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ぼくのコドモ時間46

时间: 2019-12-05    进入日语论坛
核心提示:あとがき人間は死ぬ時に、一生の思い出を�走馬灯のように�見るのだと言い伝えられてきました。「あれは本当だ、自分は走馬灯を
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あとがき

人間は死ぬ時に、一生の思い出を�走馬灯のように�見るのだと言い伝えられてきました。「あれは本当だ、自分は走馬灯を実際に見た」という人もいます。死の淵まで行きかけて九死に一生を得た人がそんなことを言う。そういう人が以前にもいたから、そんな言い伝えもあるんでしょう。
ところで、ボクらは目に見えたすべてのこと、経験したすべてのことを、ほんとは全部細大もらさず記憶しているのだという説もあります。前述の「走馬灯」の一件を持ち出すと、それは一瞬のうちに見るのだということですから、早回しにでもかけるんでしょうか? 覚えていた記憶が全部一瞬に回ったら、それはものすごい高速回転で、まるで何が何だかわからないんじゃないか? と映像を見るのが好きなボクは考えたんでした。
せっかく、一生に一度の走馬灯が、なんだかワケわかんないってのはつまんないな、とそんなふうに考えた。
そうして、いや、それは違うはずだ。と、また屁理屈をこねたんですね、死んだあとの時間ていうのは、いまの時間とは流れかたが違うのじゃあないか、遺族が死を見とっている、ほんの一瞬間が、死んだ人には、一生分と同じ長さなのかもしれない。
ちょうど、レコードを逆回しにかけたように一生分を逆にたどって、曲の始めに戻るのかもしれない。こんなことを言ったからって、それはたしかめたわけでもないんだし、なんの意味もないんですが、再三言うように、まあそんなくだらないことを、あれこれ考えたりするのがボクは好きなんでした。
一枚のレコード盤のような一生、その曲はまた同じようにかけられるのか? それももちろんわからない。ただ、コドモ時間といい大人時間といっても、ターンテーブルの回転としては同じだったように、ひとつながりで、区別はないのかもしれない。
コドモの心、コドモの目、といったようなものを、大人は反省をこめて、素晴らしいものにして話しますが、ボクにはどうも、そんなにくっきりとそれぞれが分かれるものなのか、どうか? という気持があります。
コドモはコドモの役をやり、大人は大人の役をしているだけのような気もします。そうしてコドモも大人のように考えてみることがあるし、大人もコドモのようになっている時もあった気がする。
気持がいいのは、�自分のようであったりする�時なのかもしれませんね。「なかなかそうもいかないんだよ」というのが、あるいは大人の考えということなのかもしれませんが。
一月に一回ずつ、コドモのころのことを思い出して、結局四年間! も書いてしまった。同じようなことを何度も書いたのかもしれません、実際、ほとんど似たようなことを書いていたことがあって、二、三の項目を省くことにしました。
この本を読んでくださった皆さんに、感謝します。読んで笑ってもらえたら、うれしい。ご自分のコドモ時間をすごすキッカケになれたら、もっとうれしい。どうもありがとうございました。
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