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ぼくのコドモ時間03

时间: 2019-12-01    进入日语论坛
核心提示:池袋のパルテノン神殿〈あっ、これは!?〉とボクは思ったんですよ。〈これは池袋のパルテノン神殿じゃあないか!?〉と。懐かしいな
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池袋のパルテノン神殿

〈あっ、これは!?〉とボクは思ったんですよ。
〈これは池袋のパルテノン神殿じゃあないか!?〉と。懐かしいなァってボクはタメ息をついちゃったんですね。
ボクは『フランス百科全書絵引』っていうこまかい精確な絵がいっぱい入ってる、この本を買ってきて、一ページずつその絵を眺めていたとこなんです。そうしたら、ものすごく見覚えのある景色の絵が出てきて、そのまま、ボクは小学校の三年生か四年生のコドモ時間にワープしちゃったんですね。たしかにこの絵とソックリのギリシャの遺跡の絵を見たことがある。
それはゴブラン織りの壁かけで、池袋にあった、かかりつけのお医者さんの待合室にかけてありました。ボクはお使いで、病気のオトーサンの薬を受けとりに来たとこなんですね。ボクはこのお使いを、そんなにキライじゃなかったですね。コドモの足で三十分くらいの距離だったと思うけど、おっくうじゃなかった。
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高橋医院は、それほど大きな建物じゃないけれどもドイツふうのしっとりした造りの洋館で、昭和三十年代の池袋のコドモには、外国そのものっていう感じでした。
ドアをあけると、チリンチリンチリンと鈴が鳴るしかけになっていて、受付の小窓から、まっ白な看護婦さんの格好をした、キレイな女の人が顔を出す。そうして、ソファに座って少し待つ間に、その壁かけに対面して、いつのまにやらそのギリシャの廃墟の絵の中に入ってしまってたようなんですね。
大きな円柱がゴロリと転がっていたり、瓦礫《がれき》の積み重なっているあたりが、終戦直後の焼け跡と共通していたからでしょうか、ボクの頭の中では、池袋のもう少し先に行ったところがそのままギリシャになってしまいました。
「日本は島国なんだから、外国へは船でしか行かれないのだ」という知識と、この気分は平気で同居をしていたみたいです。実際、コドモの頭の中っていうのは、常識では判断できないようなところがある。池袋とギリシャがとなりあってるなんて、常識では考えられないですよ。でも高橋医院のゴブラン織りの壁かけに、またいで入ってしまえばそこはもうギリシャ、なんだから、ギリシャが池袋のちょっと先にあってもなんの不思議もないんですね。
〈不思議だなァ〉と思ったのは、むしろ初めて海外旅行をした時でした。香港《ホンコン》に行ったんですね。その時はボクはもう三十歳をすぎたオジサンだったんですが、九龍《クーロン》サイドから、中国の国境まで行って、「あそこが中国との国境です。ここからズンズンズンズン、歩いていきますとインドやギリシャ、フランスやイタリアまで地続きです」とガイドのおねえさんに言われた時でした。
この時の不思議な気持は、「ユーラシア大陸が地続きなのはアタリマエ」だっていう知識と矛盾してました。金貨の裏表みたいな対照ですが、大人もコドモも、ほんとはあんまり違ってないのかもしれません。
絵を見ていてそのままその景色の中に入っていってしまうような芸当は、ボクにはできない、あれは生まれつきの才能なんだ、っていうように大人になってしまった近ごろは考えていたんですが、よくよく考えてみると、小学校の三年生くらいまでは、ボクもアリスが鏡を通り抜けて向こう側へ出かけていけたように、出入り自由の魔法使いだったんでした。
とはいえ、ボクが高橋医院に行くその都度に、ギリシャのアクロポリスまで出かけていってたのかというと、実はそうでもないので、そのゴブラン織りのギリシャの風景の欄外に織り込まれた、地名らしいアルファベットを、習い始めのローマ字読みでなんとか読もうとしていた記憶もある。
それにしても、ボクがコドモのころの現実の行動半径っていうのはずいぶんと狭かったような気もします。徒歩で出かける距離については、むしろ現在よりも遠くまで歩いていますが、電車やバスで移動をするのはたいがい親がかりだったので、半径は国電の一区間くらいに限られていました。
高橋医院まで三十分で歩いていけるなら、そのちょっと先にあるギリシャまで、なぜ行ってみようとしなかったのか? と、いまちょっと悔やまれたりもしますけど、行っていたら、その日からボクの中でギリシャはなくなっていたのかもしれません。
ギリシャへは、まだ旅行したことがありませんが、アクロポリスへいつか出かけていくことがあったら、そこから池袋の高橋医院の待合室へ瞬間移動を試みてみようと思います。
ところで同じように、長いこと凝視《ぎようし》していて、絵の中に入った場所がもう一カ所あったのを思い出しました。それは椰子《やし》の木のジャングルの出口なんでした。ボクは暗いジャングルのほうから、その出口のまぶしい海の景色を見ているんです。椰子の木の切り株に一人の笠をかぶったおじさんが休んでいて、ボンヤリと海のほうを見ているんですね。
これは台所の板の間の、高窓の下のあたりにかけてあった額入りの写真でした。それが物心ついてから、中学三年生で池袋の家を引っ越すまで、ずっと同じ場所にかけられてあったんです。家族全員がその写真が好きで、飾ってあったワケじゃなく、その場所が妙に高いところだったから、そのままになってしまったものと思われます。その証拠に引っ越しの時に、それは惜し気もなく捨て去られてしまったんでした。
ボクは物に愛情の薄いタイプですが、いま思うと、あれは少し残念だった。それに気のついたのは、タイへ旅行した時でした。水上マーケットに向かうのにボクらはサンパンと呼ばれる小舟に乗っていたんですが、椰子林に囲まれた川をさかのぼっていく時にひどくなつかしい、まるで生まれる前にいた場所に向かっていくような錯覚にみまわれたんです。
ボクのオヤジは、十代の少年時代に、フィリピンのマニラに行って小僧働きをしていたっていう話なんで、〈これはつまり、オヤジの記憶の遺伝なのかな?〉なんて思ったんですね。それくらいに、一種神秘的なノスタルジーだった。
ところがしばらくして、いやあれは、池袋の台所だった! あの台所の古ぼけたモノクロ写真だったのだ、と気がついたんです。暗い板の間の台所に、高窓から白い空が見えていて、その空がそのまま写真の明るい空に続いていたんでした。暗い台所で毎日なんとなしに眺めていた熱帯の景色が、いつのまにか生まれる前の記憶になっていたというわけです。
一枚のゴブラン織りの壁かけに織られたギリシャの景色も、一枚の額に入ったモノクロ写真の熱帯も、それを長いこと凝視して、ついにはその景色の中に飛び込んでしまったコドモ時間では、現実の体験と変わるところはないようなんでした。
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