「あのさあ」
と、ツマが言った。ちょっと言い淀んでる。エッ? 何、どうしたの。
「昨日、着物着てったでしょ」
そしたら地下鉄の階段とこでおじさんに「お嬢様」って呼ばれちゃったよという話なのだった。
「え? みのもんた?」が、いたのか? と私は訊いたのだ。そうじゃない。ああいうんじゃなく、冗談ぽくない、ものすごく大まじめで大声なの。
「お、お嬢様っ!! そ、そこ濡れております! 高価なお着物が!」
って、まァ親切なんだけどォ、なんていうか、ちょっとお芝居のヒトみたいで恥ずかしい。
「ふーん、バター犬みたいな?」
バター犬は、亡くなった谷岡ヤスジさんのマンガに出てくる犬である。バターを背中にしょっていて、やらしいサービスをする犬だ。サービス業なので世間話をする。
「しかしなんですねえ、おぜうさま、イラクもあんなことで、無政府状態で」
とか言いながらおぜうさまに勝手にサービスをはじめてしまう犬だ。
だから、そういう商売的なのじゃなくて、ちょっと昔の人がタイムスリップしてきちゃったような、ヘ〜〜んな感じなの。
なんていうか、ジイヤとかゲナンとかそういう昔のお話の中のヒトみたい。
ハハハ、と私は笑った。ツマが困って照れてるところが想像できた。声には出さないが、「や、やめろよォ」と頭の中で思ってる。着物は着てるけど、別に「高価なお着物」じゃないよ、みんなが見るからやめてくれえ!
と、いうことだろう。しかし、今まで生きてきて「お嬢様!」なんてお嬢様呼ばわりされたことはあるまいから、ちょっと悪い気はしてないのでは、と私は見た。
「奥様!」でも相当すごいのに「お、お嬢様あ!!」である。これはウロタエルだろう。けどちょっとウレシイ。
おじさんは、黄色と青の、インキの箱みたいな配色の制服を着た、掃除の係の人らしい。伸ちゃんも、ちょっと注意してチェックしとくといいよ。
ということだった。もう少し間があいてしまえば忘れてしまったところだが、それから三日もしなかったと思う。プラットホームを歩いていると、後ろから、
「旦那様あ!」
という、確かにジイヤっぽいような、ゲナンっぽいような話しぶりの声が聞こえたのである。
「それでしたら、あちらの階段をお昇りになりまして、こちらの方向をお向きになりますと……」と、ていねいに道を教えているようなのだが、その声音がケタ外れにテイネイである。っていうか現実ばなれしたへりくだりようなのだった。
「このおじさんだな」
とわかったので、私は目立たないようにナチュラルに、そっちの方をうかがってみたのである。
モップを持って、キチンと制服のボタンを律儀にとめて、ややズボンが短めだが、全体に折目正しくしている姿勢のいいおじさんである。すると、
「すいませーん、あのおトイレ……」という女の子の声がした。
「あ、はいッ! お嬢様!! こちらを行かれますと、はい、あのベンチの先右側にございます」
と、たいそうテイネイなご案内である。お嬢様は、別にお着物は着ていなかった。洋服のごくありふれたそのへんのOLだ。
「今時ねえ」と私は思ったのだ。これはたしかにタイムスリップである。下男の留吉だ。今時コントにも出てこない。
「旦那さん、ピーナツいらねかね」とか「旦那、高速のりますか?」とかそういう言い方をする人も、まァ二〇年前にはいた。
そして、その頃私は三〇代であってあんまりその呼び掛けには、ふさわしくない違和感があったものだ。今なら「旦那そりゃないよ」くらい言われても、まァおどろかないが、
「旦那様ァ」は、やっぱりちょっと、違和感がある。その発声のニュアンスが、
「お代官様あ!! おねげえですだ」みたいなのだ。いや、そうじゃないな。
「お殿様!! もったいのうございますうー!!」みたいなのだ。
「いたよ、すごいね、あれはやっぱり、タイムスリップしてきたな。じゃなかったら、ついこのあいだまであったお屋敷のご主人様が一〇八歳で死んじゃったと思う」
「そうでしょう? みんな見てたでしょう? 声大きいし……」
たしかに見ていた。ものすごくていねいに道や便所を教えてもらったのに、それぞれおじさんの後ろ姿を白眼視していた。
「おじさんは、サービス業っていうものに哲学持っちゃってんじゃないかなァ」
とツマは少し解釈がおじさん寄りだ。
「いや、おれはやっぱり、地下鉄のタイムトンネルくぐってきたと見る」
と私は言った。
「その後、声かけられた?」
と聞くと、かけられてないらしい。着物着てないからなァ、声かける必然性がないのよ、とツマは言うのだった。
先日また着物を着る機会があった。出かける時、
「おじさん、いるかなあ……」
と、ツマはやっぱり期待してるようなのだった。