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ぼくのコドモ時間21

时间: 2019-12-05    进入日语论坛
核心提示:思い出の回数鬼が金棒を持って立っている。もちろん本物が立っているんではないので、板にペンキで描《か》いてあるつくりもので
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思い出の回数

鬼が金棒を持って立っている。もちろん本物が立っているんではないので、板にペンキで描《か》いてあるつくりものです。胸のところに、標的がついていて、ここをめがけて、ボールを投げる。一回投げていくら、という料金をとります。
的にあたらなければ何事もない。むなしくボールが反射してはずんで転がっていくだけです。ところが的にボールが命中すると、大騒ぎになります。鬼は両腕を高く振り上げ、まるで、サイレンのような声で(サイレンです)雄叫びをあげる。そうして大きな目玉は、まるで電球のように(電球です)ランランと光ります。
この懐かしい昔の遊園地の装置の写真が雑誌にのっていて、ボクは三つか四つくらいの時に、としまえんという遊園地に連れていってもらった時のことを思い出したんでした。
そうして、この遊園地に出かけていった時の思い出というのを、いままでずいぶん、何度となくくり返しているなァというのと、その思い出のオリジナルというのが、たった一度のことだったことに気がついて、とても不思議な気がしたんでした。
ボクのお父さんは、ボクが物心つくころには病人で、家で寝ているか、さもなければ病院に入院をしていたんでした。遊園地にコドモが何度も連れていけるほど、時間的にも金銭的にも余裕がなかったわけです。
ところで、この「としまえん」をボクは、いまでも非常に、断片的ではあるけど非常に、鮮やかに再現できるんです。ウォーターシュートという、すべり台を池めがけてボートですべり落ちる乗り物は、着水の瞬間に船頭のおにいさん(ゴンドラの船乗りのようだった)がピョーンとジャンプして、水しぶきが勢いよく上がったところ、を覚えている。
それから小さなヒコーキがくるくる回りながら高く吊るされていって、またくるくる回りながら降りてくる乗り物に乗ったところも思い出せる。下のほうでお父さんが帽子を振っていた。
そうして、鬼がボールをぶつけると、ウ〜〜〜と叫ぶその三つが、大人の人ごみといっしょに、手すりの金っ気のにおいといっしょに、ありありと思い出せるんでした。
たった一度きり、しかも時間にしたら数十秒のシーンが、なんだってこんなに鮮やかに思い出せるんだろう。と考えながら、ボクは思い出というのは、多くがこんなふうに、一度きりの時間だったのに気がついたんでした。何度もくり返した、毎日見ていたものだから思い出せるとはかぎらないので、むしろ思い出は、ありふれた時間よりも、特別の時間が選ばれることのほうが多い。
そうして、選ばれた思い出の時間は、頭の中で何度も何度も数えきれないくらいに、くり返して再現されるんでした。ですから記憶されるシーンというのは、どんなに短いものでも、たった一度きりのものでもかまわない。むしろそうしたことのほうが記憶される可能性が高いのかもしれません。
くり返し反復したものほど記憶に残るのは当然ですが、このくり返しは、むしろ頭の中のくり返しこそが力を持っているんですね、そうしておそらくは、そうした、たった一度きりのわずかな時間の体験が、人一人の一生の人生を決定していってしまうんでした。人生にはやり直しはきかないし、かといって、どんなに注意深く人生を制御しようとしても、それはしきれないことでもあるんでした。これはおそろしいようでもあり、おもしろいことでもあるとボクは思います。
もしあの時にあの人に会わなかったら、もしあの時にこうだったら、と大人になって考えるようになると、自分の人生というのも、いく通りもあったうちの、単なる一つの可能性だったように勘違いをしますが、実はそうではないので、いま自分がいまのようにあるのは、かけがえのない自分のありようなのだということなんでした。
もし、とボクは思います。ボクが人の親であったなら(ボクにはまだコドモがありません)、たとえばコドモと遊園地へ�たった一回だけ行く�ことができるだろうか? コドモがほしがるお菓子を、一生思い出にできるようなタイミングで与えることができるだろうか? もちろん、そんなことはできるわけはあるまい、とボクは思うんでした。
コドモが遊園地に行きたいと言う前に、連れていってしまい、コドモがほしいと思う前に、お菓子を与えてしまうに違いないのです。遊園地は楽しいに決まっているし、お菓子は食べたいのに決まっているんです。どうしてかといって、自分がコドモの時にはそうだったからです。が、自分がコドモの時には、親はいまの自分のようではなかったのだ、ということには気がつきにくい。
コドモや後輩に�いい本�をすすめる、というのがこれに似ています。�いい本�を、いいタイミングですすめられれば、こんなにいいことはないが、だいたいは、すすめられることでそのいい本とめぐりあえなくなってしまったりするんでした。
つまりボクは、お父さんが�たった一度だけ遊園地に連れていってくれた�ことをいま、感謝しているわけです。一度きりだったから、ボクは頭の中でそれを何度も反復することができた、と。しかし、そのようにボクが考えるのは、ボクが�たった一度だけ遊園地に連れていかれたコドモ�だったからなのでもあったわけでした。
先日、友人と話していて、「明るい顔の人は、楽しい思い出を思い出す才能のある人だ」っていう共通の結論で納得をしました。楽しいことをたくさん思い出せる人は、楽しい顔の人になる。そうして、苦しい時のことをたくさん思い出す才能にめぐまれた人は、同様に、暗く、苦しい顔になれるというわけです。
それにしても、記憶というのは不思議なものです。ほんの一瞬のことでも死ぬまで覚えていることもあれば、何度経験しても記憶されないこともある。楽しいから覚えているというばかりのもんでもないし、苦しいから覚えているというばかりのものでもないんでした。
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