トクローくんのオトーサンは、マッチのラベルを刷る人だった。墨をする時のようなにおいのする(たぶんニカワのにおいだろう)アパートの部屋で、座ってセッセと仕事をしていた。
〈せっせと仕事する、というのはこういうことだったのか〉
と、ボクはその時思ったが、それはトクローくんのオトーサンが、バレンに上半身の体重をかけて、刷る時に、
「せっ! せっ!」とホントに言ったからだった。トクローくんはボクより年下なのだったが、あとから引っ越してきたので、なんとなくクンづけて呼ばれているうちに、そのままになってしまったのである。ボクはいつまでたっても、
「ボーヤ」なのだった。年下の三歳や四歳の子も、ボクをそう呼ぶのである。
「ボーヤ、行くよォ!」と、二つ年下のトクローくんはボクを促すのであった。頭がスッカリはげてオジイサンみたいに見えるトクローくんのオトーサンは「こんにちは、おじゃまします」とボクが言った時も、「さようなら」と言った時も、まるで気にしないで「せっ、せっ」と仕事をしているのだった。
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小さく切った和紙を、ちょうど砥石ぐらいの版の台に、見当をあわせて置くと、新聞紙をあてて「せっ!」と言ってバレンでこすり、めくってやはり新聞紙の上に並べ、また和紙をのせ「せっ」と刷り、はがして並べ、と同じ作業をタンタンとくり返してます。並べたラベルが乾いたころにそれを輪ゴムで束ねて、バンバンとはたきます。乾いた絵の具の粉がパッとけむりのように出ます。刷りあがったラベルの棒のような束を、そうして座ブトンの後ろあたりに片すと、オジサンはまた、刷り台に絵の具をハケでつけ、見当をつけて紙をのせ、新聞紙をのせ、バレンで「せっ」と刷り……と、続けているわけです。
「ボーヤァ!!」とトクローくんがせかすので、ボクはしかたなく、オジサンにアイサツして、アパートの暗い廊下をぺたぺた歩いて、階段の下のズックをつっかけて外に出ます。
絵ビラ屋さんは、綿工場の加瀬くんの家の向かいにありました。絵ビラというのは、おもに銭湯なんかに貼り出す、新規開店のポスターで、いま思うとぜいたくな、手描き着彩のキレイなものです。ちょうど凧の絵のようなたくさん色を使ったゴーカケンランもので、たいがいはエビス大黒とか、宝船とかオメデタイ絵で、そこに商店の名前や、いついっかに店を開くみたいなことが書いてある。
まず模造紙のでかいのが束になって置いてある、そのまっ白の紙に、太い筆でいきなりなんだかわからない線がグリグリ、サッサッと描かれて、ビラッとその大きな紙が横に置かれます。するとまた白い紙にまたグリグリ、サッサッと同じような線を勢いよく描いていきます。そんなふうにして、全部同じようにワケのわからない線を描き終わると、絵の具をといて、こんどはハケのようなもんで、あちこちに色を塗る、めくって横に置き、また次の紙に色を置く、そうしてまた全部、同じように最後まで塗ってしまうと、こんどはまた色をかえて、チョイチョイチョイと着彩する。
黄色、ボタン色、赤、空色、と何度めかの色を置いたころ、やっと、どうやらこれは宝船だな、とか、大黒さんだな、という絵柄がわかってくるんですね。これがまァ手品みたいに手際がいい、ボクはもうその店の前に半日くらい立って、それを見ているんですよ。どんどん絵ができていって、エビスさんの顔が描かれて、鯛に目が入って、うろこの模様が描かれて、できあがってくる、それも、五十枚くらいか、あるいは百枚くらいなのか、同じ絵がズンズン、ズンズンできていくんです。
絵ビラ屋さんでは、誰も帰れとも言わないし、せかすやつもいない。だからもうボクはずうっとそれを見ているんです。オジサンはやっぱり無口で、もちろん話しかけたりしないし、ボクも喉が乾くくらいにポカンと口をあけて、グローブ持ったまま、そのお店のガラス戸の外のところに、ずっとつっ立ってそれを見てるんでした。
〈うまいなァ〉と思ってるんですね。ボクが絵を描く時は、どうしようか、こうしようか、さんざん迷ったり、失敗して消したり描いたりするのにオジサンは、まるで迷いというものがない。一気に力強く、しかもサラサラ、パッパッと実に水際立って描いていく。
金丸くんちのとなりには畳屋さんがあった。ここでもボクは、畳を縫ってるところを見ていたけど、畳屋さんは、近所にリヤカーで出張してきて、道端で仕事したりするんで、その時のほうが、よく見ました。そばにしゃがみこんで、針のお化けみたいな、荒木又右衛門の手裏剣みたいなのを、ブツッブツッとさしておいたり、ヒジを使ってギュッと糸を引っぱり上げるところとか、そのヒジにピカピカ光ってるカネでできてるヒジアテがあるのや、プーッとやかんから飲んだ水を霧にして吹くところなんかを、カッコイイなァ、と思って見てたりしましたね。
たいこ焼きをつくるところもカッコよかった。メリケン粉をといたのがでっかいバケツに入れてあって、それをひしゃくですくって、やかんみたいなものに入れる、たいこ焼きの型に丸い油バケで、サッ、サッ、サッ、サッと油をつけて、そこにリズムをつけて、クイッ、クイッ、クイッとメリケン粉のといたのを注いでいく、アンコが大きいバットに入れてあるのを、樋に柄のついたような道具にヘラで盛りつけていく、そのころにはたいこ焼きがどんどん焼けてかたまってくるんで、その上の段のところに、同じ量ずつアンコをヒョイ、ヒョイ、ヒョイとヘラで置いていくんですね。で、ちょっとそこらを台ふきんみたいなもんでキレイにしてみたりしていて、ころよしと見ると、こんどは千枚通しのようなもんでアンコを入れてないほうの下の段のたいこ焼きをひっくり返しながら、ポン、ポン、ポンと上の段のアンコありのほうのたいこ焼きにのせていくんですよ、おもしろいねェ。
大工さんがかんなをかけるとこ、ノミでホゾをつくるところ、ノコで切るところ、口にくわえた釘をみるみる打ち込んでいくところ、ペンキ屋さんが、トトッツーッとペンキを塗るところ、みんなこう、カッコイイ。熟練した技の動きというのはなんとも言えずにホレボレするんですね。ボクはこういうものをコドモのころに、たくさん見ていられて、とってもよかったと思ってるんですよ。カッコイイなァと思いながら、そばでそうやって、いつまでも見ていられたのがすごくよかったと思っている。ボクはホントにこういう、道で働いてるオジサンから、たくさん、何か教えてもらったという気がしてるんです。