□公園の噴水前
————走っていた。
息を切らして、切り裂かれた服を隠しもせず、ズレかけた眼鏡を直そうともせず、ただひたすらに走っていた。
————走っていた。
息を切らして、切り裂かれた服を隠しもせず、ズレかけた眼鏡を直そうともせず、ただひたすらに走っていた。
「もうやだ—————どうして、こんな……!」
追いかけてくる獣の息遣いに圧されるように、心が何の意味もない弱音を吐いた。
無論、その言葉に現状を打破する奇跡などない。
あるのはただ自らを追い詰める苦しさだけだ。
呼吸さえままならない心臓は、声をあげた事により一層少女の足どりを減速させる。
無論、その言葉に現状を打破する奇跡などない。
あるのはただ自らを追い詰める苦しさだけだ。
呼吸さえままならない心臓は、声をあげた事により一層少女の足どりを減速させる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ———————!」
息を切って走る。
どこか人気のある場所———例えばこの公園まで逃げられたのなら助かるのだと少女は信じていた。
だが人気などとうに皆無だ。
ちょっとした気まぐれで深夜の買い物に出た少女は、ここ数日連続していた殺人事件の影響力を甘く見ていた。
いや、正確には殺人事件の“犯人”というものを思い浮かべる想像力があまりに貧困だったのだ。
息を切って走る。
どこか人気のある場所———例えばこの公園まで逃げられたのなら助かるのだと少女は信じていた。
だが人気などとうに皆無だ。
ちょっとした気まぐれで深夜の買い物に出た少女は、ここ数日連続していた殺人事件の影響力を甘く見ていた。
いや、正確には殺人事件の“犯人”というものを思い浮かべる想像力があまりに貧困だったのだ。
「はぁ————あ、あ…………!」
公園を走る。
街外れの工場地帯からここまで2キロはあっただろうか。
その間を走り続けてきた少女の体力は限界に近づきつつある。
公園を走る。
街外れの工場地帯からここまで2キロはあっただろうか。
その間を走り続けてきた少女の体力は限界に近づきつつある。
「どう、して———この、あたしが———!」
悔しさで視界が滲む。
彼女とて殺人事件の犯人というものを軽視していたわけではない。こんな夜更けに出歩けば危険な事ぐらい解っていたし、実際もしもの時の準備だってしていたのだ。
いや、逆に殺人犯とやらが現れたら返り討ちにして捕まえてやる、とまで思っていたほどである。
悔しさで視界が滲む。
彼女とて殺人事件の犯人というものを軽視していたわけではない。こんな夜更けに出歩けば危険な事ぐらい解っていたし、実際もしもの時の準備だってしていたのだ。
いや、逆に殺人犯とやらが現れたら返り討ちにして捕まえてやる、とまで思っていたほどである。
————なぜなら。
一見して何の変哲もない、明らかに本編とは一切関わりの無いようなこの少女は一子相伝の洗脳空手、暗黒翡翠拳の伝承者であったからだ!
一見して何の変哲もない、明らかに本編とは一切関わりの無いようなこの少女は一子相伝の洗脳空手、暗黒翡翠拳の伝承者であったからだ!
「ああもう、なんだってこんなコトに……!」
背後に迫りくる気配に脅えながら洩らす。
少女の誤算は二つあった。
一つは、そう——�
背後に迫りくる気配に脅えながら洩らす。
少女の誤算は二つあった。
一つは、そう——�
「ちくしょう、犯人が人間じゃないなんて誰も言ってなかったじゃないっ……!」
そう、殺人犯は人間ではなかった。
四足で地面を駆ける、野犬じみた黒いケモノ。
それが夜の街を徘徊し、人を仕留めている殺人鬼の正体だった。
四足で地面を駆ける、野犬じみた黒いケモノ。
それが夜の街を徘徊し、人を仕留めている殺人鬼の正体だった。
だが問題はそんな事ではない。
野犬の一匹や二匹、彼女にとって言葉を教え込む前のインコに等しい。
彼女がこうして走り続けるしかない二つ目の誤算。
それは。
野犬の一匹や二匹、彼女にとって言葉を教え込む前のインコに等しい。
彼女がこうして走り続けるしかない二つ目の誤算。
それは。
「この——いい加減しつこいわよ、あんた……!」
走りながら振り返る。
そこには
走りながら振り返る。
そこには
【鹿】
「がるる、食ぁべちゃうぞ〜〜〜」
妙に陽気な野鹿の姿があった。
妙に陽気な野鹿の姿があった。
「ひぃいい! シカ、シカが喋ってるぅ……!」
それが、少女を叩きのめした二つ目の誤算だった。
彼女には人語を解しながら夜の街を徘徊して人間を襲う、なんていう鹿がたまにはいるんだなー、と思い浮かべる想像力があまりに欠如していたのである。
「シカ、よりにもよってシカ、しかもシシガミ似!」
混乱しているのか、少女の叫びはどこにも説得力がない。
だがそれも仕方あるまい。
蘇るトラウマ。
幼い頃、ちょっとした茶目っけで鹿島神宮の鹿園に忍びこみ、総勢二十二匹もの鹿にサッカーボール扱いされた過去はそう簡単に拭い去れない。
混乱しているのか、少女の叫びはどこにも説得力がない。
だがそれも仕方あるまい。
蘇るトラウマ。
幼い頃、ちょっとした茶目っけで鹿島神宮の鹿園に忍びこみ、総勢二十二匹もの鹿にサッカーボール扱いされた過去はそう簡単に拭い去れない。
【鹿】
「こらこら待ちなさいお嬢さん。ほら、ハンカチを落としましたよ」
カカランカカランと地面を蹴って肉薄する野鹿。
すでにその角は彼女の背中をちょんちょんと突ついている。
「うわああ、ふざけんなっ! そりゃどっかの熊の話だあぁあ! って、いた、いたたたたたた! 痛いってこのエロシカ、どこ突ついてやがるのよぅ!」
「ふははははは! ごもっとも、ワタクシ鹿だけにケダモノでございます!」
「こらこら待ちなさいお嬢さん。ほら、ハンカチを落としましたよ」
カカランカカランと地面を蹴って肉薄する野鹿。
すでにその角は彼女の背中をちょんちょんと突ついている。
「うわああ、ふざけんなっ! そりゃどっかの熊の話だあぁあ! って、いた、いたたたたたた! 痛いってこのエロシカ、どこ突ついてやがるのよぅ!」
「ふははははは! ごもっとも、ワタクシ鹿だけにケダモノでございます!」
ヒュッヒュッと巧みな首の動きで角を操る野鹿。
八の字を描くウェービングで少女の洋服を次々と切り裂いていく。
「で、でんぷしー!?」
【鹿】
「ノー! わたしは喋る鹿エト! ジャックなどという名前ではないっ!」
激昂してクルリとUターンする野鹿。
「ここまでだ! 受けよ立体忍者活劇!」
「ノー! わたしは喋る鹿エト! ジャックなどという名前ではないっ!」
激昂してクルリとUターンする野鹿。
「ここまでだ! 受けよ立体忍者活劇!」
怪しげな技名を咆えて、野鹿は後ろ足で少女の背中を強打した。
「天誅!?」
苦悶の声をあげて吹き飛ぶ少女。
ああもう、ワケが解らない。
「あ——————」
地面に弾き飛ばされつつも、少女はなんとか顔をあげる。
彼女の目の前には、爛々と目を輝かせた野鹿が聳え立っていた。
「まったく一山いくらの脇役がてこずらせおって。邪魔が入る前にサササッと片付けるでおじゃる」
ヒュンヒュン、とまたも角を八の字に動かす野鹿。
やる気満々なのは目に見えて明らかだった。
「や————」
「へへへ、内定でも差遣でも佐助はこねえよ!」
野鹿の角が少女の喉元へと狙いをつける。
そこへ
「へへへ、内定でも差遣でも佐助はこねえよ!」
野鹿の角が少女の喉元へと狙いをつける。
そこへ
「————そこまでです!」
冷たい月明かりを震わせるような、凛とした声が響き渡った。
「————なにい、おまえは……!?」
「————なにい、おまえは……!?」
野鹿が畏れをこめて振り返る。
街灯の上。月を頭上に翻る聖なる黒衣。
街灯の上。月を頭上に翻る聖なる黒衣。
「月に代わっておしおきとか言う人!」
「違うカレー! 激しく違うカレー!」
「違うカレー! 激しく違うカレー!」
□遠野家居間
「!?」
驚いて顔をあげる。
「!?」
驚いて顔をあげる。
【秋葉】
と、そこにはいかにも文句のありそうな秋葉の顔があった。
と、そこにはいかにも文句のありそうな秋葉の顔があった。
「……秋葉。人が楽しくマンガを読んでる時にハリセンで頭をはたく、ってのは行儀が悪いんじゃないだろうか」
「いいえ、何度呼んでも気が付いてくれない人にはこれぐらいで丁度いいんです。……まったく、さっきから一人でクスクスと気味が悪いったらない。周りに気がいかないほど面白いんですか、それ」
「え? いや、まあ普通だと思うけど。なに、秋葉読みたいの?」
読む? と秋葉にマンガを差し出す。
秋葉は汚らしいものを見るような目をした後、これみよがしにため息をついた。
「いいえ、何度呼んでも気が付いてくれない人にはこれぐらいで丁度いいんです。……まったく、さっきから一人でクスクスと気味が悪いったらない。周りに気がいかないほど面白いんですか、それ」
「え? いや、まあ普通だと思うけど。なに、秋葉読みたいの?」
読む? と秋葉にマンガを差し出す。
秋葉は汚らしいものを見るような目をした後、これみよがしにため息をついた。
【秋葉】
「結構です。そのような物に興味はありませんから、私」
「そうなのか。残念だな、せっかくアキラちゃんが貸してくれたっていうのに」
「————————」
と。ぴくり、と秋葉の体が痙攣した。
「結構です。そのような物に興味はありませんから、私」
「そうなのか。残念だな、せっかくアキラちゃんが貸してくれたっていうのに」
「————————」
と。ぴくり、と秋葉の体が痙攣した。
【秋葉】
「兄さん。今、なんとおっしゃいました?」
「なんてって、だからアキラちゃんが貸してくれたのに残念だなって」
「———ですから。どうして兄さんが瀬尾に物を借りるような関係になっているのかと尋ねているんです、私は」
「兄さん。今、なんとおっしゃいました?」
「なんてって、だからアキラちゃんが貸してくれたのに残念だなって」
「———ですから。どうして兄さんが瀬尾に物を借りるような関係になっているのかと尋ねているんです、私は」
ゴゴゴゴゴ。
「………?」
地響きみたいな音が聞こえてくるが、きっと地下のボイラーの異常だろう。
地響きみたいな音が聞こえてくるが、きっと地下のボイラーの異常だろう。
「兄さん。質問の答えがまだですが、それは黙秘権ですか?」
秋葉の声は妙に迫力がある。
「いや、そんなつもりはないけど。でもなんか、黙秘権って言われると何か悪い事してるみたいに聞こえるな」
ははは、と笑う。
が、秋葉はそうですね、と冷静に返答するだけだった。
秋葉の声は妙に迫力がある。
「いや、そんなつもりはないけど。でもなんか、黙秘権って言われると何か悪い事してるみたいに聞こえるな」
ははは、と笑う。
が、秋葉はそうですね、と冷静に返答するだけだった。
「それで。兄さんは今日、瀬尾と会っていたわけですね」
「ああ。街で偶然会って、アーネンエルベで話をして別れたんだ。アキラちゃん、最近よく遊びにくるみたいだな。うちに寄ってくかって訊いたけど、今日は帰るんだって。遠野先輩によろしくって言ってたよ」
「—————そうですか。私は地元であの娘と会った事はないですけど、そう。瀬尾ったら最近よく遊びに来てたのねえ」
「ああ。街で偶然会って、アーネンエルベで話をして別れたんだ。アキラちゃん、最近よく遊びにくるみたいだな。うちに寄ってくかって訊いたけど、今日は帰るんだって。遠野先輩によろしくって言ってたよ」
「—————そうですか。私は地元であの娘と会った事はないですけど、そう。瀬尾ったら最近よく遊びに来てたのねえ」
ゴゴゴゴゴゴ、と再び地鳴り。
やばいな。こんな調子じゃ火を吹くんじゃないか、地下のボイラー。
やばいな。こんな調子じゃ火を吹くんじゃないか、地下のボイラー。
「で? 次はいつ瀬尾と会うんですか、兄さん?」
「えーっと、文化祭の案内をするって約束したからその時かな。けど驚いたよ、アキラちゃんがうちの文化祭の日を知っててさ」
「——————」
「えーっと、文化祭の案内をするって約束したからその時かな。けど驚いたよ、アキラちゃんがうちの文化祭の日を知っててさ」
「——————」
「秋葉が教えたんだろ? 後輩を文化祭に誘うなんて意外と面倒見がいいんだな。アキラちゃんも楽しみにしてるってさ」
「———ええ。私も楽しみになってきたわ、とても」
秋葉の声は静かな、それでいて凄みのある物だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
と、また地鳴りがする。
なんかホントに地震がしてるっぽいけど、ボイラー室は大丈夫なんだろうか?
なんかホントに地震がしてるっぽいけど、ボイラー室は大丈夫なんだろうか?
「けどアキラちゃんも大変だろうな。浅上女学院からここまで来るのに電車だと二時間近くかかるんだし、いっそのこと車で迎えにいってあげたらいいんじゃないか————」
秋葉、と言いかけた喉が止まる。
秋葉、と言いかけた喉が止まる。
【秋葉】
「はい? なんですか、兄さん」
———って、なんで反転してるんだおまえは……!?
「あ、あき、秋葉、おまえ髪、髪……!」
「髪? ああ、これでしたらお気になさらずに。別に兄さんに対して反応している訳ではありませんから」
ニコリ、と笑う秋葉。
———って、なんで反転してるんだおまえは……!?
「あ、あき、秋葉、おまえ髪、髪……!」
「髪? ああ、これでしたらお気になさらずに。別に兄さんに対して反応している訳ではありませんから」
ニコリ、と笑う秋葉。
「そっか、なら安心だ……って、そうゆう問題じゃないだろ! なにゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、なんて効果音を背負ってんだよおまえは……!」
「いやだわ、そんなの兄さんの幻聴に決まってるじゃないですか。———それではそろそろ失礼します。私、これから文化祭の対策を練らないといけませんから」
「いやだわ、そんなの兄さんの幻聴に決まってるじゃないですか。———それではそろそろ失礼します。私、これから文化祭の対策を練らないといけませんから」
ほほほ、なんて高笑いが似合いそうな雰囲気のまま、秋葉はロビーへと消えていった。
「…………………」
もしかすると、秋葉はアキラちゃんが嫌いなんだろうか? そうなると徒に秋葉とアキラちゃんの関係を悪化させてしまった事になる。
「……ごめんアキラちゃん。おわびに文化祭の時は責任もって秋葉のヤツを押さえるから」
ここにはいないアキラちゃんに対して呟く。
……まあ、しかし。そんな大層なコト言ったって、せいぜい秋葉の魔の手からアキラちゃんを連れて逃げる事ぐらいしかできないだろうけど。
もしかすると、秋葉はアキラちゃんが嫌いなんだろうか? そうなると徒に秋葉とアキラちゃんの関係を悪化させてしまった事になる。
「……ごめんアキラちゃん。おわびに文化祭の時は責任もって秋葉のヤツを押さえるから」
ここにはいないアキラちゃんに対して呟く。
……まあ、しかし。そんな大層なコト言ったって、せいぜい秋葉の魔の手からアキラちゃんを連れて逃げる事ぐらいしかできないだろうけど。