上海《シヤンハイ》のホテルのバスルームで、ボクは突然吹き出してきた脂汗にますます不安がつのってくるんでした。
〈これはまずいな、このまま不安が昴じるとホントに困ったことになりそうだ〉
とボクは思うんでした。
ボクはコドモのころに、朝礼なんかで長時間気をつけをしていると、気分が悪くなってきて、目がくらんで、時にはバッタリ倒れてしまう、というようなことがしばしばあったんですが、どういうわけか、そうなる時には決まって同じようなイメージが頭の中に浮かんで、まるでそれが合図のように頭から血が引いていって、ついには倒れてしまう、というのがくり返されたもんだから、そんな予感がフトしてくると、それを一所懸命で払いのけてしまう、というテクニックを身につけてしまったんでした。
その予感が、つまりは一言でいうと不安《ヽヽ》な気分なんですが、それが大きく成長をしないうちに散らしてしまう、という技法です。今回の場合、最初の不安は、バクゼンとしたもんではなくてハッキリと理由がある、まァ、もっともな不安だったんです。
上海ではウイルス性の肝炎というのが大流行して、これは経口感染をするので、食べ物には注意するように、と出発前に旅行社の人にボクらは釘をさされたんでした。
「ともかく露店や街の不潔な食べ物屋はあぶないから、ホテルや衛生状態のいいレストラン以外では、絶対食事しないように」と係の人は、たしかに言ってたんです。ボクらもその時は、まァ、そういうことなら、今回は買い食いはヤメだ、とそう考えていたんです。
ところが、街に出て歩いていると、ついついおもしろそうなんで、イロイロ買っちゃあ、食べちゃった。見るからにあぶなそうなチマキやら、緑色したお餅やら、揚げパンやら。
ところが二日めくらいに、咳が出る、鼻がつまるで、ここ十何年風邪をひいたことのないボクが、ハッキリ風邪の症状です。で、現地に留学している日本人の学生さんと話していると、そもそも肝炎の初期症状というのは風邪にソックリだ、と聞いたワケなんです。ヤヤヤ、これはマズイな、ボクは肝炎になっちゃったかな? っていう不安が芽生えちゃった。
そうして、その芽生えた不安が、どんどん成長していくようなイメージが起きたところで、なんだか気分が悪くなって、冷や汗というか脂汗が吹き出てきた、というワケです。これ以上不安を野放しにしとくとイケナイ、というので、例によってこれを、頭から振り落として散らしてしまったト、こういうワケでした。
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ボクは基本的にはかなりの楽天家なんですが、病気《ヽヽ》に弱い。病気にほとんどかからないので、病気になるんでは? という不安に弱いようなんです。で、この種の暗示に手もなくかかってしまうようなところがあるんですね。
で、ボクはバスルームの便器に座って、その不安を散らしながら、自分のオソルベキほどの素直さと、あまりにもヤスヤスと暗示にかかる、そのカンタンさを、コドモ時代のエピソードといっしょに想起していたんでした。
「そうだ、あの時も病魔はおそるべきスピードでボクを襲ったんだっけ」とボクは思い出して笑ってしまった。笑ってしまうと不安はもう、ほとんど雲散霧消してしまうんでした。
ボクは、だいたいがあんまりモノをほしがらないコドモで、それはまァ「ウチは貧窮家庭なんだから、両親のことを考えれば、そうそう要求も出せまい」というような、字にするとたいそう大人っぽいような考えになってしまうけど、つまりはなんとなく言い出しにくい、みたいなことで、とにかくお金のいるようなことに関して、要望を出すという習慣がなかったんですね。
習いが性になって、いまでもボクは買い物がヘタだし、あんまり情熱を持って何かをほしいと思ったりしないようなんですね。そんなふうだったんだけど、そう、小学校の二年生ぐらいの時だったでしょうか、どういうワケか、駄菓子屋で売ってる、ボンボンっていう、なんだかとってもそまつな氷菓子を、どうしても一度でいいから食べてみたい、と、めずらしく熱望してしまったことがあるんです。
そのお菓子は、実はそんなに高いものじゃなく、簡単に手に入れることのできるくらいの値段のもんだったんです。それを買うくらいの小遣いは、ほしいと言えばもらえた。つまり五円とか十円とかって値段だったと思う。
それは、ゴム風船でできたヨーヨーを、凍らせたようなもので、つまりアイスキャンデーの材料のような、色つきのサッカリン水を風船に詰めて冷凍庫で固めたようなもんでした。形はひょうたん形で、毒々しいピンクの色水を、そのひょうたんの先端にあけた針穴からチューチュー啜《すす》るっていう、なんともコドモだましなシロモノなんですね。
これの�禁止令�が我が家には出ていて、これは前述したような経済的見地からではなくて、衛生的見地からご禁制のシナモノになってたワケなんです。
「あんなもんは、非衛生なところでつくってるんだから、食べたら赤痢になっちゃうよ」とタカコさんは言って、ボクはあの毒々しいピンク色と赤痢の赤がいきなりむすびついて、言いつけを守るよい子をしていた、というわけです。
ところが、これをほかのコドモが歩きながらチューチューやってるのを見ると、ひどく楽しそうだし、おいしそうでもあるんです。赤痢の危険を冒《おか》してでも、アレを一度アレしてみたい、と次第に思うようになってきたんですね。
で、これがまァ、律気で我ながらかわいいんですが、タカコさんがどこか遠くに出かけるかなんかの夏の日に、決意して駄菓子屋さんに買いに行ったんでした。いままで一度も言ったことのないセリフ、
「おばさんボンボンちょうだい」
っていうのを、道々、練習したりしてね、エライ大事《おおごと》ですよ。
ところが、ですよ。ボンボンを買ったとたんに、いままでカンカン照りだった空模様があやしくなって、雨雲がタレ込めてきて、ポツリポツリきたと思うと、なんだか妙に肌寒くなっちゃって、氷菓子なんて気分じゃなくなってきちゃった。
とは言いつつも、なにしろ待望のボンボンですからね、とにかく、さっそくチューチュー小雨の中をボンボン吸いながら歩いて家へ帰っていった。と、百メートルも歩いたころでしょうか、突然、おなかがキリキリと痛くなってきて、これがいままでにないモーレツの痛さなの。ボクはもう「てっきり赤痢」ですよ。イキナリ、せっかくのボンボンはドブに捨てて、走って家へ帰ると、自分でふとん敷いて寝込んじゃいました。ボンボンは五分の一をやっと吸ったくらいでしたが、以来一度も買わなかったし、あの時、赤痢にならなかったのは、早めにフトンで寝たからだ、と信じて疑わなかったんでした。そんなに速効性なら、ほとんど「毒薬」で通用しそうですけどね。ボンボン懐かしいなァ、いまなら二個めを、しかも全部吸いつくせると思うけどネ。