26
翌日の午前中に、知美は家族に見送られて帰っていった。駅まで彼女を送ることになっていた法子は、知美と並んで、手を振る家族を眺めた。
「とにかく、あんなに素敵な人達なんだから、余計なことは考えないことよ」
二人きりになると、知美はぽつりと呟《つぶや》いた。法子はにっこりと笑って「大丈夫よ」と答えた。昨夜の会話を気にしているのか、知美の表情は、それほど晴れやかとも言い難い。ひと晩一緒にいただけで、そろそろ煩《わずら》わしくも感じ始め、面倒な存在だとも思うのに、一人の生活に戻ろうとする友人を見ると、法子は急に名残惜しい気持ちになった。
「いつでも遊びにきてね。外で余計なお金を使うよりも、うちでのんびりした方が楽しいでしょう?」
別れ際に言うと、知美は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「今度は、もっとお庭も見せてもらいたいわ。今回は、何だか、妙な遠慮しちゃったものだから」
彼女はえへへと笑い、手を振って改札口に消えていった。法子は、再び法子とは無縁の世界に戻っていった彼女の姿が見えなくなるのを確かめると、ほんの少しの淋《さび》しさを味わいながら、のんびりと帰路についた。帰ったらまず、家族に彼女を暖かくもてなしてくれた礼を言わなければと思い、途中でケーキと和菓子を買った。
家に戻り、門をくぐると、法子は小さなことに気がついた。どうしたことか、家中の雨戸が閉まっている。それを認めただけで、法子の心臓はきゅっと縮み上がった。また、蓼科に行くのだろうかと思ったのだ。
──全員で移動するんだろうか。また、寝かせてもらえなくなるんだろうか。
だが、家族が行きたいというのならば、法子はそれに従うだけのことだった。
「──ただいま」
おそるおそる玄関を開けると、家はしんと静まり返っている。法子は少しの間、サンダルを脱ぐのもためらわれて、闇《やみ》に沈んでいる家の中を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。奇妙な緊迫感が漲っている。蓼科に行くにしては、あまりにも静か過ぎた。
「──ただいま」
もう一度、呟く。すると、奥からこと、こと、という音がして、微《かす》かに廊下を進んでくる足音が聞こえてきた。現れたのはふみ江だった。
「ああ、おばあちゃん。どうしたんですか、雨戸なんか──」
「お玄関、鍵《かぎ》をかけてね」
ふみ江はまるで表情を動かさずにそれだけを言う。法子は慌てて踵《きびす》をかえし、日中は鍵をかけないことになっている玄関に鍵をかけた。背中に、痛いほどにふみ江の視線を感じる。早くも喉《のど》の奥がからからに乾いてきていた。
「あの、ケーキと和菓子をね、買ってきたんですよ。本当にうるさい友達ですみませんでした──」
「皆、待ってるのよ。早くいらっしゃい」
「──皆?」
ふみ江は何も言わずに廊下の奥に消える。法子は、自分も慌ててサンダルを脱ぎ、ふみ江の後を追った。まだ昼にもならないというのに、家は陰気くさい闇に支配されて、ついさっきまでの活気に満ちた明るさなど、どこにも残ってはいなかった。
「座りなさい」
離れに行くと、家族は全員が車座になって法子を待ちかまえていた。誰もが、かつて見せたこともないくらいの冷たい、固い表情で、部屋の前に立つ法子を見上げている。松造までが、部屋の隅に布団を敷いて寝かされていた。
「──あの」
法子は、ただごとではないと思いながら、和人の隣に腰を下ろそうとした。すると、和人が法子の背を押した。
「君は、真ん中だ」
和人の声は何の感情も含んでおらず、ぞっとする程冷たかった。
「どうしたっていうんですか? 私、何かしました?」
法子は、もう不安のどん底に突き落とされていた。誰彼となく家族を見回すと、腕組をしていた武雄が大きく息を吸い込んだ。
「おまえはまだ家族を信じられないのか」
武雄の声は、地獄の底から響いてくるように聞こえた。法子は、早くも泣きだしそうになりながら、畳に手をついて武雄を見た。
「どうして、そんなことを言うんですか? 私は、皆を信じています」
「だったら、どうしておじいちゃんのことを信じないっ」
法子は大きく目を見開き、恐怖のあまりに何を答えることも出来なくなった。
「聞こえたのよ。あなた、ゆうべ知美さんに話してたじゃないの。おじいちゃんは喋《しやべ》れたのに、無理をしていたんだって」
今度はふみ江が口を開く。法子は額がかっと熱くなった。頭のてっぺんから汗が噴き出す。
「あれは──」
「情けないわよ、法子さん! どうしてあなたは、そんなにも人を疑うのっ!」
公恵が金切り声を上げた。法子は息を呑み、心臓が凍りつきそうになった。
「ひどい人ねえ、私達はいつだって、あなたのことしか考えていないっていうのに」
「見損なったわ、お義姉《ねえ》さん!」
「僕は、そんな女と結婚した覚えはないぞ!」
「あなたが人を信じないから、あなただって信じてもらえないのよ!」
「どうして、僕たちを信じないっ」
「お姉ちゃんは悪い人だぞっ」
「大体、あなたこそ嘘《うそ》つきじゃないの。信じてる、家族だと言いながら、いつだって私達を疑ってるくせに」
四方八方から怒声が飛んだ。
「法子は、俺《おれ》を嘘つきだというのか。法子が、奇跡を起こしてくれたんだとばかり思っていたのに」
松造までが呻《うめ》くように言った。彼は枕《まくら》に乗せた顔をこちらに向け、どろりとした目でこちらを見ている。法子は、松造を正視することも耐えられず、かといって他にどこを向いて座れば良いのかも分からないまま、ただ途方に暮れていた。何が始まったのか、何が、彼らをここまで怒らせてしまったのか、まるで分からない。ただ一つ、昨夜の知美との会話を盗み聞きされたことだけは確からしかった。
「あの、ですからゆうべは──」
法子はおろおろとなり、すっかり気持ちも動転したまま、とにかく何かを言わなければと思った。声が震える。
「久しぶりにお友達に会ったから、気持ちが緩んだとでも言うつもり?」
「僕らが彼女を歓迎したのは、誰の為だと思ってるんだ」
「法子さん、あなた、家族と友達と、どちらを選ぶの」
再び家族から声が上がる。
「まさか、友達なんていうんじゃないでしょうね」
法子は全身に汗をかきながら激しくかぶりを振った。彼らがこんなにも感情的になっているのを見たのは初めてのことだった。たった一人を相手にしたって、そのエネルギーは相当なものだと思うのに、八人に束になられたのでは、とてもかなわない。
「落ち着いてください、皆、何か誤解してるんだわ。私は、そんなに怒られるようなことなんか、何も──」
「だったら、どうしてあんなことを言えるのっ。しかも他人の、あんな娘に!」
「どうして僕たちの誠意を裏切るんだ」
「法子さんは人の気持ちも分からないような、そんな子だったのっ」
「違います、違います、違います!」
「何が違うんだっ!」
「ですから──」
声を震わし、必死で言葉を探す間に、「違わない!」という声が全員から乱発された。法子はついに目を固く閉じてしまった。首筋を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。
「法子、おまえは最低の人間だ!」
「裏切り者!」
「人間のクズ!」
「嘘《うそ》つき!」
それから家族は、法子がいかに意志の弱い、甘ったれた考えの持ち主であるか、精神が腐敗しているか、無神経か、偽善者か、冷酷か、臆病《おくびよう》か、素直でないか、猜疑《さいぎ》心が強く腹黒いか、勤勉でないか、思いやりに欠けるか、利己的か、俗悪で下品か、総じて、人間としていかに最低であるかということを、激しい罵倒《ばとう》を交えて手当たり次第に言い始めた。
──そんな、そんな!
法子の中で、これまで育んできたプライドと全ての価値観ががらがらと音をたてて崩れそうになる。法子はわけも分からないまま、その怒声にまみれ、必死でおのれを保とうとした。このままでは頭がおかしくなりそうだった。
「──じゃあ──じゃあ、どうしろって言うんですかっ。私にどうしろって言うんですか、何の真似《まね》なんですか、どうして、そんなに酷《ひど》いことばかり言うんですかっ!」
たまりかねて、こちらも大声を出す。そうでもしなければ、全員の怒りの言葉に押しつぶされそうだからだ。だが、所詮《しよせん》は一人の声、かなうはずもない。
「何ていう口の利《き》きようなの、何、それっ」
「法子、僕たちがこんなに君を心配しているっていうことが、君にはまだ分からないのか」
「あんたなんか、真実に近付く資格もない。どうして素直に謝ることが出来ないのっ」
法子はいつしか涙を流し、それでも家族全員に怒りの矛先を向けた。本能的に、自分を守らなければと思った。この人達はおかしいのだ、かつてはあんなにも法子を褒《ほ》めちぎってくれたことだってあったのに、急に態度を変えてこんなにも法子を責めるなんて、ひどすぎる。
「私が何をしたっていうんですかっ! 私の疑問に答えてくれていないのは、皆の方じゃないですかっ!」
畳に両手をついて、渾身《こんしん》の力を込めて大声を張り上げると、一瞬、部屋はしんと静まり返った。法子は、今こそ反撃のチャンスとばかりに、頭に思い付く限りの言葉を並べ立てた。
「じょ──冗談じゃないわっ。私はいつだって、和人さんの妻として、志藤家の嫁として、精一杯のことをしているつもりですっ。キノコを食べさせられた時だって、この家がどういう仕事をしているか知った時だって、私が一度でも怒ったことがありましたか? いつだって、少しでも早く家族として馴染《なじ》めるように、皆とひとつになれるように、私、いつだって努力しているじゃないですかっ。それなのに、何だかわけの分からないことを言い出したり、こんなふうに皆で私一人を取り囲んで責めるなんて、あんまりだわっ! 皆でこん──ひどすぎる! 私に何をしろっていうんですか、どうしろっていうの!」
沈黙はまだ続いた。法子の気持ちは焦《あせ》りを増し、半ば自棄《やけ》を起こしそうにさえなっていた。
「何ひとつ本当のことを教えてくれないくせに! どうして質問したらいけないのっ。分からないことは聞くべきじゃないの。それなのに、この家はどうなってるのよ、ええっ? おかしいわよ。皆、おかしいわ!」
「言うことは、それだけか」
和人の押し殺した声が聞こえた。法子は、大声を出したおかげで余計に頭がくらくらしてしまって、ついぼんやりと夫の顔を見た。
「君は根本的に間違ってるな」
和人の口元がゆっくりと動く。法子の頭は混乱を通り越し、妙にしんと静まり返った。
「性根《しようね》が腐ってるわね」
公恵が法子を見つめたまま呟《つぶや》いた。
「君が、これまでどういう人生を歩んできたか、その都度どんな間違いを犯してきたか、徹底的に考えようじゃないか。そうすれば、僕たちの言っていることの正しさが分かる。君が間違っていることが証明される」
法子は、今や全身から力が抜けてしまい、口をだらしなく開けたままで和人を見つめていた。間違っている? そんな生き方をしてきただろうかと思う。だが、初めて会ったときから大好きだと感じた和人の顔は確信に満ち、まるで迷いがなく見えた。
「それがいいわ。さあ、言ってごらんなさいよ。法子さん、あなた、どういう生まれだったかしら」
「最初から、覚えている限りのことを言うのよ。さあ、あなたのいちばん古い記憶は何かしら」
公恵とふみ江の声が交互に聞こえた。家族はさっきまでの怒濤《どとう》のような勢いをしずめ、今は静かに法子を見つめている。法子は、朦朧《もうろう》としそうな意識で、問われるままに改めて自分の生年月日を答え、いちばん古い記憶は幼稚園に行く兄を追いかけている風景だと言った。
「わがままな子だったのね、その時から」
綾乃が吐き捨てるように言った。法子はきっと綾乃を睨《にら》みつけた。
「どうして、そういうことになるのよ。あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ」
ところが和人が猛然と反撃に出てきた。
「何、言ってるんだ。綾乃の言う通りじゃないか。君は幼稚園についていきたいと聞き分けのないことを言って、まわりを手こずらせたんじゃないか。それがわがままじゃないのか?」
「──そんな。子どものすることじゃない」
その途端に再び家族からは怒声が飛んだ。因縁《いんねん》が強いのだ、血が悪い、女としての本能だ、その時から既に悪は芽吹いていた。法子は必死で支えようとしている自分が根底から覆されようとしているのを感じた。危険が身に迫っている。
「さあ、それから? 三歳の時のあなたは、他にどんな思い出を持っているのかしら」
ふいに静寂が戻り、ふみ江の声がした。法子は、せめて幼い頃の甘い思い出に浸りたい気持ちにさえなって、必死で頭を働かせた。
「そう──そうだわ。私ね、小さい時から動物が大好きで──」
法子は思い出す限りの幼い日の記憶を手当たり次第に話し始めた。家族は、法子の話を聞く時だけ奇妙に静まり返り、それから突然に猛然とその思い出を破壊しにかかる。
「もう、嫌です! 何を話したって、結局皆で寄ってたかって貶《けな》すんじゃないのっ!」
たまりかねて叫べば家族には冷笑が浮かんだ。
「やっぱりね」
「人に話せないような思い出しかないっていうことよね」
「いったい、どんなことをしてきたのやら」
彼らの言葉に反発し、新しい思い出を探り出す。すると、家族は嬉々《きき》として、寄ってたかって法子の人生を徹底的に侮辱し、法子が美しいと感じたもの、好きだったこと、正しいと信じていた事物の全てを否定してかかった。そして、再び「それから?」と言うのだ。それは波のように果てしもなく続いた。
「とにかく、あんなに素敵な人達なんだから、余計なことは考えないことよ」
二人きりになると、知美はぽつりと呟《つぶや》いた。法子はにっこりと笑って「大丈夫よ」と答えた。昨夜の会話を気にしているのか、知美の表情は、それほど晴れやかとも言い難い。ひと晩一緒にいただけで、そろそろ煩《わずら》わしくも感じ始め、面倒な存在だとも思うのに、一人の生活に戻ろうとする友人を見ると、法子は急に名残惜しい気持ちになった。
「いつでも遊びにきてね。外で余計なお金を使うよりも、うちでのんびりした方が楽しいでしょう?」
別れ際に言うと、知美は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「今度は、もっとお庭も見せてもらいたいわ。今回は、何だか、妙な遠慮しちゃったものだから」
彼女はえへへと笑い、手を振って改札口に消えていった。法子は、再び法子とは無縁の世界に戻っていった彼女の姿が見えなくなるのを確かめると、ほんの少しの淋《さび》しさを味わいながら、のんびりと帰路についた。帰ったらまず、家族に彼女を暖かくもてなしてくれた礼を言わなければと思い、途中でケーキと和菓子を買った。
家に戻り、門をくぐると、法子は小さなことに気がついた。どうしたことか、家中の雨戸が閉まっている。それを認めただけで、法子の心臓はきゅっと縮み上がった。また、蓼科に行くのだろうかと思ったのだ。
──全員で移動するんだろうか。また、寝かせてもらえなくなるんだろうか。
だが、家族が行きたいというのならば、法子はそれに従うだけのことだった。
「──ただいま」
おそるおそる玄関を開けると、家はしんと静まり返っている。法子は少しの間、サンダルを脱ぐのもためらわれて、闇《やみ》に沈んでいる家の中を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。奇妙な緊迫感が漲っている。蓼科に行くにしては、あまりにも静か過ぎた。
「──ただいま」
もう一度、呟く。すると、奥からこと、こと、という音がして、微《かす》かに廊下を進んでくる足音が聞こえてきた。現れたのはふみ江だった。
「ああ、おばあちゃん。どうしたんですか、雨戸なんか──」
「お玄関、鍵《かぎ》をかけてね」
ふみ江はまるで表情を動かさずにそれだけを言う。法子は慌てて踵《きびす》をかえし、日中は鍵をかけないことになっている玄関に鍵をかけた。背中に、痛いほどにふみ江の視線を感じる。早くも喉《のど》の奥がからからに乾いてきていた。
「あの、ケーキと和菓子をね、買ってきたんですよ。本当にうるさい友達ですみませんでした──」
「皆、待ってるのよ。早くいらっしゃい」
「──皆?」
ふみ江は何も言わずに廊下の奥に消える。法子は、自分も慌ててサンダルを脱ぎ、ふみ江の後を追った。まだ昼にもならないというのに、家は陰気くさい闇に支配されて、ついさっきまでの活気に満ちた明るさなど、どこにも残ってはいなかった。
「座りなさい」
離れに行くと、家族は全員が車座になって法子を待ちかまえていた。誰もが、かつて見せたこともないくらいの冷たい、固い表情で、部屋の前に立つ法子を見上げている。松造までが、部屋の隅に布団を敷いて寝かされていた。
「──あの」
法子は、ただごとではないと思いながら、和人の隣に腰を下ろそうとした。すると、和人が法子の背を押した。
「君は、真ん中だ」
和人の声は何の感情も含んでおらず、ぞっとする程冷たかった。
「どうしたっていうんですか? 私、何かしました?」
法子は、もう不安のどん底に突き落とされていた。誰彼となく家族を見回すと、腕組をしていた武雄が大きく息を吸い込んだ。
「おまえはまだ家族を信じられないのか」
武雄の声は、地獄の底から響いてくるように聞こえた。法子は、早くも泣きだしそうになりながら、畳に手をついて武雄を見た。
「どうして、そんなことを言うんですか? 私は、皆を信じています」
「だったら、どうしておじいちゃんのことを信じないっ」
法子は大きく目を見開き、恐怖のあまりに何を答えることも出来なくなった。
「聞こえたのよ。あなた、ゆうべ知美さんに話してたじゃないの。おじいちゃんは喋《しやべ》れたのに、無理をしていたんだって」
今度はふみ江が口を開く。法子は額がかっと熱くなった。頭のてっぺんから汗が噴き出す。
「あれは──」
「情けないわよ、法子さん! どうしてあなたは、そんなにも人を疑うのっ!」
公恵が金切り声を上げた。法子は息を呑み、心臓が凍りつきそうになった。
「ひどい人ねえ、私達はいつだって、あなたのことしか考えていないっていうのに」
「見損なったわ、お義姉《ねえ》さん!」
「僕は、そんな女と結婚した覚えはないぞ!」
「あなたが人を信じないから、あなただって信じてもらえないのよ!」
「どうして、僕たちを信じないっ」
「お姉ちゃんは悪い人だぞっ」
「大体、あなたこそ嘘《うそ》つきじゃないの。信じてる、家族だと言いながら、いつだって私達を疑ってるくせに」
四方八方から怒声が飛んだ。
「法子は、俺《おれ》を嘘つきだというのか。法子が、奇跡を起こしてくれたんだとばかり思っていたのに」
松造までが呻《うめ》くように言った。彼は枕《まくら》に乗せた顔をこちらに向け、どろりとした目でこちらを見ている。法子は、松造を正視することも耐えられず、かといって他にどこを向いて座れば良いのかも分からないまま、ただ途方に暮れていた。何が始まったのか、何が、彼らをここまで怒らせてしまったのか、まるで分からない。ただ一つ、昨夜の知美との会話を盗み聞きされたことだけは確からしかった。
「あの、ですからゆうべは──」
法子はおろおろとなり、すっかり気持ちも動転したまま、とにかく何かを言わなければと思った。声が震える。
「久しぶりにお友達に会ったから、気持ちが緩んだとでも言うつもり?」
「僕らが彼女を歓迎したのは、誰の為だと思ってるんだ」
「法子さん、あなた、家族と友達と、どちらを選ぶの」
再び家族から声が上がる。
「まさか、友達なんていうんじゃないでしょうね」
法子は全身に汗をかきながら激しくかぶりを振った。彼らがこんなにも感情的になっているのを見たのは初めてのことだった。たった一人を相手にしたって、そのエネルギーは相当なものだと思うのに、八人に束になられたのでは、とてもかなわない。
「落ち着いてください、皆、何か誤解してるんだわ。私は、そんなに怒られるようなことなんか、何も──」
「だったら、どうしてあんなことを言えるのっ。しかも他人の、あんな娘に!」
「どうして僕たちの誠意を裏切るんだ」
「法子さんは人の気持ちも分からないような、そんな子だったのっ」
「違います、違います、違います!」
「何が違うんだっ!」
「ですから──」
声を震わし、必死で言葉を探す間に、「違わない!」という声が全員から乱発された。法子はついに目を固く閉じてしまった。首筋を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。
「法子、おまえは最低の人間だ!」
「裏切り者!」
「人間のクズ!」
「嘘《うそ》つき!」
それから家族は、法子がいかに意志の弱い、甘ったれた考えの持ち主であるか、精神が腐敗しているか、無神経か、偽善者か、冷酷か、臆病《おくびよう》か、素直でないか、猜疑《さいぎ》心が強く腹黒いか、勤勉でないか、思いやりに欠けるか、利己的か、俗悪で下品か、総じて、人間としていかに最低であるかということを、激しい罵倒《ばとう》を交えて手当たり次第に言い始めた。
──そんな、そんな!
法子の中で、これまで育んできたプライドと全ての価値観ががらがらと音をたてて崩れそうになる。法子はわけも分からないまま、その怒声にまみれ、必死でおのれを保とうとした。このままでは頭がおかしくなりそうだった。
「──じゃあ──じゃあ、どうしろって言うんですかっ。私にどうしろって言うんですか、何の真似《まね》なんですか、どうして、そんなに酷《ひど》いことばかり言うんですかっ!」
たまりかねて、こちらも大声を出す。そうでもしなければ、全員の怒りの言葉に押しつぶされそうだからだ。だが、所詮《しよせん》は一人の声、かなうはずもない。
「何ていう口の利《き》きようなの、何、それっ」
「法子、僕たちがこんなに君を心配しているっていうことが、君にはまだ分からないのか」
「あんたなんか、真実に近付く資格もない。どうして素直に謝ることが出来ないのっ」
法子はいつしか涙を流し、それでも家族全員に怒りの矛先を向けた。本能的に、自分を守らなければと思った。この人達はおかしいのだ、かつてはあんなにも法子を褒《ほ》めちぎってくれたことだってあったのに、急に態度を変えてこんなにも法子を責めるなんて、ひどすぎる。
「私が何をしたっていうんですかっ! 私の疑問に答えてくれていないのは、皆の方じゃないですかっ!」
畳に両手をついて、渾身《こんしん》の力を込めて大声を張り上げると、一瞬、部屋はしんと静まり返った。法子は、今こそ反撃のチャンスとばかりに、頭に思い付く限りの言葉を並べ立てた。
「じょ──冗談じゃないわっ。私はいつだって、和人さんの妻として、志藤家の嫁として、精一杯のことをしているつもりですっ。キノコを食べさせられた時だって、この家がどういう仕事をしているか知った時だって、私が一度でも怒ったことがありましたか? いつだって、少しでも早く家族として馴染《なじ》めるように、皆とひとつになれるように、私、いつだって努力しているじゃないですかっ。それなのに、何だかわけの分からないことを言い出したり、こんなふうに皆で私一人を取り囲んで責めるなんて、あんまりだわっ! 皆でこん──ひどすぎる! 私に何をしろっていうんですか、どうしろっていうの!」
沈黙はまだ続いた。法子の気持ちは焦《あせ》りを増し、半ば自棄《やけ》を起こしそうにさえなっていた。
「何ひとつ本当のことを教えてくれないくせに! どうして質問したらいけないのっ。分からないことは聞くべきじゃないの。それなのに、この家はどうなってるのよ、ええっ? おかしいわよ。皆、おかしいわ!」
「言うことは、それだけか」
和人の押し殺した声が聞こえた。法子は、大声を出したおかげで余計に頭がくらくらしてしまって、ついぼんやりと夫の顔を見た。
「君は根本的に間違ってるな」
和人の口元がゆっくりと動く。法子の頭は混乱を通り越し、妙にしんと静まり返った。
「性根《しようね》が腐ってるわね」
公恵が法子を見つめたまま呟《つぶや》いた。
「君が、これまでどういう人生を歩んできたか、その都度どんな間違いを犯してきたか、徹底的に考えようじゃないか。そうすれば、僕たちの言っていることの正しさが分かる。君が間違っていることが証明される」
法子は、今や全身から力が抜けてしまい、口をだらしなく開けたままで和人を見つめていた。間違っている? そんな生き方をしてきただろうかと思う。だが、初めて会ったときから大好きだと感じた和人の顔は確信に満ち、まるで迷いがなく見えた。
「それがいいわ。さあ、言ってごらんなさいよ。法子さん、あなた、どういう生まれだったかしら」
「最初から、覚えている限りのことを言うのよ。さあ、あなたのいちばん古い記憶は何かしら」
公恵とふみ江の声が交互に聞こえた。家族はさっきまでの怒濤《どとう》のような勢いをしずめ、今は静かに法子を見つめている。法子は、朦朧《もうろう》としそうな意識で、問われるままに改めて自分の生年月日を答え、いちばん古い記憶は幼稚園に行く兄を追いかけている風景だと言った。
「わがままな子だったのね、その時から」
綾乃が吐き捨てるように言った。法子はきっと綾乃を睨《にら》みつけた。
「どうして、そういうことになるのよ。あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ」
ところが和人が猛然と反撃に出てきた。
「何、言ってるんだ。綾乃の言う通りじゃないか。君は幼稚園についていきたいと聞き分けのないことを言って、まわりを手こずらせたんじゃないか。それがわがままじゃないのか?」
「──そんな。子どものすることじゃない」
その途端に再び家族からは怒声が飛んだ。因縁《いんねん》が強いのだ、血が悪い、女としての本能だ、その時から既に悪は芽吹いていた。法子は必死で支えようとしている自分が根底から覆されようとしているのを感じた。危険が身に迫っている。
「さあ、それから? 三歳の時のあなたは、他にどんな思い出を持っているのかしら」
ふいに静寂が戻り、ふみ江の声がした。法子は、せめて幼い頃の甘い思い出に浸りたい気持ちにさえなって、必死で頭を働かせた。
「そう──そうだわ。私ね、小さい時から動物が大好きで──」
法子は思い出す限りの幼い日の記憶を手当たり次第に話し始めた。家族は、法子の話を聞く時だけ奇妙に静まり返り、それから突然に猛然とその思い出を破壊しにかかる。
「もう、嫌です! 何を話したって、結局皆で寄ってたかって貶《けな》すんじゃないのっ!」
たまりかねて叫べば家族には冷笑が浮かんだ。
「やっぱりね」
「人に話せないような思い出しかないっていうことよね」
「いったい、どんなことをしてきたのやら」
彼らの言葉に反発し、新しい思い出を探り出す。すると、家族は嬉々《きき》として、寄ってたかって法子の人生を徹底的に侮辱し、法子が美しいと感じたもの、好きだったこと、正しいと信じていた事物の全てを否定してかかった。そして、再び「それから?」と言うのだ。それは波のように果てしもなく続いた。