めて、知美の顔をじっと見据えた。
「心配しないで。私には私の幸せがあるわ。知美が心配してくれるのは嬉しいけど、でも、何度も言うけど、疑心暗鬼だったのよ」
すたすたと出口に向かおうとすると、知美は急いで後を追ってきた。取り越し苦労だったのなら、それに越したことはないのだと、彼女は半ば媚《こび》を売るような口調で言い、とにかく、そんなに怒らないでくれと言った。
「私は、ただ心配だっただけなのよ」
炎天下の街を人混みをかき分けて歩きながら、法子は固い笑みを浮かべて知美を見た。
「ご心配いただいて、ありがとう。でも、ほら、大丈夫だから」
「じゃあ、また会えるわね?」
知美は、なおもしつこく法子に追いすがってくる。法子は、内心で舌打ちをしたい気分で「いつでも」と答えた。何かの縁で、ずっと付き合いの続いている友人と、無理に絶交しようなどとは思わない。だが、それでも彼女は他人だった。法子の本当の事情など、どんなことをしたって分かろうはずもないのだ。
「電話するわ」
最後に、知美はそう言って、法子に小さく手を振った。法子は、その子どもじみたしぐさに奇妙な苛立ちを覚えながら、一人で駅への階段を上った。