「ショクンらなァ……」
と、その角帽のおじさんは言ったのである。呼びかけられたボクたちは、大きい子でも小学校の四年生くらいだ。
今日は、ガキ大将のツネヒトちゃんがいないので、小さいコだけであんまり盛り上がらないスイライカンチョーをしていたのだ。スイライカンチョーは帽子のかぶりかたで、艦長、駆逐艦(ボクらは|キチク《ヽヽヽ》と言ってた)、水雷、の三つの役がちょうどジャンケンのように、三すくみになっていて、これが二手に分かれて鬼ゴッコの乱戦のようになるゲームです。
ちょうど盛り上がんなくて、つまんなくなってたところなんで、ボクらは即座にただの帽子をかぶったコドモたちに戻って、その角帽のおじさんのところに集まってきたんでした。
おじさんは、といっても大学生ですから、まだ若いんですが、コドモから見たら、完全におじさんです。学生服を着て、ちょっとくたびれたような黒の革靴をはいている。顔がちょっと青白くて、ブ厚いレンズの眼鏡をかけてました。でもって、腰に手ぬぐいがさげてある。
「ショクンら、アミノサンを知っているか? フフン、知るまいな……」といきなりバカにしたように言います。残念だがボクらは、だれもアミノサンを知らなかった。しかたないから、黙って聞いてます。
「アミノサンというのは醤油の原料だ。ショクンら、醤油を毎日、使っているだろう、魚にかけたり、ナットウにかけたり……フフ、あの醤油をな、ゴクゴクっと飲んでみろ……死んでしまうんだぞ、醤油を飲むと死ぬ! 醤油はドクだ、知らなかっただろ?」
そう言うとおじさんは、くずれた石塀の石に腰をかけて、タバコに火をつけた。
「ドクのはずない……」と、誰かが小声で言った。おじさんはギロリと首をめぐらして大声で言った。
「よしっ! じゃあダレか醤油を家から持ってこい。これから実験をする!」
ボクらは黙って、誰も醤油をとりに行かなかった。大声がこわかったのもあるけど、毎日使ってるお醤油がドクだっていうのが、なんだかとってもこわかったのだった。
「醤油ってなァ、どうやってつくるのか、知ってるか? オイ、醤油は人間の髪の毛からつくるんだ。鉄板の上に髪の毛をばらまいて、鉄のゲタで……」と言うなりおじさんは立ち上がり、その場で地団駄を踏みながら、
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「こ………う、やって踏みつぶすんだ、そうすると髪の毛からアミノサンが出てきて、それが醤油になるんだぞォ」と、おじさんは、自分でも気味の悪そうな顔をして、そのままトートツに、あとをも見ずにスタスタと帰っていってしまうのだった。
ボクらはしばらくおじさんの歩いていく先を見ていました。おじさんはその日初めて見る人だったし、近所の人ではなくて、それからもずっと姿を現しませんでした。
結局、その一日だけのほんの数分間のことだったのですが、いまではその時のおじさんよりずっと年上の四十歳になってしまったボクが、そのおじさんのことをハッキリ覚えている、というのがフシギなことです。
思い出ってフシギですよね、たった一回のたった何分間かのことを三十年四十年たっても覚えているかと思うと、毎日毎日、同じようにやってたことをすっかり忘れてしまってて思い出そうとしても思い出せないんですから。
「オワア〜」っていうような、おそろしい叫び声のことも、同じように、ほんの数瞬のことだったのに、やはりクッキリと覚えてます。戦災で焼け野ヶ原になってしまったところに、すっかり草がぼうぼうと生えていて、もう大昔っからずうっと草っ原だったみたいになってる、原っぱが、あったんです。でもその草むらの中には、鉄砲のこわれたのだとか、松葉杖、何かの機械の一部みたいなもの、電球やら花びんやら、座敷箒《ざしきぼうき》なんかまで、さまざまなものが落ちていて、昔はそこに町内があったのが知れたんでした。
ボクらは、ここで遊ぶのが、とっても気に入ってました。広い原っぱの隅のほうはどうやら昔銭湯があったところらしくて、金魚や鯉の絵を描いたタイルのある、浴槽のあとがそのまま残っていたりする。
風のある寒い日なんかは、その|ムカシの《ヽヽヽヽ》お風呂に入って首だけ出して、日なたぼっこをしていたりすると、とってもあったかくて、おもしろいのだった。
さて、そのおそろしい叫び声が地の底から聞こえてきたのは、ムカシのお風呂とは正反対の端っこのほうにあった、黒いトタンのフタがしてある、ボークーゴーのうちだった。
ボークーゴーは戦争の時に、空襲から避難するために掘った穴ですが、戦争が終わって、かれこれ七、八年もたってたそのころにも、まだそのボークーゴーをそのまま家にしていた人がいくらもいたんですね。
しかし、その原っぱのボークーゴーというのは、ほんとうに大きな穴にトタンでフタをしただけっていう、ひどくカンタンなつくりになっていて、とても人が住んでるようではなかった。でも夕方家に帰る時にあの穴の中から光がもれてたのを見たものがいて、どうもあのボークーゴーには誰かが住んでるらしい、ということになって、ボクらはそれをたしかめるために、そのトタンのフタに乗ってスキマから中をのぞいてみたんでした。
その時に、突然!
「オワウワアギャア〜!」
というような、なんとも形容しがたいようなおそろしい叫び声が、地の底から発してきて、ビックリ、ギョーテンをしたボクたちコドモドモは、バラバラバラッと一目散に逃げてきたと、こういうことだったんです。それから、「原っぱのボークーゴーには狼男が住んでいる」っていうのが、近所のコドモの常識になりました。髪の毛がボーボーの、ヒゲもボーボーの狼男が吠えたところを、ちゃんと見たというコドモもいました。
ボクらはそれ以後、狼男のボークーゴーには近寄らなかったし、いつのまにかその穴は埋められてしまったので、ハッキリと狼男の顔を見る機会はなくなってしまったのでした。あの狼男は生き埋めにされちゃったのだろうか? とボクはずいぶんと長い間、そのそばを通るたびに、あのおそろしい叫び声を思い出したもんでした。